執務室の新人提督   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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第7話

 ――あぁ、眠い。

 

 窓からさす光から逃げるように、提督は少しばかり奥まった所に設置された洗面台へとよたよたと近づいていった。

 備え付けのコップに入れてある青い歯ブラシを手に取り、同じくコップに入れてある歯磨き粉を持ってキャップをあける。ひねり出したそれを歯ブラシに乗せ、提督は無造作に口に突っ込んだ。

 

 右手で歯ブラシを動かしながら、左手で頭をがりがりとかく。洗面台の正面につけられた鏡には、寝ぼけ眼の男と、その提督の背後にあるガラス戸を映していた。

 

 ――あぁ、風呂の掃除もしないとなぁ。

 

 背後へと振り返り、提督は本来執務室には無いはずのバストイレを眺める。そして再び洗面台へと向き直り、彼はコップを手にして蛇口をひねった。

 

 口をゆすぎ、歯ブラシとコップを洗い、水をきってから置いてあった定位置に戻す。

 

 ――定位置、ねぇー。

 

 口の端を僅かに吊り上げてから、提督は首を横に振ってまだ水を出したままの蛇口に両手を出した。水をすくってそれを顔に叩きつけ、それを何度か繰り返して顔を洗う。

 

 ――あ。

 

 しまった、と思っても後の祭りだ。顔から滴り落ちる水を拭う為のタオルが、彼の手元にはないのである。

 

 ――馴染んでないのか、間抜けなだけか。

 

 胸中で呟いて、さてどうした物かと提督が悩んでいると、その頭にふわりとタオルがかけられた。提督は一瞬身を強張らせ、正面の鏡を覗き込んだ。

 

「早く顔を拭いてよね。私だってお腹すいているんだから」

 

 青い髪の少女が、提督の後ろに立っていた。

 

 

 

 

 

 

 陽炎型七番艦初風。

 陽炎、不知火、黒潮の妹であり、あの浮沈艦雪風の直ぐ上の姉である。

 

 ――昨日が朝潮型で、一昨日が白露型だったから、今日は陽炎型で……明日は夕雲型かー。

 

 ぼうっとしたまま、提督は陽炎型七番艦の動きをなんとはなしに目で追っていた。

 初風は来客用、という事に一応なっている執務室のテーブルに持ってきた弁当を広げ、それが終わると今度は提督着任の翌日に備え付けられた小さな冷蔵庫からお茶を取り出し、提督のコップ、それと自分のコップに適量を注いで戻ってきた。

 提督、そして自分の前にコップを置いて、ソファーに腰を下ろして……

 

「はい、いただきます」

 

「あ、はい。いただきます」

 

 持って来た弁当を食べ始めた。

 初霜は秘書を務めている事もあって、食事を一緒することは無いが、他の艦娘が弁当のお届け当番なる物になった場合は、今の初風の様に一緒に食べる事になっている。のであるから、この状況はなんらおかしな物ではない。

 であるのに、提督は自分の弁当と初風の弁当を見比べたりするばかりで、手に持っている箸を動かす気配が無い。

 

「何よ? 嫌いな物でもあったの?」

 

「いや、特にはないけど……んー?」

 

「そう、じゃあ早く食べなさいよ。そっちの出汁巻きなんて、どこかの軽空母の猛攻を凌いで、陽炎姉さんが作ったのなんだから」

 

「たべりゅー」

 

「殴るわよ」

 

 じろり、と横目で提督を睨んだ初風は、一旦弁当をテーブルにおいてお茶を手にし、軽く飲んでから再び弁当箱を手にして食べ始めた。

 提督はそんな初風を、横目で眺めてから、ようやく箸を動かし始める。最初に口に運んだのは、初風曰く陽炎作の出汁巻きだ。

 

「旨い」

 

「当たり前じゃない。我らが陽炎姉妹のネームシップよ。伊達じゃないんだから」

 

 提督の感想に、初風は胸を張った。自慢の姉が褒められたのが嬉しいのだろう。綻んだ顔は実に少女らしい相である。常々、どこか憮然とした印象を与えがちな初風にしては、意外な相と言えるだろう。

 

 とはいえ、流石にそれを口にしてしまうほど提督は愚かではない。彼は白米、おかず、白米、おかず、と次々に弁当箱の中を口に入れて咀嚼して嚥下していく。

 

 ――実際旨いんだけれどもねー。

 

