「柿崎隊に退却の指示を! 同時に斉藤隊に突撃の指示を! 車懸かりの陣の間断が無いようにと伝えよ!!」
八幡原。そこで上杉謙信に代わって上杉諸将に指示を出しているのは、僅か12、3歳ほどの若き姫武将だった。
少女の名は直江兼続。通称はかねたん(本人は認めていない)。彼女は戦災孤児であったのだが、謙信にその才を見出だされて登用され、今では上杉の若き俊英として期待されている姫武将である。
今も、八幡原にて両軍が衝突したとほぼ同時に姿を消した謙信の代わりに上杉軍のお家芸とも言える『車懸かりの陣』の指揮を一手に受け持っている。
「武田との兵力差は明らか……この戦は有利に進められるな」
「兼続殿。油断は大敗を招くぞ。余裕を持つ分には構わないが、努々油断だけはなされるな」
「そんな事はわかっているさ、幸村。この兼続、謙信様の期待に背きはしない」
したり顔で戦場を見ている兼続をたしなめたのは、上杉の客将である前田利益の臣、真田幸村。
彼女は彼女で真面目という点で兼続と気が合ったのか、慶次に言われて今は兼続の護衛として馬を並べていた。実は兼続、弓はそれなりだが、刀での斬り合いはまだ少し苦手であったのだ。
しかし、幸村は先程から何かと妻女山の方をチラチラと見ている。兼続もその事には気付いていたが、特に何も言わない。妻女山には、彼女の主と実の姉が撤退戦を繰り広げているのだ。
「慶次と昌幸殿が心配か?」
兼続が慶次を呼び捨てなのは、普段からかわれている意趣返しらしい。慶次に効いているかどうかは微妙だが。
「それは……」
「私には家族がいないからその気持ちはよくわからないが……隠す必要は無いんじゃないのか?」
幸村は少し驚いたように兼続を見る。非常に理詰めな軍略を立てる兼続らしくない情に流された言葉に驚いたのだろう。
普段の兼続は非常にクールな印象で、言葉も理詰めかつ思った事をズバズバと言ってしまうので、何かと人付き合いが少ない。そのために兼続は家中では能力は認められながらも、冷徹無情な人物だと思われているのだ。
……その実は、人情味溢れる純情な愛すべき弄られキャラなのだが。
「殿は武士の誉れとはいえ、やはり死ぬ可能性が高い。その心配は人として正しい感情だ」
「かねたん殿……」
「ちょっと待て幸村。お前今どさくさに紛れてかねたんって言っただろう!?」
しんみりした空気が全部台無しになった。
「ああ、これはすまない。かねた……兼続殿」
「ほら! 今も言いそうになってた! 絶対言っただろ! 心の中で私の事をかねたんって呼んでるんだろう!!」
「そ、そんな事はないぞ?かねつ……かねた………じゃなく兼続殿」
「迷いすぎだ~!! お前までとうとう慶次に毒されたか!?」
「い、いや、この前慶次様が『かねたんは絶対にかねたんって呼ばれて喜んでいる』と言っていたから……」
「知ったような口をきくな~!!」
……とにかく、八幡原での本隊同士の戦いは、上杉軍有利で進んでいた。
ーーーーーーーー
矢が、迫る。
そして避ける術の無い俺はそのままーー
「ーー何をぼぅっとしておるのだ小僧ォォォォォ!!」
右から誰かに突き飛ばされ、俺は槍を持ったまま転がる。
……誰かとは言ったものの、俺を小僧なんて言う人は一人しかいない。甘粕の爺さんだ。
だから、俺はすぐさま立ち上がり、爺さんにお礼を言おうとして……
「助かったぞ爺さ……!!」
……言えなかった。
その時、俺の目の前に映った光景は、馬場の鎚こそいなしたものの、矢と、高坂の小刀をその身に受けた爺さんだった。
「じ、爺さん……」
「……ふぉっふぉ、ワシも焼きが回ったもんじゃな。まさかこの程度の矢や太刀を防ぎきれんとはのぅ……」
そう言って、爺さんは口から血を吐きながら笑う。
