◆◆◆◆◆
【2011/07/05】
昼休み、何時もより早起きして気合いを入れて作ったお弁当を携えて一年の教室を訪ねると、小西くんは一人机に座って、昼食のパンを開封しようとしている所だった。
一緒に食べないかと誘ってみると、小西くんは少し戸惑っていたが確りと頷く。
屋上に向かうと、もう大分暑くなってきたからか、自分たち以外の人影は見当たらない。
……好都合だ。
座るのに丁度良い感じに出っ張った場所に腰掛ける。
すると、少しの沈黙の後に、小西くんが意を決した様に顔を上げた。
「あの、この前はすみませんでした。
何か、意味分かんない事言って……。
それ、謝りたくって……。
でも、何か出来なくって……」
「気にしてないよ」
小西くんは何やら気にしている様だが、自分は本当に全く気にしていない。
そもそも、小西くんに言われるまで、全く意識に上らせてすらいなかったのだし……。
小西くん自身で整理が付いていない事柄が、ふとした弾みで言葉になってしまっていただけに過ぎないだろう。
それを咎める事など、自分には出来ないし、したくもない。
まあ、今はそんな事よりも昼食だ。
早速、お弁当を広げる。
小西くんにお裾分けする分も含めて、かなり多目に作ってあるのだ。
それ故に、何時も使っている物よりも大きな、ピクニック用の弁当箱になった。
メインは勿論、昨日巽くんから聞き出した、小西くんの好物であるらしいコロッケだ。
牛肉を入れたコロッケに、豚挽き肉を使ったミートコロッケ、カボチャコロッケ、野菜たっぷりのお野菜コロッケなどを、各々2つずつ入れてある。
今朝の朝食にも出したが、どれも菜々子と叔父さんには好評だった。
こちらが食べ始めると、小西くんもモソモソとパンを食べ始めるが、美味しいとか以前に、味を何も感じていなさそうな顔で、ただ義務的に口にしている。
味が分からなくなってきている、というのは本当の様だ。
取り敢えず、ビーフコロッケを小西くんに勧めてみた。
箸は、予備の割り箸も持ってきてあるので問題ない。
最初の内は小西くんは、遠慮して食べようとはしなかった。
が、流石にパンだけでは足りなかったのだろう。
少し遠慮しながらもビーフコロッケを持っていく。
それを一口囓るなり、途端に目を大きく見開いた。
そして、ガツガツという擬音が聴こえてきそうな勢いでコロッケをあっと言う間に食べきってしまう。
「その様子だと、口に合った感じかな?」
「えっと、はい……。
なんて言うのか……。
こんなに、“味がする”って、感じた料理って……。
久し振りって言うか、……初めてで……。
……凄く、美味しかったです」
お世辞を言っている訳では無さそうな、自然な笑みを浮かべながら、小西くんは小さく頷いた。
「それは良かった。
小西くんは、コロッケが好きだっていうのを聞いたから。
頑張って作った甲斐があったみたいだ」
「聞いたって……誰から……?」
首を傾げながら訝し気に訊ねてくる小西くんに、正直に答える。
「一年の巽くん。
幼馴染み、なんだってね」
小西くんにとってその名前は予想外であったのか、驚いた様な顔をしてから、僅かに俯いた。
「完二が……」
「最近はつるまなくなった、って巽くんは言ってたけど、小西くんの事を心配してたみたいだったから。
その時に、小西くんの好物を訊いたんだ」
「えっと……。何で、俺の好物を……?」
意図を理解出来ない、とでも言いたそうな困惑した顔で、小西くんは訊ねてくる。
「前に一緒に愛屋で食べた時に、小西くん、『最近味とかが分からない』って言ってたから。
だったら、小西くんが好きな料理を食べれば、“味”を実感出来るんじゃないかと思って」
その効果はあった様で、何よりだ。
空腹は人間の敵だが、味のしない食事というのも、同じ位良くないものだと、自分は思っている。
「良かったら、他のも食べてみてくれないか?
結構自信作なんだ。
コロッケが好きだとまでは巽くんに聞いてたんだけど、どんなコロッケが好きなのかまでは分かんなかったから、手当たり次第に作ってしまってね」
材料の都合上、クリームコロッケ系は今回作ってないが。
まあ、それはまたの機会で良いだろう。
他のコロッケも勧めると、今度はすぐに箸を伸ばしてくれる。
どれも美味しく感じて貰えた様で、一つ食べる毎に、小西くんは「美味しい」と感想を述べてくれる。
コロッケを全部食べ終わった小西くんは、満足そうに息を吐いてから、少し俯いてポツリポツリと話し始めた。
「……鳴上さんって、変わってますよね。
皆みたいに、遠巻きにしないし……。
何でも分かってる様な顔で説教もしないし……。
それでも、こうやって傍に居てくれる……。
……居心地、良いです、鳴上さんと居ると」
小西くんはそう言って、何も気負った風も無く、少し嬉しそうに笑う。
「そうか……。それは良かった」
……それは、放っておけないと決めたのだから遠巻きにする訳など無いからだし、小西くんに説教出来る様な“何か”を自分は持っていないからだ。
それでも、居心地が良いと言って貰えるのは、やはり純粋に嬉しかった。
小さく頷いてから小西くんは、顔を上げて、何処か遠くを見ているかの様な優しい顔で語る。
「……俺ね、シュークリームが好きなんです。
女みたいですけど。
家の近くに、美味しい店があって、時々買って帰るんですけど……。
冷蔵庫に入れておくと、何時も姉ちゃんに食われちゃうんですよ。
『賞味期限が切れかけてたから食べてやった』とか、適当な事言うから……毎回口喧嘩になるんです」
“だった”ではなく現在形で小西先輩の事を語ってゆく。
その口振りから、……仲の良い姉弟だったのだろうと容易に想像が付いた。
そして、……小西くんの中で、小西先輩の事はまだ何の整理も出来ていない事なのだろうという事も。
「……でももう、シュークリームは無くならない。
……冷蔵庫の中で、賞味期限が切れました。
……俺ね、それ見た時、『あ、ひょっとして』って……『ひょっとして、姉ちゃん、居なくなったんじゃねーの』って……。
……だから、そのシュークリーム、捨てました」
痛みが走ったかの様に顔を僅かに歪ませながら、小西くんは俯いて己の手に目を落とす。
そして、小西くんは顔を上げてこちらを見た。
「前に鳴上さんに『犯人が憎いかと訊かれれば、ノーだ』って、俺、言いましたよね……。
