と言うかほとんどです。
ご注意下さいまし。
割れた人垣を一人進むタイラント。
その様子を見つめる野次馬達は、皆一様に生唾を飲み込んだ。
黒い男から放たれる殺意、或いは怒りの波動は一瞬にして部屋中を支配する。
止めどなく出る冷や汗と、恥ずかしげもなく震える身体。その感覚は、絶対に抗えない怪物といきなり対峙した時と同じだと言えた。
日本の古い諺に"藪を叩いて蛇を出す"と言うものがある。
迂闊な事、要らぬ事をして自ら災いを招く愚かさを戒める諺だ。
この人間達が置かれた状況は、それを如実に物語っていた。そして、この絶望的な状況になって一同は漸く理解に至る。
自分達は"キマイラの尾を踏んだ"のだ、と。
「……全く何たる様だ、失望させてくれる」
身構えて止まる優男達をスルーし、シズとナーベの前で止まり、二人を見下ろしながら冷たくそう言った。
激しい怒りを通り越すと、大体は落胆の感情にたどり着く。
それはシズの手腕、ナーベの自制心に少なからず期待していたからこそ、その落胆は大きかった。
兎に角、起きてしまった事を今更とやかく言うつもりは無い、が信賞必罰はタイラントの基本方針である。
それ故にはっきりと言った、二人に"失望"したと。
「「も、申し訳ございません……」」
深々と頭を垂れる二人、その近くで折れた腕を押さえながら踞る男。
「た、助け……助けてっ」
その様子を見て、何となく事情は察っしたタイラント。
恐らく、この男とその取り巻き達が二人に何かをしたのだろう。そして、見事に返り討ちになった。
んで仲間が騒いで、野次馬がそれに乗っかった。大体そんな所だろう。
ギルドもギルドで急速に膨れあがったこの馬鹿騒ぎに対応が出来ずに今に至る、と。
全く、下らなさ過ぎて涙が出そうだ。
「……まぁ兎に角、コイツの手当てだ。誰か医者を「おい、赤目野郎!」
タイラントが二人に指示を出そうとした時、遮る様に短髪の剣士の男が声を上げた。
それは恐怖からの震えか、武者震いかは定かではないが男は剣の柄に手をかけながらタイラントに怒鳴り散らしたのだ。
「何俺達を無視して勝手に話を進めてんだ!!」
静寂を払う剣士の怒号は、外野達の消えかけてた野次馬根性に再び火を着けた。
集団心理によって一気に膨れあがった群衆の根拠のない自信、集団的安心感は本能が感じた危険信号を容易く打ち捨てる。
野次馬達は、口々に聞くに堪えない罵詈雑言を次々に言い出し始める。
そう"乗るしかない、このビッグウェーブに"状態だ。
愚者の集団は、余興を盛り下げられた不満をここぞとばかり爆発させた。
「そ、そうだ!そうだ!」
「白けんだよ!空気読め、空気!」
「男はお呼びじゃないんだよぉ!」
その騒乱はピークに達し、調子に乗った剣士の男が唸り声を上げて剣を抜こうとした……その時。
!!!!!!!!!!
