『凪......声を聞くのは随分と久しく感じますね..........』
「こっちもだよ、ミテラ。正直俺は早くもホームシックになっちまいそうだ」
夜も更けた、薄闇に包まれる男子寮の一室。雑然と物が未整理のまま置かれている、如何にも引っ越し初日といった感のある部屋の中央にて、凪は携帯電話を耳に会話していた。
『それはそれは...何か災難にでも?凪は見目麗しいからやっかみでも受けてしまいましたか?』
「...なあ、ミテラ。解ってて言っているんだろう?」
電話の向こうで何時もと変わらず、凪いだ水面の如く静謐な微笑みを浮かべているのであろう己の唯一の家族へ、凪はともすれば高ぶる動悸を抑えながら尋ね返した。
『...何の話ですか、凪?』
「こんな真夜中に普通に電話に出てくれたんだ、掛けてくると思ってたんじゃないのかよ。...俺に
凪は抑えるつもりだった声を我慢出来ずに途中から荒げ、語気も荒く問い詰める。
「ナギ・スプリングフィールドとかいう巫山戯た名前の野郎だよ!!多かれ少なかれ全部そいつが原因で俺は散々な目に遭ってる!なぁ、誰なんだよそいつは!?姿形からそっくりだってんだ、俺とも無関係じゃ無えんだろ!?俺は、唯学ぶもん学んで適当にはっちゃけて、普通に学生ってのをやりたいだけなのに......何が起こってんだよ、俺の周りに!?」
一息に込み上げた想いを言葉にして迸らせてから、凪は僅かに乱れた息を吐きつつ返事を待つ。
暫くの間、耳に当てた携帯電話は沈黙していたが、軈て抑えた静かな声が響き出した。
『...凪、貴方の憤りは最もです。貴方の言う通り、私は凪が麻帆良という土地へ顔を出せばある程度騒動が起こり得るであろうと、予想はしていました』
「...だったら!!」
『しかし』
肯定の言葉に、激しく何事かを言い募ろうとする凪は続く言葉に機先を制される。
『私は貴方が世に出る上で、どうしてもそれが避けては通れない道だと考えています。凪、貴方があの牧歌的な片田舎で骨を埋めるというのならば、私はこんな真似は断じてしませんでした』
「......俺は............」
『ええ、解っています。だから貴方の所為だ、等と私は言いません。全ての責任の所在は私にあるのです、凪。...貴方は無論のこと、私も貴方が世に出る事を望んであの村から貴方を外へ出しました。誤解無き様あの時の台詞をもう一度言いますが、私は凪に自由に生きてもらいたいのです』
「...だったら。だったら何なんだよ此の場所は。訳の解らねえ蒸発親父の尻拭いをするのが俺の自由だとでもミテラは言いたいのか?」
幾度となく先を制されて淡々と諭す様に言葉を受け、ボルテージの下がった凪だったが、どうしても聞き逃せない質問を止めることはしなかった。
『断じて。私は他人を思いやれる貴方の心優しい気質をとても好ましく思っています。しかし、私はむしろ凪にもっと自分勝手に生きてもらいたいのです 』
「... どういうことだよ 」
『 無視しなさい、放っておきなさい、関わることを止めなさい。 姿形の似ている父無き子の少年が嘆いているからといって貴方に関係はありません。想いを寄せる男に見捨てられた形になっている 哀れな女に貴方が手を伸ばす義務はありません。文字通り住んでいる世界の違っている、昔の英雄とやらに姿形が似ているだけで貴方を色眼鏡で見ようとする連中に、貴方が関わりを持つ価値などはありません 』
凪の疑問に答えるその声は、何処までも冷たく凍えていた。
