比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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俺が年上の彼女とイチャイチャするわけがない

 ――絶対に追いつきますから、待っていてくれませんか?

 

 

「……そう言ったはずなんだけどな」

 

「比企谷、何をぶつぶつ言っているんだ」

 

 四月、俺と雪ノ下は何の問題もなく三年生に進級した。由比ヶ浜? うん、超大変だった。どれくらい大変だったかと言えば、追試次第では留年もありうるから手伝ってやってくれと平塚先生から依頼されるほどだった。正直、高校で留年なんて相当休んだりしていない限りあり得ないだろうと思っていた俺は、あまりの衝撃に椅子から転げ落ちてしまったほどだ。由比ヶ浜からはキモいと言われたが、雪ノ下と先生にはガチで心配された。だよな! 俺の反応間違ってないよな!

 まあ、そんな由比ヶ浜もなんとか……なんとか三年生になることができた。この間の入学式で小町も入学してきて、俺の周りは一段と騒がしくなったように感じる。

 そして、今俺はまたしても平塚先生から呼び出されて職員室に来ていた。いや待て、弁解させてくれ。最近俺は前みたいな捻くれたレポートなんて提出していないし、今日は遅刻もしていない。先生の婚活の心配は少ししているが、恩師の将来を心配するのはむしろ生徒としてポイントが高いだろう。

 

「今日呼び出したのはこれのことなのだが……」

 

「進路志望表……ですか」

 

 三年生の一学期が始まってすぐに進路志望表の提出を命じられた。進学校である総武高校においての進路志望とはすなわち進学先志望であり、俺の希望表にも第三志望まで大学の名前が入っていた。その一番上、第一志望の欄を先生が指差す。

 

「君は私立文系志望じゃなかったのかね?」

 

「そうですね」

 

「ではなぜ、第一志望がここなんだ?」

 

 第一志望には千葉の国立大学、雪ノ下さんと白露さんがいる大学の名前が書き込まれている。学部は文系の法学部。これも白露さんと同じだ。

 

「……少し自分の中で意識改革があったもので」

 

 意識改革と言えば聞こえはいいが、要は白露さんと同じ大学に行きたいだけだ。好きな人と同じ大学に進学したいなんていう、いかにもな青春を俺がすることになるなんて、去年の俺が聞いたらどんな顔をするだろうか。たぶん、さいっこうに気持ちの悪い顔をしてしまうだろう。

 

「君は変わったな」

 

「……変わってなんていませんよ。人はそうそう変われるものじゃないし、相も変わらず俺は捻くれているのでしょう?」

 

「いいや、変わったさ」

 

 俺の声を遮って「変わった」と否定する声は教育者らしい、どこかやさしい声だった。本当に、この人もこの人で十分にあざとい。いや、この人の場合はずるいというべきか。いずれにしても、あまり生徒をドキドキさせないでほしいものだ。

 

「この一年で、君は悪くない変化をしている」

 

「……それはどうも」

 

 気恥ずかしさから少しぶっきらぼうになってしまうのは許してほしい。顔は赤くなっていないだろうか。軽く頬に手を添える俺に「しかし……」と平塚先生が心配そうな声を上げる。

 

「君の理系成績では、文系とは言え国立は厳しいんじゃないのかい?」

 

 なるほど。今日呼び出された理由はそこらしい。確かに今まで理系の授業はほとんど寝ていたし、テストも壊滅的だったのだから、先生の心配も当然だろう。まあ、国立大学一本ではなく、私立大学も受けるつもりだから、浪人するつもりはない。それに……。

 

「大丈夫ですよ。怖いくらい心強い味方がいますから」

 

 

     ***

 

 

 学び舎も別々になり、白露さんと会う機会も少なくなる。少し寂しいが、お互いに将来や新しい生活があるのだから仕方ないと割り切って、その寂しさを昇華させて勉強に取り組む。不安な理系分野もその勢いで頑張ればきっと大丈夫だろう。

 

「ハチマン、おかえりー!」

 

「そう思っていた時期が、俺にもありました」

 

「何言ってんの?」

 

 奉仕部の活動――最近は主に部室で受験勉強なのだが――を終えて帰宅すると、玄関に家族のものではないブーツが置いてあった。まあ、いつものことだし、今日は一つしかなかったのでそのまま自室に向かうと、我が物顔でくつろいでいる白露さんがいた。

 いやまあ、うちって大学から充分近い距離にあるんだけどさ。なんならここから通えるんだけどさ。

 

「俺の覚悟ってなんだったのかなーって思ってですね」

 

