比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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大人になるってどういうこと?

 ペラリ、ペラリとページをめくる音が耳をくすぐる。八畳のワンルームに聞こえてくるのはそんな音だけで、静かすぎて眠くなってきそうだ。

 

「…………」

 

 手に持っている本から視線を外して、隣に座っている人物をちらりと覗き見てみる。同じベッドに並んで座っている少女は、長い黒髪を時折揺らしながら手に持った文庫本にじっと目線を落としている。集中しているせいか、その呼吸はずいぶんと浅い。

 日々成長している、そう実感せざるを得ないその顔は、改めて見るとまた少し大人びたように感じる……気がする。出会ったばかりの頃はあんなに小さくてガキガキしていたのに、不覚にもその横顔にドキッとしてしまう自分がいた。

 

「……? どうしたの、八幡?」

 

 あまりにずっと見とれ……見つめていたせいで、相手に気づかれてしまった。彼女、鶴見留美は不思議そうな目でこちらを覗き込みながら、首をコテンとかしげてくる。つい先日、一つ下の後輩にも同じようなしぐさをされたのだが、いかんせんこっちはまったく計算していないのだから困ったものだ。一色の場合は適当にあしらってもあいつ自身そこまで計算して絡んでくるから本気で怒ることはないが、こいつの場合は基本的に行動に裏がないので、対応を間違えると怒って数日は口を利いてくれなくなってしまう。

 

「別に、なんとなく留美を見てただけだ。お前かわいいからつい視線が吸い寄せられて困る」

 

 ここは事実を伝えるだけが正解だろうと、まだ新品と言って差し支えないベッドにさらに深く腰掛ける。コミュ障なりになんとか就職活動を乗り越えて社会人になったついでに一人暮らしを始めたので、ベッドも含めて大抵の家具はまだ真新しいものだった。

 再び読書に戻ろうと思いながら、なんとなくもう一度隣の留美に視線を向けて――クッと喉の奥が小さくなってしまう。

 

「……八幡、唐突にそういうこと言うの……禁止」

 

 どうやらさっきの受け答えは、間違いではなかったが正解でもなかったようだ。どちらかというと大ファンブル。普段はあまり変わらない表情をきゅっと恥ずかしさに染めた留美は、瞼を限界まで引き上げてじっと俺に熱い視線を向けていた。

 

「そういうこと、言われたら……」

 

 手に持っていた本を脇に置いて、少しずつ、少しずつ俺との距離を詰めてくる。

 元々人一人分もなかった距離はすぐになくなって、俺の腕に女の子らしい小さな手をぴとっと乗せてきた。筋肉の形を確かめるようにふにふにと指先が這い回る。

 大丈夫。そもそもそういう関係なのだから、この程度は極々普通のスキンシップの範疇のはず。少し恥ずかしいが、そう思ってなすがままに腕を放り出す。ゆっくりと二の腕へと這いあがってきた手はそこを通り過ぎて俺の肩に乗ってくる。

 

「はち……まん……」

 

 そして、頬にそっと触れてくる柔らかい感触。軽く吸い付いただけの唇は一度離れると、次は少し顔の中央に近い位置にまた吸い付いて、離れる。何度も何度も、ちゅっという淡い水音を立てながら降り注いでくるキスの雨に、頭の奥でキィィと耳鳴りのような音が聞こえた気がした。

 大丈夫。恋人同士なのだから、キスをするなんて化学反応のように自然の摂理と言えるだろう。結局高校卒業まで化学とかよく分からなかったが、たぶん恋人がキスをするのなんて化学反応みたいなもんだ。

 少しずつ頬から顔の中心に、正確にはそこに触れ合わせている部分と同じところに接近していた留美の動きは止まる気配はなく――

 

「ん……」

 

 当然のように俺の唇と重なった。上唇をついばむように何度もプルンとした唇で軽く挟まれては解放される。飽きはこないのか、一定のリズムで、絶え間なく。

 その行為がやむことはない。けれど、その行為で満足できるというわけでもなく、やがて何かを催促するようにチロリと這い出た舌が唇の継ぎ目をつつっと滑りだした。

 大丈夫、頬へのキスは親愛の証と言うし、唇へのキスが愛情を意味するのなら恋人同士のキスはこっちが自然。さらに深い愛情という意味でその唇の奥へ進むのもきっと自然なはず。耳鳴りのような音はより大きくなった気がするけど、大丈夫だと結論付けて口内にひっこめていた味覚器官を解き放った。

