洛山高校バスケット部はまぎれもなく全国最強のチームである。
去年は全国優勝を果たし、WC(ウィンターカップ)出場数もトップ。しかし、それゆえに練習量や密度は他の学校の比ではない。今年の新入生たちも、全国区で腕を振るった猛者ばかりだ。それでも連日、退部する者が後を絶たないほどに、この洛山の練習は過酷で苛烈だった。
「それでは本日の練習はここまでとする」
「ありがとうございましたっ!」
白金監督の終礼に疲れきった様子で答える選手達。疲労困憊の体で選手達はヨロヨロとロッカーへと戻っていく。一軍の上級生も二軍の下級生も同じこと。しかし、それでも練習の後の自主トレーニングに励む連中もいて――
「よっしゃー!ようやく自主トレの時間になったぜ」
「まったく……あいかわらず元気ね」
「なあ、赤司!今日のメニューを教えてくれよ!」
特に小太郎や玲央、永吉といった『無冠の五将』の猛者共にとっては、自主トレーニングこそが本番だ。生き生きした様子でボール片手に僕の元へ集まってくる。その彼ら一人ひとりに、あらかじめ考えておいた最適な練習メニューを言い渡す。これから残って練習していく余裕の無い連中にも、自宅でできるメニューを渡す。
「サンキュ、赤司」
何の抵抗も無く、1年生の指示に従う先輩達。僕がキャプテンに就任してから1ヶ月。はじめは隔意のあった上級生たちからも、だいぶ信頼されるようになってきた。その理由のひとつがこの個別特訓メニュー。個人個人に合わせて精密に組まれたこの計画は、たった一月で彼らの実力を飛躍的に増大させていた。その成果が出るに従って、僕をキャプテンとして認めるようになったのだ。
「ちょっと待ってくれよ、赤司ー!」
「どうした、小太郎」
「いやこれ、メチャクチャ量が多いじゃん!これ、いくらなんでも終わんないって!」
泣きそうな顔で小太郎が詰め寄ってくる。しかし、僕は冷たくあしらうように一言だけ伝えてやる。
「今のお前の疲労度なら、ギリギリ終わるはずだ」
「うっ……いや、でも」
あっさりと断言してやると、小太郎はもごもごと口ごもった。僕の眼で見れば、彼の残りの体力ならば十分にこなせる量のはず。毎回こんなことを言っているが、練習メニュー自体はしっかりとこなしているので問題ない。
「ふふっ……諦めなさい。アナタの身体のことは、アナタ自身よりも征ちゃんの方が理解してるんだから」
「うわーん。レオ姉ー。赤司えもんがイジメるよー」
「ほら、馬鹿なこと言ってないで練習を始めなさい。本当に帰れなくなるわよ」
抱きつこうとした小太郎を軽くかわしながら、玲央は呆れた風につぶやいた。
「にしても、本当に見事なマネジメント能力ね。たった一ヶ月で、我ながら相当実力が上がった気がするわ」
「だな。紅白戦やってもパワーが段違いに上がってたし」
やはり、『無冠の五将』である玲央や永吉、小太郎の潜在能力(ポテンシャル)はモノが違う。他の選手達も全国区の猛者たちだが、実力の伸びという点においてはやはり頭抜けている。この調子で育成が進めば、中学時代の『キセキの世代』相手にも通用するレベルにはなるかもしれない。だが、むしろ弱体化している僕とは違って、他の『キセキの世代』の仲間達の才能(センス)は今なお進化し続けているだろう。やはり五将のみでは勝ち目は薄い。
――これから勝ち抜いていくには、僕自身の強化が必須
十数人ほどが体育館の様々な場所へと移動し、それぞれのメニューをこなしていく。シューティング練習や1対1、シャトルランなど個人ごとにバラバラだ。僕は2面あるコートの間に座り、目を閉じる。
耳に届くのは多種多様な音の波。視覚を遮断したことで、まるで音の海に飛び込んだかのように頭の中に聴覚からの情報が氾濫する。仲間達の声や息遣い、ボールの弾む音にバッシュの擦れる音。
――まずは位置情報の把握だな
音の海の中から、まずはバッシュの鳴らすキュッキュという目立つ高音を探し当てる。ひとつ、ふたつ、みっつ……。それぞれの音から人物の立ち位置を推定し、脳内に描いた体育館に正確な位置を想像する。十秒近くかけて、まずはこの空間に存在する人間の居場所を脳内にマッピングすることに成功。