でも、本当はノーですら無いんです……。
何も、分からない……」
軽く頭を振って想いを言葉にした小西くんに、何も言わずに黙ってその続きを促す。
小西くんはふと空を見上げた。
朝から曇り続きの空は、まるで小西くんの心の内を映しているかの様に、分厚い雲に覆われている。
そんな空を見上げながら、小西くんは溜め息を一つ溢した。
「俺にはただ、ぬるい日常があるだけ……。
虚勢を張る親と、電気が消えた家があるだけ……。
賞味期限の切れたシュークリームがあるだけ……。
どうやったらそこから抜け出せるのか、何が自分や、……姉ちゃんの為なのか……。
それすらも、何も分からない……」
迷子になった子供の様な目をしながら、小西くんは俯く。
……何をしたら、か……。
小西くんでは無いから、自分にはその“答え”を出す事は出来ない。
だけど。
考えても悩んでも、そこに……自分の内に、その“答え”が無いのならば、動くしか無い。
それだけは分かる。
「考えて、悩んで、それでも何も分からないんだったら、後は行動あるのみ、じゃないかな」
「……分かってます」
小西くんは溜め息混じりに頷いた。
「立ち止まっちゃってるんだってのは、分かってます。
このままじゃダメで、動き出さなきゃいけないんだって事も……。
……分かっては、いるんです……」
頭では分かっていても、それでも動き出せない、なんてよくある事だ。
……よく分かっているが故に、小西くんはより一層苦しいのだろうけども。
暫しの間、小西くんは黙ったまま俯いていた。
そして、何かを決めた様な顔をして、こちらを顔を向ける。
「そう言えば……、偶に姉ちゃん、ジュネスのバイトの後にシュークリーム貰ってきてくれて……。
……ジュネスのは不味いって言いながら、二人で食べたりしてたんです」
そこまで言うと小西くんは、続きを言い辛そうに一瞬だけ視線を逸らしたが、少し目を閉じてから、再び話し始めた。
「……姉ちゃん、ジュネスのバイト、辛かったみたい。
でも、きっとウチの店の為になるって、言ってた事あって……。
……フラフラしてるクセに、変な所で長女ぶるんだ、あの人。
それが何時も、ムカつく……」
………………。
彼方の世界で、小西先輩が作り出した場所に行った時に、不可抗力で聞いてしまった声を思い出した。
……小西先輩が辛かったのは、きっと確かだろう。
家の為になるから、とやっていたバイトを、父親に否定されて……。
……辛かっただろう、とは思う。
もう今となっては、確かめる事もどうする事も出来ない事ではあるが……。
小西先輩の事に思いを馳せていると、小西くんが、少し躊躇いながらも小さく頭を下げてきた。
「あ、あの……。
明日、鳴上さんの都合が良ければ……。
……ジュネス行くの付き合って貰っても、良いですか?
ちゃんと、見ておきたいんです……。
姉ちゃんが、働いてる場所を……」
明日は、幸い特には何の予定も入ってない。
小西くんの頼みを拒否する理由など、何も無い。
だから勿論、了承した。
「勿論良いよ」
そう言って頷くと、小西くんは再度頭を下げてくる。
その後は、少し雑談をしてから、昼休みが終わる前には各自の教室に戻った。
◆◆◆◆◆
放課後は、バスケ部で一条と共に汗を流し、その後長瀬も交えて商店街の愛屋で腹ごしらえをした。
ここ最近の迷いが晴れたからなのか、一条は生き生きと部活に励んでいて、それを長瀬と二人で喜んだ。
この調子なら、きっともう一条は大丈夫だろう。
他愛も無い話をして時間を過ごし、一条たちと愛屋を出た所で別れてから、店仕舞いする間際の丸久豆腐店へと顔を出す。
まだ久慈川さんは回復していないのか、店番をしていたのはお婆ちゃんの方だった。
……それだけ、負荷が大きかったのだ。
今はゆっくりと休んでいて欲しい。
その後夕飯を食べてから、中島くんの家で家庭教師のバイトをして、その日は眠った。
◆◆◆◆◆
【2011/07/06】
放課後、昨日の約束通り小西くんに付き合ってジュネスを一緒に見て回った。
小西くんは、特に食品売場の酒類コーナーが気になったのか、とても熱心に見ていた様だ。
一通り店内を回った今は、自分にとってはもう馴染みの場所と化したフードコートで休憩している。
フードコートは今日もそこそこの人で賑わっているが、こちらに気を向けてくる人間は居ない。
「下の食品売り場……凄いですね。
酒の種類、あんなにあるし、安売りとかしてるし……。
あれじゃウチ、勝てないっすよ」
紙コップに入ったジュースを一口飲んで一息吐いた小西くんは、沁々とそう言った。
そして、少し俯き気味に複雑な顔になる。
「……けど、最近はウチもちょっと景気が良いんです。
姉ちゃんの件で、可哀想がって買ってくれてる人がいるから……。
皮肉なもんすね……」
まるで自嘲するかの様に、小西くんの口の端が僅かに上がるが、直ぐに物憂げな表情になった。
……小西先輩の事を思うと、喜ぶ事は確かに出来ないが。
「買ってくれるのなら、商売に利用してしまえば良い。
これを機に、顧客にしてしまったり、とか」
そう言う事情でも、金を落としてくれるだけ商売上は有り難い客だ。
それもまた一つの商機と割り切るしか無いのかもしれない。
……今の小西君には、酷な事なのだろうけども。
小西くんは黙ったまま僅かに身体を揺らす。
「……そっすね。
何も買ってかないで言うだけ言ってくる人よりは、買ってくれるだけ良いんですけど」
そう言って小西くんは、こちらから目を逸らした。
その目線の先にはテーブルしか無いが、それを見ている訳では無いのだろう。
僅かに揺れる視線は、何処を捉える訳でも無い。
「けどウチ……もうダメですね。
家庭崩壊してるんで。
ウチの親、姉ちゃんの事全く話さなくなったんです。
元から居なかったみたいに必死に振る舞って……。
……で、二人して夜中に泣いている……。
……俺、何が出来るんでしょうね……」
昏い目でそう呟いた小西くんは、それっきり考え込んでいるかの様に黙ってしまった。
……難しい悩みにどう答えるべきかと言葉を探していると、見知った顔がフードコートにフラりとやって来たのが目に留まる。
……花村だ。
バイトの合間に休憩にでも来たのか、ジュネスのエプロンを付けたままである。
花村はこちらに気付き、やや小走りに近付いてきた。
「あれ、鳴上?
