比企谷八幡がイチャイチャするのはまちがっている。   作:暁英琉

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比企谷八幡だって恋人と離れると寂しいと思う。

 ピピッ、ピピッという無機質な音が眠りの海に沈んでいた俺の意識をゆっくりと浮上させる。まだ少し重い瞼を上げると見知った天井が目に入った。正確には、ここ一年ほどほぼ毎日見てきた天井。シンプルなクリーム色に不思議な意匠が主張しすぎない程度に施されている。この部屋の家主――まあ、俺もこの部屋の住人なんだが――が言うには、わざわざ海外で有名なデザイナーにデザインしてもらったらしい。

 ベッドのスプリングで小さく反動をつけて起き上がると、綺麗に片付いた部屋の全容が目に入る。木の木目をうまく主張させた、シンプルだが上品な箪笥の上には去年の夏季休暇を利用して二人で行った沖縄での写真が黒縁の写真立てに収まっていた。

 それを見て、どうしても顔を歪ませてしまうのもある意味日課だ。どこまでも透き通った海をバックにツーショットで撮ったその写真の中の俺は、相手に抱きつかれて顔を真っ赤に染めた上なんとも珍妙な表情をしている。

 どうも写真ってやつは苦手だ。撮る分には気にしないが撮られる側となると仏頂面しかできない。かと言って、無理に笑おうとすると自分でドン引きしてしまうほど気持ち悪くなってしまうのだ。大学に提出するための証明写真は合計三回も撮り直した上で、買い物ついでについてきた小町に「いっそ無表情の方がまだましだよ」なんて言われた。写真を発行した後にしずしずと涙を流したのは比企谷兄妹だけの秘密だ。

 まあ、俺のそんなところを分かっている彼女は気分を紛らわせようと抱きついてきたのだろうが、その結果がこの表情なのだからなんとも言えない。写真立てに収めた本人が気に入っているらしいので、今では諦めているのだが。

 

「くぅ……くぅ……」

 

 そんな彼女、雪ノ下陽乃は俺の隣、同じベッドで静かに寝息を立てている。こうして悪戯心満載の瞳を閉じて規則正しく豊かな胸を上下させている姿は普段の魔王なんて呼んでいる姿とは全く違っていて、ほぼ毎日見ているというのに未だに胸の鼓動が早くなってしまう。おかげで重かった瞼も完全に見開かれるのだから、俺も男なんだなと変な自覚を持ってしまう。

 

「ん……八幡くんの、えっち……」

 

「…………」

 

 この人は一体なんの夢を見ているのだろうか。ひょっとしたら狸寝入りをしているのかもしれない。ありそう。すごくありそう。いや、それならそれで俺を誘ってるんですかね? 欲求不満なの? いくら理性的な俺だって一応男なんですからね?

 さすがにこんな朝早くから盛るつもりはないけれど。

 

「っと、急いで準備しないとな」

 

 もう少し天使のような悪魔の笑顔――こんなこと言ったらめっちゃ怒られる――を眺めていたい衝動に駆られるのをぐっとこらえて時計を見ると、目が覚めてから三十分ほど経っていた。一般的な大学生からすればまだ寝ているかこれから寝る時間だろうが、生憎俺はちょっと事情が違うせいもあって最近では早寝早起きの規則正しい生活を送っていた。いやちょっと待て。俺はひょっとして三十分も陽乃さんの寝顔を眺めていたのか? 体感十秒くらいだったんだけど、この部屋って実は精神と時の部屋なのではないだろうか。

 リビングを出て洗面所で顔を洗う。冷たい冷水で本格的に眠気を吹き飛ばし、そのまま台所に向かうと、予約機能をセットしておいた炊飯器が白米を炊き上げ終えていた。今日の朝食は塩鯖にするか。味噌汁は昨日からの続投ということで。

 陽乃さんに憧れて無理して国立の同じ大学に進学して二年弱、同じ屋根の下で寝食を共にするようになって一年、さらに言えば家事の大半を俺がこなすようになって半年弱。高校までは小学六年生程度の料理能力しか持っていなかった俺も今では立派な自炊系男子に成長していた。この間なんて陽乃さんから満点の評価をもらったんだぞ。ふふん。

 ついでに陽乃さん用のお弁当の準備にも取り掛かる。昨日の晩に下ごしらえをしておいた食材を朝食準備の間に流れるように調理する姿にはかのフォードシステムもびっくりだろう。作業してるの俺一人だけど。なんだよフォード関係ないじゃん。

