イーリスが崩壊してから間もなく、ナーガから宣託が下った。
(次に月が欠ける日の早朝。”虹の降る山”にある神殿にて、竜の門が開かれます)
竜の門とは、こことは異なる世界――異世界へと通じる扉だという。世界と世界を繋ぐ門だ。
そして次に月が欠ける日とは、明日の早朝。つまり、それまでに”虹の降る山”にたどり着かなければならない。
ルキナたちの足取りは自然とそちらへ向いていた。今更、全員に意思を確かめるまでもない。
――未来を変えるために、過去へ飛ぶ。
故郷を捨てることへの未練はなかった。帰る場所はとうに
屍兵たちによって全てを踏み潰され、数千年にも及ぶ歴史にイーリス聖王国は終止符を打つことになった。邪竜ギムレーが率いる心無き怪物たちの手で、聖王による統治は終わりを告げた。
よりにもよって自分の代で。
だからこその時間遡行だった。自分たちの失点を取り戻し、過ちをなかったことにする。普通ならこんなこと出来やしない。やり直せるだけ、自分たちはまだまだ運がいい。そう思った。
やり直すのだ。全てを。自分たちの両親を取り戻すのだ。
滅んでしまったイーリスを救う。それが皆の変わらざる意思だった。
翌日の早朝。ルキナたちが虹の降る山にたどり着いた。ここは神竜ナーガの力が満ちた山。歴代の聖王が覚醒の儀を行ったとされる聖なる地である、はずなのだが、
「屍兵!? まさかやつらが、ここまで蔓延っていたなんて……」
腐臭。鼻がひん曲がるような臭い。
驚愕の面持ちで、ルキナが目を見張った。
見間違いだろうか。ナーガのありがたい加護に満ち溢れているにも関わらず、神殿の周囲にはそれは見たことないほどの屍兵の大群がいた。ネズミ一匹たりとも通りかかろうものなら、飛びかからんばかりの殺気を漲らせている。幸い、まだこちらに気づいてはいないようだが。
邪まな存在である彼らは、聖地に足を踏み入れることはない。この地に満ちる聖々を極端に嫌っているのだ。そのはずだったのに。これはどういうことだろう。やつらは何食わぬ顔で、聖地を土足で踏み荒らしているではないか。
これは明らかな異常事態。どう見ても偶然そこに通りかかったという訳でもなさそうだ。
これは罠だ。奴らは明らかにルキナたちがここにやって来ることを知っていた。
「ギムレーの力はここまで強くなっていたのか……」
それともギムレーの力が、ナーガの力を上回りはじめているのか。もしくは神竜ナーガの加護が弱まっているのか。
真相は分からない。
とにかくこれは由々しき事態だった。一刻も早く過去に戻らなければ。ナーガの力が弱まりつつある今、この機を逃せば次の機会は無いだろう。
だが、逆に考えてみればこれは好機だ。
ギムレーにとって、ルキナたちに過去に行かれてしまうのは非常に都合が悪いのだ。過去に戻ったものをどうにかするだけの力を、やつは持ち得ていない。だからこそ大げさともいえる警備網をここに敷いたのだ。それが答えだ。
「しかし、あの包囲網をどうやって抜ける?」
「全部やっつけちゃう?」
武器を構えて、意気込む仲間たち。
「いえ、全部を無理に相手取る必要はありません」
首を振るルキナ。
「全員で強行突破をしかけましょう」
こちらの数は十ニ。
向こうの数は千かそれ以上に及ぶだろう。
それだけの大軍を相手に強行突破をしかけるのは、いささか分の悪い賭けだと言えた。
だが、策を弄するだけの余裕は残されていない。長引けば長引くほどこちらが不利に陥る。
迷っている時間はない。たとえそれがどんなに愚かなことであっても、手段を選んでいるだけの時間は残されていない。
竜の門をくぐりさえすれば、こっちのものだ。
「私がしんがりを務めます。みんなは先に行ってください」
皆、頷いた。ルキナの決定に躊躇いはなかった。
彼女には生まれつき指導者としてのカリスマ性が備わっていた。それはこの十ニ人の仲間たちの間でも例外ではない。
もちろん王族の血を引いているということも関係してはいる。けれど、それは決して聖王という肩書きだけのものではない。十ニ人の中でも突出した剣の才能があったからこそだ。彼女は王族としての立場に甘んじることはなく、ひたすら剣の腕を磨いていたのだ。それはイーリス聖王国の剣士で、彼女の右に出るものはいないと称えられるほど。
だからこそ、安心して背中を任せられるのだ。
「宝玉と炎の台座を取り戻し、エメリナさんの暗殺を止めることで運命は変わるはずです。私たちの手で未来を変えて見せましょう!」
それが号令の合図となり、十ニ人が一斉に駆け出した。
屍兵たちが足音に気づき、振り返る。即座に、獣のような咆哮が上がった。
