「なんでなん……?」
モズメの口から声にもならない、ほとんど掠れきった
気づけば、子供の頃から慣れ親しんだ裏山にいた。今、モズメは窪みに身を横たえていた。自分ひとりがすっぽりと覆い隠れるような窪みだ。運悪く、猪や熊と遭遇してしまったときも、こうしてじっと息を殺しながら、脅威が過ぎ去るのをひたすら待ち続けたものだ。
念には念をいれて、自分の身体に土をまぶせることで体臭を消してはいる。野生動物の嗅覚ならある程度は誤魔化せるだろう。しかし、モズメを追いかけてくる奴らに、野生動物と同じ手段が通じるとは到底思えなかった。なんせその相手は、暗夜王国で作り出されたという化物なのだから。
「なんでこんなことになったん?」
考えれば考えるほど嫌な気分になってくる。自分たちは、何かとりかえしのつかないようなことをしでかしてしまったのだろうか。自分たちは何にも悪いことをしていない。それなのに何故こんな目に遭っているのか。
贅沢な暮らしや、
だけど、モズメが本当に望んだのはそんなものではなかった。
村の皆がそこにいて、家では家族が笑いかけてくれていて、あとは温かい食事さえ囲めればいい。ただ、ゆっくりと毎日を生きていたかった。そんな当たり前の幸せがそこにあれば十分だったのに。
それなのに、こうして白夜と暗夜の戦争に巻き込まれてしまった。
どうしてこんなひどい目にあっているのだろうか。
「みんな……みんな死んでしもた……」
止まらない嗚咽。否応なしに悲しみが胸を突き上げてくる。
「うぅっ……うぅっ……あたい、どうしたらええん?」
そのときだった。化物たちの唸り声が聞こえてきた。村を襲ったやつらがすぐそばに迫っている。
はっと口を押さえつけた。泣いてばかりでは駄目だ。泣いても何一つ状況は改善しない。泣いてばかりではやつらに自分の居場所をみすみす教えてしまうことになる。それだけはどうしても避けなければならない。
頭ではそう分かっていても、しゃくりが止まらない。涙と鼻水がぐしゃぐしゃに混ざり合ってすごく気持ち悪かった。
そんな自分がますます惨めに思えてきて、涙が滝のように溢れていった。
これでは隠れていてる意味がない。見つかるのも時間の問題だろう。
早くここから逃げなくては。
だけど、身体に力が入らない。腰を抜かしてしまって上手く立ち上がれない。
がさがさと草を踏み分ける音が耳を打った。かなり近い。
(何かが来る!)
戦慄が身体を駆け抜けた。全身の毛という毛が震え上がる。
脳裏には身体をばらばらに引き裂かれた母親の姿が思い浮かんだ。
(も、もう駄目や)
目を閉じて、歯を食いしばった――その瞬間。
「大丈夫ですか?」
人の声。それも女の声だ。
その事実は、暗闇の中に光が差したような安心感をモズメにもたらした。
勇気を振り絞っておそるおそる顔を上げてみると、そこには奇妙な風体をした一組の男女がいた。
男の方は上半身から下半身に至るまで緑色で身を固めているのだ。服装こそ奇抜だったが、整った顔立ちから、かろうじて白夜の人間であるとわかった。
女の方はモズメにはよく分からなかった。この白夜王国では見たこともないような出で立ちをしていたからだ。だが、顔立ちから所作のいたるところにまで気品が漂っているのだ。例えるなら白夜に住まう王族のような、選ばれた者たちに特有の優雅さがあった。
少なくとも自分は今すぐ取って食われるわけではないらしい。
そう思うとますます身体から力が抜けていった。
恐怖ではない。正真正銘の安堵からきた脱力感だった。
◆ ◆ ◆
「あ、あんたたちは……?」
森の中で見つけた少女の有様といったらひどいものだった。とても怖い思いをしたのだろう。つぶらな目には溢れんばかりの涙が溜まっていて、顔中には鼻水と涙がぐちょぐちょに混ざり合っている。しかも全身が泥まみれで、あちらこちらを擦りむいたような痕が、目に痛々しかった。
本当に無我夢中だったのだろう。命からがらここまで逃げてきたのが窺える。
スズカゼはともかく。特に自分のほうは見慣れない格好をしているだろう。無用な警戒を抱かせる必要もない。
「もう大丈夫です。私たちがあなたを守ります」
少女の恐怖を取り除いてやるように、ルキナは務めて穏やかな声で言った。
「あなたのお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
「あ、あたいはモズメや……」
モズメは訛りのある声でそう言った。東の国によく見られる訛り方だった。
どうやら腰が抜けてしまっているらしい。
