お手数ながら、宜しければ其方もご覧下さい。
喧しい声が、暗がりに本来あるべき寂静を塗り潰し掻き消して、止む事は無かった。
「――」
常ならば、瞳になに一つ映る事のない闇の中。何故だか今ばかりは、焔の燈がそれを切り裂き照らし出している。
「こ――――」
朧げな視界は、たった今眼前で起こっている事象を、宛ら拒絶しているかの如く歪んでいた。双眸が厭に瑞々しくて潤沢で、其処だけが水面に浸っているものかという錯覚を覚える。
「――――」
耳朶を強く打つのは、酷く愉しげで、けれども何処か、何故か。一時さえも耳に入れたくはない気さえする、酷く不快な嗤う声。鉄槌で赤熱した鉄塊を叩きつけるような、腹の底まで響く程に重く、耳鳴りがする程に大きく、よく響き渡る甲高い金属音。そして、そして、何かを必死で訴えかけているようにも聞こえる、何者かの叫声。
「――――」
すると漸く、今まで歪んで使う事能わなかった眼が、微かながらも本来あるべき視界を取り戻し始めた。延いては、その双眸に映る物が、今までよりも余程増えた。何故か、どういう理由かは分からない。と言うよりかは、理解しいうという気さえ起きなかった。只々奇妙な虚脱感が体を支配する感覚に包まれているのだ。
「――う――」
其処は、何の変哲も見受けられない洞窟であった。本来ならば樺茶を呈する――であろう、岩の大壁。然し、元来その色をしている筈であろうそれは今、どういう訳か、染料を塗りたぐったかの如く、赤黒く変色していた。元の色から変色したという訳ではなく、その状態が人為的なものであることは一目見て容易く解する。その染料が地面に一滴一滴と滴り落ちて、僅かな水音を立てているのだから。
「――こう――」
取り留めのない頭の中に、声が響く。響いて、響いて、響いて。耳鳴りのするようなその音が、或いは声が、どうしようもなく不快である。不快と言うには、些か語弊が有るだろうか。それが耳朶を打って脳髄の中を駆け巡る度に、どうしようもない焦燥感が、例えようのない不安が、筆舌に尽くしがたい恐怖が胸中に、宛ら孵化した蛆が湧き上がり這い上がり迫り来るかの如く。痛みさえも覚える程に。それが齎す不快感に嘔吐く。染料と吐瀉物は酸い臭いを発して飛沫を上げて飛び散って連鎖してまた瀉血。終わらない負の螺旋。連綿と続く桐一葉。
「――こ――じ」
目が醒める。目が冷める。目が褪める。震えは止まらない。野晒しの死体のように肢体が震えて四諦を悟りその姿態を慕い。不意に、視界の端に何かが映る。揺らめく炎に照らされるそれは、美しい白磁。白磁は抉られたように穴が開いていて、染料は止まない。止まない雨はない。止まない。止まない染料。真赭の染料は止まない。回っている。まわっている。廻っている。まわる。またまわる。
次。まわれ。かわれ。まわれ。いずれ。流転輪廻の円環が双眸に焼き付いて、腹腔の奥に滲みるような熱を感じて、それが羽虫の如くぞわぞわと。滲みた。どろどろに溶解した鉛がせりあがる厭な感覚が終焉を迎える事はあり得ない。
「――――」
声が届かない。遠退く声。去っているのは輩か否か。深淵に足を滑らせたかのような寂滅。耳目は消えたか。暖かい海に沈み行く心身はよもや諦めている。何かが欠落している。欠如した白磁の人形から生まれた身体の嚥下を促すもの。これも染料に塗れている。風を切って動いているようだった。
空気に圧されて宙を舞う雫が頬を叩く。涙が一筋流れているらしい。薄められた雫と宙に舞う雫が混濁して生温い。死に体。死にたいである。市松人形の促進物と欠損部品が手の内に残る。即身仏。
笑いが聞こえた。笑みが溢れた。誰であれ騒々しい。止めてと申している。その時は止まった。