それに、小西先輩の……」
「えっと、弟の尚紀です。
……ジュネス、初めて来ました。
……別に、ウチの酒屋がどうとかって訳じゃないし、敵対意識がある訳じゃないんですけど……。
親とか、商店街の人とかが煩かったりして……、面倒で」
溜め息混じりの小西くんの言葉に、花村は僅かに苦い顔を浮かべながらも頷く。
「俺も似た様なモンだよ」
「……そっすか。
…………。
……なんか、すごいっすよね、広くて……。
見ているだけで、満足出来る様な……。
何か、一つの国みたいだ」
ポツリと呟かれた小西くんのその感想に、花村は目を僅かに見開き、そして酷く懐かしむ様な……微かに痛みを交えた様な目で小西くんを見た。
「……それ、お前の姉ちゃんも、言ってたよ」
小西くんは、その言葉に何も答えずに黙って俯く。
「やっば顔、似てるよな。
顎と、鼻と、目の辺り」
そう花村が言うなり、小西くんは僅かに顔を上げて花村を見るが、直ぐ様顔を逸らして何かを噛み締めているかの様な声音で答えた。
「……止めて下さい。
……もう、姉ちゃんは居ないんで」
そんな小西くんに、花村はポツリと声をかける。
「……寂しい、よな」
寂しい、と。
哀しい、と……花村がそう感じている事が直ぐに分かる表情だった。
花村の言葉に、小西くんはグッと言葉に詰まった後、噛み付く様に声を荒げる。
「止めて下さい!
あんたに何が分かるんだよっ!?」
そんな小西くんを悲哀を隠し切れない目で見た花村は、一つ息を整えて、小西くんに自分の思いを伝えた。
「……自慢の弟だって、そう言ってたよ。
……俺は、お前の姉ちゃんの事……。
好きだったよ」
「……“過去形”、なんすね」
直ぐ様そこに気が付いた小西くんは、顔を上げて花村を睨む様に見詰める。
小西くんの言葉を否定する事はせずに、花村は小西くんを静かに見返した。
「俺は……、自分に出来る事を今やってる。
俺の為に、……そして、お前の姉ちゃんの為に……、出来る事を。
……何時までも泣いてたら、姉ちゃん、困っちまうぜ?」
その言葉に、グッと詰まった小西くんは、痛みを必死に堪える様な顔になり、そして絞り出したかの様な声で、花村に反論した。
「…………。
……泣いてなんか、ないです」
そんな小西くんの様子を少し悲しそうな目で見ていた花村は、一度目を閉じて僅かに頭を振り、そして小西くんを元気付け様としているかの様に少し明るい声で話題を変える。
「よし、腹減ってないか?
ビフテキ奢るぜ?
鳴上は、要るなら自腹でお願いします」
「そうか、分かった」
花村なりの励まし方だろう。
小西くんは花村の申し出にかなり戸惑っていたが、やがて小さくコクッと頷いた。
その事に、花村は嬉しそうに少しだけ口の端を緩める。
こちらが自分の分の代金を渡すと、花村は直ぐ様屋台の方へと駆け足で向かって行った。
「……お節介ですよね、花村さん。
や、そもそも、鳴上さんもか……」
そんな花村の後ろ姿を見て、小西くんはポツリと独り言の様に呟く。
「ま、関わってしまった以上、放っておけないからね」
「……そんなに“可哀想”なんすか、俺?
……いや、違いますね。
きっと、二人とも……そんなんで優しくしてくれてる訳じゃなくて……。
……すみません」
こちらの言葉に僅かに自嘲する様に目を逸らした小西くんだが、こちらが何かを言う前に、頭を振って直ぐ様素直に頭を下げた。
気にしてない、と首を横に振ると、小西くんは様々な感情を綯い交ぜにした目で、ペコッとこちらに頭を下げてくる。
「姉ちゃんの働いていた場所、見れて良かったです。
きっと、一人じゃ来れなかった……。
……来ようとも思わなかった……。
でも、……来れたから、少しだけ、何か進めた様な気がします。
ありがとうございました」
そうこうする内に、花村が人数分のビーフステーキを運んでテーブルに帰って来た。
フードコートのモノだからなのか、正直な所中々固い肉だ。
花村から味の感想を訊かれて、「固いし……正直マズイです」と小西君は正直に答える。
「ははっ、そうか。
そりゃ、マトモって事だ。安心したよ」
花村は何処か嬉しそうにそう答え、その後少しの間小西くんと他愛無い話をし、そして陽が傾き始めた辺りでその場で別れた。
◆◆◆◆◆
小西くんと別れた後、そのままジュネスで夕飯の買い出しをしていると……。
……生鮮食品のコーナーで、あの倉橋さんと出会った。
料理を教えると以前約束したものの、久慈川さんの件などもあって今の所それは実現していない。
倉橋さんは豚の細切れ肉のパックを片手に、何やら深い溜め息を吐いている。
「今晩は、倉橋さん」
「あら、悠希ちゃん。
ふふ、こちらこそ今晩は。
今日も夕飯の買い物をしているのね」
先に軽く会釈をしながらそう声をかけると、倉橋さんはこちらの買い物籠を見ながらそう返してきた。
それに頷くと、倉橋さんはフゥと溜め息を吐き、こちらに相談事を持ち掛けてきた。
「前に悠希ちゃんに頼んでいたお料理の事なんだけど……悠希ちゃんの都合が良ければ今週末辺りにでも教えて貰えないかしら?」
そう言われて、今週の予定を脳裏に思い浮かべる。
「今週なら……9日は大丈夫です。
……もしかして、何かあったんですか?」
そう訊ねると、少し気落ちした顔で倉橋さんは頷いた。
「お料理を出したら、義母に『要らない』って言われちゃったの……。
キャベツとほぐしササミの麦ご飯で、結構自信があったんだけど。
……何がダメだったのかしら……。
味が足りないかもって思って、ちゃんとお砂糖も入れたのに……」
……は? 砂糖……?
砂糖と言ったのか、この人は。
……何故それに砂糖を入れようと思ったのだろう……。
「あー……。
多分、お砂糖を入れたのがマズかったんじゃないでしょうか……」
そう言うと、倉橋さんはキョトンとした様に首を傾げる。
「そうなのかしら?