 

「ん、ちゅ……んぁ、……っ」

 

 人が最も使うであろう粘膜器官を擦れ合わせる行為は、何度やっても気持ちよくて仕方がない。あまりの気持ちよさに頭がぼんやりとしてきて、警戒信号のような不快な音はかき消されてしまう。

 大丈夫。きっとこれは、気持ちいいから……だいじょう、ぶ。

 

「八幡……はち、まん……っ」

 

 気が付くと、ベッドに押し倒されていた。離れた唇の間にきらきらとした水の糸が橋を作っていて、その先の濡れた唇の持ち主は、羞恥とは別のもので頬を上気させて、感情が溢れだす一歩手前のような瞳は石を投げ込まれた水面のようにふるりと震える。ついさっきまでは浅く穏やかな呼吸をしていたはずなのに、今では肩を震わせて荒い呼吸を漏らしていた。

 

「…………っ」

 

 彼女の感情が伝播したのか、その光景にあてられたのか、自分の意思とは関係なく生理現象のように喉がゴクリと音を鳴らし、欲望が出口を求めて一転に集まりだした。俺の変化に気づいたのか、留美は泣きそうな目を一度下に動かして、クスリと妖艶に笑う。

 

「八幡……しよ……っ?」

 

 それが何に対しての誘いなのか、そんなことは分かりきっている。俺たちは恋人同士なのだ。互いにそういう気分になったら、そういうことをするのも摂理だろう。許されることだろう。

 ……いや待て、何か許しちゃいけないことがあったような……?

 靄のように揺蕩っていた思考がふと流れに逆らったとき――

 ――――~~~~♪

 

「ぁ……」

 

 遠くから聞こえてきた夕刻を知らせるサイレンにおぼろげだった意識が弾けるように覚醒した。途端に押し寄せてくる罪悪感を押し込めながら馬乗りになっている留美にそっと手を伸ばす。

 

「だめ……なの?」

 

 優しく頭を撫でると絞り出すような声が聞こえてきて、一瞬言葉を失ってしまう。別の言葉を口にしたい衝動に駆られながらも、それでもなんとか……いつもと同じ言葉を吐き出した。

 

「大人になったら、な?」

 

 頭を撫でながら上体を起こす。俺より一回りは小さい身体を抱きしめると、ピクリとかすかに肩を震わせた留美は一瞬迷うように手のひらにぐにぐにと力をこめ……ゆっくりと抱きしめ返してくる。ポスッと胸元に顔をうずめて、精一杯に密着しようと背中に腕を回してくる姿に、胸の奥が淡く締め付けられた。

 

「明日も学校だろ? 家まで送るから、今日は帰りな」

 

「…………ん、分かった」

 

 返事までの間が長かったなと苦笑――することもできず、無言で帰る準備を始める彼女を見つめることしかできなかった。

 

 

 

「……ふう」

 

 愛車で留美を家まで送った帰り、ちょうど赤信号になった交差点で止まった車内でため息をつく。

 一人になるとどうしても物思いに耽ってしまうのはぼっちだったあの頃のせいだろうか。いや、今がぼっちではないとははっきり言えないんだけど。……自分で言ってて悲しくなってきた。

 高校大学と学業に勤しんで、無事に社会人一年目になった俺は、留美と付き合っている。まあ、付き合いだしたのは数年前だし、世間から見たら微妙に社会人なのか怪しいところなのだが。

 恋人同士なのだからデートくらいは普通にするし、キスだってする。けれど、性交渉は一切していない。

 俺自身安易な欲求で肉体関係を結ぶ気は毛頭ないのだが、俺の行動に一番のセーブをかけているのはあの言葉だ。

 

『二人に別れろとはいいません。けど、留美が大人になるまでは、エッチなことはしないように。お願いしますね、八幡さん』

 