足は既にガクガクと震えはじめているものの、その手に握った太刀と鎚はしっかりと握ったまま離さない。……そこでようやく、俺は爺さんが俺の身代わりになったのだと理解した。
「爺さん……!?なんで……!!」
上手く言葉が紡げない。俺の頭の奥で、『あの光景』がフラッシュバックする。どうしようもなく気分が悪い。考えが纏まらない。俺が今何をしているのかがワカラナイ……
「さてのぅ……気付いておったらこうなったのじゃ。ワシもよくわかっておらん」
爺さんの言葉で、何とか意識を戻す。
「くっ……!! 離しなさい!!」
「……………離……す…………!!」
「ふぉっふぉ、そう簡単に離すとワシの面目がたたんのでのぅ。……甘粕隊!! ワシらの最期の奉公じゃ!! 派手に死に花を咲かせてみせぇい!!!」
『『ーーおおォォォォ!!』』
爺さんが叫ぶのとほぼ同時に、俺の背後から次々と甘粕隊の騎馬隊がなだれ込んで来る。どうやら甘粕隊の中でも老いた者だけを集めたらしく、白髪の目立つ者しかいない。
だが、年の数だけ老練された経験と技術は伊達ではなく、たちまちに武田軍を押し返して行く。その間に、若い兵達はどんどんと撤退させられていった。
高坂と馬場も騎馬隊の突撃に呑み込まれたのか、既にその姿ははるか遠くにあった。
俺はすぐに爺さんの側に寄り、その体を支える。
「爺さん!!年寄りの癖に何を無茶してんだ!!さっさと退いて治療を……」
「……要らん。それよりお前も早く退けい。ここはワシらが受け持つわい」
「爺さん達だけにやらせるかよ!!代わりに俺がやるから爺さんは早く…」
「早く退けと言うておるのがわからんのか馬鹿者が!!!」
突然の一喝に一瞬俺は動きを止めてしまう。その一瞬で爺さんは俺の手を振り払って自身の馬に乗ってしまった。
「まだ若い者が命を捨てるような真似をするでない!! お前にはまだまだ時間があるじゃろうが!! その時間を自ら捨てるような真似はこのワシが許さん!!」
厳しい口調だった。いつも「ふぉっふぉ」と呑気に笑っていた爺さんと同じ人物とは思えないほどに。
「ワシらは長く生きた。もう成長も何も無い。なれば、命が尽きるその前に最期の奉公をするのが
爺さんが手を上げて何かの合図をすると、突然寄ってきた騎馬二騎に両腕を掴まれる。
「!? 止めろ!! 離せよ!! 爺さん、何を一人で格好付けてんだ!? 似合わねぇから止めろ!! こんな所で死ぬんじゃねぇ!!
景継!!お前も黙ってないで何とか言えよ!! お前の爺さんだろ!?」
俺は黙って涙を流す、俺の腕を掴んでいる姫武将……爺さんの実の孫の甘粕景継に爺さんを説得するように言うが、景継は俯いたまま泣きじゃくって動かない。
「……景継、今、ここで家督をお主に譲る。これよりお主が甘粕の当主じゃ。お主にはワシを越える武の才が備わっておる。その才を用いて謙信様と甘粕家をより一層盛り立てよ。……きっちりとした形式で渡せないワシを許してくれ」
「……はぃ、しかと、承知しました……!!」
擦りきれてしまいそうな声で、けれどもしっかりと了承の返事を返した景継を満足そうに見ると、爺さんは俺の方を向く。
「爺さん!! 考え直せ!!」
「……慶次よ。お主には天性の武術の才が備わっておる。その力を真に使いこなす事が出来れば、お主は天下に名を残す武人になれるじゃろう。またその人懐っこさもまた天性の才じゃ。あの謙信様がお主を殿を任せるまでに信頼しておるのもその人懐っこさ故じゃろうて」
「んな事今はどうでもいい!! 早く止血しねぇとヤバいだろうが!! 」
出せる限りの声で叫ぶ。
……確かに、爺さんの言う通り人は老いれば死ぬ。だからこそ爺さんにはこんな所で死んで欲しくはない。孫娘を泣かせたままに逝って欲しくはない!!