私、炊き込みご飯とかにお砂糖って必要なんだとずっと思ってたんだけど」
うーん……。
これは中々の難敵だ。
一先ず、炊飯器を使えば作れる簡単な炊き込みご飯の作り方からでも始めた方が良いのかもしれない。
「ふふ、じゃあ9日の事、お願いね」
そう言って、倉橋さんは手にしていた細切れ肉のパックを買い物籠に入れて、その場を立ち去っていった。
◆◆◆◆◆
【2011/07/07】
昼休み。
とても珍しい事に、小西くんが態々二年生の教室が並ぶ二階にまでやって来て、何かの決意をした様な面持ちでこちらに声をかけてきた。
「あの、鳴上さん。
放課後……ちょっと、一緒に来て貰いたい所があるんですけど、良いですか?」
勿論了承し、放課後になり帰り支度を済ませてから、下駄箱の所で待ち合わせをしていた小西くんの先導で、ある場所に向かった。
小西くんに連れてこられたその場所は……。
……小西先輩の遺体が発見された電柱のある、あの十字路だった。
あの事件が起きてから、この場所にはほぼ絶える事無く花束が置かれている。
今日置かれているのは、輪菊と小菊がメインの花束だ。
「……ここ、ですよね。
……姉ちゃん、見付かったの……。
………………」
数ヶ月前には小西先輩の遺体が吊り下げられていた電柱を、ただただ黙って見上げていた小西くんは、そう言いながら視線を下げてこちらに向き直った。
自分とて直接見た訳ではないから確たる事は言えないが、そうらしい、と小西くんに小さく頷く。
すると、小西くんは一度俯き、そしてギュッと拳を握った。
そして僅かに震える声で、自分の中から言葉を手探りで探しているかの様に、己の思いを語る。
「……ここ、ずっと通れませんでした。
……姉ちゃんの事思い出すのも、どんな風に……吊るされていたんだろうとか、……思うのも、恐くて……。
でも、やっと、現実を受け入れられる気がするんです……」
…………。
小西くんは、先輩の事を考えてしまうのが、辛かったのだろう……。
……商店街との確執以上に……そこでバイトしていた先輩の事を思い起こしてしまうから、……だからジュネスに行く事も出来なかったのかも知れない。
だが、小西くんは自らの意志で一歩踏み出して……先輩が働いていた場所に行き、そして……《
だからこそ、また一歩進もうとしたのかもしれない。
小西くんは顔を上げ、そしてまるで泣きそうな顔をして……そして涙声の様に感情で声を震わせる。
「……よく言うじゃないですか、テレビとかドラマとかで……。
悲しくて何日も泣き続けたとか、思い出が蘇って何も手に付かないとか……。
……でも俺は、そんな事全然無かった。
……何時もと同じでした……。
だから……、自分は冷たい人間なんだって、……そう思ってました……。
ドラマの主人公たちみたいに泣けなかったから、姉ちゃんの事、好きじゃなかったんだって……、そう思いました……」
小西くんの言葉に、僅かに目を閉じて首を横に振った。
物語の人間たちの様に表現出来なかったからと言って、小西くんが先輩の死を哀しんで無い等とは、到底考えられない事だった。
例え誰がそれを否定したのだとしても。
小西くんと共に過ごした時間の中で自分は確かに、小西くんが抱えている、表面上の言葉や態度には表れない哀しみを感じていたのだから。
「……悲しみ方なんて、人各々だよ。
小西くんの悲しみ方は、不器用なのかもしれないけれども」
想いに、絶対等とは無い。
“AだからB、CでないならDでは無い”などとハッキリとは、言えないモノだ。
小西くんは、確かに涙を溢したりしていた訳では無かったのかもしれない。
だけど……。
先輩の事を、過去として語る事が出来なかったり……。
そして、先輩を想起させる場所には行けなかったり、と。
……確かに小西くんは、先輩の……自分の姉の死を、悼んでいたのだ。
そう言うと、少し気恥ずかしそうに小西くんは笑って頷いた。
「……はい、ホント……そうですよね……。
鳴上さんと話してて……やっと、ちょっとずつ、分かってきたんです」
そして、ギュッと自分を抱える様に腕を掴んで小西くんは俯く。
「俺、姉ちゃんの事、考えない様にしてたんすね……。
姉ちゃんの事考えて辛くなる位なら、自分を冷たい人間だと思う方が、簡単だったんすね……。
そうやって逃げて……逃げて逃げて、姉ちゃんの事、全然考えてあげなかった」
溢れ出す感情に次第に声を震わせながら、小西くんは泣く様に、ずっと己の内に沈めていた思いを吐き出した。
「……きっと、もっと生きたかったですよね」
……感情に身を震わせる小西くんに、そっと頷く。
……ああ、きっと……。
……きっと、……小西先輩は、もっと生きていたかっただろう……。
……直接会ってそう訊ねた訳では無いが、確信を持って何度も頷く。
「ああ、そうだね……。
きっと、生きていたかったよ……」
花村や小西くんの様に、「生きてて欲しかったのだ」と、そう想いを溢す人が居るのだ。
きっと、きっと……。
死にたくなんて、無かっただろう……。
小西くんは声を上げて、大粒の涙を目に浮かべた。
「姉ちゃん……可哀想です……。
もっと、生きてて欲しかった……。
生きてて、欲しかったです……」
唇を噛み締めて泣く小西くんを、そっと抱き締める様にして、その頭を優しく撫でる。
……自分は、小西先輩を助ける事が出来なかった事を。
「どうする事も出来なかった事だ」と諦めて……そして何処か無意識の内にそれ以上は考えない様にしていた。
【犯人】を追う事に、新たにターゲットにされた被害者を助ける事に、意識が向いていた。
……それは確かだ。
……実際の所は、あの時点で自分達が小西先輩を助けられたとは、あまり思えない。
何かの歯車がズレていて、もし、あの世界に放り込まれた直後の先輩と出会えていたのだとしても。
あの段階では非戦闘員だった花村と里中さんを抱えた状態で、まだ不慣れなペルソナの力で、小西先輩のシャドウと戦えていたのかどうかは、自分達に都合よく考えても五分五分……、実際の勝算はかなり低かっただろう。
死体が一人から四人分に増えるだけの結果に終わっていたのかもしれない。
全ては既に終わってしまった事で、今更何を考えた所で、不毛な“たられば話”にしかならないが。
それでも。
……被害者の人を頭の片隅に追いやって、助けられなかった事に言い訳を連ねて誤魔化し続ける様な……。
こんな非情な自分であっても。
今ここで、漸く自分自身に、涙を流す事を許してあげられた小西くんに。
慰めの言葉をかける程度なら、赦されるのではないだろうか。
「思う存分、泣けば良い」
ポンポンと、菜々子にしてあげる時の様に、震える小西くんの背中を撫でた。
ポロリポロリと溢れていた雫は、やがて滂沱と降り頻る涙の雨となって小西くんの頬を濡らす。
まるで、今まで心の奥底へと沈めていた哀しみが、堰を切って流れ出したかの様に……。
「俺、初めて泣いてる……。
は、はは……う、うううっ……」
しゃくり上げて涙を溢し続ける小西くんは、暫しの間、しがみつく様にしてこちらの胸を借りていた。
そして、溢れ出る涙が少し止まり始めた頃合いで、ふと我に返った様に小西くんは慌ててこちらから離れる。
涙で赤く潤んだ目で、小西くんは軽く頭を下げた。
「あの、えっと……何かすみません。
……でも、ありがとうございました。
……俺、やっと……。
……やっと、素直に、悲しいって、思った……。
やっと……、ちゃんと、泣いてあげられた……」
……一歩、また新たに進めたからだろうか。
小西くんの表情からは、ずっとあった鬱屈した何かが、拭い取られたかの如く消え去っている。
ふと見上げた夕空は、空を厚く覆っていた雲が途切れ、綺麗な夕日がそこから顔を覗かせていた。
その夕陽に、小西くんは眩しそうに目を細める。
小西くんは、もう一度電柱を見上げ、何かを想うかの様に少しの間目を閉じた。
「鳴上さん、今日はありがとうございました。
俺、家族と、ちゃんと話してみます。
姉ちゃんの事とか……色々」
また新たに踏み出す決意を固めた顔の小西くんに別れを告げ、その日は家に帰った。
◆◆◆◆◆
今日は七夕だ。
しかし、生憎今日は昼夜を通して曇っている為、外に出て夜空を見上げても、ベガとアルタイルどころか天の川すらもよく見えない。
「空、くもっててみえないね。
おりひめさまとひこぼしさまは会えたのかな……」
縁側から一緒に空を見上げている菜々子が、少し心配そうな顔でそう呟く。
そんな菜々子の純粋な優しさを眩しく思いながら、恐らくはベガとアルタイルがあるであろう辺りを指で指した。
「きっと会えてるよ。
……今夜の夜空が曇ってるのはね、一年に一晩だけの再会を、織姫様と彦星様が二人だけでゆっくりと過ごしたいからなんだって」
そして菜々子の頭を優しく撫でながら、昔、自分が母さんに言われたのと同じ様に返す。
すると、菜々子は安心した様に笑った。
「そうなんだ! 良かったぁ……!