 付き合い始めてしばらく経った頃。当時中学生と大学生という傍から見たら完全に事案な間柄だったということもあり、留美の両親に会いに行ったことがある。その時彼女の母親から言われた言葉が、それだ。

 その時は当然のことだと首を縦に振ったのだが、時が過ぎて冷静に考えるようになると、思考が困惑してしまう。

 大人、という明確で、曖昧な単語について。

 大人。それが成人という意味ならば、二十歳を指すのだろう。成人式とも言うし、酒もタバコもその年齢ならば許される。しかし、彼女の母親が言ったのはそういう意味での大人だろうか? 無駄に歳を重ねただけで、中身がガキな人間もいる。

 今年二十三になった俺だって、自分が大人だと胸を張って言えるわけではない。仕事では失敗もするし、思考も未だにガキっぽい。

 「許されるもの」が増える年齢はいくつか存在する。十六歳、十八歳、二十歳、二十五歳、エトセトラエトセトラ……。

 考えれば考えるほど分からなくなって、考えれば考えるほど手を伸ばすのが怖くなって、彼女のふとしたエロティカルな表情に、俺を求めている誘惑に浅ましい欲望が顔を覗かせても、すんでのところで立ち止まってしまう。

 間違えることは怖いし、そのせいであいつを悲しませたくない。

 けれど、そうして俺を誘惑してくる彼女に最後の一歩を踏み出さないことが、逆に傷つけているんじゃないと考えると、何が正解なのかも分からなくなってしまう。

 分からないから、俺も「大人」なんて曖昧な定義に逃げてしまう。

 

「……はっきりしねえな、俺って奴は」

 

 本当に、歳を重ねてもこの面倒くさい性格は治ってくれない。喉の奥を自嘲に震わせながら、青に変わった信号にアクセルを踏み込んだ。

 なんとなくつけているだけのラジオからはアナウンサーが抑揚の薄い事務的な声でニュースを読み上げるのだけが聞こえてきた。

 

 

     ***

 

 

「……はあ」

 

 八幡に車で送ってもらって、そのままベッドに倒れ込んだ。制服にシワが寄っちゃうのも気にしない。というか、さっきも八幡の部屋のベッドで色々やって、ちょっとシワになってるし。時すでに遅しってやつ。

 

「今日も、できなかった……」

 

 八幡がお母さんに言われたことは覚えてる。いつも呪文みたいに口にする「大人」って単語を聞くと、私を大切にしてくれてるんだってちょっとだけうれしくなる。

 でも……。

 

「大人って、なんなんだろ……」

 

 お酒を飲むことが許されたら大人? 確かにそうかもしれない。そうかもしれないけど二十歳、大学二年生って考えると中途半端に感じてしまう。

 例えば女の子は十六歳で結婚できる。結婚するってことは夫婦になるってことで、じゃあ十六歳で結婚した女の子は大人に違いない。成人式は迎えてないけど、大人。

 けど、ポルノなんとかとかいう法律? だと十八歳未満の女の子の水着写真とかを持ってたらいけないらしい。未成熟だからとかそんな理由みたいだけど、そうなると十八歳が大人なのだろうか。けど、本屋さんとかでエッチな本が置かれてるところには、十八歳でも高校生はダメ、みたいに書いてあるよね。ということは高校を卒業したら大人?

 

「……わかんない」

 

 今年受験生だっていうのに、考えても答えは出てこない。八幡は私よりずっと頭がいいから、「大人」の日を決めているのかもしれない。私以上に一人で考える人だから、ひょっとしたらずっと悩んでいるのかもしれない。真剣に私のことを考えてくれているなら、それはすごくうれしい。

 けど、自分のことを理性の化物なんて言っておどけて見せても、八幡だって男の人なんだ。最近、私をよく“そういう目”で見ていることにも気づいてる。たぶん本人は気づいてないと思うけど、ずっと我慢していることを私は知ってる。

 私を大切にするために自分をないがしろにしてほしくないし、八幡のためならなんだってできる自信がある。八幡には、私の全部をもらってほしい。

 

「むー……」

 

 そう思うんだけど、そんな気持ちをどうしても“大人”が邪魔しちゃう。この単語をどう論破すればいいのか分からない。

 

「どうしたらいいの……八幡」

 

 別れ際に撫でられた頭にそっと手を乗せてみる。まだ八幡の大きな手のぬくもりが残っているように感じるけど、答えは出そうになかった。

 

 

 

「ぷふっ……それって……ふふふ……あなたたちってほんと、ブフッ……もうダメ、ギブ……」

 

「…………」

 

 いくら考えても分からなくて、勇気を振り絞って事の原因であるお母さんに相談したら――テーブルに顔をうずめて大笑いしだした。ひどくない?

