圭は混濁する意識の中で何度も何度も同じ音を聞いた。
カシャリと金属のこすれ合う音、爆音、それに隠れるような水袋を打ったような音。これらが一つながりで聞こえそのたびに気分が悪くなるような錯覚に襲われる。
カシャリ、バン、ベチャ。カシャリ、バン、ベチャ。カシャリ、バン、ベチャ。
ともすれば気が狂ってしまうような音の奔流が突然聞こえなくなった。圭が目を覚ましたのだ。
意識が覚醒した瞬間圭は飛び起きた。体はつい先ほどまでサウナに入っていたと言っても何も不思議でないほど汗で濡れていて、手はカタカタと震えている。
しかし頭は冴えわたっていて先ほどまで見ていた悪夢が頭から飛び出したかのように気分がいい。
「ここは…?」
ふんわりとした皮張りのソファの上から辺りをぐるりと見回す。そこは椅子や机などが無くなったずいぶんとすっきりした教室で、まるで過去の世界に戻ったのかと錯覚するほど綺麗な状態だった。
しかしそう考えた圭は頭を振る。じくりと痛む足が「あの出来事」が実際に起こった事だと主張するのだ。ずきりと頭が痛んだ。冴えわたっているはずの頭にもやがかかる。
意識を逸らすために無意識に動いた視線が二人の人物を捉えた。先ほど見回した反対側でソファに座った女性が二人、すやすやと寝息を立てている。
一人は変なネコ耳帽子をかぶった小さな学生。もう一人は巡ヶ丘の名物先生でもある佐倉慈だ。手を繋いで肩を寄せ合い寝ている姿は生徒が小柄なのとよく似た髪の色が相まって親子のようにも見える。
「あの…」
圭が声を掛けてみるも、二人はピクリとも反応しない。
「あのっ!」
もう少し声を大きくしてみると生徒の方がピクリと身じろぎした。そのまま起きるのかと思いきや、頭を慈の胸に押し付けてぐずるようにして再び動かなくなる。
その暢気な行動で圭はすこしだけイラッとした。先ほどまで感じていた頭のもやはスッキリしていて、怒りの感情がダイレクトに口から突き出る。
「おきろーーーー!!」
「ひゃい!?」
そして飛び起きたのは慈の方だった。背筋をぴんと伸ばしてキョロキョロとあたりを見回し、圭と目が合う。
寝ぼけなまこから一転、慈の瞳は慈愛溢れる聖女のような眼差しでニッコリと微笑んだ。
「良かった。目を覚ましたんですね」
胸に抱いた生徒の頭を撫でながらのその姿はさながら。いや、まさに母のようだった。
それから二人は情報を交換した。慈からは足の様子や学校の安全地帯、いまだ無事な生徒の情報を、圭からはいままでの経緯や潜伏していた場所を。そんなときにふとした違和感が圭の頭をよぎった。何か致命的な間違いを犯したような気がするのだ。
しかし思い出そうとすると頭にもやがかかり、ハッキリとは思い出せない。
「どうしたの?」
そんな様子の圭を見て慈が問いかけたが、圭は血が足りてないみたいですと適当に流すことにした。すると次第に頭がハッキリとしていく。それは圭にとって初めての経験で、とても不思議な気分だった。
■■■
祠堂圭さん。私たちが助けたのは巡ヶ丘高校に通う二年生だった。
彼女を救うために本当に苦労した。私の車は丸焼けになり、くるみさんを危険に晒し、向こうから襲ってきたとはいえ三人の命を奪った。保健室に残ってあった貴重な抗生物質も圭さんに使い切ってしまったし、それらは被害を運よく抑えられたものの手痛い消費だった。
確かに私の決断は正しくなかったかもしれないが、それでも間違いではないと強く主張できる。結果として学園生活部の部員が一人と一匹増えて、いつも以上に皆が楽しそうだから。
「ワォーン!」