 

「フンフフーン~~」

 

 自然と鼻歌なんかを口ずさみながらお弁当のメインに用意したから揚げを包丁で半分にして、俺からすればおやつでも入れるのかというサイズの弁当箱にご飯とおかずを詰めていく。デザインはなるべくシンプルに。前調子に乗ってキャラ弁にしてみたら、会社で物凄く恥ずかしかったと怒られてしまったからな。

 弁当の準備を終えて時計を見ると、まだちょっと朝食までは時間があった。リビングで本でも読んでおこうかと思っていると、寝室の方からゴジラのサウンドが聞こえてきた。目覚ましではなく、陽乃さんが特定の人物に設定している着信音だ。……普通に考えて、友好な相手に設定する着信音じゃないよな。

 

「……おはようございます、部長。はい、はい……今からですか? 分かりました。すぐに出社します!」

 

 寝起きとは思えないはっきりとした電話対応が聞こえてきた後、バタバタとクローゼットやら何やらを広げる音が聞こえてきて、一分後にはスーツをピシッと着込んだ陽乃さんが出てきた。何度見てもすごいな、雪ノ下流早着替え術。化粧まで完璧に施していて、もはや変化の術と言われたほうが納得いくくらいだ。全国の化粧に数時間かける女性たちにやり方を伝授したらいい金になりそう。無理か、この人くらいしかできないか。

 

「ごめん八幡くん、取引先でトラブルが起こっちゃったらしくて……」

 

 両手を合わせて謝りつつもてきぱき準備を進める陽乃さんに気にしないでくださいと返すと、もう一度ごめんと付け加えた彼女は予備で買っていた菓子パンを手に取る。どうやら行きの車で朝食を済ませるようだ。

 

「あ、陽乃さん。お弁当の用意できてますけど……」

 

「持ってくー。いつもすまないねぇ」

 

「それは言わない約束でしょ?」

 

 そんな約束してないけどね、とカラカラ笑って再び寝室に入った彼女を確認して、オレンジ色の巾着袋に弁当を詰め込んだ。それをテーブルに置いて待っていると、仕事用の鞄を手に提げて完全体社会人になった陽乃さんがでてきた。首から下は完璧なのに、首から上は億劫そうな表情を隠すことなく出しているのがちょっと可笑しい。たぶん玄関を出た瞬間にこの表情をひっこめるんだろうけど。

 

「これお弁当です」

 

「うん。それじゃあいってくるね」

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 お弁当を鞄にしまうと、タッタッタッと走る直前の早歩きで陽乃さんは部屋を出て行った。彼女が出ていくと、途端に2LDKの室内は無音かと思うほど静かになる。自然と伸びた腕は後頭部の髪をガシガシと掻き始め、肩は少しなで肩に落ちてしまう。

 

「……飯食うか」

 

 陽乃さんが好きな和風の朝食を自分の分だけ準備する。二人分作ってしまった残りのおかずは、昼にでも食べてしまおう。

 

「いただきます」

 

 静かに手を合わせて鯖を箸で切り分け、口に運ぶ。絶妙な塩加減の鯖はいい感じにしつこくない脂が乗っていて、自然と口の中に唾液が溢れ出してくる。

 

「…………」

 

 ただ、その出来を自画自賛する気にはなれなかった。ただ黙々と食べ進めて、作業のように朝食をカラにすると、流しで調理器具と一緒に食器を洗って乾燥機に投げ込む。

 

「……洗濯するか」

 

 俺が大学に入学して一年半弱。俺が順当に大学二年生になったのと同様に、陽乃さんは順当に大学を卒業して雪ノ下建設の社会人一年生になっていた。自分の娘ということで会長であるママのん――さすがに目の前では決して呼べないけど、なんかすごいこう呼びたくなる。愛嬌あるよね、ママのん――も期待しているのだろう。現在メインで手掛けている事業に配属されたそうで毎日忙しそうだ。今日のように朝食も食べずに出かけることも少なくない。

 それに比べて、俺は普通に四年延長されたモラトリアムを謳歌する大学生だ。特に夏季休暇の今ともなればほとんど部屋から出ずに生活することも少なくない。理系ならともかく、文系ともなれば夏休みに大学に行く用事なんてほぼ皆無。大抵の学生は友達と遊び倒すなりネットサーフィンで一日潰すなり、高校生以下のそれ以上に怠惰な夏休みを送っていることだろう。まあ、俺も多少はそういう生活を送っている自覚はあるが。

