自室に戻って来るや否や、一誠は簡易ベッドの上に倒れるように飛び込んだ。無機質で清潔な香りが鼻を擽る。自分と同じそれに深く溜め息を吐いてから、次いで呆然と入口に立ち尽くしたままのオーフィスを見た。
長い黒髪を腰まで伸ばして、同じく黒いゴスロリに包まれた彼女。出会った時と何も変わらない格好だ。
おいで、と横たわったままで顔だけ向けて言うと、オーフィスは勢いよく一誠に抱き付いた。胸板に顔を預ける少女に安心を覚えて、彼もまた
かつて払った代償の証。即ち、龍となった鱗まみれの腕はゴツゴツしていて、思わず顔をしかめるオーフィス。少し悲しそうな眼でそれを見つめた。
「……赤龍帝。また、戻ってる」
その言葉にやっと気付いたのか腕に視線を移す。大量の赤い鱗と、隙間を縫うように散りばめられた翡翠の宝玉が、今も心臓のように鼓動を発していた。
ドクリ、ドクリ。生きる音を立てる毎に自分を蝕むような気がして。一誠は黙って両腕を差し出した。
「……じゃあ、頼むよ」
「……ん」
短く頷いてから彼の指を口に含んだ。そのまま舌で転がして、或いは口をすぼめて、赤く熱いオーラを吸い取っていく。こうして腕に溜まった余剰分の魔力をオーフィスが吸収する事で一誠の腕は人間へと戻るのだ。
龍のままでは不便だと言う彼の為に、時折こうやって魔力を散らしている。何とも焦れったい時間ではあるが、同時にオーフィスの密かな楽しみでもあった。
部屋の中に水の滴る音と、チロチロと舐める音だけが染み込む。音の数だけ赤い魔力が抜けていき腕は元の人間らしい姿を取り戻していく。
その一部始終、正確には何処と無く艶かしいオーフィスの表情を眺めながら。一誠は静かに口を開いた。
「……オーフィス。俺達はずっと一緒だよな? 俺から離れないよな? 一人ぼっちにしないよな?」
突然羅列される質問の数々に、オーフィスは首を傾げた。そして、ただ機械的に話していく一誠に恐ろしいものを感じた。上手く説明は出来ないものの、彼の言動の端々から冷たい何かを感じ取った。
舐めるのを止めて、じっと彼の顔を見る。だが何れだけ眼を凝らしても、やはり普段と変わらなかった。
そんな中で不意に、一誠はオーフィスの肩を掴む。突然のことに動揺する彼女を他所に顔を近付ける。互いの息が鼻にかかる程に二人の距離は近く、思わず後ろに仰け反った。
そこに一誠がのしりと覆い被さった事で、丁度彼が押し倒したような体勢になった。両手で彼女の華奢な腕を掴み、退路を封じる。
一誠の眼は力強く、そして血走っていて──。
「……赤龍帝?」
──life.52 兵藤一誠②──
兵藤一誠は脆い。彼と仲の良い者は口を揃えて語る。並みの上級悪魔を越える実力者で、赤龍帝の宿主でも。忘れてはならない。
彼はつい最近、裏の世界に足を踏み入れた元
英雄の末裔でもなく、魔王の血を受け継いだ訳でもなく、悪魔祓いの訓練も受けてない。本当にただの平凡な学生だった。故に、周囲は彼の精神が限界を迎えてしまうことを恐れていた。
「おーい、大将。頼まれてた悪魔のリスト、作ってきたぜー」
赤龍帝派に加入したフリードは、分厚い資料を片手に一誠の部屋の扉を叩いた。
先日、活動を再開した彼から頼まれた
暫くすると半開きにした扉の先から、一誠が顔を出した。
「おう、フリード。手間取らせて悪いな」
「気にすんな。大将は俺ちゃんを顎で使えば良いんだよ。それにしても、少しやつれてないか?」
「……察しろ。オーフィスと一緒なんだぜ?」
ほっと胸を撫で下ろすフリード。一時は自室に引き籠っていたのでどうなるかと気を揉んでいたが、オーフィスが上手く慰めたのだろう。話を切り替えるべく、資料の束に視線をやった。
旧魔王が積極的に動き始めたタイミングで、この命令。無関係では無いだろう。
「ああ、目的が気になるか?」
「そりゃ旧魔王のお二人さんが戦力再編してるんだ。話し合ってた大将の動向を睨むのも当たり前だろ?」
「安心しろ、お前も顎で使うつもりだ。と、場所を変えよう。今はオーフィスが寝ている」
そして闇に溶けて去っていく二人を、オーフィスは扉越しに見つめていた。一誠との距離が離れた気がして、毛布にくるまったまま手を伸ばした。
されど、その手は虚空を掴むばかりだった。