ルキナがそっと手を差し伸べてやると、モズメがはっとしたような顔で握り返してきた。自分がへたり込んでいることをようやく思い出したかのように。ルキナの手をつかんで、やっとのことで立ち上がれるようになると、緊張の糸が切れたように、ほっと息をついた。
「モズメさん。他に生き残っている人たちはいますか?」
「お母も、みんな……もうおれへん。あたい一人だけや」
「そうですか……」
歯軋り。やはり手遅れだったか。
だが、あの村の惨状を見た限り、たとえ一人といえど生きていただけで上出来というものだろう。
このモズメという少女は運が良かった。当人からすればあんなひどい目に遭っておきながら手放しにそうだと言えないだろうが、あの惨状で生き残れたのは運が良いことだ。
この手で救わなければいけない命が目の前にある。
その思いは、ルキナに剣を執らせる十分な動機であった。
たとえそれがちっぽけなものであったとしても。この私が誰かを守る刃となる。それだけだ。
「みなさん。気をつけてください。やつらが来ます」
スズカゼの緊迫に満ちた声が飛んだその瞬間――
「グオォォォ――ッ!」
木々の間から、異形が姿を現した。緑色の体表をした大男が現れたのだ。
「なっ……!?」
ルキナは驚愕の声を放っていた。
もちろんその不気味な姿に面食らったのもそうだ。だが、ルキナを驚かせた理由は別にある。
(あの化物……まさか屍兵か?)
姿形こそ異なるが、この化物――私たちの世界にいた”屍兵”とよく酷似している。
「”マルス”さん、何をしているのですか!」
スズカゼの声ではっと我に返る。
緑色の化物が、ルキナめがけて腕を振り下ろしてきた。
とっさにファルシオンを頭上に構える。
刃に拳が激突した。
その反動でルキナの身体がわずかに吹き飛んだ。一メートルほど地面を抉りながら、ようやく止まった。
「なんという馬鹿力だ」
ルキナの手の平では、ファルシオンが未だにびりびりと振動している、
すさまじい破壊力だ。異常なほど盛りあがった上腕部から繰り出される拳の一撃をもらおうものなら、自分の身体などただでは済まされないだろう。やつにとって人体はスポンジのように柔らかい。ひねり潰すことは造作もないのだ。
しかし、それだけのことだ。あの巨腕にさえ注意すればたいした脅威にはならない。こっちに剣がある分、リーチではルキナが遥かに勝っている。
「当たらなければ、どうということはありませんね!」
がら空きとなった胸部めがけ、ルキナは剣をなぎ払った。
心臓を真一文字に裂かれ、巨体があっけなく崩れ落ちる。
「こいつらは一体……?」
ルキナの問いかけに、スズカゼが答えた。
「ノスフェラトゥという、暗夜王国で生み出された化物です」
「……あんや?」
目を丸くするルキナに、
「マルスさんは、暗夜王国をご存知ないのですか?」
スズカゼは真顔でそう問い返してきた。
ルキナは一瞬、馬鹿にされているのかと本気で思った。しかし、当のスズカゼは真面目そのものである。ルキナはまじまじとスズカゼの顔を見つめながら言った。
「いえ、しかと聞き及んでいます。暗夜というのは神話で語り継がれる王国の名前ですよね?」
いにしえの英雄王マルスが、暗黒竜メディウスを討伐するよりも遥か昔のこと。
白夜と暗夜。そう呼ばれる王国があったのだという。平和を愛する白夜と、戦によって勢力拡大を目論む暗夜。その両国が互いに争い合っていた時代のことを、神話の世界とそう呼んでいる。
どんなに世間知らずでもあっても、その伝説を答えられない者はいない。イーリスに住む子供たちでさえ常識として知っている。まだイーリスが平和だった頃、父や母が、寝物語として語り聞かせてくれたのをルキナは覚えている。
だがルキナのその反応を意外に感じたのは、スズカゼのようだった。
「神話? 何を言っておられるのですか」
「……え?」
予想外の言葉に、頭が真っ白になる。
「マルスさんのおっしゃる言葉の意味が分かりませんが、白夜と暗夜は存在しております。今でこそ表立ったぶつかり合いはありませんが、それもいつまで持つか定かではありません。現に、こうしてやつらはノスフェラトゥを私たちの国に送り続け、無関係の人間を襲い続けています」
スズカゼの声が遠く感じる。
あまりにも途方もない話に現実味が湧かなかった。もしかしてまだ本当の自分は眠りに就いていて夢の中をさまよっているのではないだろうか。そう言われた方がまだ現実味がある。
竜の門をくぐったのは確かだ。この世界に自分がいること何よりの証明だろう。だが、虹のふる山に着いてからというものの、その辺りの記憶がどうも曖昧な気がする。神の竜と呼ばれているナーガが、そんなあからさまなミスを犯すとは思えなかった。
(いや、そんなことよりも――私は何か重大なことを見落としてないか?)