「ふぅ……これでまず最低条件はクリア。だが、把握に時間が掛かりすぎたか」
同時に、音源の変化から選手達の位置をリアルタイムで観測し、全員の動きを脳内でイメージする。この1ヶ月間、毎日この特訓を続けているが、十以上もの数の移動をリアルタイムで把握するのはかなり大変な作業だった。音の渦の中から十数人分の音を聞き分け、同時並行で位置情報を脳内に記録し続ける。これを距離の誤差1m以内、時差0.5秒以内の精度と期間でイメージを作り上げられるようになることに丸1ヶ月を費やすことになった。
「この状態で初めて、目が見える一般の選手と同等の状況把握ができる、か。いや、それ以下だろうな」
静かに認める。残念だが、足音による現在位置の把握だけでは不十分。なぜなら、床に足を着く瞬間までこちらに位置情報が伝わらないのだ。ダッシュの際の歩幅から考えれば、音源から数十cmの誤差は避けられない。特にジャンプ中はまったく知覚できないというのも痛い。これでは正確なパスを出そうにも、出せる状況があまりにも限られてしまう。
――だからこそ、相手の動きを予測する必要がある
全神経を聴覚に集中する。視覚に加え、触覚をも遮断する勢いで聴覚のみに専念。そして、その内のひとつに意識を合わせる。バッシュの鳴らす音を詳細に分析。コートを擦る甲高い音の波が耳に届く。
ドップラー効果による微細な音の高低の変化、力の掛かり具合による微妙な音の強弱の変化。それらを頼りに相手の動きの一歩先を予測する。
「これは、1on1の練習中か……」
オフェンス側の選手のバッシュに意識を集中させる。キュッキュと鳴る音の成分を自身の全処理能力を用いて詳細に把握。位置情報に変化無し。ボールの弾む音の調子からすると、ドリブルで相手の様子見をしているようだ。その状況が数秒ほど続き、一際高く鳴るバッシュの音が鼓膜を叩いた。
――ドライブ
反射的にそう判断する。本来ならば、踏み出した次の一歩が床に着くまでは進行方向は読み取れない。だが、踏み込みの一歩の音から次の一歩の場所を予測する。一秒にも満たないわずかな時間で、僕はその処理を終えた。
――右だ
直後、想定通りの位置から踏み込みの音が届いた。よし、予測成功だ。しかし、息を吐く暇もなく次の行動の予測に入る。次の一歩も進行方向は同じ。ディフェンスを速度で抜きに掛かる。だが、相手も遅れずに追随していた。三歩目――
「音の調子が変わった……?」
これまでよりも重心が足の裏に乗っている。おそらくは切り返し。この音の強さから考えれば――
――ロールでの左への切り返し。
進行方向の予想は左。踏み込みは半秒後。しかし、なぜか想定した音は届かない。
「え?」
代わりに耳に届いたのはゴールネットを揺らす音。ネットを通過したボールが床に当たる。
――ストップからのジャンプシュートだったか……。
予測失敗。重心が乗ったのはシュートをするためだったのか。読みを外したな……。たった一人に意識を集中してさえ、現在地を予測できるかどうかは6~7割程度だ。目の前の相手の正確な現在地の把握。目で見れば一目で分かることだが、それを耳で感知するとなると難易度は格段に上がるのだ。しかし、今の感知能力の精度では試合でパスミスをするのは目に見えている。もちろん、目は見えないわけだが……。
「もっと聴覚を研ぎ澄まさなければ……」
再び僕は意識を聴覚のみの世界に戻そうとして、こちらへ近付いてくる音に気が付いた。この歩幅とリズムは玲央か……。
「ほら。征ちゃん、早く1on1やりましょうよ」
「ああ、すぐに行く」
コート中央でボールを持った玲央が待っている。その正面にディフェンスとして僕は立ち塞がった。これは玲央ではなく、僕のための練習である。『天帝の眼』無しでこれから戦うための――
「じゃあ始めるわよ」
「くっ……!」
一瞬で抜き去られる。ドライブからのクロスオーバーによる切り返しで、呆気なく脇を素通りされてしまった。目の前の相手の視線や予備動作すら見ることのできない曇りきった視界は、あまりにも大きなハンデだった。何もできずに玲央に得点を決められる。