 普通にうちに来てるんだもん。卒業式の俺の決意返して! 今思うとくっそ恥ずかしいんだから。

 

「ハチマンの覚悟は変わらないでしょ? 私に追いついて、隣に立ってくれるんだから」

 

「まあ、そうなんですけどね?」

 

「それに、ハチマンに追いついてほしいのは私も一緒なんだから。協力は惜しまないよ」

 

 ……そんな事を言うのは卑怯だ。本当に、年上ってこういう事平気で言うからずるい。俺の心をどんどん揺さぶってくる。

 まあ、白露さんの言うとおり、俺の覚悟は変わらないし、そのために白露さんも協力してくれている。ここにいるのもそのためだ。

 

「じゃ、始めようか」

 

「はい」

 

 

 

「んー、二年中頃までの基礎は大体身についた感じかな。応用にはまだ使いこなせてないね」

 

 俺が返したプリントを確認しながらふむふむと分析してくれる。内容は数学。彼女こそが“怖いくらい心強い味方”の一人だ。

 まあ、どうしてこうなったのかと聞かれれば、時を少し遡ることになる。

 

 

「そういえば、ハチマンって理系苦手って言ってなかった?」

 

 あの告白の後、二人で帰っていると横から尋ねられた。思わずうぐっ、とか変な声が出てしまう。

 

「確かに苦手ですけど、まあほら、高校入ってから勉強してなかったからってのも大きいですし、今から見直しすれば……」

 

「一人でできるの?」

 

 やめて! そんな真剣な眼差し向けられたら「一人でできるもん!」とかネタに走れないから!

 いや、しかし実際のところ自学自習で二年の遅れを取り戻せるのかちょっと不安になってきた。親に頼んで塾に行こうかしら。国立大学に行けば学費抑えられるし、将来的に見て親もメリットがあるはず。

 そう脳内で画策していたが、いきなり腕に抱きつかれて思考が放り出される。腕にもたれかかってくる白露さんの温かさにドキドキしていると、ニコニコしながらふふーんと鼻を鳴らす。

 

「ハチマン、私って天才なんだよ?」

 

「知ってますよ、自慢ですか?」

 

「むー、そういうことじゃなくてさ……」

 

 膨らました頬を擦り当てないでいただきたい。超柔らかくて仕方ないから。

 

「その、さ……ハチマンがいいなら、私が勉強、教えてあげても……いいよ?」

 

「え……?」

 

 いや、確かに白露さんみたいな頭のいい人に教えてもらえるなら、俺としても願ったりかなったりなのだが……。待っていてくれって言った手前気が引けるというか、男としてのプライドが許さないというか。

 

「だめ……かな……」

 

 あぁ、その言い方はずるい。そんな言い方されたら、揺らいでしまう。断れない。

 

「だめじゃ……ないです」

 

 あっさり折れた俺に、頬を赤らめながらにへっと笑いかけてくる。抱きつく腕に力が込められて、意識の全てが彼女に向けられて、もう怒る気にもなれなくなる。

 

「ごめんねー」

 

「笑いながら謝っても説得力無いですよ……ったく」

 

 離れ離れになると思ったその日から、その本人が家庭教師として近くに来てくれたのだった。いやまあ、それはうれしいんだけど、うれしいんだけど! ……いやまあ、うれしいからいいか。

 その後、帰りに数学基礎の参考書を買って、俺宅に二人して帰宅した。小町は突然の白露さんの来訪に驚いていたが、一緒に食事をして一時間も話すと、もう下の名前で呼び合うまでになっていた。それはいいけど、「友音お義姉ちゃん」はやめて。その、いろいろ想像しちゃうから……ね?

 

 

 そんなわけで、白露さんはそれからほぼ毎日うちに来て理系の家庭教師をしてくれている。まあ、理系といってもほとんど数学だけだけど。白露さん曰く、「文系なら理科は生物選択すれば遺伝のところ以外はただの覚えゲーだから文系と変わらないよ! まずは計算力をつけましょう」とのこと。確かに去年までも生物分野はそこまで成績悪くなかったからな。

 それにしても――。

 

「……ん? どうしたの?」

 

「いや……」

 

 春も深まってきてだいぶ温かくなってきた頃だが、それにしても白露さんの服装が薄い。黒のタンクトップに薄手のブラウスを緩く羽織っていて、死ぬほど目のやり場に困る。目のやり場に困ってテキストに向かっているのに無意識に細い首筋とか、綺麗な鎖骨とか魅惑的な胸元に目がいってしまう。驚きの吸引力に商品化したらバカ売れしそう。……主に独身女性に。先生また合コン失敗したって言っていたな……。