鼓膜が破れるような亡者どもの合唱で、空気が震動する。大地が怒りの唸り声を上げているようだった。まるでこの世界を見捨てて逃げ出そうとしている自分たちへの怒り。
だが、そんなもの畏るるに足らない。ギムレーに比べればまだまだ可愛げがある。その数が多いことを除けば。
四方八方から襲いくる屍兵どもを、ルキナは斬り伏せた。
仲間たちから注意を逸らすため、出来るだけやつらの目に留まるよう派手に暴れまわった。敵は一番後方に位置する自分に狙いを定めている。一番手の届きやすい少女へと。良い傾向だった。これは自分が囮として機能しているということに他ならない。この調子ならば上手くいきそうだ。
「十分、引き付けられましたね」
横目で、みなが神殿の中に入ったのを見届けた。もう十分に役目を果たした。とうに竜の門を潜り抜けたことだろう。あとは自分が門へ飛び込むだけだ。
自分も神殿の入口へ向かおうと、身を翻したそのとき、
「ルキナ」
ふいに声をかけられた。
昔懐かしき声。つい振り返ってしまう。
そこには見知った姿が――見たくもなかった姿がいた。
「ルフレ……お母様……?」
信じがたい姿を前にして、わけもなく声が震える。
ああ、なんということだろう。
そこにいたのはずっと前、行方不明になったはずの
「はい、そうですよ」
どうして振り返ってしまったんだろう。どうしてその声を聞いてしまったんだろう。
見ずに済めばよかった。心からそう思った。何もかも見なかったことにして走り去ってしまえばよかった。そう出来ればどんなに良かったことか。
「見ない間に、随分と大きくなりましたね」
優しい声で語りかけてくる。
そういう母の姿は十代の少女のように若々しかった。何かの比喩でもなく、十年前から外見が何一つ変わっていない気がする。幼い頃のルキナの記憶からそのまま抜け出してきたかのように、その姿は変わりない。
性質の悪い夢でも見ている気分だ。
「会いたかったですよ。ルキナ」
「ええ、私もお母様と、ずっとお会いしたいと思っていました」
そうして、ルキナは最愛の母の喉元に、ファルシオンの切っ先を向けた。
「ルキナ……どうしたのですか。もしかして、怒っているのですか?」
困惑しきった母の表情に、心がちくりと痛む。
剣を握る腕がわずかに震える。すぐに押し殺す。
どうしてそんなに悲しそうな顔をする。十何年も娘を放っておいたくせに。今さら母親づらをするだなんて。おかしいじゃないか。否定したいのに。そう思えば思うほど深い泥沼にはまっていく。それは紛れもなく母親の声で、母親の表情で。
母は静かにため息をつくと、伏し目がちに言った。
「無理もありませんね。私はあなたの元からずっと離れていました。あなたが一人で王国を支え続けていたというのに、私は何ひとつ手伝うことが出来ませんでした。……こんな私は、母親失格ですね」
「……うるさい、黙れっ!」
反抗期の娘を見やるような目に、ひどくいらいらする。いつまでこんな茶番劇を演じているつもりなのか。
たまらず、私は叫んだ。
「私は騙されないぞ、ギムレー!」
あのときのことを、今でもはっきりと思い出せる。
ルキナの父――前聖王クロムは、仲間の手で殺されたのだという。それも父が最も信頼していた仲間に、である。父に仕えていた忠臣からそう伝え聞かされた。
父を殺したその裏切り者の名は、
目の前にいるこいつが、父を殺した張本人だ。
「何だ、つまらないですね。少しは遊べるかと思いましたが、全て筒抜けだったとは」
憎たらしいことに、ギムレーは私の母親の姿でそう言った。
なんという悪趣味。いや、違う。母の身体が奴の本体なのだ。
数千年前、初代聖王によって封印された際、やつは肉体を失った。魂だけの存在となった奴は復活の機会を虎視眈々と窺っており、自分の魂と適合する存在を探し求めていた。だが、ギムレーの力を宿せるだけの力を持った器は現れず、大抵はその強大な力に耐え切れることなく、肉体が腐り落ちていった。
母にはその才能があった。ギムレーの器となっても存在を保てるほどの、特殊な資質の持ち主だった。要するに、適合者だったのだ。
そしてギムレーは母の肉体を依り代として選んだ。母の肉体がギムレーの容れ物となって、邪竜をこの世に繋ぎとめていた。
「で、どうするんですか。私を殺しますか? 別にそれでもいいですけど、あなたに私を殺せるんですか?」
動揺を隠し切れず、腕が震える。それを押し殺すため、歯を食いしばりながらファルシオンを握りしめる。