しかし直ぐに同じことが繰り返される。終わりの無い夢幻に屏息しているのは誰か。
誰であれ構わない。とうにこれは終わった事なのだ。手中に収められたそれに口付けする。甘い味がした。こんなものは、知らない。知らない。こんな事象は。瞠目した。一縷の光さえ差し込まぬ深淵の中で、全て忘れてしまえば良い。
「――浩二!」
不意に、そんな大声が耳朶を打つ。打つと言うよりも、これは劈くと形容すべきであろう。
思いがけない声量で、かつ耳の直ぐ傍でそんな声を出されては、元来聴覚の鋭い彼にとっては、一際辛いものとなるのは自明だった。
「ファッ!?」
思わず喫驚して、浩二は飛び上がった。その動きは、今の今まで深い眠りについていた者のそれとは思えない程に早い。些か霞みがかった目を幾度か瞬かせ、音の正体を探り当てんと周囲に視界を向けようとした時、今更ながら自分の置かれた状況、延いては眠っていた場所に疑問を抱く。
「…………ん?こ↑こ↓どこ?」
先ず、今尚自分の眠っている寝床を、出来る限り観察した。薄っすらと木目の見える板張りの床から若干浮いており、足元には白い柵が見える。足元から胸元にまで掛けられた、リンネルの手触りが心地よい純白の掛け布団と、今自分の頭を置いている白く程よく柔軟な枕。要するにベッドである。その程度は、目覚めたばかりで頭の回転が鈍っている彼でも容易く察する事が出来た。白を基調とされた清潔感のある室内には、他にも幾つかのベッドが規則正しく置かれている。窓からは変わらない闇夜が見え、微かな月明かりが射し込んでいた。室内には小さく無機質な電灯の光しか無いだけに、自然の優しい光というのは、眺めていてどうにも浩二の心を落ち着かせる。
「はぇー……もしやこの場所って――」
「そう。里の診療所よ」
独り言ちる浩二の声を、別方向からの声が遮る。長きに渡り聞いてきた、耳にタコが出来る程に聞いてきた、馴染みの深い声であった。気配さえ感じ取れなかったのは、今の今まで彼女が意図的に消していたからか、或いはそれ程今の浩二が注意を欠いているのか、それは定かでない。
「……YKR」
溜息混じりにそう呟き、横目で声の主の方を見る。煌びやかな金髪を、毛先を幾つか束ねリボンで結んでおり、リボンの付いたナイトキャップのような帽子を被っている。そして極め付けに、フリルの付いた紫色の悪趣味な、されど彼女の胡散臭さにはやけに似つかわしいドレス。言わずもがな、八雲紫であった。木製の椅子に座り、ベッドの端に頬杖をついて、上目遣いに浩二を見ている。
寝覚めに実年齢四桁の知人に上目遣いをされるというのもいい気付けになるな、という思いがあっても口には出せない。
「やっとお目覚めね、浩二。あれから364分もとい6時間4分よ、狙ったように見事な起床時間だわ」
「そう……(呆れ」
いつもと変わらぬ声で、冗談めかした口調の紫。狙ったつもりはないのだが、と呆れつつ、ふと先程自分を呼んでいた声が紫のものではない事に気付いた。紫が頬杖をついているのは浩二から見て左側。であれば右側に、自分を目覚めさせた何者かがいるのか。その疑問から、其方へ向き直る。
その長い銀髪と奇異な帽子を見た瞬間、それだけで誰であるかなど理解する事は容易かった。
「こ、う、じぃぃぃ…………」
「あっ……KINさん……ご、ご無沙汰じゃないですか(震え」
かつて浩二が遭遇前に尻尾を巻いて逃げ出し、論争を暴論で鎮圧された、あの上白沢慧音その人である。今になって完全に機能を取り戻した浩二の脳が、漸くあの声を思い出した。呼び掛けていたあの声が、他ならぬ慧音のものであった事を。何故怒っている様子なのか、何をしでかしてしまったか、何が気に障ったのか、何故自分がここにいるかさえ分からない。けれども、俯いて震える彼女の激情が、この後如何な攻撃を仕向けるかなら、今までの付き合いから分かっている。彼女お得意の必殺技たる頭突き、来たるべきその脅威に備えて目を瞑り、頭を手で覆った。