 洗濯機のスイッチを押して終了時間までを確認してから、互いの本やらなにやらで半分物置になっているもう一つの個室に入り、すぐ手前の机に置いていたやたらでかくて薄っぺらい冊子とルーズリーフ、それに筆記用具を手に取ってリビングに戻った。

 

 

     ***

 

 

 陽乃さんを目指して国立まで追いかけて振り向いてもらい恋仲にはなれたものの、いかんせん俺には本人以上に大きな壁が存在していた。ウォールマリアくらいの高さがありそうなその壁は、名を親と言う。

 雪ノ下家からすれば陽乃さんは一番の跡継ぎであり、対して俺は家柄も普通なら能力も普通の凡人凡人アンド凡人。千葉で圧倒的な権力を持っている彼らからしたら、俺なんかが陽乃さんと交際していることすら認められないはずだ。

 ならば、せめて少しでも自分の能力を上げなければ。そう思って始めたのが資格の勉強だった。仕事に直結しそうなパソコン系と経済系の資格を中心に勉強していて、今やっているのは日商簿記二級だ。最初は数字を扱うというだけで頭が痛かったが、おつむが壊滅的だった由比ヶ浜がお金の計算は得意だったことを思い出し、意識を変えて見てみると案外何とかなって、去年のうちに三級までは取ることができた。初めて勉強のことで由比ヶ浜が役に立った瞬間だったな。ああ、目を閉じるだけで「それ全然褒めてないよね!?」なんて少ない語彙力で怒ってくる由比ヶ浜が目に浮かぶ。最終的に「バカ」と「キモい」だけになるところまで脳内の由比ヶ浜は完璧に再現してみせた。まあ、俺の脳内だしね。俺の考えている通りに動くのは当たり前だよね。

 

「あ、そろそろ夕飯の準備始めるか」

 

 朝から昼食とトイレ以外ぶっ続けで勉強していたが、集中すると時間が過ぎるのもあっという間だ。準備の前にベランダに干していた洗濯物を取り込もうとして、まだ乾ききっていないことに気づいた。今日は結構いい天気だと思っていたんだが……。仕方がないので浴室乾燥の力を借りることにしよう。雨の日も洗濯ができる部屋干し乾燥。人類の発明ってすごい。

 夕飯は生姜焼きにするかと冷蔵庫から豚バラ肉を取り出す。比企谷家では基本的に豚バラなのだが雪ノ下家はロースのようで、初めて出した時は大変驚かれた。豚バラだと生姜焼き丼とかにしやすいから個人的には好きなのだが、それを言うと「男飯だー」となにやら笑われてしまい、不機嫌になったところをまた笑われたのは去年の秋頃だったか。結局おいしそうに食べるものだから怒るに怒れなくて、妙にモヤモヤしてしまったのも今は昔だ。竹取の翁は出てこない。

 竹と言えば、前に居酒屋で食べたタケノコのから揚げがやけに美味かった。タケノコにから揚げ粉を付けて上げただけだというのにあの美味さは衝撃。……なんか話が逸れだした。修正しないと。

 

「ん?」

 

 豚バラの下ごしらえを終えて、先に付け合わせでも作っておくかと思っていると、ポケットに入れていたスマホがブーと一回だけ鳴った。何かゲームアプリの告知でも来たのかと思って開いてみたら、通知に表示されていたのは陽乃さんからのメール。

 

「…………」

 

 「ごめん」から始まる文面には、トラブル対応が長引いていていつ帰ることができるか分からない旨の内容が書かれていた。それを確認してから特に考えもせずに「分かりました。晩御飯はどうしますか?」と打ち込んで送信する。まあ、十中八九外で済ませると返信が来るだろうが。

 付け合わせ用に取り出していた材料を冷蔵庫にしまって、残っていた味噌汁を温める。十分に温まった味噌汁を茶碗一杯分だけよそうと、少し考えて残りは流しに捨ててしまうことにした。まだ夏らしい暑さの残るこの時期は料理が傷むスピードも早い。自分の料理で恋人の体調を崩させるわけにはいかないし、たぶん明日までは持たないだろう。

 後は同じく白米を茶碗一杯だけよそって、いやに味気ない味噌汁をお供に飯を口の中にかき込んだ。ほぼ汁気で飲むように数分で食事を終えて、さっさと食器を洗うと再び広げていたテキストで勉強を再開する。