「まあ、あなたにそんなこと出来るわけないですよねぇ。血を分けた肉親を殺せるほど、あなたは非情になれませんものねぇ!」
あははははっ、と
今の所有者はギムレーだが、あれはあくまでも母の身体だ。元々、母だったモノがあの中にいる。つまりギムレーを殺すことは、自分の母親を殺すことになる。優しかった母が死ぬ。
世界を救うということは、親を殺さなければならない。
「父を殺した張本人が目の前にいるのに手を出さないだなんて、これほど傑作なものはありませんよねぇ!」
こいつを殺したところで父は生き返らない。
分かっている。
分かっているけれど、こいつのせいでイーリスが滅んだ。父が愛した国が滅んだ。そう思うと、胸の奥からとめどなく怒りが溢れた。たとえ親殺しの咎を背負うことになろうとも、やらなければならない。
ルキナは柄を握りしめた。この距離なら三秒とかからない内に相手の首をはねることが出来る。やるなら今だ。やつが油断している今が絶好の好機だ。
大地を踏みしめ、飛び掛らんとしたそのとき、
「ル、ルキナっ……やめてください!」
身体の動きがとまった。心臓をわしづかみにされたような息苦しさがきた。
母の怯える顔に、身動きが取れなくなった。
それは紛れもなく母の声で、それは紛れもなく母の表情で――
全身から力が抜けていく。立つことさえままならずその場にへたりこんでしまう。愚かにもファルシオンを取り落としてしまった。
ああ、私はどこまで間抜けなんだろう。あいつは世界を破滅に追いやった元凶だ。倒さなければならない敵だ。
けれど、私に肉親を殺せるわけがない。優しかった母の温もりを忘れることが出来ない。母の身体で、あんな顔をされたらどうしようもないじゃないか。
「本当に、あなたは甘ちゃんですね」
「くっ……!」
ギムレーの声で、闇の触手が私の身体にまとわりついていたことに気づく。これでは身動きが取れない。もっとも、動けるだけの力なんて残されていなかったが。
「責任感の強いあなたのことですから、仲間を逃がすために囮になることは予測の範囲内でした。邪魔者さえ入らなければ、あなた一人どうにでもなりますからね」
その言葉で、全てが罠だったことを確信する。敵の狙いは仲間たちではなく、最初から私だった。だから仲間たちをあえて見逃したのだ。私はそれに自分からはまってしまった。
「さて、このままあなたを殺すのは簡単です。でも簡単に殺してもつまらないですし。屍兵どものオモチャにしてもいいですけどぉ、それだとなんか物足りないなぁ」
うーん、どうしましょうか、とギムレーは顎に手を当てて首をひねっている。
「あ、いいこと思いついちゃいました」
ぽん、と拍手を打った。
「たしかあなた、過去へ飛ぶためにここへやって来たんですよね。それならお望みどおり、過去へ飛ばして差し上げましょう」
「……何だと?」
どういう意味だ。そう聞き返そうとしたとき、私の身体を暗黒の渦が覆い始める。これはギムレーが創り出した竜の門だろう。
どうにも嫌な予感がする。やつの言葉を額面どおりに受け取れるほど私は楽観していない。それはやつ自身が一番危惧していたことではないか。
(聖王ノ娘よ。覚えテおクがイイ。お前ニハ、死よりモ深イ苦シみヲ味わわせてやる!)
ふいに、脳裏に声が蘇った。数日前、崩壊するイーリスでギムレーが放った呪いの言葉。死よりも深い苦しみ。
やつはファルシオンで斬りつけられたことを未だに根に持っている。
まさか……その可能性に思い至ったとき、母が屈託のない顔で微笑んだ。
「運命を変えたかったんでしょう? よかったですね。夢が叶って」
その声で確信に変わった。何も時空を越えた先が、イーリスだとは限らない。それとは全く無縁の時代に飛ばされる可能性だってある。そして、やつはそれを実行するつもりだ。
だが、すでに流れに抗えない。闇に飲み込まれて行く。
「ああ、安心してください。過去に逃げたあなたの仲間たちは、私がこの手で直々にトドメを刺してあげますから」
「やめろぉぉぉぉっ――!!」
喉の奥から絶叫がほとばしる。
おかしくて堪らない、というふうにギムレーは膝を叩いて笑っている。それもそのはず、奴は最大の復讐を私に果たしたのだから。
「神話の世界でせいぜいもがき苦しむがいい!」
その言葉を最後に、ルキナの意識は闇の底へと消えていった。
ようやくここまで書けた……長かった。というか予定よりも長くなりすぎた。当初の予定だと、6000文字くらいでルキナには過去へ行ってもらう予定だったんですが、まさか10000字を越えるとは思いもよりませんでした。
長かった序章は終わり、次からは本編。あの世界です。