「……ん?」
が、来ない。いつもなら、頭突く気配が感じられたら即頭突き、それがお決まりであった。
だと言うのに、それがいつまでも来ないのだ。時間差でもないらしく、十秒十五秒と経過して尚、頭蓋が割れんばかりの衝撃が頭部へ来る事はない。それが気になって、恐る恐ると言わんばかりに、徐な所作で慧音の顔色を伺う。
「この……大馬鹿者」
いつしか上げられていた、彼女の端正な顔。いつも凛然とした姿ばかりを見せ、弱みも見せず、醜態も見せず、弱音の一つも人前では先ず吐かない。温厚篤実と旗幟鮮明と鉄心石腸を徹底したような、それを目指し叶えた筈の、そんな彼女が泣いていた。目を赤くして、唇を噛み締め、普段は白い頬は赤く、其処には一筋の残涙が見える。
「っお……おっ、だい、だ、大丈夫か?だぶっ、だちっ、だぱ、ブッチッパ……大丈夫か?(混乱」
想定外だった。慧音との付き合いも、紫と比べれば見劣りさえするが、人間の時間感覚としては十分過ぎるほど長い。昔は色々とあったものだが、それでも今では立派な里の守護者として、相応の態度を取り続けて来た慧音。浩二は、そんな彼女しか知らない。それなりに長い付き合いであって、深い関係かと問われれば、きっとそれは違うと答えるだろう。だからこそ、中途半端に彼女のことを知っていたからこそ、落涙する慧音を見て焦りが生じてしまったのだ。
「な、何かやらかしちまったかなー俺もなー……良ければ俺に文句の一つ二つ言って、どうぞ(懇願」
焦燥感を露呈させあたふたとしながらも、どうにか平静を取り繕おうと、慧音の思いを聞き出そうとする。が、それに彼女は答えない。と言うよりは、答えられないようだった。十二畳のそう大きくもない病室の中には、女一人の啜り泣く声だけが響く。
「YKR……一体どういう事なのか説明して欲しいんですが、これは」
何をするでもなく、黙ってその場で瞠目していた紫に顔だけを向け、必死な形相と声色で助けを乞うた。情けない、という心情を全面的にその顔に押し出す紫に、浩二は頭を下げ続ける。
すると溜息を一つ吐き、かと言って説明など口にする事はなく。何処か咎めるような目をして、ただその細い指を、浩二の身体へ向けた。
「自分の左半身。今まで気付かなかったの?」
「…………あっ(察し」
紫の言葉に従い掛布団を徐に退けて、自らの左半身へと視線を落とした時。傍から見れば馬鹿げた事ではあるが、まるで本当に今までそれを忘れていたかのように、或いは知らなかったかのように、浩二は自分の容態を今になって悟った。
「左側背部大部分糜爛、左脚上腿一部糜爛、左側鼠蹊部焼失、左上腕一部焼失……まぁ、左半身は壊滅的な被害ね。応急処置ならしてあるわ」
熱傷深度によっては、後々無痛であったり、知覚出来ない事もあるという。しかしこの惨状ではそれ以前に、何故あれだけ明瞭だった意識で、周囲を見回してまで浩二が気付けなかったのか、とさえ部外者からは感じただろう。左脚は浅黒い皮膚には似つかわしくない、薄い赤色を呈していた。俗に言うケロイド、蟹足腫というものである。肌の一部が著しく隆起し、僅かな光沢を放つそれは、一目見て決して軽い負傷ではないと悟るのも容易い。蟹足腫の質感と色合いは、例えるなら熟れた蕃茄。焼失した部分は、よもや元の姿形など見る影もない。どうにか残った部分は、一部が炭化している。如何にして自らの身体がこうなったか、その理由ならば浩二にも検討が付いている。