 好きな人間が、恋人になってくれた人間が特別な存在だということは分かっていた。誰よりも期待されて、誰よりも結果を残して、誰よりも輝いている。そんな彼女に憧れて、そんな彼女を支えることができればと追いかけてきたのだから。

 去年は楽しかった。大学一年なんて簡単な全学部共通の授業ばっかりだし、陽乃さんも早々に雪ノ下建設に内定を決めた大学四年生だったから、暇を見つけて遊びに行ったり、彼女の料理に舌鼓を打ったり、時には一日中のんびりと読書やゲームをして過ごしたり。

 今だって充実している。朝はあの人のちょっと子供っぽい寝顔を見て癒されて、陰の労働なんて呼ばれる家事を一手に担って、資格の勉強をして。俺自身日々自分のスキルアップを実感しているし、社会人一年目のスーパールーキーとして頑張っている陽乃さんを支えることができていると……思う。

 ただ――

 

「……はあ」

 

 思わず溢れてしまったため息に、内臓がズンと重くなったような錯覚を覚える。

 今朝といいさっきといい、陽乃さんが仕事を優先しているのを見ると胸の真ん中にモヤモヤとした気持ちの悪い何かが溜まっていくのだ。家事や勉強で紛らわすことはできるが、ふと気を抜くとまたモヤモヤが外に飛び出んばかりに溢れてくる。

 彼女と恋人と呼ばれる関係になった時、こうなることは分かっていたはずなのに――

 

「覚悟が、足りなかったのか……」

 

 それとも、自分が思っていた以上に弱かったのか。理性の化け物というものは、案外そこまで強いものではないようだ。

 

「陽乃さんと……一緒にいたいな」

 

 なんとなしに漏れ出したそれは……たぶん俺が今一番欲しいものだった。

 

 

     ***

 

 

「つまり、あなたは姉さんに仕事よりも自分を優先してほしいのね」

 

「いや、そうは言ってねえだろ……」

 

 次の日、地場企業の社長が出席する講演会で一緒になった雪ノ下のよく分からない言葉に、ため息をつきながら小声でツッコミを入れた。ちなみに陽乃さんは今日もトラブル処理ということで朝食も食べずに出社していった。

 ことの発端は会って早々に雪ノ下から言われた「目の腐り方が高校の頃に戻っている」という一言だった。自分ではよく分からないのだが、違う学部で時々会う程度の雪ノ下から見ると、大学に入って俺の目の腐り具合は良好な経過を迎えていたらしい。いや、俺の目は別に病気じゃないから、診察みたいな言い方されても困るのだが。

 それが講習会で久しぶりに会ってみればまたどんよりと腐っていたようで、割とガチな目で心配されてしまったのだ。高校時代に比べるとだいぶ丸くなったこいつに心配をされると、それはそれで凹んでしまうから悲しい。高校の頃はドヤ顔で罵倒してきてこちらをイラッとさせていたので、どうあがいても絶望という言葉の意味を理解することになってしまった。

 なんだかんだ二年もあの空間で一緒にいたこいつに隠し事はあまりできない。観念して昨日のことを話したら、その感想がさっきのよく分からん物だったので俺のため息も仕方がないだろう。

 

「けど、あなたは姉さんともっと一緒にいたいんでしょう?」

 

「まあ、そうだけど。……改めて言われると恥ずかしいんだが」

 

 なにこれ、新手の羞恥プレイか何かですか? どうして俺は彼女の妹――もっと言うなら同級生で部活メイト――にこんな恥ずかしい思いをさせられているのだろうか。おかげで全然講習を行っているどこぞのお偉いさんの言葉が頭に入ってこない。ハッ、まさか俺のレポートの質を落とすことが目的か! おのれ雪ノ下……あ、冗談なんで冷気出すの抑えてください。

 

「茶化すのはやめなさい。で、その姉さんは仕事が原因でほとんどあなたと一緒にいられない」

 

「社会人だからな」

 

「つまり、あなたの願いを仕事が邪魔しているということじゃない」

 

 ……そういうこと、なのだろうか。しかし、社会人が仕事を優先するのは仕方のないことだ。ましてや陽乃さんに大事な仕事よりも自分を優先してくれなんて言えるはずがない。

 だからこれは、俺が我慢するべきことなのだ。

 そう呟いた俺に雪ノ下は額に手を添えてため息をついた。

 

「……なんだよ」

 

「あなたのその、大事なことに限って話さない癖はなかなか治りそうにないわね」

 

