「…………すぅ」
前田利久が切腹させられた直後、その仕置きに激怒した、実質尾張を支配している織田信秀が守護の斯波義統ほか斯波一族を一週間ほどで追放し、尾張は名実共に織田家の支配下に置かれる事となった
また、織田家が支配大名となったおかげで前田利久の葬儀が手厚く行われる事となったのだが……前田家新当主、前田犬千代はまだ8才の子供である。読経が終わった後の休憩で、部屋に戻った犬千代は様子を見にきた万千代に抱き付きながら泣き、その後眠ってしまったのだ
普段はあまり感情を表に出さない犬千代だが、祖父が死んだと再確認させられ、更に慶次と信奈がやけに意気投合したがために、この一週間泊まりで信奈と共に前田屋敷に滞在していたためか、犬千代になつかれた万千代が相手だったために大泣きしてしまったのだろう
ちなみにだが、信奈は葬儀に参列していない。『理にかなっていない』葬儀になど信奈が出るはずがなかった。その代わりにというか犬千代にういろうを送っていたが。死んでいる者を弔うより、生きている者を慰めるとはいかにも信奈らしい話ではあるが
犬千代の目尻には、未だに溢れそうな涙が溜まっている。気丈な子ですね、と思いながら、万千代は優しく涙をぬぐってやった
犬千代は、読経の間や焼香、棺入れの間……自身が参列している間は決して泣かなかった。先程大泣きした事から考えると、涙が溢れそうになっている所をぐっと抑えていたのだろう。まだ8才の女の子がだ
「よく、頑張りましたね……満点です」
万千代は慈愛といたわりの心を込めて犬千代の頭を撫でる。犬千代の表情が少しだけ柔らかくなったような気がした
ガララ……
「あら、お帰りなさい」
「ん?万千代?……ああ、悪いな。犬千代の面倒見てもらって」
襖を開けて、喪服姿の慶次が入ってくる。まぁこの部屋にいる全員が喪服なのだが
慶次は部屋の中を照らしている行灯の灯りを絶やさないために油を足し、そのまま万千代の横にどかっと座った
慶次の顔は少し不機嫌で、加えて疲れが見える。犬千代が出て来なかった通夜で何かあったのだろうか
「いえ、私も少し疲れていましたから」
「そうか」
慶次は犬千代の頭をわしゃわしゃと撫でる。犬千代が少しだけ顔をしかめたような気がした
「ふふ、そんな撫で方では起きてしまいますよ。13点です」
「ん~……優しく撫でてるつもりなんだがなぁ……」
慶次はばつが悪そうに頭を掻くと、犬千代の頭から手を放した
……慶次にとって犬千代は大切な義妹である。まだ会って一週間ほどしか経っていないが、それでも慶次兄、慶次兄と自分を家族に受け入れてくれた犬千代を慶次は実父や一益と同じくらいの大切な家族と認識していた
「……それで、結果はどうなったのですか?」
万千代が少し声を抑えて慶次に聞く
「家督は何とか犬千代に決められた。一部のバカ共が俺に当主になって信勝の家臣になれとか抜かしてきやがったが力ずくで黙らせた。………ただ、誰かは知らねぇが一人の婆のせいで家老職と扶持、屋敷は召し上げ。俺と犬千代は足軽に降格だとよ。新しい家老には林美作守が任ぜられた」
「そう、ですか……」
万千代は表情に影を作りながら再び犬千代を撫でる
犬千代は前田の家督こそ得たが、足軽に降格……信奈の小姓であるので表向きはそこまで風当たりは強くならないだろうが、裏で何かを囁かれる事になってしまうだろう
しかも家老職に林美作守が任ぜられたという事は……慶次の言う婆とは信奈の実母、土田御前でまず間違いない
「……にしても何者だあの婆。アイツのせいで屋敷まで召し上げになったんだ。『うつけの犬に屋敷など持たせるだけ無駄』とか抜かしやがって……!!」
どうやら慶次の不機嫌の理由はその婆のようだ
「……あまり憶測でものを言いたくありませんが、その方は姫様と弟君の実母、土田御前様でしょう」
「あん?母親?ってもうつけってオチビの事だろ?実の母親が娘をボロクソに言うか?……まぁ考え方が新しすぎる上に理詰めだからアイツの話は他人に伝わりにくいとは思うが……」
更に言うなら、信奈の素直でない性格と、分かりにくい優しさも原因に入っている。信奈の行動の合理さは、恐らく現時点では慶次と万千代、そして実父の信秀くらいしか理解出来ていないだろう
「……土田御前様は、姫様をひどく嫌っておられますから……」
「…………」
親子の対立ほど悲しいものは無い、と万千代は思っている。万千代の父は戦で討たれて死んでいるのだが、その直前に万千代は父と口喧嘩をしており、そのまま喧嘩別れとなってしまっているのだ。その事を、万千代は今でも悔やんでいる