「……最後のあの技、あれでこうなったんだと思うんですけど」
「その通り。蟹足腫になった部分なんて、アレに直接触れた訳でもないのよ?」
紫はただ一言、『アレ』としか言わなかった。慧音からすればなんの事かもわからない言葉だが、しかし浩二はそれが何であるかをよく心得ているようだった。アレとは即ち、『レーヴァテイン』とフランドールの呼んでいた技だろう。莫大な熱量を持った獄炎を剣に模った、言わば炎剣。
スペルカードルールに則ったように、『禁忌』という符名を用いていた。あれは、スペルカードルールを知っていて知らぬふりをしたのか。或いは、それ自体が名の内であったのかは分からない。だが少なくとも、禁忌と言うに相応しい馬鹿げた威力である事は確かだった。あんなものを真面に食らえば、それこそ八雲紫という大妖怪であろうとも死は免れなかろう。尤も紫であれば、あのような直線的で読み易い攻撃など、先ず当たる事は有り得ないが。これも偏に、浩二の実力不足故であった。
己の未熟に、そしてそれの所為で誰かを心配させてしまった事に、彼は小さく嘆息する。すると、ふと何かを閃いたかのように、その目を一瞬開いた後、また細めた。
「……で、何でYKRは俺の戦いの内容まで知ってるんですかね?」
「あっ……」
鋭い、宛ら野獣の眼光が、しまったと言う風に口元に目を逸らしながら手を当てる紫へ向けらる。
そう。紫は浩二に異変解決の助力を依頼しただけであって、同行はしていない。だと言うのに、何故浩二の戦いを、紫が詳らかな出来事まで知っているのか。浩二の鋭い眼光が、見るからに焦りを見せる紫を射抜く。『妖怪の賢者』とさえ呼ばれる彼女が、何故だかこんな時ばかりは明晰な頭脳を発揮出来なかった。どういう方法で戦いを知られたか、それなら浩二でも分かる。
十中八九、スキマによるものだろう。スキマは使用者たる彼女であれば、何処であろうとも移動する事が出来る。何より、スキマの内部から外部の様子を見る事さえ出来るのだ。それさえあれば、あの激戦の最中であろうと、存在を悟られもせずとばっちりも受けず、監視する事は容易い。
「なんかおかしいよなぁ?何で空間を汚すレベルで汚い奴の戦いなんて見てるのか、俺に理由を言ってくれよ~(マジキチスマイル」
「い、いや、そんな事……と言うか『空間を汚す〜』の事まだ根に持ってるの!?」
「俺は受けた恩義と抱いた憤怒を忘れない事も覚えてないの?そんなんじゃ甘いよ(棒」
「ぐっ、懸想した相手の写真集一つで死地に考え無しで飛び込む馬鹿で無鉄砲で無駄にお人好しなケダモノの分際で……」
「あぁん?なんて?(半ギレ」
仲が良いのか悪いのかは兎も角、何処か長い付き合いである事の感じ取れる言葉の応酬。
重体である事を忘れているのかとさえ思える程に平常な様子の浩二と、そんな浩二を何ら心配する様子も見せず憎々しげに顔を蹙めている紫。そんな二人の、この光景には似合わない和気藹々とした空気の中で、堪え切れなくなった、と形容出来るような具合で、慧音が突如ベッドの傍から身を乗り出した。
「八雲様!何故貴女はそうも平然としていられるのですか!」
忽然、紫と浩二の平常な声色での話し声だけが響いていた室内を、慧音の甲高い、悲鳴にも似た一声が塗り潰した。咄嗟に放たれた大きな、そして何処か悲痛なその叫びに、さしもの浩二も尋常ならざる雰囲気を察し閉口する。しかし紫の方はと言えば、助かった、という思いが顔に出そうになるのを仕舞い込み、至極真面な表情を取り繕っている。少なくとも浩二の目には、そう映っていたらしい。
浩二の陰湿な視線を受けながらも、彼女はそれを意に介していないが。
