風纏う神射手
不意打ちだった。
ファルシオンを抜く暇すら与えられず、こうして首元に狙いを定められている。その事実に、ルキナの全身が恐怖で粟立った。
場に緊張が張り詰めている。タクミの臣下たちはみな、凍りついたかのように微動だにしなかった。いつ爆発するかも分からぬこの状況に、誰も声ひとつ発せないでいる。それどころか主君の突飛ともいえる行動に、乱心を疑っている臣下すらいる始末。それほどにタクミのそれは常軌を逸していたのだった。
ひんやりとした冷気がルキナの身体に吹きつけてくる。凍てつく風に、妙な肌寒さを覚える。
この風はどこからやって来るのだろう。ふとそんな疑問が湧いた。
ルキナは注意深く相手の獲物を観察した。弦がほのかに青白い燐光を放っている。タクミの構える弓から、風の唸るような音が聞こえてくる。そしてつがえられた矢を中心に、とんでもない質量をともなった大気が渦を巻いている。あの弓が、どんな威力を秘めているかはいまだ未知数。それ故に脅威といえた。この世で理解出来ないものほど怖いものはない。しかもこの至近距離で撃たれたらまず避けることは不可能。
何だろう。
あの弓矢をまとう、不思議な力は何だろう。
(普通の弓矢じゃないことは、確かなようです……)
もしかしたらファルシオンと同じ神器だろうか。おそらく風を操る類の。それならばこの凍てつくような冷気を発しているのも頷ける。
ぶるっとルキナの身体が震えた。
寒気からきた震えだけではない。純粋な畏れもあった。目の前で対峙する男から放たれる異様なまでの殺気に、呼吸すらままならないほど恐怖していたのだ。
(何でしょう……この人を突き動かしているモノは)
ごくりと唾を飲み込んだ。
たしかに自分は異国の――いや、違う世界を生きる人間だ。警戒の一つや二つもしよう。特に戦時下にあるとなれば、よそ者を歓迎する気になれないのも分かる。アクアやオボロがそうであったように。しかし、あの二人はここまでひどくはなかった。
なぜなのだろう。
タクミがここまで他者に敵意を剥きだしにする理由は何なのか。何が彼をここまで駆り立てるのだろうか。ここまでくると、執念めいたものを感じずにはいられない。
(はっきりいって、異常です)
とても生きた心地がしなかった。
ほんの少しでもルキナが動こうものなら、タクミは一寸の躊躇いもなく矢を放つだろう。この男ならやりかねない。そう思わされるだけの凄まじい気迫があった。
濃縮された殺意が今、塊となってルキナを貫かんとしている、そのとき、
「白夜に、暗夜の軍勢が踏み込めない理由を知っているか?」
ようやくタクミが重々しい口を開いた。
「いえ。存じません」
ルキナは答えながらも、幼い頃の記憶を必死に巡らせる。絵本の記述によると、暗夜王国は険しい山と谷に囲まれた国だと伝え聞いている。そこから考えられるとすれば、白夜王国に攻め込もうにも、地理的に厳しいという点だろうか。
だがタクミの口から出た言葉は、ルキナの想像も及ばないものだった。
「ミコト皇女――僕たちの母さんが、結界を張っているおかげなんだ」
「……結界?」
「そうさ。母さんの結界は敵の戦意を奪うのさ。この結界のおかげで、奴らは白夜に踏み込みたくても踏み込めないのさ」
これにはルキナも驚愕した。
普通、結界といえば敵の攻撃を防ぐ用途として使われている。いわば物理的な防衛手段として用いられるのが主流である。勿論、結界にも弱点がある。どれほど堅牢であろうと、壊されればそれまでである。新たに結界を張りなおそうにも一度破られた結界を張りなおすまでには莫大な時間を要する。それまでに術者に危害を加えられようものなら一間の終わりだ。ルキナの認識ではそんなものだった。
それがまさか侵入者の精神に作用し、戦意そのものを削ぎにかかるとは。
(成る程。結界にはそんな使い方もあるんですね)
素直に感心させられた。先程ヒナタが言った「白夜王国にいる限り、その心配は無用」といいう言葉の意味がようやく分かった。
通常、結界を破壊するためには術者に危害を加えなければならない。だが結界を破壊しようにも足を踏み入れた瞬間、戦意そのものを喪失してしまうのだ。つまり、それが意味するものは術者が結界の中にいる限り、まず結界を破壊することは出来ないということ。
やたらな物理結界よりも使い勝手がいいうえに、その防衛性能は頭一つ飛び抜けている。しかも無用な血を流すことなく、未然に争いを回避できる。