 実は、悩みもある。

 華も恥らううら若き乙女達の手によって調理された食材を、若い胃は拒まない。拒みはしないが、しかしどうにも、多いようにも提督には思えるのだ。提督は、ちらり、と初風にばれないよう隣を流し見た。その提督の視線の先、初風の手にある弁当箱は、普通の弁当箱である。駆逐艦娘は艦娘の中でも潜水艦娘に次いで食事量が少ない。もちろん個人差はあるのだが、初風の食事量は平均的な駆逐艦娘の物である。では、対して提督の弁当箱はどうであろうか。

 

 ――でかい。

 

 提督は自身が今手にしている弁当箱を見下ろして、胸の中だけで呟いた。本当に、でかい、というべき代物である。どこぞの野球少年が持っている様な大きな銀色の弁当箱。更に恐ろしいことに、それがもう一つ、提督の前に置かれている。

 白米八割、おかず二割で弁当箱一つと、おかず十一割の弁当箱が一つである。一割はサービスであるから問題ない。

 

 若い男と言えど、朝から腹に詰めるにはなかなかに苦しい量であるが、それが入るのもまた若い男特有の胃袋で在る。そしてまた艦娘達も、艦時代の記憶のせいか、若い男は沢山食べると信じていた。実際大人四人前くらいはぺろりと食べてしまえる提督もその時代には実在した訳であるが、だがしかし、だがしかしである。それは軍人である若い男と飛龍さんとこの多聞君の話だ。執務室に引きこもるインドア人間代表の様な男では、比べる事自体が間違いだ。

 

 ――今日も空いた時間で走り込むかなぁ。

 

 執務室の隅に在るルームランナーを視界の隅におさめて、提督は弁当箱を平らげにかかった。そっけなく見える初風も、流石に自分だけが食べ終えると暇であるのか、提督が口に運ぶおかずを見ては、それは誰が、これはあれが、と邪魔にならない程度に喋ってくる。

 

「あ――」

 

 初風の小さな呟きを耳にした提督は、首をかしげて彼女に顔を見つめた。彼女の目は、ただ一点、提督の箸に摘まれた芋煮を凝視している。はて、なんであろうか、と口を開きかけた提督は、突如彼女が何型の駆逐艦娘であったかを思い出した。

 

 陽炎型駆逐艦。

 

 あぁ、居たではないか。あぁ、潜んでいたではないか。

 提督は真っ青な顔で初風を見つめ、初風も提督を見つめる。二人は何一つ口にせぬまま、ただ同時に頷いた。

 提督はゆっくりと芋煮を弁当箱に戻して、目を閉じた。どこからか「てけりり」と聞こえたが、提督は鋼の意志でそれを黙殺した。決して弁当箱からの方からではない。そう信じた。

 

「危ないな……危なすぎるぞ君の妹……」

 

「凄いわね……作ってるときは、普通だったのに……流石武勲艦は違うわ」

 

 初風は顎を手の甲で拭い、くっ、と唸った。

 

「妙高姉さんの次くらいに怖いわね」

 

 それでも不動のナンバー1である妙高は、どれほど恐ろしいのかと慄く提督であった。

 

 恐ろしいこともあったが、時間は流れる。

 提督は、ゆっくりとコップを仰向け、中身を嚥下し……とん、とコップをテーブルに置いた。両手を合わせて、一礼する。

 

「ごちそうさまでした」

 

「どういたしまして」

 

 広げられていた自身の弁当箱と、何かカタカタと動き出した提督の弁当箱を片付けながら、初風は執務室を見回す。

 

「ここ、本当に変わったわね」

 

「まぁ、ねー」

 

 頭をかきながら答える提督に、初風は呆れ顔を見せる。

 

「洗面台と、あとあれ、お風呂でしょ?」

 

「バストイレだね」

 

「ユニットバスってやつ?」

 

「それ、誤用なんだってさー」

 

「へー」

 

 興味を惹かれたのか、初風はソファーから立ち上がると、提督が言うバストイレの方へぱたぱたと向かっていった。

 

「へー……ねぇ、これ誰に作ってもらったのー?」

 

 風呂場特有のエコーが掛かった初風の声に、提督は肩をすくめて答える。

 

「明石さんと、妖精さん達、あと、北上さんと夕張さんがちょっと応援に来てくれたよ」

 

「なるほどねー」

 