「そう言えば、貴女は知らないのよね」
平然とした様子で、焦燥感をあらわすにしている慧音に、諭すようにも感じられる語気でもってそう呟いた。それと同時に、視線を向けていた浩二に自らの視線を交差させる形で、ふと小さく目配せする。それに対して彼は、面倒臭さを前面に露呈させていた。
「はぇ〜……?あれ疲れるじゃん、やりたくねぇなぁ(SUT」
「自分の傷でしょうが。馬鹿言ってないで早くやりなさい、治しきれなくなるわよ」
有無を言わさぬその口調と、紫だけでなく慧音からも発せられる妙な圧についつい気圧されてしまったのか、溜息を零し項垂れながらも拒否の意は示さない。
「しょうがねぇなぁ……」
すると徐に浩二は、未だ大した損傷の無い右腕を僅かに動かし、禁忌の炎に焼かれ凄惨を極めている左半身へと掌を添えた。無痛だからか、或いはなんらかの意図があって隠し通しているのか、直に患部へ触れているというのに、全く以って痛がる素振りは見せない。その事に慧音が微かな疑念を抱いていると、突としてその右の掌に、凄まじい量の霊力が集う。それにより彼女は、焦燥に驚愕混じった複雑な表情を呈した。月明かりと電灯の光に加え、この時ばかりは淡青の光たる霊力が光明と化す。
「——寿空復《すずきふく》」
刹那、何処からか音がした。生々しいと形容すれば良いのか、ぐじゅぐじゅと、宛ら水気を含蓄した柔い挽肉を捏ねくり回すかのような。寒気のするような、余り聞いていたいとは思えないその音の発生源。それについて事前に知っていた紫は勿論、鋭敏な感覚を持つ慧音もまた理解した。
その音こそ、焼けた左半身から聞こえるものであると。
「寿空復。浩二が緊急時なんかに使う、身体の損傷部を即時再生させる霊術、乃至は妖術よ」
目を見開きその一点のみを凝視していた慧音に、紫は飽くまでその光景に対しては何を言うでもなく、只術の説明のみをした。その光景とは、正に人外特有のものであっただろう。炭化した箇所を覆うように無事残った表皮が範囲を広げ、漆黒と化していた箇所は本来の浅黒い肌に。焼けて形を止めていなかった肉が、患部から急速に、失った筈の再生力を取り戻して治り行く。蕃茄が如く腫れ上がり重い傷である事を如実に表していた蟹足腫は、時間が巻き戻されているかのように浅黒さを取り戻し、隆起もまた収まっていた。時間にして、どれだけ経ったろうか。慧音にとってはやけに長く感じられたようだが、実際の所はほんの一分程度のものであったろう。その僅か一分程で、あの凄惨を極めていた肉体は、いつも通りの
「……宜しい。ちゃんと完治してるわね」
「すげぇキツいゾ〜……体力の消耗が激し過ぎる−114514810364364点」
「そりゃあ、そんな大それた術なんだから、消耗が激しいのは当然でしょう?寧ろそんな術が使えるだけの身に付いた力と、それを教えてくれた恩師に感謝なさい」
「何でYKRが偉そうにしてるのか、私には理解に苦しむね」
「いいでしょ貴方病人の身なのよ(暴論」
「えぇ……(困惑」
その、今し方起こった出来事の異質さをまるで感じさせない、先程までと同じ空気の二人に、慧音は鈍く痛み出した額を押さえた。異質さと言えば、それは霊術の凄まじい効力しか無かろう。そもそも霊術や妖術などによる治癒は、その者の体の生命力などを力で活性させ、自然治癒の速度を高める程度の、言わば効果の高い気休めである。だが今浩二が使用した術は、そんな程度など比較にならない程の治癒能力を見せた。では若しかすれば、元々の浩二の自然治癒が異常に早いだけではないのか、と言えばそれもまた間違いではない。しかし所詮、彼は純然たる妖怪でも無ければ、不死人でもなく、単なる半分人間半分妖獣の存在。獣が後天的に妖と化した妖獣は、純粋な妖怪よりも再生能力を始めあらゆる能力が劣る。今の傷は火傷、細胞の焼滅である事も相俟って、その純粋な妖怪でさえも完治には週単位での日数を必要とするだろう。だと言うのに、妖獣よりも更に能力の劣るとされる半人半獣の浩二が、そんな重傷を即座に完治させたのだ。異質と言わずして何と言うべきかと逡巡する事もなく、元々こういう奴なのだから、という思いで慧音は自らを納得させた。