 

「いや、ごめんね……ごめ、ぶふっ……ほんとごめ……ふふ……」

 

 バンバンとテーブルを叩いているお母さんをじとっと睨みつけると、目尻に涙を溜めながら謝ってきた。謝りながら笑ってたらまったく謝られた気がしないんだけど。

 目尻の涙を拭いながら「だってしょうがないでしょ?」って笑いかけてくるお母さん。なにがしょうがないの? 「あー留美だからね」みたいに言われても納得しないんだけど。

 

「もう二人ともそういうことしてると思ってたんだもん」

 

「……え?」

 

 そういうこと、そういうことって……。

 女子高生にもなると、ガールズトークで一足先に初体験を済ませた子の話を聞いたりもする。他にも、ちょっと過激な少女漫画を読んだりしてるから、“そういうこと”がどんなことか理解はできてる。想像の中とか夢の中ではもう八幡に……いや、今はそんなこと関係なかった。

 

「お、留美ってば顔真っ赤だぞ?」

 

「っ……知らないっ」

 

 そもそもお母さんが中途半端な約束事をしたからこんなことになってるんだ。つまり、今顔が赤いのもお母さんが悪い。……さすがにこれは無理やりすぎる気もするけど……まあいいや。

 とりあえずお母さんが悪いと決めつけて顔を上げると、当の悪人殿は「そっかー」とか呟きながら楽しそうに何度も頷いていた。

 

「なに?」

 

「んー? 八幡さんが留美を大切にしてるんだなぁって思ってね」

 

「っ――!」

 

 なんだろう。さっきからお母さんは私を恥ずかしがらせて楽しんでるんじゃないだろうか。顔が熱すぎて、自分の熱で火傷しそう。

 けれど、頬杖を突きながら楽しそうに笑うお母さんはからかっている様子は全然なくて――

 

「二人が真剣に考えてそういうことをするなら、お母さんは普通に許すつもりだったのよ?」

 

 そんなことを言ってきた。私たちの人生なんだから、お互いが納得して行動するなら止める権利も怒る権利もないって。むしろ喜ばしいことだって。

 けど、挨拶に行ったときは私は中学生で、八幡も未成年だったから、「若気の至り」で失敗しないようにって釘を刺したんだ。一瞬の感情に任せて失敗したら、後悔するのは私たち二人だから。

 

「お母さんとしては『よく考えて行動してね』って程度のつもりで言ったんだけど……」

 

「八幡は……そういうこと難しく考えちゃうから……」

 

 相変わらず捻くれてのらりくらりしてるのに、こういうことばっかり真っ正直に考えるんだから、本当に面倒な人だ。まあ、そんなところも好きなんだけど。

 

「ふふ……」

 

「……なに?」

 

「八幡さんのこと考えてる時の留美は楽しそうだなって思って」

 

「…………」

 

 決めた。今後お母さんの前で八幡のこと考えないようにする。……ごめん、たぶんそれ無理。

 それにしても、お母さんから答えは聞けたけど、じゃあどうしようかと考えると……答えが出ない。

 たぶん八幡にお母さんが言ったことをそのまま伝えても、いきなりそれじゃあ……みたいな感じで関係が発展するとは思えない。むしろ今度はちゃんと考えているかって延々と悩みだしそうだし。というか絶対悩む。しかも一人で悩むな、八幡だし。

 

「留美はちゃんと考えられてる? 二人のこととか、将来のこととか」

 

「うん」

 