特大級の衝撃が剣士に襲いかかった。
衝撃と言うよりは"突風の様な物"が身体を一気に突き抜けたと言うべきか。
ドラゴンのブレス、サイクロプスのこん棒、或いは極大魔法、と言った強力かつ無慈悲な一撃を真正面から受けた、そんな感じ。
自身の完全なる"死"のビジョンを剣士の男は確かに見た。
剣士だけではない。この場に集まった野次馬やギルドの職員含めた全ての人間が見ていたのだ。自分自身の死のビジョンを。
その強烈さたるや、奮い起たせた魂や戦士としてのプライド、使命感、野次馬根性、全てを木っ端微塵に吹き飛ばした。
目の前の黒い男から放たれる圧倒的なプレッシャー。
それは今まで感じていたのが"そよ風"に感じられる程に大きく膨れあがり、そしてより凶悪な物になっていた。
「なんだァ?てめぇ……」
完全にぶちギレたタイラントは、最初に怒鳴った剣士の方をゆっくりと振り返る。
ほぼ素で激怒した理由の一つは、他の人と会話をしている途中にいきなり話を遮られるのが本当に嫌いだから。
人が喋っている最中は普通待てよ、喋り終わってからでは駄目なのかと常々思う。
そして、二つ目は外野の野次馬が調子に乗って再び騒ぎ出した。
この二点がキレた主な原因である。
(折角穏便に済ませようとしてんのに、いきなり怒鳴るとか何だコイツは)
この剣士の"いきなり怒鳴る行為"はタイラントの仏の顔残機×3を一気に消耗させた。
で外野達の罵詈雑言で見事に役満、元々あまり大きくない堪忍袋は粉々に破裂するに至った。
(コイツ等、俺を嘗めてやがる。完全に嘗めくさってやがる。成る程、俺と喧嘩がしたいと、喧嘩上等であると、そう言う事か)
よろしい……ならば戦争だ。
「……折角の機会だ、二人共良く見ておけ」
「「はっ!」」
肩を軽く回し、首を左右に倒すとボキボキと骨が軋む音がする。
喧嘩の準備は万端、呆ける男の前に立つとタイラントは静かに諭す様に言った。
「……売られた喧嘩ってのはなぁ」
刹那、タイラントの姿が一瞬消える。
剣士の眼前に迫る黒い塊、それが拳だと認識する事はこのコンマ数秒で出来る訳もなく。
唯一理解出来た事と言えば、疑いの余地の無い破滅的な衝撃が直ぐにも自分に襲いかかると言う事。
神が男に与えた猶予の時間、だが懺悔や後悔をするにはその時間は短過ぎた。
「ひぃっ!!」
次の瞬間、剣士の男は悲鳴じみた声と共にきりもみ回転しながら、仲間を巻き込んで盛大に吹き飛んでいた。
スバァン!!!!
そして、耳をつんざく音とタイラントの姿が遅れて現れる。
「……こうやって買うもんだ」
頑丈な素材で出来ているであろう床をへこませ、そのクレーターの中心にタイラントは平然と佇んでいた。
「い、一体何が起きたんだ……」
「今一瞬、姿が消えたぞ!」
目の前で起こった不可解な現象を前に、皆度肝を抜かれ驚愕している。
恐らくは、黒い男が剣士を殴ったのであろう。
それは解る、だが殴るまでのプロセスが理解が出来ないのだ。
動きが速いとか、そう言う次元での話しではない。黒い男の姿が、目の錯覚でなければ完全に見えなくなっていのだから。
武技"流水加速"を使っても、ああはならない。
それは王国が誇る最強の戦士、ガゼフ・ストロノーフでもあんな動きは出来ないだろう。
「ば、化け物か……」
人間技とは到底思えぬその動き、威圧感、見た目、どれを取ってもタイラントは常軌を逸している。
この男、本当に冒険者なのだろうか?
仮に冒険者だとして、何故今まで噂にもならなかったのか?
一体、この男は何者なのだろうか?
ワーカー?戦士?異国の武芸者?
何にせよ、皆がたどり着いた結論はコイツは最早"人間と言う枠を越えている"か"人間ではない"。
「は、はひぇ……」
「……死んではいない、当てて無いからな」
ショックで伸びかけてる腕が折れた男にタイラントはそう言った。
男を良く見ると失禁までしているではないか。
腕を折られるは、小便漏らすは、散々な日だなコイツは。
顔だって悪くない、寧ろ整ってる部類だろう。だが流石のイケメンも小便漏らせば、それも台無しだ。
まぁ、自業自得と諦めて貰うしかないのだが。
「当ててない……だと?」
その事実は、まとめて目を回してる優男達を見れば一目瞭然だった。
男達は、もの凄い勢いでぶっ飛んだのにも関わらず無傷なのだ。
要するに、この黒い男は"寸止め"をしていたと言う事。しかし、拳の寸止めだけで完全武装した冒険者が紙切れの如く吹き飛ぶだろうか?