「…………お前は本当に、訳が分からない」
胸に抱いたその強い思いを、草臥れた風貌で彼女は零す。色々と気にかかる事なら、いっそ纏めて聞き質そうという考えも浮かびはした。しかしどうにも浩二の憎らしい顔を見ていると、『まるでそれでは此奴の事を必要以上に気にしているようだな』という悔しさ混じりの思考がふと沸いて、出掛けた言葉を飲み込んで口を噤んだ。そんな傍から一見して複雑な様子の彼女にも、相変わらず浩二はにへらと笑いかけるとだけであったが。或いはそれもまた、深くは聞かないという彼なりの気遣いなのか。
「俺程単純な奴もそうは居ませんよー居ぬ居ぬ」
「よく言うわ。いつも腹に一物ある癖に」
「ん?今一物って言っ——」
「一体どうしたんだ、浩二。若しかして、頭の方にまで傷が及んで……?」
「只の冗談なのにそんな真面目に返すの?(関ク」
今頃になって漸くいつも通りの落ち着きを取り戻した慧音も混じり、そんなたわいの無い談話を交わしていると、不意にガチャン!ゴン!(迫真)と部屋の扉の開く音が、浩二のいるベッドの前方から響く。何者かと目をやれば、其処に立っていたのは前掛を身に付けた一人の老人。その容姿に慧音は勿論、浩二と紫も見覚えがあった。いつ頃か浩二に蟒蛇の退治を依頼した彼の老人、もといこの診療所の医師である。その姿を視認した浩二と慧音は、其々感謝を込めつつ小さく頭を下げた。それに応じ、老人もまた小さく頭を下げる。
「漸くお目覚めですね、田所殿。具合は如何です?」
「全然優れてないよ、俺の気持ち……(HNS」
「体に問題は無いのですね、では宜しい」
老人の柔和な表情と姿にはそぐわない、何処か素っ気ない言葉による追撃に、只でさえ精神的なダメージを負っていた浩二は大きく肩を落とした。
「ふむ、どうやら大丈夫そうで。では田所殿のご容態も宜しいようですので、此方のお召し物を」
そんな折、室内の端に置かれた棚を手早く開けて、その中から老人が何かを取り出してそう言う。
その何かと言う物が確りと視認出来たのは、それを出して棚を閉めた時だった。その物というのは、いつも浩二が身に付けている『
「あっ、そっか……着てぇなぁ(羞恥」
「自分の姿がどんなものか気付いてなかったのか(困惑」
「そんな汚い裸体を見せられ続けたこっちの事情も考えて頂戴よ(正論」
各々の言からも察する事ができる、と言うよりも先の身体状況の確認の際気付かない筈もないのだが、浩二は掛け布団のお陰で下腹部は隠れているものの、完全なる全裸であった。服は着せない方が良いというのは老人の判断であったが、それには紫も流石に辟易したものである。尚その時の慧音は、浩二の重体に服などといった瑣末な事には気が回らなかったようだが。それでも人生経験が豊富なだけあってか、筋肉の隆起が激しく逞しいその肢体が曝け出されていたというのに、何ら特別な反応を見せなかった。
「さぁ、此方です……あぁ、慧音殿と八雲様は御目を閉じられた方が宜しいかと」
「そうね。上半身でも目の腐敗が酷いのに、下半身まで見たりしたら……寒気がするわ」
「あ、あぁ、いや、私はそんな事は思ってないぞ?ただまぁ……うむ、安全は確認出来たからな、今日は席を外させてもらうとしよう」