「景継よ。慶次よ。ワシの死を無駄にしたくなくば、強くあれ。大きくあれ。上杉に、天下に……甘粕景継ありと、前田利益ありと、その名を轟かせよ!!」
その言葉を最後に、爺さんは武田軍に突撃していく。それを合図にするように、景継ともう一人が俺の腕を掴んだまま八幡原に向かって駆け出した。
「待てよ!! 離せ景継!! 離せよ!! 爺さぁぁぁぁん!!!」
「敵将甘粕景持!!小山田信茂が討ち取ったりぃぃ!!」
また、俺の手から大事なものが一つ、零れ落ちた。
「……景継」
「……はい」
「すまねぇ……」
「……慶次殿のせいではありませんよ。祖父は、自分の意思で逝ったのですから……」
「それでも……すまねぇ」
ーーーーーーーー
「慶次様!?武田軍は……」
「……話は後だ。とにかく今は撤退……八幡原の謙信に合流する」
「なっ!?………いえ、承知しました」
そのやり取りだけで察してくれたのか、それとも爺さんがいない事から察したのか……とにかく朱乃はすぐに撤退の準備を進めてくれた。
……いつもなら困惑する朱乃の人の感情の機微に対する鋭さが、この時は何よりありがたかった。
その後すぐに撤退を始める。松風は俺に着いてきてくれていたのか、気付いた時にはすぐ近くにいた。
そして、後は千曲川を渡れば八幡原に着くと言う時だった。
「慶次様……別動隊が見えました。このままでは……」
追い付かれる。それは見れば明らかな事だ。朱乃も言う必要は無いと悟ったのか、口をつぐんだ。
……さて、こちらの状況はすこぶる悪い。残っている兵は既に1500人ほど。甘粕の爺さんが討ち取られたこともあって、士気は低い。
それに対して、向こうは恐らく1000も減っていないだろう。士気も高いのがここからでもわかる。
……ここから八幡原に渡る手段はただ一つ。『雨宮の渡し』……つまり、俺達の目の前にある橋を渡り、更にもう一つ橋を渡るしかない。
……なんだ、ならまだ手は残ってるじゃねぇか。
「昌幸」
「はい」
「景継と一緒に全軍で八幡原に向かえ。俺が別動隊を押さえる」
「えっ」
流石にそんな事を言うとは思っていなかったのか、朱乃は呆けてしまう。
「それだけはなりません!! 私に貴方様を見捨てよと仰いますか!?」
「そんな事は言ってねぇよ」
「言っているも同義です!!貴方様一人で武田の別動隊全てを押さえられる筈が無いでしょう!?いくら慶次様が武が立つとはいえ多勢に無勢にも程があります!!」
叫ぶように俺を引き留めようとする朱乃。俺は、そんな朱乃の目をしっかりと見据える。
「昌幸。今回ばかりは引けねぇんだ。男にゃ引けねぇ、引いちゃいけねぇ時がある。俺にとってのそれが今なんだよ」
「ですが……!」
尚も何とか説得しようとする朱乃の頭に、軽く手を置き、撫でる。置いた瞬間、朱乃は体をビクリと跳ねさせたが、そのままされるがままに頭を撫でられていた。
「心配すんな。絶対に死にゃあしねぇ。まだ甘粕の爺さんの遺言も果たしてねぇ。尾張の世話焼きとの約束も守れてねぇ。まだ、こんな所で死ねねぇんだよ。俺ぁ。
だからお前は、ただ俺を信じて待ってろ」
「っ……!!」
俺がそう言った瞬間、顔を俯かせてしまう朱乃。
「……ズルいです。そんな事を言われたら……ますます本気になっちゃうじゃないですか……!!」
「……行け。時間が無い」
「……慶次様。無事に帰ったら……私の言うこと一つ、絶対に聞いてもらいます!!」
朱乃は、俺にそう言い残すと、景継と共に駆けて行った。
「さて……」
振り返ると、一つ目の橋の向こうにいる武田の別動隊が、既に目と鼻の先にまで迫って来ていた。
先頭はやはり高坂と馬場の四天王。その二人が橋の前で止まると、後ろの全軍も同時に止まる。
「……また………あー……お前か……………」
「もうここまで来たら逃げる必要もありません! 押し通らせてもらいます!」
「通りたきゃ勝手に通れよ……ただし、俺を退かせられたらの話だがな」
挑発も込めて笑う。すると、腕に自信があるのか、一人の武将が橋を渡って来た
……俺も、何も考えなしに残った訳じゃない。俺が今いるのは千曲川の中洲だ。つまり、俺は橋を渡った武田軍と、飛んでくる矢だけを防げばいいのだ。