そのせいか、万千代は信奈と土田御前の仲を取り持とうと奔走しているのだが、未だに信奈は母親と会うどころか、母親の屋敷に足を踏み入れる事すら許されていないと言うのが現状である
「………爺さんに、頼まれた」
そんな事を考えていると、屋敷の事はどうしようもないと悟ったのか、突然慶次はそんな事を言い出した
「『犬千代を頼む。あの子はまだ幼いが、将の器を秘めておる。鬼才と呼ばれたお主が犬千代を鍛えてくれれば良将になるであろう。……凡庸な儂が育てて凡将になるよりは、余程良い』……だとよ」
何とも孫思いのあの方らしい、と万千代は心の中で頷いた
前田利久は、器用ではあったが、凡庸であった。家老という職にあり、人格者で人に好かれる者ではあったが、平凡であったのだ
「会ってまだ間もない俺に大事な孫娘を預けたんだ。苦渋の決断だっただろうに……それでも、爺さんは最期まで笑ってやがった。まるで思い残す事は無いって顔でな」
「…………」
慶次は顔を伏せながら万千代に語り始める
その様子は、この一週間のような陽気な慶次のものではなく、まるで触れれば壊れて砕け散ってしまいそうな、どこか危なげな、儚い印象を受けた
そして、慶次にとっても、他人に弱音を吐いたのは初めての事だった
「俺さぁ……昔、目の前で母親を殺されたんだ」
「!」
「その時の俺はただの鍛練嫌いのガキでな……戦うどころか逃げることすら出来ないダメガキだった。襲ってきた奴らの殺気にあてられて、どうしようもなく震えてその場に立ってることしか出来なかったんだ
……んで、いざ俺に刀が降り下ろされた瞬間に、何か温かいものに包まれた……それが、くの一だった母さんだった」
「……………」
淡々と話す慶次に、万千代は掛ける言葉を失っていた
同情してほしい訳ではないことは声でわかる。自分の知っている慶次の性格から考えてもそうだろう。ただ、慶次の口調は自嘲染みていて、自虐的だった。そのせいだろうか……万千代には目の前の人物が慶次であって慶次でないような気がした
「抱き締められながら、母さんの心臓の音が弱くなっていくのがわかった。俺は慌てた。慌てる事しか出来なかった。……ただ、その場で泣く事しか出来なかった」
慶次の頬に、涙がつたう
「それから俺は武を求めた。医は学ぶ手段が無かったから無理だったが、武なら興福寺という絶好の槍の道場があった。偶々刀の師匠にも出会えた。そして運良く俺には武の才があった。……それから、俺は自分を死ぬ気鍛えた。もう、誰にも俺の大切なものを奪わせないために
……けど、俺はまた…結局、家族を護れなかった」
何かを悔いるように拳を握り、歯を食い縛る慶次
護れなかったのは利久か、それとも犬千代か。はたまたその両方か……それは慶次にしかわからない
ただ……そんな慶次を万千代は見ていられなかった。たった一週間しか付き合いは無いが、それでも慶次は万千代にとっては既に大事な親友だった
「慶次……21点です」
万千代は、慶次の頭を抱き寄せる
「……万千代?」
「貴方は……強いですよ」
「……弱ぇよ。俺は」
「強いですよ。貴方は一度は母君の死を乗り越えたのですから。母君のような事が二度と無いように己を鍛え始めたのでしょう?」
諭すように、宥めるように慶次に語る万千代。若干16才にしながら、その姿は確かに母性に溢れていた
「反省するのは満点です。しかし、後悔だけしかしないのは0点です」
「………」
「『織田の臣は皆家族』……これは信秀様の口癖ですが、姫様もそう考えておられます。つまり……貴方はもう、私達の家族なんですよ」
「!!」
慶次の背中がビクリと跳ねる。そんな慶次の頭を、万千代は犬千代同様、優しく撫でる
「貴方の心は貴方にしか救えません。ですが、その手伝い位なら私達は……私はいつでも務めましょう。だから……少しは私達を頼って下さい。でなければ0点です。友に遠慮するものではありませんよ」
「……………」
その言葉に慶次は答えず、ゆっくりと万千代から身体を離す。そして……
「てい」
「きゃっ!?」
万千代の頭にチョップを落とした
「………何するんですか」
ちょっとだけ涙目になって慶次をジト目で見る万千代。当たり前だろう。慰めた報酬がまさかのチョップだったのだから
「あっはっは!!暗いのは性に合わねぇんだよ」
「先に泣きついたのは貴方でしょう」
「昔の事は忘れた」
「ついさっきの事でしょうに……」
そんな掛け合いをして、どちらからともなく笑い合う二人
そんな慶次の顔はもう普段の陽気な慶次に戻っていた
「……万千代」
「はい」
「旅に出る」
「はい?」
突然の慶次の宣言に思わず声が裏返ってしまった
「いや、正確には出奔か?まぁどっちでもいいか」