あのね、お姉ちゃん。
たなばたの日は、たんざくにねがいごとを書いたらかなうんだって、知ってた?」
目を輝かせてそう訊ねてくる菜々子に、知ってるよ、と頷く。
数日前に、学校の敷地内の片隅にある竹藪から、ちゃんと許可を取って持ってきた笹には、菜々子や叔父さんと一緒に書いた短冊が既に沢山下げられていた。
何を書いたのか、菜々子は書いてる最中は頑なに隠していたが。
『せかいへーわ』や『かないあんぜん』と言った短冊たちに隠される様に、『お父さんがケガしませんように』や『お姉ちゃんができてうれしいです』と言った短冊が下げられているのを、既に叔父さんと二人で発見していた。
なお、自分は菜々子の短冊の横に『菜々子ともっと一緒に過ごせます様に』と吊るしてある。
暫く曇った夜空を二人で見上げていたが、家庭教師のバイトに行かなくてはならない時間が迫ってきたので、菜々子に戸締まりする様に言ってから家を出て行った。
◆◆◆◆◆
数学を中心に教えていると、中島くんは解法で使われていた『メネラウスの定理』を指差して訊ねてきた。
「……この公式、今まで丸暗記してただけなんですけど、どうしてこれをここで使うんですか?」
その問題は、一見図形の問題では無い様に見えるが、実は『メネラウスの定理』を用いると驚く程簡単に答えを導ける、というものである。
その問題において定理を使う発想の仕方を解説すると、中島くんは酷く感心した様に何度も頷いた。
「公式一つ取っても、考える事って一杯あるんですね。
編み出した昔の人、天才です。
……僕も、天才に生まれてくれば良かったかな……」
そう言って、何事かに思い悩むかの如く暗い顔をし、中島くんは僅かに顔を俯かせる。
そんな彼の言葉に、小さく首を横に振って答えた。
「……そうやって公式を見つけ出した人達だって、皆が皆天才だった訳じゃないよ。
それに、公式とか……新しい発見をした訳じゃなくても、凄い事をした人だっている。
……努力で、誰にも負けない位の凄い事を成し遂げた人だって居るんだよ」
どんな分野にだって才ある人間と言うのは存在する。
……その分野に進んだ時、自分よりも才ある人間を羨む事はよくある事なのだろう。
だけれども。中島くんはまだ広く学んでいる最中だ。
そこで、数学史に名を残す偉人たちと自分を比べて落ち込む必要など、何処にも無いのではないだろうか。
それに。名を残しているのは何も天才たちだけでは無い。
天才で無い事を、今思い悩む必要などは無いだろう。
「……天才って、努力でなれるものなんですか?
……努力は結構、してると思うけど。
……足りないのかな……」
努力の多寡の問題でも無いのだけれども……。
……いや、中島くんのこの悩みの根幹は、……きっとそう言う才能云々の話では無いのだろう。
……学校での事と言い、お母さんからの期待と言い……。
何かと悩み事が多いと言うのも、大変である。
「……すみません、今日は疲れたんで、残りの勉強は次回でお願いできますか?」
中島くんの顔色は悪い。
中島くんが自分から勉強を中断する様に頼んでくるのは、初めての事である。
……勿論了承して、解いていた問題集を閉じた。
「……先生、何か話、して下さい」
バイト終了の時間まではまだ少しあるので、それまでは雑談に興じる事にする。
中島くんに頼まれて、自分の話をする事にした。
それを聞いていて楽しいのかどうかは不明だが、中島くんは色々と興味深そうに聞いている。
「へー……、意外。
って言うか、凄く、意外です」
バイト終了の時間間際になると、思い悩んで固くなっていた表情にも、僅かながらも微笑みが浮かんでいた。
ふと壁に掛かっている時計を見上げた中島くんは、「あっ」と声を上げる。
「あ、すみません、こんな時間まで。
今日は……ありがとうございました。
久々に、リラックス出来た気がします。
また、色々と話して下さい。
知りたいです、先生の事」
中島くんの表情が少し和らいでいる事に安心し、その日はそこでバイトを終了した。
◆◆◆◆◆
【2011/07/08】
放課後、天城さんに誘われて辰姫神社へとお参りに行った。
取り敢えずお賽銭を入れようと財布を取り出すと、ふと頭上から視線を感じて僅かに目線を上げると、屋根の上からあの狐が伏せた状態でこちらを見ている。
何かを期待するかの様に、ふさふさの尻尾が右に左にゆっくりと揺れていた。
大方、お賽銭を入れて貰うのを楽しみにしているのだろう。
それに少し苦笑しながら、僅かに奮発してお賽銭を賽銭箱に投入する。
浅く頭を下げてから二礼し、二度柏手を打つ。
そしてもう一度一礼して、再び浅く頭を下げる。
ふと再び視線を上にやると、狐は嬉しそうに尻尾を振りながら、神社の奥へと去って行った。
参拝が終わった所で、境内の木陰に移動して、近くの自販機で買った飲み物で喉を潤わせながら雑談に興じる事にする。
何かを話したそうにソワソワしている天城さんに、何があったのかと水を向けてみると。
「あっ、あのね、葛西さんがあの後鳴上さんの事を色んな人に話しちゃって……。
そしたら、そんなに仲の良い友達が出来たんだったら、一度連れておいでって、皆言ってて……。
あ、迷惑……かな?」
と、少しモジモジとしながら天城さんは話してくれた。
迷惑か? と言う部分に首を横に振る。
「いや、一度は旅館に行ってみたかったんだ。
中々機会に恵まれなくて、今の所は行けてないけど。
天城さんが良いのなら、喜んで」
そう答えると、そっか、と嬉しそうに安堵しつつ天城さんは笑った。
そして再び他愛も無い雑談をしていると……。
「おや、雪ちゃん!」
神社の前を通り掛かった初老の男性が、天城さんの姿を目に止めて境内へとやって来た。
天城さんの知り合い、なのだろう。
「あ、助役さん」
天城さんはそう声を上げて、綺麗な動作で軽く一礼する。
どうやらこの初老の男性は、町内会の助役さんであるらしい。
助役さんは、少し心配そうな顔をして、天城さんに訊ねる。
「旅館の方がバタバタしとったが、大丈夫かい?」
「バタバタ……?