『私が凪を関わらせたのは、凪が世に出る以上何らかの形で、必ずそのしがらみは凪に付いて回るだろうと予測したからです。 貴方が何処で何をしようと、必ずその呪いのような容姿に関する誤解と災難は貴方を逃がしはしない。ならば知った上で無視なさい。知らない顔をして黙殺なさい、凪。 残念ながら貴方に関わりは無いとは言えない、 しかし貴方に責任は間違いなく無いのだから。...貴方は貴方の、望む様に生きなさい』
凪は告げられた言葉に暫し沈黙して、呟く様に言葉を洩らした。
「……俺は、何者なんだ、ミテラ?」
『答えられません』
答えは即座に返って来る、拒絶という意味を持って。
「どうして‼︎」
『貴方がそれを知る必要が無い故にです。
「俺自身の事じゃ無えか!?知る権利があるんじゃねえのかよ‼︎‼︎」
淡々と言葉を紡ぐ相手に対して、凪は憤りも露わに問い詰める。自分は決してネギに、エヴァンジェリンに。無関係では無いと告げられてしまったのだ、事の真相を知りたいと凪が望むのは当然のことだろう。
『……凪、貴方が呼ぶミテラという私の名は本名ではありません。最早元の名を名乗るつもりは無い以上、この名を真名と定めることに最早抵抗は無いとはいえ、です』
しかし電話の相手ーーミテラは唐突に、己の話を始める。
「…知ってるよ‼︎ミテラが言ったんじゃねえか、俺が小さい時に‼︎
『……そんなこと、ですか凪』
苛立たし気な凪の返答に、何故かミテラは微かに笑う様な響きと共に呟きを返した。
『私の本名を教えられないのも、貴方の出自に関する情報だから、なのですよ凪。仮初とはいえ育ての親である私の秘密主義等、面白い筈は無いでしょうに。本当に凪は気持ちの良い男子に育ってくれました……』
「……仮初なんて言うなよミテラ。俺の親父やお袋が誰だろうが、興味はあっても逢いたいなんざ欠片も思っちゃいねえんだ、俺は」
凪はこれまでとは質の違う、深く静かな怒りを静かな声音に乗せて言葉を放った。
「俺にとってはミテラだけが家族だ。育ての親で、俺の母親も同然だ‼︎ミテラは俺を、真面に育て様としてくれたじゃねえかよ!親無き子だか何だか知らねえが、そんな劣等感は欠片も感じない位に俺を、愛してくれたじゃねえか‼︎俺は頭がそんなに良かねえんだよ、照れ隠しに言ってんのか気ぃ使ってんのか遠慮してんのか知らねえが、今更他人行儀な言い方すんな‼︎」
面と向かって暮らしていた頃は気恥ずかしくてとても告げられなかった想いを、凪は迸る感情に任せて言葉にした。
「俺は!あんたを‼︎……いっつも遠慮してるみたいにして生きてるミテラを、もっと幸せにしてやりたくて田舎出たんだよ‼︎ミテラからすりゃまだまだヒヨッコの若僧かもしれねえけど、もっと俺を信用してくれよ‼︎今更何聞かされた所で傷付きもビビりもしねえ!俺が成長したって言うんなら、対等に俺をきちんと見てくれ‼︎」
語気は荒いながらも、何処か懇願する様な響きを纏った凪の願いに、短くない沈黙をはさんだ後。ミテラは悲し気に、されどはっきりと、その言葉を告げた。
『………ありがとうございます、凪。所詮は自己満足に過ぎない、貴方と過ごしたこの十数年が無意味では無かったと、私は今感慨に打ち震えています。……しかし、矢張り貴方に今、真実を告げる事は出来ません。貴方に降り懸かるであろう柵の大きさは、知らずに生涯を全う出来るものならばそう在ってほしいと、私は願わずにいられはしない代物なのですから』
「……ミテラ‼︎」
『…
凪の叫びを黙殺して、ミテラは淡々と言葉を紡ぐ。