「全然良くないです。差が大きすぎますからね?その二つ。7点です」
「相変わらず手厳しいなオイ」
「慶次補正です」
「そんな俺に厳しい補正はいらねー」
万千代はそこで大きく溜め息を吐いた
「貴方の奇行にはそれなりに慣れたつもりだったんですがね……」
「奇行は酷くないか!?」
「……で?理由は何です?」
呆れながらも特に何も言わないのは信頼しているからか。はたまた何を言っても無駄だと思っているのか。
「……前田を割らせないためだ」
その言葉に、万千代ははっとする
先に述べた通り、先代当主前田利久は人格者であった。それ故か、前田を慕う足軽達や前田と親しい将はかなり多い
そう、問題は『犬千代』ではなく、『前田』に忠な所だ。どうせ同じ前田なら、人はより権力を持てるであろう方に付く。そしてそれは皮肉にもまだ幼い犬千代ではなく、養子の慶次の方であった
慶次は、その事で犬千代と不仲になる事を、同じ前田で争うことになるのを怖れたのだ
だからこその出奔。出奔した者は基本的には二度とその地を踏めないからだ。それならば己が争いの火種にならなくてすむ、と慶次は判断した
「全く……始めに思い付くのがそれですか。バカですか?いえ、バカでしたね」
「お前本当に俺に対してだけ容赦ないな……」
「普通始めに思い付くのは説得とかそこらでしょう?」
「や、俺も犬千代も口弱いし。これは流石にお前やオチビにも頼れないしな~」
信奈に頼めば一応は解決するだろうが、それは根本的な解決にはならない。人の心はそんなに簡単なものではないのだ
慶次は立ち上がり、襖を開く。春とは言え、冷たい夜風が部屋の中の三人に吹き付けた
「でも、どうやって出奔するつもりですか?」
「なぁに、鬼婆に説教するだけの簡単なお仕事だ」
そう言うと、慶次はいつもの悪戯好きの悪い笑顔を浮かべた
ーーーーーーーー
「……さて、行くか」
翌朝、慶次は旅の支度を終えて、いざ出奔しようとしていた
そして、屋敷の玄関に差し掛かった時、玄関に何かが置いてあるのを見付けた
「何だこれ?家にこんなジャケットかコートかわからないみたいなのあったか?」
そこにあったのは、ジャケット並みに薄いトレンチコートとでも言うべきか、とにかくそんな感じの明らかに南蛮の上着であった
そして慶次が上着を広げた時に、何か紙が落ちた
慶次がその紙を拾い上げて見てみると
『四年後には戻って来なさい。遅くてもその頃には姫様に家督を譲ると信秀様が仰っていました。
それと、その上着は餞別です。南蛮人から購入した『おーだーめいど』とか言う珍しいものらしいので大事にするように』
「『Order made 』って英語だから南蛮じゃないような………ん?」
手紙を読んだ慶次がまた何かに気付く。それは上着の裏に目立たないように縫われた御守り
いつも『彼女』が身に付けているものと同じ、熱田神宮の御守りだった
「……ふっ。全く……世話好きな奴だ」
慶次は、その場で上着を羽織ってから屋敷を出た
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その日の未明、何者かが織田信秀室、土田御前の屋敷に乱入。その者は屋敷の兵を数人気絶させ、更には土田御前の顔に拳を叩き込んで逃走したという
土田御前はその者の事は知らないと一点張りで、犯人は未だに判らぬままだそうだ
……ただ、その日以来、土田御前の信奈に対する態度がほんの少しだけ柔らかくなったらしい
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『いたぞ!あっちだ!』
『くそっ!追い付かない!弓だ!弓で下手人を射るんだ!』
清洲城。その舘の外の柵に肘をつきながら、万千代は一人、城下の騒ぎを見ながら微笑んでいた
「全く……本当に不器用で、思い付きで行動する人ですね。……まぁ、そこが彼の欠点であり、また魅力なのでしょうが。総評で丁度50点です」
城下の大通りを一人と一匹の早馬と、何人かの兵士が走っていく
……信奈から拝借した望遠鏡で『彼』があの南蛮人に無理を言って買わせてもらった上着を身に付けているのを見てにやけてしまったのは万千代だけの秘密だ
「まんちよ~?なにしてるの~?」
「何でもありませんよ。少しおバカさんを見ていただけです。ほら姫様、まずは顔を洗って御髪を直しなさいませ。今日は信秀様も一日中清洲にいらっしゃいますよ」
「わかった~……」
寝起きで、まだ少し夢うつつの信奈を舘の中に連れていく万千代
そしてその途中、少しだけ立ち止まって振り返ると、もう豆粒のように小さくなってしまっている『彼』に向かって小さく呟く
「ーー本当に不器用で……ばかな