執務室の新人提督   作:カツカレーカツカレーライス抜き

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第16話

「では、失礼します。おやすみなさい提督」

 

「はいはい、おやすみ」

 

 退室する大淀を見送ってから、提督は軍服の襟を緩め第一ボタン、第二ボタンと外していく。いつも背を預ける執務机の椅子ではなく、来客用にと用意されている筈のソファーに腰を下ろし背もたれに寄りかかった。

 

「あぁー……きつい」

 

 しんどい、と提督は言わなかった。執務室に篭ってこそいるが、実際には休憩時間も多く、また時間を確保できればその分も休憩に回せる上に、仕事自体が簡単だ。提督に与えられる仕事は大した物ではなく、精々書類仕事で手が痛くなった、目が疲れた、といった程度だ。提督が口にしたのは、きつい、である。今現在、彼が置かれている状況が彼には少々きついのである。

 

「提督ってのは、なんなんだろうねぇー……」

 

 提督自身が提督と呼ばれる存在であるが、何を以って提督か分かっていない。ただ、彼の下にいる艦娘達は提督は提督であり、司令は司令であり、司令官は司令官であるのだ。ただそれら全てが彼を表す記号であるとするなら、

 

 ――凡庸たる身には過ぎたる荷物じゃああるまいかね? なぁ?

 

 軍服のボタンを全て外し、乱暴に脱いでソファーの上、自身の隣に投げつけ、提督は首を回した。暫しぼうっと天井を眺め、布団を出そうかと腰を上げかけて――

 

「お疲れなの……司令官?」

 

「――!!」

 

 声もなく悲鳴を上げた。提督の肩に置かれた手は小さく、冷たく、背後から耳元にかけられた吐息は暖かかった。提督は大淀が閉めていったドアを凝視してから、緩慢に後ろへと振り返った。

 そこに、少女が一人居た。

 長い艶やかな黒髪で右目を隠す、一種独特な服を着込んだその少女は。

 

「は、早霜……さん?」

 

「はい、司令官……私はこうして……いつも見てるだけ。見ています……いつでも……いつまでも」

 

 駆逐艦夕雲型17番艦、早霜であった。

 穏やかな相で何やら人を不安にさせる様な事を口にしていた早霜に、提督は疑問をぶつけた。

 

「は、早霜さん?」

 

「0000。0時です」

 

「時報じゃなくて」

 

「なんですか、司令官?」

 

「君、どうやって部屋に?」

 

 提督の僅かに震える声に、早霜は飼い主に撫でられた猫のように目を細め、提督の肩においていた手を緩やかに動かし、提督の肩の上で白魚の如き指を歩かせた。

 

 ――軍服の上着一枚と侮るなかれ、か?

 

 提督は隣に投げ捨てたそれに少しばかり意識を飛ばした。なぜなら、布一枚でもあれば、早霜の指の動き一つで背を振るわせたという事実を、隠せたかも知れなかったからだ。

 たった一枚、それが無いだけで、早霜は提督の反応を感じ取り更に目を細めてしまっている。駆逐艦娘であるのだから、何を大人の真似をしているのだ、と笑い飛ばしてもいいのだろうが、提督が知る限り駆逐艦娘も様々だ。睦月型、暁型や改暁型とも言える初霜、若葉といった少女らしい姿の艦娘もいれば、今提督の背に手を置き静かに微笑む女性と言うべき駆逐艦娘もいる。

 

 ――この年頃の女は、本当に意味不明だというんだよなぁ。

 

 同年代だった頃には不可思議な生き物で、年をくってからは正体不明の生き物だ。と言うのが提督の考えだ。

 とにもかくにも、イニシアチブを取り戻さなければならない、と提督はもう一度同じ事を口にした。

 

「早霜さん、どうやってこの部屋に」

 

 そう言いつつ、そこの壁を通り抜けて、等と早霜が言ってきたら如何しようかと真剣に考え込む提督に、早霜は細めていた目を閉じて応えた。

 