もちろん並大抵の者においそれと出来る技ではないだろう。ミコト王女がそれを身に着けるための道程は生半可なものではなかったはずだ。文字通り、血の滲むような努力で習得に至ったのであろう。
よく考えられたものだ。目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだと思わされた。
タクミが言った。
「白夜の守りは万全であると誰もが安堵し、胸を撫で下ろした。これで平和が保たれると。だが、狡猾な暗夜がそれで諦めることはなかった。それどころか母さんの結界の影響を受けない化物どもを産み出したんだ」
「化物?」
「その名はノスフェラトゥという、今しがた僕たちが戦った奴らのことさ」
そんなことも知らないのか、と言わんばかりにタクミは眉をひそめている。
「向こうは魔術師たちを数多く抱えているからな。陰険な奴らの手にかかれば、そんなモノを作り出すことも朝飯前なんだろう」
まったく忌々しい話だよ、とタクミは吐き捨てた。
「けれど、未だに暗夜の人間が敵意を抱いたまま、足を踏み入れるまでには至っていない。だからあんな出来損ないの兵士どもを、躍起になって送り込んでくるんだ。というか、それがやつらの限界なのさ」
馬鹿にするように、タクミは鼻を鳴らした。
「だけど、僕はふと考えた。暗夜は結界の影響を受けない、新たな戦士を作り出したんじゃないかってね」
「……え?」
一瞬、意味を図りかねた。
かと思うと、タクミは矢を握りしめる腕に、より一層の力を込めた。
「随分と珍しい服を着ているんだな。少なくとも、白夜のものでないことは確かだ。僕にはどことなく暗夜っぽく見えるんだが、僕の気のせいだろうか?」
お前が暗夜の手先なんだろ――そう言わんかりの無言の圧力が、ルキナに襲いかからんとしている。
「そ、そのようなことは……っ!」
ルキナは戦慄した。目の前の男が殺意を燃え上がらせていく様子に、ただただ圧倒されてばかりいる。そう。自分はこの男に命を握られている。弁解しようにもどうすればいいのやら。この男の機嫌を損ねようものなら、どうなるものか分かったものではない――そのときだった。
「やめて! その人は何も悪うない!」
声を張り上げたのはモズメだった。なけなしの勇気を振り絞り、生まれたての小鹿のように、膝を震わせながら、ルキナとタクミの間にかろうじて立っている。
「その人が助けてくれなかったら、あたいは殺されてた。その人は……命の恩人なんや!」
「モズメ……といったか」
タクミが言った。ぞっとするほど無感動な目だった。
「引っ込んでいろ。僕は今、そこいる奴と話をしているんだ」
徹底した拒絶。身体の芯から凍りつくような、冷え冷えとした声音に、モズメがびくびくと身を縮こまらせた。もう見ていられないほど可哀相な怯えっぷりだった。それでもルキナの前からどこうとはしなかった。
「モズメさん。下がっていてください。あなたのお気持ちは嬉しいです。ですが、あなたまで身を危険に晒す必要はないのですよ」
「……嫌や」
ルキナの声にも、モズメは頑として従おうとはしなかった。
「あたいはお母を助けられなかった……そのうえ、命の恩人まで死なせてしもうたら、村のみんなに顔向け出来ひん」
「モズメさん……」
そんな、今にも崩れ落ちそうなモズメの身体を支えたのは――スズカゼだった。
「タクミ様。モズメさんの言うことは本当だと思います」
「スズカゼ。お前まで何のつもりだ」
「この人は――マルスさんは、自分からモズメさんの村を助ける申し出をしてくれました。口ではなく、行動で示すことで。無関係の人間のために、迷うことなく自らの身を投げ打つなんて真似は生半可な覚悟で出来ることではないでしょう。私だけではなく、アクア様もその瞬間を見届けております」
「アクア姉さんが……?」
タクミが一瞬たじろいだかに見えた。それでも矢を引き絞る腕を緩めようとはしなかった。
「さあ、どうだか。そいつは僕たちに近づくための演技をしているのかもしれない。敵意がないふりをして、油断したところを襲い掛かってくる可能性だってある」
「タクミ様。もうお止め下さい」
さすがに見ていられなくなったのか、固唾を守っていたオボロとヒナタが、タクミの前に立ちはだかった。
「ヒナタ、オボロ……お前たちまで」
「たしかに怪しげな服装をしておりますが、彼女から暗夜の臭いはしませんでした。おそらく無関係の人間でしょう」
