愛は寛容であり、情が深い。愛は妬むことをしない。愛は傲慢にならないし、誇らない。
(新約聖書より抜粋)
──life.110 施と侵入──
振り降ろされた凶刃を受け止めたのはシーグヴァイラではなく、瓦礫の山から飛び出した影──フリードだった。赤黒いオーラを纏った彼の復活劇に驚愕したのか、軽い鍔迫り合いだけで飛び退く八重垣。
驚いたのはシーグヴァイラも一緒で、「フリード!?」と思わず叫んだ。重傷を負った上に生き埋めにされた人間がさも何事もなかったかのように自分を庇ったのもそうだが、何よりも彼女の視線を釘付けにしたのはフリードの全身から迸るドラゴン特有のオーラである。
忘れる筈もない。あれは″赤龍帝″の力だ。
「フリード、あなた……」
「んだよ、ブサイクな泣き顔を晒しやがって。まさか俺ちゃんが死んだかもって心配してくれたんでちゅか? 残念無念、俺は死にませぇーん!!」
「心配なんかしてないわよっ!」
謎のパワーアップを果たしても結局は平常運転な彼のテンションに巻き込まれ、涙を拭いながらツッコミに回るシーグヴァイラ。直前までとは打って変わって、とびきりの笑顔を見せる理由は本人も分からない。
「ほれ、再会を喜ぶのは後回しだ」
じゃれ合いも程々に、フリードは剣を構える。再会劇を邪魔する無粋な輩がまだ一人、この場には残っているのだから。
「貴様らぁ……!!」
「なんだよ、先輩。男の嫉妬ってのは見苦しいんだぜ? 羨ましいなら適当に冥界でナンパしてくれば良いじゃないっすか」
「黙れ黙れ黙れ……っ!! どうして君らは許されて僕らは許されないんだっ!? どうして彼女を……クレーリアを殺したァァァァァアッ!!』
「おーおー、愉快に素敵にモデルチェンジしやがってよぉ」
怨嗟を込めた咆哮が礼拝堂全体を揺らしたと同時に、八重垣の頬がひび割れていく。グラスを叩き付けたような放射状のひびは瞬く間に顔全体を覆っていき、それに比例して肉体も肥大化の一路を辿る。
羽化するように″悪魔祓い″の制服を引き裂いて降り立ったのは、全身が黒い体毛に包まれた巨大な獣だった。
その巨躯は手を伸ばせば軽々と天井に触れることができるであろうサイズを誇り、筋肉で膨れ上がった四肢は丸太を彷彿とさせ、軽く撫でただけでも人間の頭部を撥ね飛ばせるだろう。
パッと見の風貌は伝承に現れる人狼や巨人に近いが、側頭部から禍々しく生える捻れた双角と山羊そのものの脚が、彼らではないことを教えている。
「……
シーグヴァイラが、変わり果てた八重垣を見上げながら呟いた。
その者は教会戦士が至ってはならない姿であり、礼拝堂に招かれるべき存在では断じてない。その性質は清廉潔癖を貫かんとする教会の真逆の道を蠢くのだから。尤も、クレーリアと同じ
随分と悪趣味な細工をされたもんだ、と八重垣を蘇生させたであろう″幽世の聖杯″の所有者の嫌がらせにドン引きしながらも、フリードは口角を三日月に吊り上げる。
八重垣が悪魔にまで堕ちたのなら、フリード・セルゼンもまたもう一人の悪魔だ。このような事態を面白がって骨の髄まで煽り散らかすのだから。
「主が曰く、愛は傲慢にならないし……なんだっけか? 誇らないんだっけか? あーあー、クレーリアといいシーグヴァイラたんといい、男を見る目がないってのは可哀想だねー」
『なんだと……!』
「今の先輩ってさー、すっげー傲慢で誇るどころか驕り昂ってるぜ。それって要するに──」
ロリコン上司が脳裏に過る。合法とはいえ
ましてやオーフィスが子を宿した今となってはこれまで以上に気にかけており、身重の彼女に負担を掛けるまいと身の回りの世話やメンタルケアを手伝い、任務でどうしても部屋を空ける場合はレイヴェル達に世話役を任せている。そうして一誠の疲労が蓄積すると、今度はオーフィスが旦那を目一杯に労るのだ。
問題があるとすれば児童ポルノでしかない絵面だろう。
絵面はさておき、種族も年齢も何もかもが異なる彼らを結ぶのは互いへの尊重という赤い糸だ。
そして、その別名こそが愛である。
「──あんたのそれは偽りの愛だったってことだろ?」
そんな二人を見てきた側近だからこそ、どうしても八重垣の叫ぶ愛は単なる言い訳にしか聞こえないのだ。そうでなければ想い人が守ろうとしたこの町で、想い人との出会いの発端となった″はぐれ悪魔″のような真似をする筈がないのだから。
『……ッ!!』