 即答できる。八幡が私たちの今後をちゃんと考えてくれていることにだって自信を持てる。伊達にほぼ毎日八幡のところに押しかけてないしね。高校を卒業したら私は大学に行って、もちろんお母さんたちの許可はもらうけど八幡と一緒に住んで、卒業したらちゃんと就職。二人で働いてお金を貯めて結婚して、子供は……最低でも二人だ。一人っ子は寂しいってのは経験則で知っているし、八幡と小町さんを見ていると兄弟って大事だなって思うから。

 

「やだ……うちの子の将来設計が予想以上に遠くまで見据えてて怖い!」

 

「そう?」

 

 そんなにかな? むしろ将来のことを考えない恋愛って私には想像できない。そんな中途半端な気持ちでお付き合いはしたくないって言うのが本音だ。他の子から見たら“重い”って思うのかな? まあ、八幡も同じような考えみたいだから気にならないけど。

 ちゃんと考えてくれている八幡だから、私を壊れ物みたいに大事にしてくれている八幡だから、こういうことくらいは感情的になってもいいのにって思う。

 けど八幡の感情は、欲望はすんでのところで「大人」って言葉に止められちゃってる。それを綺麗に取り払ってあげないと、きっとあの人はずっと自分の想いを縛り付けたままになっちゃう。

 なんとか、できないかな……。

 

『……いろいろ調べてちゃんと考えて……』

 

 なんとなく耳に入ってきた声にすっと視線を向ける。つけっぱなしだったテレビは夜のニュースを流していて、私と同い年らしい男の子がインタビューを受けていた。

 

『入れる瞬間は大人になったなって思いました』

 

「あ……」

 

 そうか。私がもう“大人”だっていうことを、八幡に示してあげればいいんだ。八幡の逃げ道をなくしてあげればいいんだ。

 自分に今年から与えられた権利をこんな不純なことに使うのはちょっと気が引けるけど――

 

「私にとっては、大事なことだもん」

 

「お、何か思いついたの?」

 

 にこっと微笑んできたお母さんに小さく頷くと、リビングを後にして自分の部屋に戻る。そうと決まれば善は急げだ。明日早速実行に移さなくては。

 

 

     ***

 

 

「……よし」

 

 学校が終わって少し寄り道をして、昨日は八幡に送られた時間に彼のアパートに到着した。私はよく分からないけど、たぶん八幡ってホワイト企業? に就職したんだと思う。土日はきっちり休んでるし、お父さんみたいに夜遅く帰ってくるってわけでもない。むしろ帰ってくるのは早いほうだ。デートの時に「仕事で使う」って言ってちょっと写真とかメモを取る以外はほとんどお仕事の話とかしないからよく分からないけど。よく分からないって二回言っちゃった。

 今日ももう家にいるみたいで、ドアの横についている小窓からは室内灯の光が漏れ出していた。いつもより緊張して震える指でなんとかチャイムのボタンを押すと、無機質なピンポーンという音から少し遅れて、ドアノブがガチャッと回った。

 出てくるのは当然、私が一番好きな人で。

 

「よう、今日は遅かったな」

 

 いつも通りどこか気だるげな目をした八幡に促されて部屋の中に入る。かすかに自分とは違う、たぶん八幡の匂いっ

て表現するのが適切な香りが鼻をかすめてきて、ちょっと緊張がほぐれた気がした。

 

「ん、ちょっとこれに行ってきたの」

 

「ん? ……ああ、選挙か」

 

 十八歳に引き下げられた選挙。投票日はもうちょっと先だけど、期日前投票をしてきたんだ。受験生で忙しい時期だけど、事前に新聞とかニュースとか色々見て、誰に投票するかは決めていた。

 学校の先生とかに口を酸っぱくして言われたからってのも否定はできないけど、たぶん一番の理由は八幡だ。「誰に投票しても変わらねえ」なんて言いながら真剣にそれぞれの公約とか実績とかを調べているあべこべな姿を見ていたから、それのマネっこをしただけ。

 

「どうだった? 初めての選挙は」

 

「ちょっと……緊張した」

 

 初めて入った投票場は普通の施設のはずなのにちょっぴり怖くて、また今度にしようかな? なんて考えてしまった。候補者の名前を間違えて書いてないかなって五回くらい確認して、近くで用紙に書き込みをしていたおばあちゃんに笑われてしまったのは今後の黒歴史になってしまうに違いない。