 俺がテキストを解いている間、彼女は本棚から適当に俺の蔵書を取り出して、パラパラと読んでいる。一月以上も通いつめていれば、俺の部屋だというのにもはや自分の部屋のようにくつろいでいる。最初の頃は借りてきた猫みたいでかわいかったのになー。いや、今は完全に油断しきった猫みたいでまたかわいいわけだが。

 で、油断していると多少なりとも人間だらしなくなるものなようで。

 

「っ……」

 

 ふらん、ふらんと振り子のように揺れながら読んでいると、羽織っただけのブラウスが肩からずり落ちて、女性的な丸みを帯びた肩があらわになる。白露さんはそれを直そうともせず、俺も目を離せない。視点がロックされてしまったかのように彼女から目を離せなかった。

 

「こらっ!」

 

「ひゃいっ!」

 

 ノーモーションで顔を上げた彼女に驚いてメッチャへんな声が出てしまった。どうやらずっと見ていたことに気付いていたらしく、「まったくぅ」と呆れた声を上げられてしまった……申し訳ないでござる。

 

「集中できてないぞ?」

 

「すみません……」

 

「まあ、ちょっと休憩しようか」

 

 本を閉じて立ち上がる。俺の横を通り過ぎるのを見て、飲み物でも取りに行くのだろうかと思っていると、ふわっと後ろから温かくて柔らかいものに包み込まれた。

 

「ちょっ、白露さん!?」

 

「ふふ、彼女にハグされたくらいで慌てすぎだよ。本当にハチマンはウブだなー」

 

 無茶を言わないで欲しい。白露さんみたいな美人に抱きつかれて、ドキドキしない方がおかしいではないか。いや、俺以外に抱きついたりしたらその相手この世から消しちゃうけど。

 

「それで? そのウブなハチマンはお姉さんのどこを見ていたのかな?」

 

「え、や、その……」

 

 言えるわけない。もう胸とか肩とか鎖骨とか首すじとか唇とか、「どこ?」って聞かれても「白露さん」としか答えられないくらい見ていたなんてそんなの恥ずかしくて言えるわけがないではないか。何だよ俺メッチャ恥ずかしい奴じゃね?

 

「むふふー、ハチマンも男の子だねー」

 

「……恥ずかしいからあんまり弄らないでください……」

 

 なにこれ、恥ずかしすぎて死にたい。恥ずかしいとか思いながら、抱きついてきている白露さんの柔らかさとか体温とか、ふわっと香る優しい匂いを心地いいとか思ってしまうのが更に恥ずかしい。ていうか、頬と頬をくっつけて擦り寄せないで! むにむにして気持ちいいから!

 すぐ近くに白露さんの顔が、唇がある。色つきリップを塗っているらしくプルンとした艶があって、ついつい、視線が吸い込まれる。それはさながらエデンの禁断の林檎のようで、今すぐにでも食べてしまいたい衝動に駆られる。欲望のままにむさぼりたいと思ってしまう。

 

「ハチマン……」

 

 そして、禁断のはずの果実の方から食べられようと迫ってくるのだから性質が悪い。互いに首を軽くひねって相手と正面からしばし見つめあって、その距離をゆっくり縮めながら瞼を下ろしていく。かすかな吐息が頬を撫でて、それで……。

 

「ひゃっはろー! 勉学に励んでいるかな、少年!」

 

「「っ!?」」

 

 勢いよく扉が開かれて、反射的に互いの距離を離した。もう少しで触れあっていた彼女の唇を名残惜し気に眺めて、扉の方を睨みつける。扉を開けた張本人である魔王、雪ノ下陽乃は右手を高々と掲げたちょっとお馬鹿なポーズのまま固まっていた。

 

「あ、あれ? ひょっとしてお姉さんお邪魔だったかな……?」

 

「「…………」」

 

 いや、お邪魔とかではないんですが、今日は来訪の日だったし。ただ、そのことを二人してすっかり忘れていたところに完全な不意打ちが入ってしまったわけで、脳の処理が追いついてなくて声が出ないといいますか……。

 

「……ごめんね。お姉さんリビングの方でイヤホンして待ってるから、二人とも気が済むまでイチャイチャしてね」

 

「待て待て待て待て!」

 

「はははは、ハルノ!?」

 

 二人がかりで必死に引きとめた。ていうか、なんでイヤホンのところ強調したの? 俺たちが何をすると思っているんだ、この人は。

 

 

 