「なんだか手柄を取られたみたいで悔しいけれど、その二人が駆けつけていなければ、モズメは殺されていたかもしれねぇ。それは疑いようのない事実だからな」
タクミはふぅっと息を吐き出すと、構えていた弓をようやく下ろした。やれやれ、とでも言いたげに。
「……疑ってすまなかった、旅の人。いきなり矢を向けた無礼を許して欲しい」
タクミその言葉に、一同は一斉にため息をついた。
ルキナの身体から力が抜けていく。なんとか危機は脱した。緊張が解け、どっと疲れがおもりのように押し寄せてきた。ノスフェラトゥとの戦闘よりも神経をすり減らした気がする。九死に一生を得た気分だった。
「僕のことを憎んでくれても構わない。けれど、王族という立場上、あらゆる可能性を考慮しなければならなかった。上に立つ者として、部下たちを危険から守らなければならなかったからだ」
「王族? タクミさん、あなたも王族なのですか?」
「ああ、そうだ」
王族。途端に親近感が湧くのを感じた。こんなところで自分以外の王族と出くわすことになるとは。身分が高いことは予想していたが、まさかタクミが王族だったとは思いもよらなかった。
ならば、タクミの言葉に嘘偽りはないだろう。国は違えど、王は民を一番に思いやるものなのだ。そう思うと、先程の脅迫まがいの行動にも、腑に落ちるものがあった。
「ところで、『も』とはどういう意味なんだ? 聞き捨てならないな」
「言葉通りです。私はイーリスという国で聖王をやっています」
「イーリス……聞いたことがない名前だな」
案の定というべきか、タクミは首をかしげた。
頭では分かっていてもそんな反応をされると胸が痛んだ。途方もなく遠い場所に来てしまったことを痛感する。この世界で、自分は一人ぼっちなのだと否応なしに思い知らされる。
「マルス……といったか。あなたは何の目的があって、白夜にやってきたんだ。観光、という訳でもなさそうだが」
「それが……私にもよく分からないのです」
「分からないだって? 何故だ?」
「気づいたら、この場所にいたのです。どうにも記憶が曖昧でして、目が覚めたら私はこの見知らぬ世界にいた……そうとしか説明できないのです」
「ふぅん」
タクミは武器こそ降ろしてくれたが、警戒までは解いていなかった。値踏みするような目つきで、じろじろとこちらの一挙一動を探っているのが分かる。このタクミという男は、猜疑心の強い性格の持ち主のようだ。
たしかにタクミが自分のことを疑う気持ちも分かる。素性の掴めない者ほど、信用には値しない。ましてや自分のことさえ曖昧な女など。
「それならシラサギ城に来るといい」
「シラサギ城?」
ルキナが目を丸くした。
「白夜の王都にある、僕たちの城だよ。そこには莫大な蔵書を集めた資料館もある。あなたの国のことも何かわかるかもしれない。それと、さっきのお詫びも兼ねて、シラサギ城を案内したいが、どうかな?」
しばしルキナは黙考する。たしかに白夜の王都ともなれば、調べ物も捗るだろう。
自分はこの世界について知らないことが多すぎる。無知といってもよい。
疑り深いタクミのこと。ルキナを手元に置いて監視する意図も含まれているかもしれない。彼の真意が何であれ、ルキナにとってはありがたい申し出であることには変わりなかった。
「タクミさん。あなたのお心遣い、感謝致します」
ですが、とルキナは言葉を切った。
「申し訳ありません。故あって先を急ぐ身ゆえ、その申し出はお受け出来ません」
自分の故郷のことを思うと、落ちついてはいられなかった。一刻も早く、イーリスに帰りつく手段を見つけなければ。
考えるだけでも逸る心を抑えられそうになかった。
そもそも帰れるという保障すらないのだが。
「そうか、残念だ。もし王都に立ち寄る機会があったら、その時は是非ともシラサギ城へ立ち寄ってくれ。歓迎するよ」
「ありがとうございます。それでは、これにて失礼致します」
「待て。一人でこの山道を抜けるつもりか。せめて近くの村まで送ろう」
「いえ、お構いなく」
そう言うと、呆気に取られるタクミたちの前で、ルキナは身を翻した。
◆ ◆ ◆
「マルスさん。お待ち下さい」
「スズカゼさん……」
まさか追ってくる者がいるとは思わなかった。
「この辺りは、熊や猪が出ます。まれに、”妖狐”が出るという目撃情報もあります」
一人で勝手に出歩くな。わざわざそう言いに来たらしい。なんとお節介なことだ。
「あのノスフェラトゥとかいう化物に比べれば、可愛いものでしょう」