 一頻り覗いたら満足したらしく、初風は自身の首を擦りながらソファーに戻り、腰を下ろそうとして――止めた。

 

「そろそろ時間、よね?」

 

「ん……あぁ、そろそろ初霜さんが来る頃だねぇ」

 

 つまり、仕事の時間だ。初風は提督の言葉に、提督と自分のコップを手にし、洗面台で歩いていった。それを軽く洗ってから、布巾を手に戻ってくる。テーブルをさっと拭き、それもまた洗面台に戻す。前もって片して置いた弁当箱を手に、初風はドアへと向かっていった。

 ちゃんと見送るべきだろう、と提督は立ち上がり、初風の背を追って三歩ほど歩き……立ち止まった。

 背を向けていた初風が、振り返って提督と向かい合っているからだ。何か忘れ物かと思った提督が口を開くより先に、初風は肩に掛かった髪を優雅に払って言った。

 

「さて……で、提督」

 

「ん?」

 

「陽炎姉妹の力、どうよ?」

 

 皆で作った弁当の事であろう。提督は、自信有りげな初風の目を見つめて、笑った。

 

「磯風さんは誰かが操作しような?」

 

「無理言わないで」

 

 一転、頬を引きつらせる初風であった。が、これは提督の死活問題である。弁当の量がどうとかの問題ではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。

 

「雪風さんとかにお願いできないものかな、これは?」

 

「馬鹿。誰がそんなお願い聞くもんですか」

 

 首を横に振る初風の姿は必死なもので、事がなかなかに難しい事であると提督に理解させた。させたが、やはり提督にとっては看過出来る問題ではない。いずれ来るかもしれない朝昼連続デス弁当等、真っ当な感性を有しているなら当然阻止すべき物で在る。

 

「なら……」

 

「?」

 

 提督は初風を指差し、

 

「命令だ。磯風さんの調理は、初風さんが方向修正すること」

 

 そう言った。

 

「めい、れい?」

 

「うん。それ」

 

 お願いで駄目なら、提督として命令するしかない。もはや彼にはそれ以外無かった。作るな、と言うのも手ではあるのだが、その結果別の方向で何かされても困る上に、何を仕出かしてくるか分かった物ではないので、現状を受け入れるしかないのである。

 

「命令――命令なのね、提督?」

 

 提督に命令された初風は、提督から顔をそらし、自分の足元を見ながらか細い声で囀った。いっとう、らしからぬ初風の姿に、提督は何事かとも思ったが、とりあえず頷いておいた。

 

「命令だ、初風」

 

 さん、もつけない。これは上司としての言葉であると明確にするためだ。初風は俯かせていた顔を上げ、提督の顔をじっと見つめると、小さく息を吸って確りと頷いて応えた。

 

「任せて。私、あなたの艦娘だもの」

 

 

 

 

 

 

 

 静かに出て行った初風の背を脳裏に描きながら、提督は大きなため息をついた。最後に見せた彼女の姿は、どうも常らしからぬ姿であったが、それよりも気になる事があった。

 提督は先ほどまで食事を摂っていたテーブルとソファーを見つめて、軽く首を横に振った。

 

 ――切り替えよう。まぁ、無理っぽいけど。

 

 提督は自嘲しながら時計に目をやり、そろそろか、と小さくが呟いた。と同時にドアがノックされる。

 

「あいてるよ、初霜さん」

 

「はい、おはようございます、提督」

 

「はい、おはよう」

 

 提督は頷いて挨拶を返し、初霜の手にある今日の仕事分である書類を受けとろうとして――先ほどあった、自身の中で消化できぬそれを初霜に聞いてしまった。

 

「ねぇ初霜さんや、初霜さんや」

 

「はいはい提督。なんですか?」

 

 提督は初霜から書類を受け取りつつ、二人分の熱も未だ消えぬソファーに目を向け、聞いた。

 

「初霜さんがこのテーブルで僕とご飯食べるなら、どこに座る?」

 

「隣です」

 

 即答であった。

 

「まぁ、私の場合秘書艦をやってますので、そこまで一緒したら皆に悪いんですけれどね」

 

 彼女の、又は彼女達なりの線引き、協定なのだろう。もちろん、提督は知りえぬ事であるのだが。

 初霜の即答を聞いた提督は、頭をかきながら天井を仰ぎ、朝食時の初風を思い出しながら肩をすくめた。

 

「なんだ、普通の事なのかい、あれは」

 

 


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