 まあ、なぜ雪ノ下さんがうちに来ているのかというと、この人も俺の家庭教師だからだ。つまり、二人目の「怖いくらい心強い味方」。魔王を味方につけるとかマジ俺ら魔王軍。この場合、勇者は雪ノ下だろうか。雪ノ下さんに勝てる気がしないんですが。倒しても裏ボスのママのんが控えているな。

 雪ノ下さんは週に二回ほどのペースでうちにくる。あの自由主義の魔王様がなぜ俺の家庭教師を、などと申し出を出された時は思ったが、彼女曰く「私と友音の後輩になろうっていうなら失敗なんてさせるわけにはいかないじゃない!」らしい。要は、妹分の幸せのために努力は惜しまないという事だ。そういう素直なところをもう少し雪ノ下にも見せてあげればいいのにと思うが、まあそこらへんは家庭の事情なのだろうな。

 彼女の教え方は妹に似てスパルタだ。しかし、天才型で教えることが苦手な雪ノ下と違い、雪ノ下さんの教え方は上手い。分かりやすいのではなく、上手いのだ。無理やり脳に情報を刷り込まれる感じ。

 

「はい、ここのジャンルで一番頻出しやすいのがこの公式だから死ぬ気で覚えてね。この公式を基準にすればこの公式とこの公式を忘れても自力で思い出せるからね。それからこういう問題は毎年出ているから、特に集中して勉強しておくように」

 

 勉強を教えてくれる時の雪ノ下さんは隙がないというか、空気がピンと張りつめた感じになるので少し怖い。いや、元々俺にとっては充分怖い人なんだが。その分こちらも集中して勉強に望むことができる。

 ここ一ヶ月半ほどは雪ノ下さんにまとめて教えてもらったところを、彼女が来ない間に白露さんと復習して理解を深めるというサイクルが定着していた。事前に大まかな理解が済んでいるので学習ペースが驚くほど速い。おかげで一年半ほどの学習範囲を一ヶ月半で網羅することができたわけだ。まだ基礎くらいしかできてはいないが、そこは数をこなすことで何とかなるだろう。

 

「――さて、今日はこんなもんかな?」

 

「……ふひぃ。ありがとうございました……」

 

 ただ、雪ノ下さんの集中講義を受けた後はどっと疲れが襲う。集中している時はランナーズハイのような状況になっているのだろうか。そこまで相手を集中させるとかマジで雪ノ下さん人間じゃないわ。

 

「じゃ、私は帰るねー」

 

「お疲れ様です」

 

「後は二人でしっぽり楽しんでね」

 

「……訳わかりませんから」

 

 なんだよしっぽりって。そんなことやるわけがないだろ。……少なくとも今は。

 雪ノ下さんが帰ると今度こそ完全に気が抜けて床に寝転がろうと後ろに倒れ込んだ。

 

 

 ――ぽすっ。

 

 

 カーペットを敷かれたフローリングに着地するはずだった頭は何か柔らかいものの上に不時着した。不思議に思って目を開けると、すぐ上に白露さんの顔が見えた。気付かなかったが、どうやらずっと後ろで本を読んでいたらしい。

 

「お疲れ様」

 

「あ……どうも」

 

 いまさらになって、自分の頭が白露さんの膝の上に乗っていることを理解した。いわゆる膝枕。認識した途端、鼓動は急速に速度を上げて、顔どころか身体中が熱を帯びる。慌てて起き上がろうとすると、肩に手を置かれてその動きを制される。

 

「いいから」

 

「いやでも……恥ずかしいっす……」

 

 いや、本当に恥ずかしい。けれど、恥ずかしいのに程良い柔らかさとかぬくもりとかがどこか懐かしくてずっとこうしていたいとも思えてしまう。甘えたいと思ってしまう。そんな子供じみた感情がまた恥ずかしい。

 それでも、頭にそっと乗せられた手でやさしく撫でられると、つい身をゆだねてしまう。

 

「いいんだよ。私がこうしたいんだから」

 

「……じゃあ、少しだけ」

 

 そこまで言われたら断れない。起き上がるために込めていた力を抜いて、彼女の膝に沈み込む。あいかわらず心臓はドキドキしっぱなしなのに、同時にひどく落ち着く。思えば、最後にこうして誰かに甘えたのはいつだったろうか。ひょっとしたら、今までなかったかもしれない。それなら、その最初の相手が白露さんだというのなら、それはきっと幸福なことなのだ。

 

「ハーチマン」

 

「なんですか?」

 

「ふふー、呼んでみただけ」

 