「…………」

 

 たぶん、俺が今突発的に思い浮かべた思い出と雪ノ下が思い返しているのは同じものだ。俺が相談せずに突っ走った修学旅行での偽告白。そしてクリスマスイベントの時に、他ならぬ俺自身が口にした“本物”という言葉。

 

「……ま、人間そうそう変われるもんでもないな」

 

 あの時の失敗は、対等な対話ができていなかったことがそもそもの問題の一つだった。周囲に流されていた由比ヶ浜結衣、周囲を切り離して変えようとしていた雪ノ下雪乃、そして周囲から逃げていた俺。皆未熟だったから、皆で少しずつ前に進もうとして、けれどやっぱり俺は度々こうして“悪癖”を繰り返す。

 

「それに、俺なんかが陽乃さんに我儘言うわけにはいかねえよ」

 

 それをこうして近くで指摘して、相談に乗ってくれる彼女の存在は、なんだかんだありがたいものだ。まあ、口にすることは絶対にないんだけど。

 

「はあ……二人揃って面倒くさい」

 

「二人?」

 

 頭にクエスチョンマークを浮かべる俺に、雪ノ下は「何でもないわ」と小さく首を振る。余計にクエスチョンマークを増やしていると、意識の端でやる気のなさそうな声が講演会の終了を伝えてきた。結局ほとんど内容を聞いていなかった。まあ、別に単位に関係するものでもないから、レポート提出はしなくてもいいか。

 

「比企谷くん」

 

「あん?」

 

 全く使用しなかった筆記用具やルーズリーフを鞄にしまっていると、ぞろぞろと退出する人ごみのざわめきの中で雪ノ下の澄んだ声が聞こえてきて、再度隣に首を捻る。

 

「あなたは自分が我儘を言うことが、姉さんの迷惑になると思っているのよね?」

 

「当たり前だろ。それに、大型ルーキーな娘を振り回す男なんて、お前らの両親がいい顔しねえだろうが」

 

 ただでさえ何度か会った時も、愛想が悪いせいで悪印象持たれていそうなのに、その上束縛するなんて交際を辞めさせられるまである。

 しかし、そんな俺に雪ノ下は口元に手を当てて上品にクスクス笑い出した。普段人を罵倒するときと由比ヶ浜に会った時くらいしかまともに笑わないお嬢様の突然の笑みに思わず固まっていると、彼女はバッグのポケットからスマホを取り出した。

 

「あなた、やっぱり自己分析能力が低いのね。むしろ分かっていて謙遜するのかしら」

 

「何の話だよ」

 

 話について行けずただでさえ丸まっている背を丸めた俺をよそに、雪ノ下はスマホを操作して耳元にあてる。どうやら電話をするようだ。

 

「うちにとって、比企谷くんは凡人でもなければ悪印象を持ってもいないということよ」

 

 そう楽しそうに笑って、通話が繋がった相手に自然な調子で“要求”を始めた。

 

「もしもし母さん? 姉さんとあなたたちのお気に入りを潰したくなかったら、姉さんに休みを用意してちょうだい」

 

 

     ***

 

 

 で、時は午後六時半。いつもならまだ一人で部屋にいる時間帯。

 

「……ただいま」

 

「……おかえりなさい」

 

 玄関先で久しぶりに定時で帰宅してきた陽乃さんと出迎えた俺はどうすればいいのか分からない表情をして見つめあっていた。どうしても昼間のことが思い出されて、顔に熱が集まってしまう。なぜか陽乃さんの頬もほんのりと染まっていた。

 講演会終わりに雪ノ下が陽乃さんの会社の会長にかけた一本の電話。はっきり言って無茶だろうと思われた要求はあっさり通り、陽乃さんは今日の定時退社と三日間の休日を獲得することになった。

 というよりも、後から聞いた話では、そもそも今までの残業が異常だったらしい。

 

「……なんでそんなに仕事引き受けてたんですか」

 

「だって、あの部長無能すぎるんだもん。……まあ、初めての大きなプロジェクトだから、張り切りすぎたっていうのもあるけどね」

 

 残業の原因になっていた大量の仕事、本来ならそのほとんどが部署の上司の仕事だったらしい。しかし、上司にそれをこなしきる能力がなく、その上今一番力を入れている事業故に遅れは許されない。だからそのほとんどを期待のスーパールーキーが一手に担っていたそうだ。