「そうだとしても、女性の一人旅は危険です。せめて近くの村までお供いたします」
ため息をついた。これもタクミの差し金だろうか。というよりかはスズカゼの性格に拠るところが大きいだろう。彼は困っている人を見捨てられないお人よしなのだと思った。
「スズカゼさん、安心してください。私はあなたのことを覗き魔だとは思ってはいませんよ。だから変な気づかいはしなくてもいいのですよ」
「いえ、決してそういうわけでは……」
自分の失態を蒸し返されて、むず痒そうな表情を浮かべている。そんな困った顔がおかしくてついつい笑ってしまう。
「ところで、マルスさんはこれからどこへ行かれるのですか?」
「暗夜王国へ向かおうと思っています」
そう告げた途端、スズカゼの顔が目に見えてこわばった。
「……差し支えなければ、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ノスフェラトゥを生み出したのは暗夜なのですよね?」
「はい」
「奴らは私たちの故郷に出てきた化物と同じ雰囲気があるのです」
「雰囲気、ですか」
「はい。それで暗夜に向かえば何かが分かる。そんな気がしたのです」
はっきりとそう告げた。
ただの気のせいとは思えなかった。あまりにもあの化物は”屍兵”と酷似していた。
そのノスフェラトゥを産み出した暗夜王国に向かえば何かが分かるかもしれない。
そう思った。
そこに根拠だとか、大層な理由があるわけでもない。強いて言うならばルキナの直感がそう告げていた。
暗夜に何かがある。
それだけは間違いない。
「成る程……よもやマルスさんに、そのような事情があったとは」
「私を止めますか?」
「いえ、今さらそんなことを考えたりしませんよ。どうせ私が何を言っても、あなたは暗夜へ行くことを止めないでしょう。マルスさんからは、そんな強い意志を感じます」
スズカゼが呆れたようにため息をついた。
「国境まではお送り致しましょう。私がお供できるのはそこまでです」
「構いません。元より一人で行くつもりでしたから」
「国境を越えるとなると、それなりの準備をしなくてはなりません。差し出がましいようですが、マルスさんの格好は目立ちすぎます。その点も考慮する必要があるでしょう」
「たしかに、その通りですね」
オボロやタクミのこともある。英雄王を模したありがたい装束も、裏目に出てしまっている。勘違いして斬られなかったのがせめてもの幸いであろう。出来ればこれ以上の面倒ごとは避けて通りたい。
「幸いなことに、この近くに私の知り合いの住む村があります。少々気難しいところがありますが、彼女に相談すれば必需品を都合してくれるはずです」
「備えあれば憂いなしですね」
ルキナは微笑んだ。
正直に言うと、スズカゼの同行ほど心強いものはなかった。この世界の地理に疎い自分では、暗夜に辿り着くことすらままならなかったであろう。
いつの間にか頼もしい旅の仲間を得たものだ。
「では、日が暮れる前に出発しましょう」
ルキナは頷くと、スズカゼの知り合いが住むという村へ急いだ。
◆ ◆ ◆
一方、その頃。
ルキナとスズカゼの後をつける二人組がいた。
いつからそこにいたのだろう。男たちは影法師のように、寄り添っていた。特に何をするでもなく、沈黙したまま、ルキナとスズカゼとは一定の距離を保ちながらその背後に寄り添っている。
一種、異様な光景だった。しかもルキナたちは二人組みに気づいた様子はない。それが事の異常さを際立たせている。
男たちは、のっぺりとした表情をしていた。ぱっと見ただけでは頭にも残らないような、地味な顔立ちをしている。
無個性。
それがこの二人に共通した特徴だった。それこそ周囲の風景と見間違わんばかりに。
「あれは白夜の忍か」
感情を徹底して押し殺した声。苛酷な訓練を積んだ賜物である。
「もう一人の女は……何者だ?」
「見慣れない格好をしている。おそらくこの地の者ではないだろう」
「暗夜へ向かうと、あの女は確かにそう告げたな。どうする。一旦、コタロウ様に報告するか?」
「いや、それにはまだ早い。我々には情報が少なすぎる。それからでも遅くはないだろう」
もう一人がうなずく。
「あい分かった。引き続き、監視を続行する」
「全てはフウマ公国繁栄のために」
その言葉を皮切りに二人組の姿は、忽然と消えた。そこには最初から何もいなかったかのように、変わらない静寂が立ち込めている。