「けーちゃんってすごいね!今のはなんて曲なの!?」
「えっと、これはね……なんだっけ」
特にゆきさんなんかは圭さんにつきっきりだ。一時的な記憶障害でも患ったのか彼女の記憶はショッピングモールに立てこもるあたりからあやふやで、時折何かを思い出そうとピアノを弾いている。それを楽しそうに聴くのがゆきさんと拾った犬の「たろーまる」…おそらく太郎丸の最近の趣味で、ゆうりさんは「ゆきちゃんが取られた」って頬を膨らましていたっけ。
もう一つ良い事がある。ゆうりさんが明るくなった。これまでどこか楽しめきれない学園生活に踏ん切りがついたのかどうかはわからないけど、圭さんを連れて帰ってきたあたりから心からの笑顔を見せてくれるようになったのだ。くるみさんはちょっと不気味がっていたけど、子供はやっぱり笑顔が一番だと思う。
「そういえば」
ずるずると後回しにしていたけれど、いまだ増えない生活圏の拡張に手を出さないといけない。ゾンビの数は減らしているけど、生活圏の拡張はそれだけでは無理だ。それも私一人でやろうとするから無理なだけであって、「もっと頼れよ」とくるみさんが言うように協力することが不可欠だと考えさせられる。
簡単に考えるだけでも囮、見張り、バリケードの運搬役の三人が必要だ。近いうちにやるとして、まずは隠した死体をどうにかしないと…。私は学園生活部の机に向かって予定を簡単に手帳に書き込み、ポケットにしまい込んで顔を上げた。
「何を書いていたんですか?」
心臓が止まるかと思った。いつの間にか机の向かいにゆうりさんが居たからだ。
「今後の予定よ。そろそろバリケードも補強しなきゃと思って」
出来る限りの平静を装いシラを切る。ゆうりさんは手帳の中を見ていなかったのか「そういえばそうですね」と胸の前で手を合わせた。
ゆうりさんはそのままくるみにも伝えてきますねと部室を後にし、私は大きなため息を吐いてパイプ椅子にもたれかかる。
誰かが目の前まで来ていて気が付かないなんて、疲れているのだろうか。今回は運よく感づかれずに済んだけれど、これが二度三度と続くと私の秘密が露呈してしまう。
それだけは駄目だ。彼女たちはまだ子供だ、守るべき大人である私が不信感を持たれるべきではない。失望されたくない。怖い。それこそこの秘密は墓の中まで持っていくつもりだ……もっとも、私に墓ができればの話ではあるが。
私は罪に塗れた汚い大人だ。近いうちにきっと断罪の時がやってくるだろうけど、せめてその日までに出来る限り皆を地獄から遠ざけてあげたいと願う。
■■■
深夜。学園生活部の部員と顧問は、新入部員歓迎の体で雑魚寝をしていた。きっかけは寝具が足りない事だったのだが、悠里が「せっかくだから」と提案したのだ。
「…めぐねえ」
すやすやと寝息が聞こえる中、由紀は寝ぼけなまこで慈の名を呼ぶ。
「なあに?ゆきさん」
そして慈愛溢れる教師は浅い眠りから目を覚まし返事をする。その声に呼応するように由紀はその胸に顔を埋め、呟くように語り出した。
「あのね、りーさんが怖いの」
それはどういう事だろう。慈は続きを促さず、優しく頭を撫でることにとどめた。
「ね、めぐねえ。りーさんの事をちゃんと見ててね」
由紀のこのような根拠のない話は初めてではない。だが彼女は何かしらの予兆を受け取り、危険のサインとしてのその言葉は予言じみて当たることを慈は知っている。
だからこそ慈はその言葉を真摯に受け止める。
「大丈夫よ。先生に任せてね」
「うん」
そして夜のとばりに再び寝息だけの静寂が訪れて、ほどなくして三つの寝息が増えた。