 

「けど、ちゃんと投票したよ?」

 

 投票箱に自分の書いた用紙を入れる。ただそれだけの行為は、だけど確かに少しだけ“大人”になった気がした。

 

「自分で考えて、自分で責任を持って選んで……」

 

 自分でも雰囲気が変わったことが理解できた。そしてそんな私を見ている八幡が身を強張らせるのも。

 覗かせた欲望を抑えようとする、“大人”っていう鎖も。

 その鎖は、もういらない。そんなもの、消してあげる。

 

「私もう――大人、だよ……?」

 

「っ……」

 

 新しく責任を持つ。大人になるっていうのは、きっとそうやって責任が増えていくことなんだ。

 私が紡いだ“大人”に八幡の目から迷いがゆっくりと消えていく。結局のところ、この面倒な人もきっかけを探していただけで、理性の化物なんて言っても男の人には変わりないんだなと思うと、ちょっと笑ってしまいそうになる。

 

「……――――」

 

 じっと八幡の目を見続けていると、迷いのなくなった目が一瞬揺れて――

 

「ん――――ッ」

 

 気が付いた時には唇を奪われていた。閉じた玄関に背中を押し当てられて両腕と身体で逃げられないように包み込まれる。他の人にやられたら恐怖しか感じないであろう拘束は、不思議とどこか心地よさすら感じた。

 

「わりい……加減、できそうにない」

 

 謝っているのに、その目は獲物を狩る肉食獣のようにギラギラしていて、全力疾走をした後のように荒い呼吸を繰り返す唇から溢れてくる吐息は火傷しそうなくらい熱くて。

 

「っ……う、ん……」

 

 どうやら私は、とんでもないものの鎖を解き放ってしまったのかもしれない。

 まあ、こっちとしては大歓迎なんだけど。

 

 

     ***

 

 

「なあ……」

 

 二人で横になったベッドの上。まだ少し息が上がっている私を優しく撫でながら、八幡が声をかけてきた。枕に沈めていた顔を上げると、少し緊張したような、迷うような表情が目に映る。

 

「なに?」

 

「いや、その……なんだ……。まだ留美の受験も終わってないのに気が早いって思うかもしれねえけどさ」

 

 自分の緊張を紛らわすように私の頭に手を這わせながら、八幡はつっと天井を見上げた。一度瞼を閉じるとゆっくり息を吐き出して、今度は迷いのない目を私に向けてくる。

 

「大学生になったら……一緒に住まねえか?」

 

 そのお誘いに私は――

 

「ふふっ」

 

 思わず笑ってしまった。

 ほらね? やっぱり私が八幡のことを一番理解できてるって自信をもって言える。

 だって、私と八幡は同じ未来を見ていたんだから。

 

「な、なんだよ……?」

 

「なんでもない……ふふっ」

 

 もう一度だけ笑って――

 

「もちろん。よろしくお願いします」

 

 撫でてくれていた腕に抱きついた。少し汗ばんだ腕がぴとっと肌にくっついてきて、また笑みがこぼれそうになってしまったのは私だけの秘密。

 

「おう。よろしくな」

 

 ひょっとしたら、ばれちゃってるかもしれないけどね。




お久しぶりです。生きてました。

なんとなくルミルミが書きたくなったのと、ついったで「まるで童貞捨てた人みたい」と話題になった選挙でのインタビューのやつを元に書いてみました。八幡もルミルミも、どっちもこういうこと行き過ぎなくらい深く考えちゃいそうだなーと。しかも八幡の方が絶対一人でずっと悩んで、面倒なことになっちゃう。
しかしそこがいい。

■おしらせ■
夏コミに受かってました。一日目東カ-33bの「やせん」というサークルで、さくたろうさん、あきさん、ねこのうちさん、山峰峻さん、高橋徹さん、私の六人で俺ガイルSS合同誌を配布します。
R-18と一般1冊ずつあって、私は高橋さんとR-18の方、「一色いろはがエロかわすぎる!」というタイトルの本になります。看護師になった一色と警察官になった八幡のちょっとエッチなお話です。
もうちょっとしたらサンプルをpixivの方に投稿する予定です。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。

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