……あっ! テレビの旅番組の取材、今日だった!」
助役さんの言葉に首を傾げたが、心当たりがあった様で、あっと慌てた様に天城さんは顔を上げた。
「おや、テレビの取材だったのか。
そりゃあ良いね!
稲羽を盛り立てる様、頑張っとくれよ」
そうホッとした様に言って、手を振りながら助役さんはその場を去って行った。
助役さんを見送って、天城さんは少し申し訳なさそうな顔をする。
「あの、ごめんね。
私も行かなきゃいけないんだった」
「取材、か」
テレビと聞いて、以前出会ったあの不愉快な撮影スタッフ達が直ぐ様頭に浮かんだのだが、……取材を許可したと言う事は別の番組での取材なのだろう。
「あ、うん。旅番組なんだって。
真面目な作りみたいだし、私やお母さんは映さないみたいだから、OKしたんだ。
でも、掃除とかの手伝いはしなきゃいけないから、今日はもう帰るね。
それじゃ、また……」
そう言って天城さんが帰ろうとしたその時。
先週この神社で出会った、仲居さんの一人である葛西さんが、息を切らせて境内に駆け込んできた。
「あ、居た、雪ちゃん!!」
……何やらただならぬ様子だ……。
天城さんも驚いた様に、何があったのか訊ねた。
「葛西さん? ど、どうしたの?」
一度息を整えてから、葛西さんは一気に用件を話す。
「今テレビの取材が来てるんだけど、雪ちゃん、帰ってきちゃダメよ!
旅番組だなんて、嘘だったのよ!!
前に来てたあのワイドショーの人たちだったの!」
想定外の事態に、天城さんは目を見開いた。
あの不愉快な撮影スタッフ達が……。
しかし、それは所謂詐称に該当しかねない行為なのでは無いだろうか。
その辺りを問い詰めて、番組のスポンサーやあの撮影スタッフ達よりも上の立場の人間に抗議すれば、追い返せそうな気はする。
「あの人たち、雪ちゃん目当てみたいなの!
いい? 雪ちゃんはここに居てね。
あの人達を追い返すまで、絶対に旅館に帰ってきちゃダメだから!」
「え……、う、うん、でも……」
葛西さんの必死そうな声に、天城さんは頷きながらも戸惑った様な声を上げるが……。
そこに、招かれざる闖入者が現れた。
「やーっと見~つけた」
そう下卑た声を上げてやって来たのは、以前見掛けた、あの不愉快な撮影スタッフ三人組だった。
迷わず、葛西さんと二人で天城さんを背後に庇う。
そして、スタッフ達からは見えない位置で携帯を操作した。
「おっと、なーに、君たち?
君たちに用は無いよ。
僕たちが用があるのは、君たちの後ろ。
ねぇ、こんな所に隠れてなくって良いじゃない。
呪われた旅館の次期高校生女将……さん」
トンでもない言葉に、天城さんは目を見開いて訊ね返す。
「の、呪われた……旅館?」
撮影スタッフは、「だってそうじゃない?」とニヤニヤと見ているだけで不快にさせる笑みを浮かべた。
「例の事件、勿論知ってるよぉ。
死んだ山野真由美が泊まってたって。
あれから、町の観光客も減って、おたくらも大変なんでしょ?
だから、僕たちがいい企画考えてきたワケ!!
【あの呪われた旅館は今!
女子高生女将のはずかし奮闘記! 】。
……どう?
これ、お客さん、来ちゃうでしょ?」
撮影スタッフ達はそう言って、生理的に不快になる目で背後にいる天城さんを見る。
勿論、そんな下劣で不愉快な番組、大金を積まれて頼まれたって首を縦に振る筈は無い。
「い、意味が分かんないです……」
首を横に振って拒否する天城さんの言葉を、こちらに躙り寄る形で無視しながら、撮影スタッフ達は色欲を顕にした言葉で捩じ伏せ様とする。
「雪子ちゃんには大役をお願いしたいなぁ。
入浴シーンとか、撮らせてよ!
現役女子高生女将の熱いサービス!
うーん、これ数字取れると思うなぁ!」
「それ、サイコーっすよ!」
スタッフ達は内輪だけで下卑た笑みを浮かべた。
下種以外の何者でも無い。
マスゴミと言う言葉すらも、こんな奴等には過ぎた言葉だ。
葛西さんは、汚物を見る様な目を撮影スタッフに向けた。
「あんたたち、いい加減に……」
「とにかく、お引き取り下さい。
取材はお断りします」
葛西さんの言葉を遮った天城さんは、確りとした声で再び撮影の拒否をする。
だが、その言葉に苛立ったかの様に撮影スタッフは声を上げた。
「お断りぃっ?!
ったく、これだからガキは……。
テレビの力ってのが、分からないのかな?
ま、こんな田舎の高校生じゃ無理もないけど。
僕らが盛り立ててやろうって言ってやってんの。
天城屋旅館、お客減ったままでいいの?
次期女将さんだってなら、賢明な判断が出来ると思うけどなぁ」
そもそも賢明な判断能力があるのなら、そんな番組は断固拒否するだろう。
天城さんは至って当然の判断を下したまでだ。
既に拒否されているのにも関わらず、何時までもしがみつこうとするその様は、見苦しいとしか表現が出来ない。
「……関係無いです」
天城さんがそう答えると、撮影スタッフは少し首を傾げたが、直ぐ様気持ち悪い笑みを浮かべる。
「ふぅん?
まあ、こんな田舎の貧乏臭い旅館の女将なんかより、もっと良い仕事紹介出来るよぉ?
“元女子高生の元女将”って、色々使えそうだしさぁ……。
ウヒヒ、そそるねぇ。
話だけでも聞いてみない?」
最低にも程があるその発言に、最早我慢の限界だとばかりに葛西さんは声を上げた。
「ちょっと、雪ちゃんに何て事……!」
「いいの、葛西さん。
言うだけ言って、満足すれば帰るでしょ」
葛西さんを静かに制した天城さんの言葉に、撮影スタッフは馬鹿にした様な顔をして、暴言をぶつけてくる。
「はっ、何だよソレ。
大体さ、アンタん所の旅館。
老舗つったって、古いだけだよねぇ。
今時流行らないしさ、さっさと潰した方が良いんじゃない?