「……いや、本当に驚くほどあっさり抜けたわね」
レイアップを決めて振り向いた玲央の顔には困惑が浮かんでいた。誰が想像できるだろうか。『キセキの世代』のキャプテンが、まさか一般の選手にすら劣るだなんて――
「話には聞いていたけど、限られた状況下でしか全力を出せないというのは本当らしいわね」
キャプテンに就任してから数週間後。隠し通すのは無理だと判断した僕は、仲間達に自身の実力について話していた。脳に負担が掛かるため、自身で『天帝の眼』の使用は禁じているということをである。自分の意思で封じているかのように言ったのは、ただの見得だ。さすがに全力でやってこの有様だというのは格好が悪すぎる。
「やはり、全国区の選手を相手にするとなると先読みは必須だな。特にディフェンスにおいては」
「そうね。それに、今のアナタは明らかに反射神経が鈍っていたわ」
「いや、原因は反射神経というよりは動体視力だな。相手の動きを把握するのに時差が生じてしまっている」
やれやれと首を左右に振った。視力の低下によって、微細な初期動作を感知できていないのだ。実際に相手の動作が完了してからになり、後手に回らざるを得なくなる。このクラスの選手となると、技も豊富で適当に決めうちすることもできないのだ。
「ならば、今度はオフェンスをやろう」
「わかったわ。攻守交替ね」
投げられたボールを下にはたき、ドリブルを開始する。それに対応するように玲央もディフェンスの構えをとった。改めて見ると、さすがは洛山。守備も鍛えられている。隙が見出せない。いまの霞みきった視界じゃ、他の選手だろうが隙なんて見えないんだが。
「なら、始めるぞ」
しかし、守備とは違って攻撃ならば。こちらが確実に先攻を取れる。
「早いっ……!」
いくつか適当にフェイクを入れた後、全力のドライブ。抜き去ることはできなかったが、半歩だけ先に進むことに成功していた。
僕を眼に頼りきりの選手と思われては困るな。PGとしての素の実力も十分に一流なのだ。だが、さすがは玲央。まだ完全には抜かれずにギリギリでこちらに追いすがってくる。普段ならば、ここで相手の様子を確認して、このままドライブで抜くか、切り返しか、ストップしてジャンプシュートかを選択する。だが、相手を見たところで、どうせ予測なんてできないんだ。
――このままドライブで抜き去ってレイアップ
速度を上げてそのままレイアップに持ち込む。
「させないわよっ!」
「ぐっ……しまった」
放たれたシュートは、ギリギリで追いついた玲央に背後から弾かれた。
ボールがコート上を転がり、それを確保される。僕の負けだった。今回のプレイを受けて、玲央は額に手を当てて考え込む素振りを見せる。
「うーん。そうねー。確かに実力はあるわ。技術もあるし、ドライブのキレも上々、もちろん体力だって問題ない。十分にPGとして一流と呼べるレベルよ。ただ、ディフェンス面においては話にならないわね」
「そうだろうな」
先読みが一切できなくなった上に、動体視力まで最低に落ちたのだ。今の僕のディフェンスは二軍のメンバーにすら劣るかもしれない。それに、オフェンスだって多少はマシとはいえ、技術と速度で強引に抜いているだけだ。相手の反応に合わせた柔軟な動きができなければ、全国レベルとは戦えない。
「明日の試合、やはりスタメンはこれまで通りにすべきだと思うわ」
「……仕方ないだろうな。今の僕の実力が不足しているのは理解している。明日の練習試合、僕はベンチスタートすべきだと、監督に進言してこよう」
「まあでも、明日はただの練習試合だし、征ちゃんのスタメンを試してみるというのも有りかもしれないわよ」
しかし、僕は小さく首を振った。
「いや、そんな余裕はないはずだ。今回の対戦相手にはね」
「そう?あまり聞いたことのない学校だと思ったけど」
考えが甘すぎる。首をかしげる玲央に、僕はきっぱりと断言した。
「去年はそうだが、今年はまるで別物だ。『キセキの世代』の一人が入学した、と言えば分かるだろう。明日の練習試合の相手は『桐皇学園』」
青峰大輝――『キセキの世代』最強のスコアラーが入学した高校だ。