 瞼を閉じたまま応答する。見えてはいないが、彼女がコロコロと笑っているのは感じ取れた。バカップルのような会話も、どことなく楽しく感じる。プロボッチだとか、孤高を好むだとか言っていたはずなのに、だいぶほだされたものだ。

 

「ハチマン……」

 

「今度はなんで……っ!?」

 

 再び瞼を閉じたまま応答しようとして、思わず目を見開いた。唇には柔らかい感触が重なり、視界いっぱいに白露さんが映される。ゆっくりと離れた彼女の顔は、優しげだけど少し赤らんでいて、とてもかわいらしかった。

 

「ひひー」

 

「……いきなりとか反則ですよ」

 

 本当に反則だわ。完全に油断していた。そっぽを向いた俺の視界の端で、白露さんはなにかをたくらんでいるように笑った。

 

「じゃあ、いきなりじゃなきゃいいのかな?」

 

「それは……」

 

 いや、それでも恥ずかしいことに変わりはないのだが。というか、キスってどんな時にやるのが一番恥ずかしくないのだろうか。いや、告白した日も結局後から恥ずかしくなったわけで。しかし、恋人同士ならキスをすることはごく普通のことであるわけで。

 

「……いいですけど……」

 

 やっぱり年上は厄介だ。簡単にペースを持っていかれてしまう。彼女はにぱっと微笑むと再び顔を近づけてきて。

 

 

 再び優しく、唇は重なり合った。

 

 

 

「そういえばさ」

 

「はい?」

 

「そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかなって思うんだけど」

 

「……善処します」

 

「うん、待ってるね?」

 

 

     ***

 

 

 そんな日々もあっという間に過ぎて行って、気がついたら夏休みに入っていた。受験生の俺は、学校が休みになっても来る日も来る日も勉強である。天才と魔王のコンビプレイによってあっという間に高校の文系数学の範囲をカバーしたので、今は数学の応用と生物の遺伝子を中心に勉強している。もちろん他教科も勉強しているし、雪ノ下さんは文系教科にシフトしてくれている。

 おかげで期末テストは全体的に成績が上がった。今まで壊滅的だった理系分野は平均より上くらいまで一気に上がったし、文系分野も軒並み成績は上がっていた。特に元々得意だった現国と雪ノ下さんに重点的に教えてもらった世界史、英語は念願の学年二位になることができた。雪ノ下はどうせ満点だろうから、あまり目標にしていなかったが、葉山を超えられたのは嬉しかった。

 というか、英語に関してはめちゃくちゃ恵まれた環境にいると思う。完璧魔王と日本よりも海外での生活の方が長い帰国子女の英会話を直に聞くことができるのだ。期末のリスニングは「うっわ、堅苦しい言い回し」と思わず笑ってしまいそうになってしまった。

 しかし、テスト結果を見せた雪ノ下さんから「どうせなら雪乃ちゃんも抜いちゃった方が面白いよね!」とか言われて魔王ゼミナールは余計にスパルタになりました。無茶ぶりも甚だしいとは思いませんか? まあ、やるけど。

 というわけで、夏休みに入っても特に遊びに行くこともなく――そもそもいつも進んで遊びに行こうとは思わないんだけど――ひたすらテキストに向かう毎日を送っていたのだが……。

 

「……お兄ちゃん」

 

「……はい」

 

 なぜか朝から妹に正座させられています。俺何かしたかしら。おやつのプリンも盗っていないし、洗濯物の下着も綺麗に干したはずだが……。

 俺のそばにはどうすればいいのか分からずにオロオロとしている白露さんがいて、小町の隣では雪ノ下さんがしたり顔でうんうん頷いている。何なのんこの構図。

 

「お兄ちゃんは勉強のしすぎです」

 

「え、だって俺今年受験……」

 

「シャラップ!」

 

 小町ちゃん、性格変わっていますよ? そんなV系みたいなシャウトする子じゃないでしょ?

 

「というわけで、比企谷君は今日の夏祭りに行ってもらいます!」

 

「は?」

 

「友音さんと一緒にね!」

 

 ……あぁ、そういうことか。

 ちらりと白露さんを見ると彼女も理解したようで、俺にどうしたものかとアイコンタクトを送ってきた。まあ、愛する妹からのお節介だ。ありがたく受けるのが兄として当然の行動であろう。

 

「……わかったよ」

 

「よし、じゃあ今日は勉強お休みで、比企谷君は五時に駅集合ね! 友音は浴衣見繕うから、今からうちに行くわよ!」

 

「え? え? ちょ、ハルノ!?」

 