八重垣が右の拳を振り下ろす。巨躯が生み出す超怪力から放たれる鉄槌をまともに受ければ命はない。だが巨大故に隙もまた大きく、フリード達は難なく回避した。
拳を叩き付けられた床が嫌な音を立て、崩落する。
元々いつ崩れてもおかしくない廃墟だったのだ。逆によくこれまでの戦闘の余波で崩壊しなかったものである。
足場を失ったことにより、凄まじい轟音の中で瓦礫と砂煙に沈んでいく八重垣。とはいえ、これで戦闘が終わった訳ではない。彼が沈んでいった向こう側には広い地下室が横たわっているのだ。
「待ってろ。直ぐに殺してくる」
「私も行くわよ、この町の領主だもの」
言い争う時間も惜しんで、フリードが折れる形で二人は大穴に飛び降りた。先ず彼が一足先に着地して周辺を手早く警戒し、それからシーグヴァイラを受け止める。
崩落の影響で八重垣が潜伏時に用いていたランプは押し潰され、頭上から微かに注ぐ月明かりが二人の周囲を照らすのみだ。
瞬間、八重垣が襲い掛かる。『グギュァァァァァァァアッ!!』進路を阻む瓦礫を粉砕しながら突き進む力任せの攻撃に、もう理性も人間性も見当たらない。
だが、如何に威力があろうと所詮は知性亡き獣の暴力だ。ましてや″赤龍帝″の力を一時的に宿したフリードにとっては文字通り子供の癇癪でしかなく、オーラを纏った左腕で難なくガードする。
「おい、領主。今度から町の警備を強化することをオススメするぜ。ザル警備だからこんな馬鹿が闊歩してんだ」
八重垣の腕をそのまま掴み上げ、逃すまいとするフリード。
「アドバイスに感謝するわ! お礼に強化したら真っ先にあんたを捕まえてあげる!」
「そんなに睨むなよ美人が台無しだっての。睨む元気があるなら……さっさと倒しちまえ!」
「任されたっ!!」
シーグヴァイラは合図に呼応して魔力を集中し、気の緩みで掌から消失した″時間操作″術式を再展開する。一度は成功したからか、習得に向けた特訓漬けの日々が嘘のように再展開はスムーズだ。
アガレス家の紋章を宿した術式が、弾丸の速度で放たれた。
──だが、降臨した偽りの悪魔を止めるにはまだ足りないらしい。
『グギュァァァァァァァアッ!!』
与えられた強化形態──″
ヘドロに似て醜悪極まりない濃密な魔力は、相手に触れることを許さない。
異変に気付いて咄嗟に飛び退いたフリードの視線の先では、魔力の鎧に触れたシーグヴァイラの術式が効力を発揮することもなくそのまま溶かされている。数秒でも判断が遅ければ、″赤龍帝の鎧″の幻影を纏っているとはいえ無事で済んだかは分からない。
しかし術式を強引に掻き消す程の純度と毒性を持つのなら、それは操る本人にとっても危険な、謂わば諸刃の剣である証拠だ。
八重垣の動きが明らかに鈍くなった瞬間を、対峙する彼らは見逃さなかった。
「シーグヴァイラ、今から俺は突撃してくるからさ、俺もろとも撃ち殺す覚悟で援護ヨロシク」
「……了解よ。ぶち殺してあげるから覚悟なさい」
「なんだ、妙に素直じゃねぇの。普段からそうやってればモテるってのに勿体ねーな」
「殺すぞ」
「ゴメンチャイ☆」
──まったく、どこまでもふざけた男ね。そんな奴に惹かれる方も……どうかしてるわ。
敢えて大袈裟にかぶりを振り、意識と魔力を目の前に集中させる。魔力出力は安定、感覚と思考も普段以上に研ぎ澄まされている。されど周囲の雑音は自身の心拍音すら一切が遮断されていて、自分だけが世界から切り取られたような、これまで体験したことのない不思議な感覚だ。
シーグヴァイラは、″ゾーン″と呼ばれる超集中状態に至ったのだ。
その理由を、彼女は既に知っている。
『BoostBoostBoostBoostBoostBoostBoostBoostBoost──』
「……行ってくるぜ」
連続する″倍加″の音声を響かせながら
ちなみにバフォメットの起源は未だ判明していないが、当初その者の指す意味合いは聖書勢力から見た″異教徒の神″であり、かのテンプル騎士団が様々な疑惑の果てに異端審問に掛けられた際に崇拝対象として大きく取り上げられた経緯を持つ。特に有名なのは19世紀に魔術師エリファス・レヴィが描いたとされる″メンデスのバフォメット″だろう。
同じく19世紀のテンプル騎士団についての再論争時に改めて注目されて以降、バフォメットはオカルティズムやサタニズムとの結び付きを強め、結果として近年の人間界における悪魔のイメージを作り上げた。