life.32 匙元士郎①
冥界、シトリー領域。現当主の意向により有数の自然保護区が幾つも残されており、自然との調和をモットーとしている都市である。中央には蒼を貴重とした屋敷がそびえ、その周囲を緑が囲んでいた。
本来なら暖かい雰囲気に包まれている筈だが、ここ最近は重い空気に沈んでいた。シトリー家次期当主であるソーナ。彼女の眷属である匙元士郎が重傷を負ったからだ。
例の若手悪魔パーティーが″禍の団″に襲撃されたとき、彼は命を捨てて主の為に戦った。健闘したものの敗北し、今は屋敷で治療を受けている。ソーナと眷属達は片時も離れる事無く寝ずの看病を行っている。
歴史書や魔導書が並ぶ書斎にて、シトリー家現当主であるリクスアは一人心を痛めていた。
匙元士郎については彼も良く知っている。誠実で真っ直ぐな心を持つ好青年だ。リクスアも気にかけていたし、だからこそ一刻も早い回復を願っていた。
食事も満足に取らず、ひたすらに彼の回復を願い続ける娘達を止める事など出来なかった。執事長であり、自分の″騎士″を努める男が心配して告げた。彼もまた匙の為に尽力している者の一人である。
「リクスア様。今宵も遅うございます。もうお休みになられては……」
「いや、もう少し起きていよう。赤龍帝に抗った勇者の事を思えば、自分だけが寝るなどできないのだよ」
彼は親孝行な性格と聞く。夏休みを利用して泊まり掛けで勉強会を行う、という建前を信じて送り出してくれたご両親の為にも絶対に匙を完治させなければならない。
早く目覚めてくれ、とリクスアは景色を眺めながら呟いた。
「匙元士郎。君は私の息子になるかもしれない男なんだ……」
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慌ただしい外の様子を、匙は知らない。黒い空間にただ一人、立ち尽くしていた。
敗北した、勝てなかった。結局は主君に庇って貰う事態となった。これでは″兵士″失格だ。
神器を宿していても自分は何も出来ない。無力だった。涙を溢れさせながら歯軋りした。もっと強くならなければならない。主を、皆を護れる強さを得なければならなかった。
思い出せば出す程に、自分が不甲斐なく感じた。護るべき者が死んでからでは遅いのだ。
「俺は強くなる……もっと強く……ッッ!」
『そうだ。願え、我が半身よ。想いの力は神器を進化させるからな』
貪欲なまでの力への渇望を抱き、ひたすらに鍛える。突如として目の前に現れた黒い靄を相手としての特訓だ。先ずは基本的な身体能力を強化すべく時間も忘れ駆け回った。
時には血を吐き出し筋肉が潰れかけた。呪炎に身を焦がされ苦しみに意識を失いかけた事もある。それでも一日、二日と時間が経過するに比例して、彼は確実に実力を伸ばしていった。そして遂に当初の目安である一週間が過ぎ去った。
龍を形作った靄の隣に、匙は立つ。一週間という短い時間だが確実に力が底上げされているのを感じた。
意識を集中させ左手の神器を顕現させる。龍の頭を模した″
その形は更に歪み、手の甲だけを覆っていたそれは左腕を呑み込んでいた。邪悪さがあるが同時に力強さも感じた。
頭の中に黒い霧がかかり、低い声が響く。
『次の段階に目覚めたか。その調子で強くなれ。だが、力に呑まれるな。征服して見せろ!』
「……分かってる。俺はあの人を護りたいだけさ」
徐々に霞んでいき、そして匙の姿は空間から消えた。現実世界へと意識を浮上させたのだ。完全に消え去った後で黒い靄は龍へと姿を変化させた。
蛇の様に細長い身体を持ったその龍は、″
討伐後は魂を四つに分割されていたが、しかし、邪龍特有のしぶとさから、もしくは吸収した″二天龍″のオーラに影響を受けたのか、不完全ながら意識を取り戻していたのだ。
そして宿主の願いに応じて、精神世界で彼を鍛えたのだった。
完全復活しきれなかったのだろう。再び薄れ行く視界の中で、ヴリトラは何時か匙が力に呑まれる事を懸念していた。
ドラゴンを宿した者は何時だって争いに巻き込まれ、最愛の人を亡くし、最後はその命尽きるまで戦い続けた。
或いは強大な力を恐れた者達が所有者を裏切り、封印される。その中には自分が愛した者も含まれているだろう。
どちらにしても運命からは逃げられない。それを変えられるとすれば──。
浮かびかけた答えを、ヴリトラは自ら否定した。邪龍と恐れられた自分が、らしくない事を考えたものだ。かつて殺した人間達もそうだったのかもしれないのに。
馬鹿馬鹿しい、と笑いながらその意識は再び途絶えた。
──life.32 匙元士郎①──
シトリー家の屋敷の一室で、彼は目覚めた。運び込まれてから一週間が経過していた。
彼の覚醒に最初に気付いたのはソーナだった。ベッドの隣に設けられた簡易的な椅子に腰かけていた彼女は驚きにタオルを落とした。
お帰りなさい、と何度も何度も叫びながらソーナは涙を流していた。目覚めたばかりの身体は突然の事に悲鳴をあげていたが嬉しくもあった。
「今度こそ護ります」
決意を新たに、匙はそっと呟く。
「──例えこの命が呑み込まれようとも」