『既に私は村を出ました、家の事は鬼ノ宮のお爺様に任せてあります。私はこれより消息を断ちますので探す行為は無意味であると、告げておきましょう。もう一度言います、自由に生きなさい凪。貴方は春園 凪、ナギ・スプリングフィールドでは無いのですから。…誠に手前勝手な想いではありますが、またいずれ相見えることを願います、凪。……私も貴方を、息子の様に、或いは歳の離れた弟の様に。…思っていましたよ』
「…おい待て、ミテ……!?」
プツリ、という軽い音と共に。
凪の必死な呼び掛けにも構わず、ミテラは電話を切った。
「……とはいえ、凪。貴方はおそらく進むのでしょうね、荊の道を………」
パチリと軽い音を立てて携帯電話を閉じ、ミテラは軽く息を吐いた。
だだっ広い平野に吹く夜風に揺られ、ブルネットの長髪が僅かに靡く。
「……偽りと欺瞞に満ちた、歪んだ義理の家族関係。私の様な人間の元で、貴方は曲がらず情の深い、優しい子に育ってくれた……そんな資格は無いと解っていても、私はそれが誇らしくて堪らない………」
でも、そんな貴方の魅力はきっと貴方自身の首を絞める、と、ミテラは切なそうに呟いた。
『はははははは‼︎どうだミテラぁ!?猿捕まえたぜ猿‼︎』
『な、ナギ!?そんな高い樹の上で……何を捕まえているんですか!?今すぐ放しなさい‼︎』
『わははははは‼︎凪坊は本当に元気じゃなあ!飛び出してったドラ息子を思い出すわい‼︎』
『いんやあ、ヒロの小坊主なんぞよりもよっぽど活きが良かろうて凪ちゃんは。綺麗な面立ちをしとるし、神さんに愛された子じゃあてほんに……』
『み、皆さんナギを、ナギをどうか!?』
『ははは大丈夫じゃミテラさん。凪坊は山猿なんぞに負けんて、ほら関節極めとるわ獣相手に‼︎』
『阿呆、カカァからすりゃ心配なのは当然じゃて呆け爺い。こりゃ凪ぃーーっ‼︎ミテラの嬢ちゃんに心労掛けんでないわこの悪童がぁぁぁぁぁ‼︎』
『五月蠅ー糞ババァ!猿の脳味噌が美味いって繼叢の婆ちゃんが言うから獲ってきたんだよ猿!』
『……お前が原因じゃないか鬼婆ぁ‼︎餓鬼に妙な話仕込むでないわ‼︎』
『五月蠅いわ糞爺い!獲って来いなんてアタシゃ一言も言って無いさね‼︎』
『凪ーー!如何でもええから降りてこんかい、お母さんにあんま心配掛けるで無いわー‼︎』
『あいよー鬼ノ宮の爺ちゃん、今行くぜミテラぁ‼︎』
『な、ナギ!普通に降りて……キャアァァァァァ!?』
『わはは飛び降りよったわぁー‼︎』
「……ふふ…………」
心が細った故にか、昔の記憶がふと脳裏に蘇り、ミテラは先程迄の苦悩するが如き表情を、小さいが暖かみのある微笑に変えた。
……或いはそれでも。貴方なら笑って乗り越えるのかもしれませんね、凪…………
「あんな英雄
何かを振り切るようにそう一言呟いて、ミテラは止めていた歩を進め、石柱の様なものが建ち並ぶ遺跡群のような場所に向って歩み始めた。
閲覧ありがとうございます、星の海です。今回は今一不明瞭だった凪の育ての親に関するちょっとした裏話です。ミテラ(μητέρα)、ギリシャ語で母を意味する単語ですね、まあ偽名です。凪は物心ついた時にはこの女性に育てられ、山奥の寒村で僅かなむらびの爺婆達の支えもあって伸び伸びと?育ちました。同年代の人間がいなかったのとあらゆる意味で自由に育てられた為、凪は感情表現豊かな反面、抑制がやや苦手です。怒りやすかったり、感極まって泣いたりしているのはその一面ですね。
次回から少しずつまとめに入って行く予定…になるでしょうか。次はもう少し早く話を上げられると思います。
それではまた次話にて、次もよろしくお願いします。