思い出せそうにない。でも何かを忘れてしまっていることは分かる。それが分かっているからこそ、余計に気持ちが悪かった。
「マルスさん、どうされたのですか?」
「いえ、何でもありません」
偽名で呼ばれることに奇妙なおかしさを感じた。
マルスの名も知られていないこの世界で、偽名を使うことにどれほどの意味があるのだろう。
(白夜と暗夜……こんな遠いところまで私は来てしまったのか)
遠く離れた大陸ならば渡航手段さえ何とかしてしまえばいい話だ。船でも何でも借りてしまえばいい。だが、それはあくまでも物理的な話だ。そもそもこの世界にはイーリスはおろか、いにしえの英雄王さえ誕生していない時代だ。
子供の頃は本の中の世界のことをよく夢見たものだ。自分がその中の一員として登場人物たちとお喋りをしたり、一緒に冒険をしてみたり……なんとも微笑ましい思い出たち。そんな空想を、幼心に何度思い描いただろうか。
こうして絵本の中の世界に、まさか自分が旅立つことになるとは思いもよらなかったが。
あちらこちらからノスフェラトゥの雄叫びが響いてきた。後ろで、モズメが怯えたようにびくりと身を震わせた。
「……どうやら囲まれているようですね」
周囲を木に囲まれているため敵の規模の全貌は窺い知ることは出来ない。
だが、その数は十や二十は優に越えているだろう。
さしものルキナとスズカゼでさえ、それほどの数に取り囲まれてしまったら苦しいものがある。
それに、今の二人には守らなければならない相手がいる。敵の一挙一動に目を光らせながら、背後にいる少女へ危害が及ばないよう気を払わなければならない。なかなか厳しい戦いを強いられるだろう。
それでもやらなければならない。少女を守れなければ、自分たちがここに来た意味がない。
内心落ち着かないことだらけだが、おちおちそんなことを言っていられなかった。
不要な雑念は刃を曇らせるだけ。今は生き残ることを優先しなければならない。
ファルシオンを握る手に力を込めたそのときだった。
「ああ、嫌だわ。そこら中から暗夜の臭いがする」
どこからともなく女の声が響いた。
振り返る。
「暗夜の者が視界に入るだけで虫唾が走るわ。ここにいる奴は一匹残らず、最大の苦しみを与えて屠ってやる!」
魔王。そう呼んでも差し支えのない顔立ちをしたモノがいた。槍を手にしたその出で立ちからは殺気が煙のように立ち昇っている。
ルキナはとっさに身構えた。
「き、気をつけてくださいスズカゼさん。新手が現れました。そ、それもかなりの手練のようです」
「マルスさん、心配には及びません。あの方は味方です」
「み、味方? あの方がそうなのですか?」
とても友好的な雰囲気には思えない。そもそもアレは話が通じる相手なのだろうか。
かと思うと、ルキナの視線に気づいたように、魔王がこちらをギロリと睨みつけてきた。
あまりの眼光の鋭さに、身体が凍りついた。
「暗夜の者……! 倒さなくては!」
女がそう言い放った途端、手にした槍が払われる。すさまじい気迫で、殺気の篭った一撃を振り下ろしてきた。
「オボロさん、落ち着いてください。この方は私たちの協力者です」
スズカゼの声で、槍の動きがぴたりと止まった。ルキナの首元に触れるか触れないかの絶妙な位置で。もしスズカゼの声が少しでも遅れていたなら、ルキナの白い喉元を容赦なく抉りこんでいただろう。
「協力者……敵じゃなくて?」
オボロ――そう呼ばれた彼女は、ルキナを油断のない目つきで睨みつけている。値踏みするような目つきだった。少しでも怪しい動きをすれば即座に斬り捨てんばかりの形相である。
「格好こそ白夜では見慣れないものだけど、暗夜の臭いはしないわね」
そっと槍を降ろした。
ついでに魔王みたいな表情も成りを潜め――少女のような若々しい顔立ちが現れた。まるで別人のような豹変ぶりにルキナは面食らった。これがこのオボロとかいう女の素の表情らしい。普通にしていれば綺麗な顔立ちなのに、随分と勿体無いことをしている。