「ひっでぇなお前ら……(嗚咽」
態とらしい泣き真似に精を出す浩二に紫は冷たい視線をくれているが、扉を開け放った慧音と服を手渡す老人の送るそれは生暖かい物。一応はこの場に於いて紫に次ぐ長寿者であるはずなのに、これではまるで稚児の扱いである。取り敢えず着替えねば話にもならないかと、慧音が軽く手を上げて去り行くのに小さく手を振って返すと、徐に掛け布団を押し退けて地に足をつける。この夏季にもなって布団に篭っていたせいか、板張りの床の仄かな冷たさが染み込むように感じられた。
「そういやYKR、異変の方はどうなった?」
何時の間にやら瞠目していた紫の方へ、顔を向けず、緩慢な所作でもって衣服を身につける。
紫は慧音がいなくなった事に、安堵とも悩みともつかない思いを抱くが、それを心の片隅に押し留めて、浩二の声に意識を向けた。
「勿論、あの霊夢よ。首謀者のレミリア・スカーレットとの弾幕ごっこに危なげなく勝利して、その後の身の振り方なんかを軽く教えて、後は円満に解決ね」
「そうか、ならOK。OK牧場(激寒」
如何にもお気楽で能天気な声色から、今回の異変を結果だけで判断している事が、その一言だけでさえ紫にはよく分かる。解決した事くらいは、今宵の月が常時と変わらなく美しい事や、老人が涼しい顔をしていた事からも直ぐに察せていただろう。彼が聞きたがったのは即ち、『自分以外の何かに被害は無かったか』という事である。紫とて、何方かと言えば過程よりは結果を重視する者だ。然し乍らその過程が余りに杜撰過ぎた事が、紫の顔を自然と顰めさせていた。
「……非の大部分は私に有るわ。貴方と長い付き合いでありながら、その行動を予測しきれなかった。だからこそ、こうして無駄な損害を受けさせてしまっている」
突如として彼女の声色が低まり、先程までに比べれば重い雰囲気になったと言える。
真面な話に移行した事を察した浩二は、自分も相応の態度で応じねばならないと思い至り、衣服を着ながらも顔を僅かに引き締めた。何よりもこういう状況下では、大概は紫の場合長話になる事を、彼は知っているから。
「でも、貴方のあの行動は必要だったかしら。確かに私は、霊夢の異変解決に助力しろと言った。それでも、戦わずに済む敵と態々戦えとは言ってないわよ」
「ホラホラ、危険因子を事前に除するっていうのは大事なんだよね。それ一番言われてるから」
「えぇ、そうね。でも貴方なら、あの吸血鬼の娘には勝算が余り無い事位分かったでしょう?」
「まぁ多少はね?でもやっぱり、俺一人だから霊夢達に被害は及び難いじゃんアゼルバイジャン」
「貴方自身はそうして、自己犠牲じみた行為に身を投じていて、気分が良いかもしれない。けど他者からすれば、それはとても危うくて、そんな生き方を黙って見ていられないのよ」
「辛いですね、それは辛い。まぁーでも、俺はもうさ、生粋のそういう奴だから。お姉さん許して」
「茶化さないで頂戴。大体貴方は前から——」
案の定の長話、と言うよりは紫による一方的な論争。一転攻勢を度々狙う浩二だが、頭の造りでこの八雲紫に敵う筈も無く、只彼女の口撃を一身に浴びて縮こまる事しか今の彼には出来なかった。
凡そ数十秒もすれば、よもや浩二の言葉は口撃の嵐に遮られ、紫による単なる説教と化す。そんないつの日かも経験したこの状況にうんざりした表情でいると、ふと浩二の傍で服を持ってやっていた老人が口を開いた。
「そう嫌そうな顔をせず、田所殿。八雲様もこれで、来た当初は中々慌——」
「ちょっと失礼」
刹那。そう形容するのも吝かでは無い程に、そのスキマの展開速度は凄まじいものであった。