まぁ、ここまで堂々と一騎討ちに来る奴がいるとは思ってなかったのだが。
「我が名は諸角虎定!! 武田が家老なり!!」
「前田慶次利益。上杉の客将だ」
「もはや言葉は要るまい。いざ尋常に勝負!!」
そう言って槍を振り上げて突進してくる諸角虎定。家老だけあってその動きは機敏だが……
「遅い」
「は?」
一閃。ただそれだけで勝敗が着いた。
他の奴からすれば速いのかもしれねぇが……俺にとっては遅い。遅すぎる。
俺は諸角虎定に軽く黙祷した後、再び武田別動隊を睨む。
「……次はどいつだ?」
俺の言葉に答えたのは、矢だった。
恐らくは臆病な将や頭のいい将が命じたんだろう。物凄い数の矢が俺に向かって飛んでくる。
……が、飛んでくることがわかっている矢なんざ、怖くも何とも無い。
再び皆朱槍を横に一閃する。その時に生まれた風圧で矢の第一陣がただのトゲ付きの棒と化した。
続く二陣目、三陣目も風圧で防ぐと、とうとう別動隊の兵達が橋を渡ろうと駆け出したーー
ーーーーーーーー
血で紅く染まった橋。その橋よりも紅に染められた千曲川。積み上げられるように折り重なった武田兵の死体。元よりも更に紅く染まった皆朱槍。……最早、中洲の全てが紅に染まっていた。
死屍累々、地獄絵図。今のこの場所ほどそれらの言葉が相応しい場所は他に無いだろう。
873人。それが、俺が今この手で殺めた人数だ。
あの後、しばらくして『武田本隊敗走』の知らせがあったらしく、高坂と馬場は即座に撤退して行った。多分撤退命令もあったのだろう
この戦、両軍合わせての死者はなんと7000人にまでのぼるらしい。朱乃曰く、『謙信殿も愚かな戦をしてしまったと後悔していた』そうだ。
上杉の将で討たれたのは爺さんだけ。対して武田は信玄の妹が討ち取られたらしい。後は俺が討った何人かだけだそうだ。
今は、八幡原から少し離れた善光寺の辺りで宴会をしているのだが……俺は途中で抜け出してここまで来た。
中洲の中心に腰を据え、紅く染まった地に持ってきた一升瓶をひっくり返す。
瓶の中身が無くなった頃、背後に人の気配がした。
「……慶次」
「……相変わらず鋭い勘だな。虎千代」
後ろから聞こえてくる透き通った声。それだけで後ろにいるのが虎千代だとわかる。
虎千代は、俺の後ろに立つと、そのまま話し始めた。
「また、死者を悼んでいたの?」
「まぁな」
俺のこの行動はもはや恒例化しつつある。今虎千代以外に俺を探す者がいないのがその証拠だ。
「……私は、慶次がまだよくわからない。慶次は戦は喜んで参加する。でも、人を殺すのは嫌って、敵も味方も関係なく死を悼む。喜んで、哀しむ」
「……なんでだろうな。俺にもよくわからねぇよ」
本当に、よくわからない。戦と聞くと血が騒いでくるが、いざ戦が終わると、人を殺めた罪悪感と虚しさで一杯になる。
四年前から変わらない、俺の矛盾。
俺は瓶に蓋をして、立ち上がる。
……四年、か。ある意味頃合いだな。
「……虎千代」
「何?」
「明日、越後を出る」
「……そう」
素っ気ない返事。その言葉の中に少しだけ残念さが含まれていたと感じたのは俺の気のせいだろうか。
「……また、旅に?」
「いや、旅は終わりだ。約束があるからな」
「そう……」
地面に突き刺していた皆朱槍を引き抜く。
備前で特注で作ってもらったこの先が二股に別れた豪長槍は、あの戦いを終えても刃毀れ一つ無かった。
「どこ?」
「尾張。織田家だ」
「織田……」
虎千代は何かを考えるような仕草を見せたが、すぐに俺の目を見る。
「……わかった。明日の朝には路銀を渡せるようにする」
「悪いな」
「いい。慶次には随分世話になったから」
「そう思うなら景勝共々もう少し人前で口数を増やせるようにしような?」
「……善処する」
あからさまに顔を逸らす虎千代。それを見るとついつい笑ってしまった。代わりに思いっきりつねられたが。
「謙信様~!何処にいらっしゃるのですか~!!謙信様~!!」
それから少しして、かねたんの虎千代を探す声が聞こえてきた。
「……戻るか。俺がかねたんに怒られる」
「わかった」
善光寺に虎千代と一緒に戻った俺が、かねたんにつっかかられた事と、当然の如く逆に言い負かした事は言うまでもないだろう。