「大淀さんが出た瞬間に、入れ違いで」

 

「やだこわい」

 

 想像以上の怖さであった。提督の馬鹿げた予想こそ裏切ってくれたが、この早霜は確りと物理的にこの執務室に入ってきたのである。しかも誰にも気付かれずに。今後もこういった事があるかも知れないと心中震える提督を、誰が笑えようか。

 

「あらあら……怖いだなんて司令官……」

 

 彼女の長姉、夕雲にも似通う笑みで相を染め、早霜は提督の肩を揉みだす。力加減は絶妙で、まだ肩こりも無い若い提督の体には少々くすぐったい物であった。

 だが、誰かに肩を解されるという行為が、提督の中にあった"きつい"という何かを溶かしていく。

 

「あー……すまないねー」

 

 色々と言いたい事、思う事はあったが、提督は肩から力を抜き早霜に身を任せる。それがまた嬉しいのか、早霜は提督の後頭部に頬ずりしながら肩揉みを続けた。

 

「早霜、まだお風呂に入ってないからー……、じゃなくてだね、君も女性じゃないか。簡単に君、そんな事をしちゃあいけないよ」

 

「簡単でなければ、いいのね……?」

 

「まだ早いと言っているのは分かっている筈だから、くんで貰えないものだろうかなー?」

 

 そうね、と小さく呟き、早霜は頬ずりを止めて小声で囁いた。

 

「お風呂、お背中流しましょうか……?」

 

 提督の耳元で囁いたそれは、提督にとってスイッチとなった。提督は横に移動して早霜の手から逃れ、斜め後ろに立つ彼女を見上げる。

 

「あまり大人をからかうな……なんてのは月並みだけれど、それ以外言葉が無いよ」

 

 名残惜しげに自身の手の平を見ていた早霜は、スカートの裾を一つ払うと、床に、ぺたん、と座り込んだ。女の子座り、とも言われる座り方だ。その姿のまま、早霜は提督をじっと見つめている。さて、これはまたなんだ、と口をへの字にした提督は早霜に問うた。

 

「それは……?」

 

「司令官を見下ろすなんて、失礼でしょう……?」

 

「平気でやる艦娘は何人もいるんですがそれは」

 

「十人十色」

 

「あ、はい」

 

 なんとも先の読めない早霜の様子に、提督は頭をかいて自分が座るソファーの反対側、テーブルを挟んでもう一つ置かれているソファーを指差した。

 

「はい、こっち」

 

「えぇ、そうね。ソファーに座るほうがいいのね……」

 

 早霜は立ち上がり、またスカートの裾を一つ払ってソファーに座った。

 提督の隣に。

 

「いや、いやいや早霜さん、僕が指定したのは」

 

「?」

 

 飼い主の顔を見上げる子猫のように、早霜は小首をかしげ提督を見つめ、提督はその視線から逃げるように顔を俯かせ肩を落とした。

 

「どうしたの司令官……大丈夫よ、私がついているわ……」

 

「憑いているに聞こえるんですがそれは」

 

「……ふふふふふ、ふふふふふふふ」

 

 提督の返しが気に入ったのか、早霜は笑い始めた。ただその笑い方は……控えめに言っても心臓に良くない笑い方であった。多分暁や潮やグワット辺りが見たら一人で眠れなくなるレベルだ。

 

「……で、君はなんの用事でここに?」

 

「……」

 

 提督の言葉に早霜は何も応えず、浮かべていた笑みも消して静かに提督の目を見て在るだけだ。引き込まれる、飲み込まれる、引きずり込まれる。そう感じた提督は身じろぎし、

 

「……っ」

 

 何か硬い物が自身の尻の下にある事に気付いた。僅かに腰を上げ提督は下にあった物を取り出して、あぁ、と呻いた。先ほどまで提督の下にあり、今は提督の手に在るのは彼がソファーに投げ捨てた軍服の上着だ。

 

「ありゃまぁー……」

 