 夏祭りに行くことが決まると、雪ノ下さんは白露さんの手を引いて慌ただしく出て行ってしまった。大企業のお嬢様がそんなバタバタとはしたない事をして大丈夫なのだろうか。

 

「まったく、ほんとゴミいちゃんなんだから」

 

「……苦労をかけるな」

 

「いいよ。家族なんだからね」

 

 にひっと笑うと手を伸ばしてくる。その手を握って立ち上がって、軽く頭を撫でてやった。本当に世話好きでお人よしな妹だよ、お前は。

 さて、まだ朝だし、少し勉強しておこ……。

 

「さて、お兄ちゃん行くよ!」

 

「は? 行くってどこへ……?」

 

「もちろん、お兄ちゃんのデートのために小町が新しい服を用意してあげるんだよ! 今日はお兄ちゃん、勉強しちゃダメ!」

 

 受験生なのに勉強するななんて言われる日が来るとは思わなかった。

 

 

     ***

 

 

「ハチマン、おまた……せ?」

 

「なんで疑問形なんですか……」

 

 去年由比ヶ浜と待ち合わせをした駅で五時少し前に白露さんと落ち合った。

 

「あの……ハチマン……なの?」

 

「正真正銘比企谷八幡です」

 

 小町コーディネートに時間ぎりぎりまで付き合わされて、その場で全着替えさせられた。白とグレーのボーダーTシャツにネイビー? の七分袖ジャケット、ライトグレーのデニムパンツという、またしても普段の俺からしたらあり得ない服装になってしまった。

 その上、白露さんが俺であることに確信が持てないのは、おそらくこの顔面に装着されているものだろう。金属フレームにガラスの鏡体を組み合わせた視力補助具、眼鏡である。まあ、これは伊達眼鏡なのだが。

 

「お兄ちゃんはイケメンな格好似合うんだから、後はその目を何とかすれば完璧なんだよ! だから眼鏡を買います!」

 

 服を一式そろえた小町の一言によってわざわざ眼鏡屋で買う事になってしまった。全部で結構な額だが、どうやら雪ノ下さんから資金が供給されていたらしい。雪ノ下さん白露さん好きすぎでしょ。

 

「あー、その……。浴衣も似合いますね。すごく……綺麗、です」

 

「ふふ、ありがと」

 

 対して白露さんはいかにも質のよさそうな浴衣。青を基調とした水玉に赤い金魚がアクセントになったデザインだ。普段の白露さんのイメージからすれば、もっと明るい感じの色を連想するのだが、落ちついたデザインを着た彼女はいつも以上に“年上”を感じさせた。

 

「それじゃあ、いこっか! 花火の前に屋台見なくちゃ!」

 

「人多いですからあんまりはしゃがないでくださいよ」

 

 気をつけるー、と言った早々先行し始めて危うく見失うところだった。思わずため息をつきながらも苦笑して追いかける。

 普段は静かな海辺の広場は、雑多な屋台とオレンジ色の電灯、そしてお祭り騒ぎの人、人、人でかなり賑わっていた。年二回ある同人誌即売会の人気ジャンルスペースのような足の踏み場もない状態ではないが、だいぶ混んでいる。そういえば、来年は二人でそのイベントに行こうとかいう話になっているが、初参戦が夏コミはちょっと怖い。熱中症とか色々。

 地元民の俺としては毎年よく見る光景なのだが、白露さんには存外“和”を感じさせるようで、屋台や赤い提灯をキラキラした目で見つめていた。俺のそばを歩きながら、時折ちらちらとこちらを見てくるが、ここでその理由がわからない俺ではない。

 

「何か買いますか?」

 

「っ、うん! まずあそこ行こうよ!」

 

 どうやら少し遠慮していたらしい彼女は、それから堰を切ったように屋台に特攻を仕掛け始めた。お好み焼きは丸く平べったいイメージしかなかったらしく、はしまきお好み焼きを見た時は思わず現地の言葉っぽいのが出ていた。林檎飴や綿飴など、屋台を本当に片っ端から回ってしまうのではないだろうかと思うほど次々と興味のある店に吸い寄せられていく。ちなみに、どことなく日本製っぽい林檎飴も綿飴も、発祥はアメリカらしい。林檎に飴のコーティングするようなキチガ……発想力は日本独自のものかと思っていたよ。

 久しく行っていなかったお面屋台では、ひょっとこがやけに気に行ったらしく即購入して頭に斜めに引っかけていた。なんでこんなのまで似合っちゃうんですかね。これが才能か。ちなみに、俺も何か買うようにけしかけられたため、なぜか置いてあった某怪談話でお馴染のタレントさんのお面を購入した。今度これを被って小町に怪談話をしてみよう。めっちゃ怒られそうだけど。