 今回の雪ノ下による直談判でそのことが会長に露見。怒りのママのん権力で部長とその部長を指名した人事部は入れ替えになるとのこと。陽乃さんの能力を考えると、今後の残業や早朝出勤はほぼないとは雪ノ下の弁だ。

 

「それにしても、雪乃ちゃんがあんな大胆なことするとはね。八幡くんの相談がトリガーになったみたいだけど、私もポロッとこぼしたからなぁ」

 

「こぼしたって、何を?」

 

「『八幡くんが私のせいで悲しい思いをしているんじゃないか』って、この前メールでね」

 

 昨日とかも寂しそうな顔してたからさ、と困ったように笑う陽乃さんにグッと心臓がせり上がるような切なさを覚える。うまく隠していたつもりだった。ポーカーフェイスには自信があるつもりだった。けれどどうやら俺の心象の変化を、目の前の最愛の人は敏感に感じ取っていたらしい。

 それを理解すると、途端に情けなくなってくる。迷惑をかけないつもりだったのに、そう思っていた結果逆に心配させていたら意味がない。

 

「ごめんなさい……」

 

「なんで八幡くんが謝るのよ。……けど、そうだね。二人とも悪かったのかな。私も八幡くんだからって甘えてたのかも。そうだよね、私を追っかけてくる子が今日までの生活で寂しくないはずないよね」

 

 なにか耐え切れなくなってフローリングに目線を落とした俺を陽乃さんは優しく胸に抱いてきた。今日も朝から働きづめだったのだろう。ふわりと甘い汗の匂いが鼻腔をかすめる。

 

「今後は言いたいことがあったら言ってね。八幡くんのこと、もっと知ってたいから」

 

「……陽乃さんも隠さずに言ってください。俺も、陽乃さんのこと知りたいですから」

 

 玄関先で抱き合いながら二人して喉を鳴らして笑っていると、俺の腹が間抜けな音を漏らした。そういえば、講演会前の昼食は食べる気がしなくて抜いていたんだったな。

 

「生姜焼きならすぐ用意できますけど、食べますか?」

 

「男飯だ!」

 

 ……その俺の生姜焼き=男飯の図式はどうにかなりませんかね。どうすれば男飯のレッテルを脱却できるのだろうか。バジルでも振りかけてみるか? 違うな。それはそれで違うな。

 

「あ、八幡くん」

 

 陽乃さんの鞄を代わりに持ってリビングに向かおうとしていると、後ろから彼女に抱きしめられて心臓が一際大きく跳ねた。さっきの優しい抱き寄せとは違う色香を含んだ抱擁に、肺の中の空気が二度は高くなったように錯覚してしまう。

 固まってしまった俺にクスリと笑った恋人は、Tシャツの襟から露出した鎖骨を指先でつつっと撫で、耳元に熱い呼気を孕んだ唇を寄せてきた。

 

「今夜は、たっぷり愛してね?」

 

「――――」

 

 ボンッと破裂音がしそうなくらい顔を熱くした俺に、いつものような悪戯心全開のカラカラとした笑みを浮かべた陽乃さんは、俺から鞄を奪うと着替えるために寝室に駆けていった。肩くらいまである黒髪の隙間から覗いた耳はほんのり赤くなっていて。

 

「……ったく」

 

 ようやく再起動した体をギシギシとロボットのような不自然な動きでリビングに向けながら、ガシガシと後頭部を掻いた。その少し下、Tシャツ一枚だけの背中にはまださっきまで触れていた熱いくらいの体温の名残が残っていて――

 

「俺だって、男なんですからね」

 

 果たして“今夜”まで俺の理性は持つのだろうか。

 寝室で着替えている彼女に聞こえないように口の中で転がした言葉は、ひどく熱くも楽しげで、心地のいい熱を持っていた。




久しぶりに八陽を書いてみました。大体短編ってなると付き合うまでの過程とかを書くことが多いんですが、今回はその過程をすっ飛ばして同棲までしている大学八陽に挑戦してみました。結構こういうのもありかなーって。

ゆきのんのところなんかは原作で語られていない――たぶん今後語られると思うけど――家族との和解があったことを匂わせる感じが書けたかな? どうかな? とか思っていたり。
ガハマさんが出せなかったのは、さすがに国立は無理かなって思った次第で。八幡なら理数系だけ死に物狂いで頑張ればなんとかなりそうですけど。決してガハマさん書くのが面倒だったとかそういうことではないから! ないから!

それでは今日はこの辺で。
ではでは。

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