 早霜の事も一時的に頭の隅に置いて、提督は白い上着を両手で持って広げる。目の前にあるその服に、少しばかりの違和感を覚えて首を傾げると、提督の頭の隅に追いやられていた早霜が声を上げた。

 

「司令官……これではなくて……?」

 

 早霜の手に在る金色のボタンを見て、提督は自身が目の前で広げる上着に視線を戻した。確かに、そこにあるべき筈のボタンが一つ足りていない。提督は、ありがとう、と応えると早霜の手に在るボタンへと手を伸ばし――空振りした。

 

 互いに何も言わず見詰め合う。提督は目を瞬かせ、いったいなんだ、と口にするより先に、早霜が提督に手を差し出した。

 

「え、えーっと?」

 

「貸してください……」

 

「……えーっと?」

 

「ボタン、直しますから……」

 

 早霜の言葉に、提督はもう一度目を瞬かた。早霜はその間にも、ボタンをテーブルの上に置き、あいた手でスカートのポケットから小さな裁縫セットを取り出していた。

 

「直しますよ……司令官」

 

 再度、提督の耳を打った早霜の声に、提督は手に在る上着を早霜に渡した。

 

「あの、髪縫い付けたりとか、真っ赤な糸で、呪、とか縫わないよね?」

 

「……しましょうか?」

 

「やめてくださいしんでしまいます」

 

 口を閉じた提督は、早霜の手元を眺めた。早霜の手は淀みなく流れるように動き、瞬く間にボタンを直した。そういった事があまり得意ではない提督から見れば、見惚れるほどの鮮やかさだ。

 

「凄いものだなぁ」

 

「夕雲姉さんに、花嫁修行として……教えられたの」

 

「……長波とか朝霜も?」

 

 お世辞にも淑やかとは言えない二人の姉の名を提督の口から聞いた早霜は、裁縫道具をポケットに仕舞いながら淡い笑みを見せた。

 

「十人十色」

 

「便利な言葉だよ、それ」

 

 肩をすくめる提督に、早霜もそれを真似て肩をすくめた。そして早霜は無言で立ち上がり、執務室の扉へと近づいていく。その背に、提督は声をかけた。

 

「ありがとう、早霜さん」

 

 早霜は振り返り、目を細めて一礼した。

 入ってきた時とは違い、提督の目の前で早霜は扉を開け、パタン、という音と共に執務室から消えた。提督は今しがた彼女の手によって修繕された上着を手にしたまま、あいた手で頭をかいた。

 

「いや、本当に何をしにきたんだろう……早霜さん」

 

 人は、用事がなくともやって来る。提督がそんな事に気付けたのは、十分後に金剛達が執務室に来た後だった。

 

 

 

 

 

 

 消灯された駆逐艦娘寮の廊下を、早霜はゆっくりと歩いていく。その彼女独特の気配もあって、仄暗い夜が似合い過ぎるほどに似合う早霜の姿は、見る者が見れば相当に驚いた事だろう。

 例えば、夕雲がこの場に居ればこう言った筈だ。あら早霜さん、何か良い事でもあったの? と。

 

 早霜はスカートのポケットに手を入れ、そこから何かを取り出し目の前まで持って行き、じっと見入った。消灯によって色を失った世界はそれを判然とさせず、ただ、窓からさしこむ星の光だけを取り込み、鈍くではあるが、きらり、と僅かに光った。

 

「ふふ……ふふふふふ……ボタン、司令官のボタン……ふふふ……第二、ボタン……」




おまけ

暁「ひ、響! ひびき! ひ び きー!」
響「……なに? 眠いんだけれど……」
暁「ろ、廊下に幽霊がいたの! 幽霊がいたの!!」
響「……おやすみ」
暁「おきて! おきてよ! と、トイレ一緒に! ね、一緒に行ってあげるから!」
響「レディ(笑)」
暁「もう! もう! もー!! 大事な時にはおなか壊す癖にー!!」
響「……」
暁「あ……ごめん……」

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