「おいおい、オボロ。俺を置いて先に突っ走るなよ」
オボロの背後から、青年が息せき切って走りこんできた。どことなく猿を連想させる、野性味あふれた顔立ちをしている。刀を手にしていることから、それ青年の獲物なのだろう。
そしてオボロの名を知っていることから、この青年は彼女の知り合いであるらしいとルキナは思った。
青年はルキナたちの姿を認めると、破顔一笑した。
「俺はヒナタだ。で、こっちの魔王みたいな顔してるのがオボロってんだ。よろしくな!」
そう名乗った青年――ヒナタは手を差し出してきた。ぽかんとなる。遅れて、ルキナは握手を求められていることに気づく。おずおずと手を差し出して応じると、ヒナタは白い歯を覗かせてにっと笑った。愛嬌のたっぷり滲んだ、人懐っこい笑顔であった。オボロとはまるっきり正反対の行動に、ルキナは戸惑いを覚えた。
「あの……あなたは、私を疑わないのですか?」
こっちに来てからというものの、仕方がないこととはいえ、常に疑惑の眼差しがつきまとっていた。しかし、この男からはそれを感じられなかった。そもそもこちらを疑うことさえしてなかったように思える。
ヒナタは一見して、隙だらけのようだがまったく油断はしていなかった。それどころか全身から抜き身の刃のように研ぎ澄まされた危うさを放っている。もしルキナが不意打ちでファルシオンを振るったとしても、この青年は即座に反応して見せるだろう。そう思わされるほどの鋭さを感じた。
ヒナタもオボロ同様、かなりの使い手であることは疑いようもない。
「おうよ。白夜王国にいる限り、そういう心配は無用だからな」
「え?」
それはどういう意味だろうか。
だが、ルキナがその疑問を口にするよりも前に、
「オボロ、ヒナタ。突っ走りすぎだ」
よく通るような声が、轟いた。
その瞬間、オボロとヒナタはぴんと背筋を正しながら、声のする方向へと振り返っていた。
「タクミ様!」
彼らの背後には、大量の兵士が列を成していた。
「どうやらタクミ様の部隊が到着したようです」
スズカゼがほっと胸を撫で下ろしながら、言った。
成る程、彼らが村を助けに派遣された部隊か。
ルキナもスズカゼの隣で安堵の息をついた。なんとも絶妙なタイミングで助けが来たものだ。ルキナは改めて軍勢を――その正面に立つ若い男に目を見やった。
あれがタクミだろうか。
彼は、少年と呼んでも差支えがない、幼い顔立ちをしていた。オボロやヒナタを始めとする大勢の人間を従えていることから、やはり身分の高い人間なのだろう。ルキナやスズカゼには目もくれず、部下たちに指示を飛ばしている。
彼が率いる部隊の兵士たちは、誰も彼もが見慣れない武器ばかりを手にしている。どれもイーリスではお目にかかったことのない武器ばかりである。
神話の世界。
その言葉がいよいよ現実味を増してくるのをルキナは感じた。やはりここはそうなのだ。何らかの事情で、自分は迷い込んでしまったのだ。
にわかには信じられなかったが、いよいよその事実を認めければならないようだ。
「この場を制圧するぞ。これ以上、白夜の地を奴らの好きにさせるな。ノスフェラトゥ共を一匹残らず駆逐するんだ!」
タクミの号令を皮切りに、白夜の軍勢たちは一斉に動き出した。
かなり迷いましたが、今回はキャラの紹介に当てたかったため戦闘シーンはだいぶ削らせてもらいました。
戦闘シーンを期待していた方は申し訳ありません。ゲームのようにスキルなどを駆使した、手に汗握る戦いもいずれ描いていきたいので、もうしばらくお付き合い願います。
それと、活動報告にてアンケートを行っていますので、よろしければご協力下さい。
尚、アンケートの答えは感想欄に書いてしまうと規約違反に当たるそうなので、お手数お掛けしますが、活動報告のコメント欄、もしくはメッセでお送りください。
よろしくお願いします。