板前の料理も見たけどさぁ、チマチマしてて地味だしさ。
客入れたいなら、同じ事してても無駄だっての。
そう言うのが分かってねーからダメなんでしょ、おたくんとこ。
仲居だって金握らせなきゃ、ロクなサービスしないんでしょ?
……っと、あ、良い事思い付いた。
仲居を全員“嬢”にしてさぁ、1日みっちりサービスして貰うってのはどう?
フトン敷いて、そのまま入ってきちゃう、みたいな!」
そう言って下卑た笑みを浮かべた男達が、天城さんの全身を舐める様に見た。
頭の中身が腐ってるとしか思えない。
何をどう育てれば、こんな品性を欠いた人間が出来上がるのだろうか。
「……とにかくさ、テレビで紹介しようって言ってやってるんだからさ。
ちょっとは、頭使って考えてみなよ。
……ねぇ?」
葛西さんは我慢ならないと言いたげに俯いて怒りに震えている。
剰りの怒りに、最早声すら出ないのだろう。
「……ざっけんじゃないわよ」
そんな中で。
ボソッと背後から、怒りに溢れた声が聞こえる。
思わず振り返ると、怒髪天を突いたと表現したくなる程に、怒りをその目に湛えて天城さんが撮影スタッフを睨み付けていた。
「侮辱するのもいい加減にして!
私達の事、何も知らないアンタ達何かに……!
誰がそんな旅館なんかに……!
貴方方の局の取材は、今後一切……、断固拒否します!」
最早何をしてもその決定は覆さないだろう。
そう、天城さんは確固たる意思を顕にした。
だが、それで引き下がる様な判断力はこの撮影スタッフ達には存在しなかったらしい。
「……生意気なガキだなぁ!
そっちがそうなら、アンタの暴言、報道しちゃうけどぉ?
サービス業としてはあるまじき……」
最早十分だろう。
これ以上、耳が腐りそうな聞くに耐えない発言を垂れ流しさせる必要性はあるまい。
「……暴言は、どちらの方ですか」
そう判断して、撮影スタッフ達の言葉を遮った。
「あっ……?」
「……これ、何か分かります?」
横槍を入れられて睨み付けてくる撮影スタッフ達に、そう言いながら、後ろ手に隠し持っていた携帯を取り出した。
撮影スタッフは、何の事か分からないと言う顔をしている。
その愚かしさを若干憐れみながら、携帯を操作して、先程からずっと録音録画していたモノを流した。
画像の方は若干荒いが、音声はバッチリと録れている。
この下種どもがやって来た時、咄嗟にだが念の為に携帯で撮影していたのだ。
マスゴミが“情報”で脅しをかけてくると言うのなら、逆にこちらも情報でやり返すまで。
撮影スタッフ達は、見る見る顔を青褪めさせる。
それに淡々と追い討ちをかけた。
「知ってますか? 今時は、テレビに頼らなくても、ネットの動画とかでこう言うの……簡単に流せるんですよ?
この動画を見た方々は、どう思われるのでしょうか?
年端もいかない女子高生相手に、公序良俗を乱す様な発言をする貴方たちを見た方々は……?
然るべき場所に流せば……大炎上は避けられないのでは無いですかね?」
ネットには、所謂“正義感に溢れた”方々もいらっしゃる。
顔もバッチリ映っているし、何より何処の局の人間なのかも把握している。
大型掲示板等に流せば、直ぐ様彼等の個人情報が特定され、あっという間に丸裸にされるだろう。
そうなれば大炎上は必至だ。
今日日、テレビ以上のスピードでネット上での情報は広がっていくのだ。
一度着いてしまえば、その火を消す事は不可能に近い事である。
撮影スタッフ達は旗色が悪い事を漸く理解して、憎々しげにこちらを睨みつつも退散していった。
彼等の姿形が何処にも見えなくなった事を確認し、息を吐きつつ携帯を戻す。
万が一の為に、録画は保存しておいた。
撮影スタッフが去り、葛西さんと天城さんは顔を見合わせていたが、……ふふっ、と葛西さんが吹き出したのを切っ掛けに二人で笑い合っている。
「有り難うね、アイツら追い返してくれて。
そうだ、旅館に連絡しないとね。
それじゃあね!」
手を振って葛西さんもその場を立ち去っていく。
それを見送った天城さんは再びこちらを見て、改めて礼を言ってきた。
「鳴上さん、何か色々と有り難う。
……アイツらに言い返した時、何か、凄くスッキリした。
……皆の事悪く言われて、カッとなっちゃって……」
そう言って、天城さんは少しの間目を瞑る。
そして、ふと溜め息を一つ吐いた。
「……潰れちゃえば良いのにって、そう思った事もあるけど。
……それでもやっぱり、あそこは私の家……。
皆が居てくれて、私が居られる場所……。
潰すなんて、やっぱり出来ないよ……」
大切なモノを想う表情で天城さんは旅館の事を話し、そして心からの思いを呟く。
……天城さんにとって旅館が大切な場所であるのには最初から気付いていた。
が、ここから出ていきたいというのも、天城さんにとっては確かな望みであったのだ。
だが今回の件で、もう一度その思いを見直してみる事にしたのだろう。
天城さんは物思いに沈む様な顔をして、神社から立ち去って行った。
◆◆◆◆◆
夜、病院清掃のバイトに赴き、清掃をこなしていると、疲れ切ったと言うよりは、最早憔悴していると表現した方が良い様な顔をした神内さんが、何時ものソファに座っていた。
どうしたのかと戸惑いながらも声を掛けると、何処か遠くを見ているかの様に視点が合ってなかった神内さんの目に、漸く光が戻る。
「……あ、ああ……。
……鳴上さんか……」
ゆるゆるとこちらを見上げた神内さんは、そうとだけ口にした。
そのまま立ち去る事などは出来ず、神内さんの横に腰掛ける。
「あの、えっと……。
……何か、あったんですか?」
専門的な何かで起きた事ならば、自分にはどうしようも無いし、患者のプライバシー等に関わる事ならば、神内さんも話す事は出来ないだろう。
だが、思わずそう声を掛けずにはいられなかったのだ。
神内さんは、何かを言おうとしてぎこちなく表情筋を動かそうとしたが、しかし何も言わず溜め息を溢す。
そして、逡巡するかの様に視線を彷徨わせ、浅く何度か息を吐いてから、まるで溺れているかの様に辛そうに表情を歪ませた。
「まあ、ね……。
今日の急患で、交通事故の被害者が運ばれてきたんだ。
四人……家族だったんだけど………。
………………。
処置は、もう終わったから……。
……僕に出来る事は、もう無いんだ……」
こちらが何かを言う前に、神内さんはソファから立ち上がる。