一体どんな修行や鍛練を積み、魔法や武技を使えばこんな芸当が出来るのか。
ざわ ざわ ざわ ざわ と色めき立つ野次馬達。次は一体何が起きるのか、そんな奇妙な期待感に溢れていた。
「……で、次は誰が相手だ?」
「え……?」
唐突なタイラントの問いに、完全に面食らった野次馬達は酷く間抜けな声を上げた。
俺達は只の野次馬、この喧嘩の当事者ではないのだと言わんばかりの顔である。
一体全体、コイツは何を言っているのだと。
「ちょ、何を言って……」
そんな事はお構い無しに、ぐるりと辺りを見回し睨みを効かせるタイラント。
野次馬達は、そんなタイラントの視線に誰も合わす事なく、皆バツが悪そうに顔を背けた、が。
「誰 が 相 手 か と 言 っ て い る」
その一言に込められた"怒りの言霊"。いや、怒りなどでは生ぬるい。それは怒りを超越した感情、正しく"憤怒"と言うに相応しい。
忘れているかも知れないが、タイラントの二つ名は"核弾頭"。敵対する者はおろか街や草木、果ては味方に至る全てを消し飛ばす旧世代の最終決戦兵器。
そして、その無差別兵器の名を冠するは希代の"暴君"。
そう、暴君にとって"この場に居た者全ての者"がこの喧嘩の当事者なのだ。
絡まれてる女を助けもせずに、囲み、煽り、騒ぐ野次馬達。回りの熱気に気圧され、己の職務を遂行出来ない職員。絶対安全圏で傍観をし、他人の不幸を見てコソコソと嘲笑う輩。
(日和見の連中に、テメェ等全員が俺の敵だと言う事を思い知らせてやるぜ)
「……どうした、誰も居ないのか?」
その問いに対する答えは、無。
誰も答えず、名乗りでもせず、動きもしない。自分ではない誰かが出るだろう、自分ではない誰かが選ばれるだろう。
この野次馬達から"自分ではない誰かが"と言った考えが透けて見えるようだった。
最早呆れを通り越して、哀れみすら感じ始めていた。こんな奴等相手に何を本気になっているのかと。
(あほくさ、もう誰でも良いわ)
「少佐、落ち着け」
今にも野次馬達に殴り掛からんばかりのタイラントの肩を、いつの間にか現れた黒い鎧を着た戦士が抑えた。
直後ビキビキと二人の足元の床が悲鳴を上げ、亀裂が入り始める。
それだけでも、この二人の力のせめぎ合いの凄まじさを物語っていた。
「もう、十分だろう」
黒い戦士のその一言が、合図であった。
その瞬間、フッと部屋を支配していた圧迫感が嘘の様に消え去った。
胸を締め付けられる様な不快感から開放され、安堵からか皆肺に溜まった空気を全て吐き出す。
「……興がそがれた、いくぞシズ」
黒い男はそう言うと、隻眼の女と共に余りに呆気なくギルドから出て行ってしまった。
「くそ……まだ震えてやがる」
ギルドに残された哀れな野次馬、もとい冒険者達。
大半はカタカタと震える自分の手を見て、漏らした小便を感じて、己の情けなさと迂闊さを大いに恥じた。
冷や汗でベトベトになった身体の不快感すら、自分が今生きている事を実感させた。
周りを見れば屈強な筈の冒険者にして、床にへたりこむ者もいる。
無理もない、あんな化け物を前にしては、無理もない話だ。
本当に情けない事だがそう自分に言い聞かせ、無理矢理納得させるしかなかった。
次回こそ、タイラント王都へ行く。
いや、行きたい……