 ああ、一番やばかったのは射的だ。何度か射撃場に連れて行ってもらったことがあるらしい白露さんが、粗悪な射的用の銃でポンポンとコルクを景品に当てて掻っ攫っていた。俺もこういう一人遊びは得意なので彼女ほどではないが景品を倒していたのだが。

 

「むむむ、ハチマン。あれは強敵だよ」

 

「さすが目玉の景品ですね」

 

 一番の目玉らしいWiiU獲得のための札が何度当てても倒せない。的が小さい上に、屋台の主人曰く、軽く足をテープで固定されているらしかった。そこで、二人同時に札の下部分に当てると許容量を超える衝撃を受けたテープはあっさり剥がれ、札はズズッと少し後ろに下がって、こてっと倒れた。その時点で既に泣きそうだった屋台の親父が完全に号泣しながら、「これ以上は勘弁してくれぇ」と懇願してきたので、さすがに退散を強いられてしまったがね。まあ、千円も稼いでいないのに三万越えの景品を取られるとは誰も思わないだろう。大赤字である。自分でやったことだが、ちょっと同情してしまった。まあ、返すわけがないけど。

 で、そうやって柄にもなく祭を満喫した結果。

 

「大丈夫? 重くない?」

 

「まあ、何とか平気ですよ」

 

 荷物で両手がふさがってしまった。この人ごみでWiiUを持っているとか衝撃が怖すぎる。さすがに受験生だから、それまでは小町や白露さんに遊んでもらう事になるだろうから、こんなところで傷をつけるわけにはいくまい。はあ、俺もイカちゃんと戯れたい。

 時計を見るとだいぶいい時間だったので、屋台の通りを抜けて花火の見やすそうなところを探すことにした。有料エリアの近くに行くと、今年も名代を任されている可能性のある雪ノ下さんにからかわれる可能性がるので、反対方向に向かう。

 

「あ、こことかどうですか?」

 

 人垣から少し離れたところにそこそこの広さのスペースがあった。去年と同じ轍は踏まないと用意しておいたレジャーシートを広げて二人で腰かけた。ふぅ、と息をついて。

 

「すみませんでした」

 

「え?」

 

 白露さんに頭を下げる。なぜ謝られたのか分からないようで、彼女はこてんと首をかしげた。

 

「なんのこと?」

 

「その……せっかく付き合っているのに、まともにデートにも行ってませんでしたし……。俺、自分のことに手一杯で、白露さんの気持ちを考えていませんでした。本当にすみません」

 

 付き合って四ヶ月。俺たちは全くデートらしいことをしていなかった。この四ヶ月で出来ること、行けるところはたくさんあったはずだった。花見にも行っていないし海にも行っていない。七夕だって無関心。平日も休日もひたすら勉強で、それにいっぱいいっぱいで。依頼を受けていた一月ほどの間の方がいろんなところに出かけていたのだからひどいなんてものではない。今回、小町と雪ノ下さんが手を組んだのも、そんな俺達を心配してくれてのことだったのだろう。

 下げ続ける俺の頭にそっと彼女の手が触れ、くいっと引き寄せられた。夏の暑さの中でも心地のいい温もりを感じる。それが、荒んだ心をゆっくりと宥めてくれる。

 

「気にしなくてもいいんだよ。ハチマンは私に追いつくためにがんばってくれてるんだから」

 

「でもっ……」

 

 思わず頭を上げた俺の口元に、白露さんの細い人差し指当てられる。制止のポーズをとった彼女はそれに、と続ける。

 

「私はハチマンと一緒にいられるだけで充分幸せなんだよ? 一緒に勉強して、休憩の時にちょっとじゃれあうだけで今は充分幸せ。一緒に出かけることだって、来年になれば出来るんだから、ね?」

 

 そう言って頬笑みながら頭を撫でてくれる白露さんを見て、少しこそばゆくて、それ以上に嬉しかった。今すぐ大声でこんなにいい彼女を自慢してしまいたいくらい。

 けど、それは恥ずかしいから。最愛の彼女に向けて、改めて誓いの言葉をかける。

 

「白露さん、俺、絶対に――――――」

 

 

 ――ドンッ。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「……ぷふっ」

 

「……死にたい」

 

 もうびっくりするくらいタイミング悪く花火の爆音によってかき消された。花火師のアホ。また俺の黒歴史が増えちまったじゃないか。

 

「ハチマンは本当に面白いなー」

 

「……ほっといて下さいよ」

 

「けど、うれしかったよ?」

 