常日頃からのスキマの展開速度に慣れていた浩二は、思わずそれに目を見開き仰天する。しかしその驚きというのには幾つかの要因が有り、何よりも大きいのはスキマの速度ではない。
「……Y、YKR!?ちょ、まずいですよ!」
何よりも浩二を驚かせたのは、そのスキマが的確に老人のみを落として、目玉だらけの異空間へ吸い込んだ事であった。落とした理由ならば、きっと今し方老人が話し掛けた言葉であろう。だがその内容というのが、妙な時に難聴になる浩二の耳には届かなかったのだ。それ故紫が態々スキマを使った意味も正確に分かりはせず、彼女もまた真実を浩二に明かそうとはしなかった。
「大丈夫よ、安全な所に送ったから」
「そういう問題じゃないんですがそれは大丈夫なんですかね!?」
「大丈夫よ平気平気。私がスキマ操作にミスがあると思ってるのかしら?」
「ありますねぇ!ありますあります」
無いわよ、という言葉と共に放たれた小さく白い拳は、存外的確に浩二の鳩尾へと吸い込まれた。
その細腕には似付かわしくない、分厚い護謨の塊を強く殴ったような音が立ち、浩二の口から空気が漏れる。その顰めた眉に見開かれた目からして、決して見た目通りの女性の拳打ではなかったらしい。
「兎に角……余り無茶をするのは止しなさい。分かったわね?」
「いや、そんな事……」
「分かったわね!?」
「わかったわかった、わかったよもう!あーもうめちゃくちゃだよ……(嘆息」
若干体を曲げて蹲り気味になっている浩二に、紫が容赦も無く、迫るようにして問いを投げかける。
それに思うがままの返答が返されたのを確認すると、紫は一度大きく頷いて、先程老人を落とした時より数段遅く自らの一歩先の床にスキマを展開した。
「宜しい。それじゃあ私も野暮用が出来たから、去るとしましょう。また今度ね」
「やったぜ。そんじゃ早く帰って、どうぞ」
「……次会う時は覚えておきなさい」
安全ないし面倒事が去って行く事が確定した事により、図に乗り出した浩二を恨みがましい顔付きで睨む紫。一見、傍から見れば険悪にも思えるその間柄。けれども二人とも互いに、相手の放つ悪口や挑発は只の冗談である事を、十分に承知しているのだ。だからというべきか、不思議と両者の口元は上がっていた。
「……あっ、そうだ(閃き)。行く前に一つ、言っとかなきゃいけない事がありますねぇ」
「何よ。一応病み上がりなんだから、早く休んでおきなさいってば」
呆れた様子の紫に苦笑を垣間見せるが、それを直ぐに崩す。余計な力が抜けたと言うべきか、その顔はいつになく穏やかで、柔らかく、温かい微笑を呈していた。
「——あの時は、俺なんかを助けてくれてありがとナス」
そしてその言葉の直後に、深々としたやけに丁寧な一礼。物の見事に45度まで美しく下げられた時宜は、一般的に時宜に於いて最も強く感謝や謝罪の念を表すものである。いつもの浩二らしさの一切無い、その改まった態度。けれども紫はそれに対し冷やかす事も蔑む事もなく、同じように微笑を浮かべた。
「しっかり感謝しなさい。そうすれば、どうしようもない時くらいなら、また助けてあげる」
その言葉を残して、床に開いたスキマへと入り込んで消えて行く。浩二はその後、スキマが閉じた後の床を、何処か悲しげな目で見つめ続けていた。尚その後日、老人は目に黒々とした隈を作って、「もう十分堪能したよ」と疲労困憊の面持ちで暫く呟いていた、という事があったがそれはまた別の話。
「全く彼奴は……少し位、気を遣って欲しいのだが」
そして、スキマの中で紫が老人との、その後数時間にも及ぶ事となる話し合いを始めた頃。月明かりの差し込む自家の中で、諸手で顔を覆いつつ、慧音はそんな事を小さく呟いていた。が、それもまた別の話。