そして、こちらに背を向けたまま、「……ごめんね、もう行かなくちゃいけないんだ」とだけ残し、そのまま逃げる様に、神内さんはその場を去っていった。
◆◆◆◆◆
【2011/07/09】
午前中だけの授業が終わるなり、直ぐ様巽屋へと向かった。
しかし今日の目的は巽くんから手芸を教わる事では無く、前々から約束していた様に、巽くんと今度の期末試験に向けた試験勉強をする為だ。
テストまで後10日。
その僅かな期間で、赤点回避・補習回避という大望の為には、巽くんの限界に挑戦して貰う必要がある。
こちらも、全力を以て教える所存だ。
先ずはと言う事で、八十神高校の一年生の授業の進捗を知る為に、巽くんにノートを見せて貰う。
…………。
ノートである筈のそれは、真冬の新雪の如く見事な純白に輝いている。
そもそも、開いた形跡がほぼ無い。
…………。
何処まで捲っても何も無いそのノートをそっと閉じた。
教科書を見せて貰うが、……開かれた形跡がほぼ無い上に、書き込み等は無い。
どの教科も同じである。
………………。
……取り敢えず、教科書も脇に置いておく事にした。
…………。
……さて、どうしようか。
割りと困った事に、何処まで教えれば、何処から教えれば良いのかが分からない。
仕方無しに、返却された前回の中間試験の回答を見せて貰う事にした。
赤い×印が乱舞するその回答を見ながら、今回の期末の範囲がどの辺りであるのか、そして巽くんの理解の度合いを予測する。
……………………。
ほぼ暗記科目の社会科系の教科は、天城さん辺りから去年のノートを借りるなりして対策を立てるとして。
何よりも危険な理数系の科目をまず対策しなくてはならない。
一部の分野に関して言えば、中学生辺りの範囲からの復習が必要そうである。
……先は長そうだ。
一先ずは、数学から始めよう。
数学の範囲は、“組み合わせ”の分野と“確率”の分野、それと“二次方程式”か。
「よし、取り敢えずは“二次方程式”から始めよう。
手加減は一切しないからな。
巽くんも、頑張ってついてきてくれ」
二次方程式は公式さえ覚えれば、後は慣れだ。
只管に問題を解いていくしか無い。
若干冷や汗を浮かべながらも巽くんは確と頷いた。
その心意気や善し、とフルスロットルアクセルベタ踏みで勉強会を開始する。
只管に問題を作っては、巽くんに解いて貰い、直ぐ様それを採点・間違いを指摘し、再び類似の問題を解かせて……、と繰り返した。
陽が傾き始める頃には、巽くんの目が虚ろになり、焦点が何処か遠くに結ばれている。
流石に心が痛くなる状態だ。
だがそれ程の代償を払った価値はある。
只管解き続けた成果か、初めの頃よりは理解力が増し、解くスピードにも若干の向上が見られ、基礎中の基礎の様に簡単な問題ならほぼ確実に解ける様になっていた。
キャパの限界に挑戦した巽くんは、今にも死にそうな顔をしている。
……自分でやっといて何なのだが、この調子で大丈夫なのだろうか?
「あー巽くん? その、大丈夫か……?」
「う……うっス」
ヨロヨロとした動きで頷く巽くんの目には、生気が無い……。
幾ら何でも、最初っから飛ばし過ぎたのでは……。
次からは、適宜スピードを落とす事も検討しておこう。
「……それにしても、意外だな」
「……?」
こちらの言葉に、何の事かとばかりに巽くんは首を傾げた。
「いや、赤点回避と言う目的があるとは言え、音を上げずにここまで着いてきたのは凄い事だ。
だから、意外だな、と」
実際、途中でリタイアする可能性も考慮していた。
巽くんは根性のある良い漢だが、不慣れで苦手な勉強の類いに対してもここまで根性を見せられるとは思っていなかったのだ。
そう言うと、巽くんは頬を掻きながら少しそっぽを向いた。
「あー……。
ま、赤取って補習になんざなったら、お袋を心配させっから……。
散々迷惑かけてんだし、一寸は安心させてやりてーんスよ」
その言葉に少し目が丸くなったが、同時に思わず口の端が緩んだ。
巽くんなりの、親孝行のつもりなのだ。
うん、やはり良い事だ。
「それに、先輩がワザワザ一生懸命やってくれてんスから、そこでオレが弱音を吐いちゃ男が廃るっスからね」
そう言いながら、巽くんは「またお願いします」と頭を下げる。
それに勿論と頷いて、その日は巽屋を後にした。
◆◆◆◆◆
前々からの約束通り、倉橋さんに料理を教える事になり、今は倉橋さんのお家にお邪魔している。
旦那さんの帰りはまだらしいので、それまでにさっさと手早くやってしまおう。
今日教えるのは、炊飯器一つで簡単に出来るツナを使った醤油と生姜と出汁ベースの炊き込みご飯だ。
下手に下味を付ける必要がある料理にすると、倉橋さんがまたトンでも無い味を付けるかも知れないので、苦肉の策である。
用意してある材料を、炊飯器にそれを一つずつ放り込んでゆく。
各々の材料やその量にどういった意味があるのかも適宜説明しつつやっていくと、倉橋さんはとても熱心にそれをメモしていた。
炊飯器のスイッチを入れ、炊き上がる迄の時間に更に料理を教える。
春雨を使った所謂中華サラダと言うヤツだ。
これなら、アレンジャーな倉橋さんでも、多分メイビーきっと大丈夫……だろう、うん。
途中で、酢漬けになりそうなレベルでお酢を入れようとした倉橋さんを阻止したり、砂糖を追加しようとするのを阻止しつつも、何とか料理は完成し、後は炊き込みご飯が炊き上がるのを待つだけとなる。
炊いている最中の炊飯器からは、醤油と出汁の良い香りが既に漂ってきていた。
これならば、問題ない仕上がりになっているだろう。
「ありがとうね、悠希ちゃん」
教わった事を一通りメモしたメモ帳を胸に抱えながら、倉橋さんは心底嬉しそうに微笑みながらそうお礼を言ってきた。
教えるのは大した手間でも無いが、そう喜んで貰えて何よりである。
「こんなに美味しそうに出来たの、初めてだわ。
これならきっと、お義母さんも食べてくれるわよね……」
そろそろこちらも夕飯の支度をしなくてはならない時間になってきたので、倉橋さんに一言断ってから倉橋さんの家を後にした。
◆◆◆◆◆
今回のコミュ進行度合いは……
【女教皇(女教皇)】:7/10→8/10
【皇帝(完二)】:4/10→5/10
【刑死者(尚紀)】:6/10→9/10
【死神(神内)】:4/10→5/10
【悪魔(倉橋)】:1/10→2/10
【塔(秀)】:6/10→7/10
です。