 俺の方に頭を乗せてくる白露さんはやはり綺麗で、ちらりとこちらを見る瞳はどこまでも優しかった。その瞳で、俺の言葉がちゃんと届いていたことを理解した。

 

「いつまでも待ってるから、早く追いついてね?」

 

「……はい」

 

 断続的に何発も撃ちあがる花火は、大きな音を立てて夏の大輪の花を咲かせ、すぐにパラパラと散っていく。様々な色は炎色反応によるもので、神秘的でも何でもない化学反応の一種だ。

 けれど、そんなことは分かっていても。

 今はただ、その光が美しかった。

 

 

 

「あ、でも。申し訳なく思ってるなら、私のお願い聞いてほしいなー」

 

「? なんですか?」

 

「名前」

 

「ぁ……ぅ……その……」

 

「だめ?」

 

「………………友音……さん……」

 

「ふふっ、今はそれで勘弁してあげる」

 

 あぁもう。だから年上は苦手なのだ。

 

 

     ***

 

 

 季節は巡りに巡って再び四月。先月総武高校を卒業した俺は、気慣れないスーツに身を包んで大学の入学式に参加していた。在学生代表が雪ノ下さんだったのは少し驚きだが、既に雪ノ下建設への就職が決まっているのだからいろいろ自由に動けるのだろうなと納得する。

 大学の入学式と言っても高校とそこまで変わるようなものではない。椅子に座ってぼーっとしていればいつの間にか終わる。しかし、なぜかやけに雪ノ下さんの方から視線を向けられている気がしてぼーっとすることもできず、終始背筋を伸ばす破目になった。

 ようやく式も終わり、凝り固まった身体をほぐしながら会場を出ると通路の両脇に何十人といった人が群れをなしていた。各々が手作り感満載のチラシなどを持っていて、どうやらサークル勧誘というものらしい。あの中を突っ切るのは面倒くさそうだなー、どうせこの後予定もないし勧誘の人達がいなくなるまで会場に残っていようかしらとか思っていると、勧誘の集団の一人と目があった。相手はぱあっと表情を輝かせると群れから飛び出し、スピードを緩めずに突っ込んできた。

 

「ハッチマーン!」

 

「ゴブッ……ゆ、友音。人前だから離れて……」

 

 最近ようやく呼び捨てで呼び慣れてきた彼女は俺の動揺など歯牙にもかけず「やだー!」と拒否しながら胸元にぐりぐりと顔を押しあててきた。何それくっそかわいいけどマジで恥ずかしいんですが!?

 前々から行っている通り友音は美少女である。そんな美少女がいきなり抱きついてくるものだから、新入生もサークル勧誘の在学生も何事かとざわつき始めた。いや、みなさん気にせず勧誘したり勧誘されたりしちゃってください。

 

「おやぁ、二人ともお熱いなぁ」

 

「ちょっ、雪ノ下さん!?」

 

 後ろから友音とは別種の柔らかさとか温かさに包まれる。人をからかう気満々の声で誰かは一目瞭然だ。在校生挨拶で新入生の大半の心を鷲掴みにしたであろう雪ノ下さんの突然の登場とハグに、ざわつき程度だった周囲は軽いパニック状態になってしまった。

 そしてこの時俺は悟ってしまったのだ。たぶん、俺に平穏な大学生活は訪れないと。大半の学生に顔見られちゃっただろうしな。そもそも天才彼女と魔王に囲まれて平穏でいられると考える方がおかしかったな。

 

「ハチマン! 早く行こう!」

 

「行くってどこへ……」

 

「比企谷君の入学祝いを兼ねてお花見だよ!」

 

「……あぁ」

 

 それは去年、友音とできなかったことだ。それを断ることなんて、俺にはできないし、そもそも断る気もない。

 まったく、本当に年上は厄介すぎる。完全にペースを持っていかれて、いつの間にか掌の上で踊らされてしまう。それはひどく面倒くさくて、時にはイライラすることもあった。

 でも……。

 

「ハチマン早く!」

 

「分かったから、あんまりくっつかないで!」

 

 きっと今の俺は笑えているのだろう。それなら、多少振り回されることくらいどうという事はない。




八オリ短編(短編?)のラストです

実はこの短編はオリキャラのお姉さん家庭教師とかよくない? というネタからはじまりました
つまりこの話が原点だったり

その割には家庭教師シーンすくねえな?
まあ、メインがすげ変わったからね 仕方ないね
大人の家庭教師とかいろいろやりたいネタはあったけど、まあそれは後日別な形で書ければなーとか思っていたり

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