◆◆◆◆◆
『我は……、汝は……。……、“……”を開く者よ』
不意に誰かに呼ばれた様な気がして、緩やかに意識が浮上する。
……どうやら電気を点けたまま眠ってしまっていたらしい。
まだボンヤリとした頭で時間を確認する。
零時より少し前……。
起きるにはまだまだ早過ぎる時間だ。
取り敢えず点けっぱなしにしてしまっていた灯りを消して、閉め忘れていたカーテンを閉める。
ガラス窓には雨垂れが絶えず滴り落ちていた。
どうやら外では雨が降っているらしい。
……雨……?
何か忘れている様な気はするけれど……。
しかしほぼ眠っているのと変わらない頭は、全くと言って良い程働かない。
ボヤッと暗い部屋を見回していると、唐突に部屋に光源が現れた。
光源と言うには些か頼りないそれは、部屋に置かれていた小型のテレビからのモノだ。
酷い雑音と砂嵐の様な画面が数秒続いた後、唐突に画面が切り替わる。
不鮮明……ではないのだが、鮮明にも程遠い、一昔前位の画質のそれには、“誰か”が映っていた。
顔付近の画像は特に荒くてよくは分からないが、その肩よりも長いフワッとした髪には何処かで見た覚えがある。
誰……だろう。
考えても、眠た過ぎて思考が端からボヤけてしまう。
と言うよりも、何でテレビが点いているんだろうか。
電源を入れた覚えはないのだけれども。
もしかして故障だろうか。
困ったな、まだ一回も使ってなかったのに……。
一分か其処らで謎の映像は途切れ、再びテレビは沈黙した。
一体何だったんだろう……。
そう思いながらも、トロトロと襲ってくる眠気に包まれる様に、再び眠りの淵へと沈んでいった。
◆◆◆◆◆
【2011/04/14】
今日は何やら学校が騒がしい。
はて……何かあったのだろうか。
考えてみても、それに思い当たる節は無い。
騒めきに耳を傾けてみると、どうやら誰も彼もがいっそ狂気的な程に同じ話題について話している事に気が付いた。
どうやら先日稲羽で起きたあの殺人事件の第一発見者が、昨日少しだけ話した小西先輩だと噂になっている様である。
昨晩のニュースで流れていた映像は、声等に加工は施されていたものの、見る人が見れば小西先輩だと直ぐに分かるモノであったのだそうだ。
騒ぎになってるのが原因なのかは知らないが、小西先輩は今日は休んでいるらしい。
近隣で起こった殺人事件に対して関心が全く無いのかと問われれば、別にそういう訳でも無いのだが、叔父さんが実際に捜査に関わっている身としては、無責任な憶測を垂れ流すのを善しとする訳にはいかない。
事件の早期解決を願うばかりだ。
だから、小西先輩が第一発見者なのだと言われた所で、大して思う事はないのだ。
小西先輩を質問攻めにした所で、そんな事は警察がとっくにやっているだろうし、それによって新事実が判明するなんてそんな御都合主義的な事はあるまい。
無責任な野次馬根性で、根掘り葉掘り聞き出したって全く無意味な事である。
無駄に相手を辟易させてしまうのが関の山だ。
騒ぎ立てられ注目されるのを好む人なら兎も角、極一般的な感性を持つ人ならば、こうも無責任に騒がれるのは好まないだろう。
小西先輩は実に運が悪いとしか言いようがない。
まぁでも……何か他に話題が生まれれば、この騒ぎも直ぐに鎮静化するのではないだろうか。
人の噂は七十五日とは言うが、実際の世の中はもっと移り気である。
犯人が早く捕まればいいのだけれど……。
授業が始まる少し前に花村が教室に入ってきた。
何やら妙にソワソワしている。
「そーいえばさ、……昨日の話なんだけど……」
「昨日の話……?」
言い淀む様な花村の言葉に鸚鵡返しに訊ね返した。
はて、一体何の話だ?
「なんつーか、その……鳴上はさ、見た?」
「……目的語を省かれると意味が分かんないんだけど」
そう首を傾げると、花村にオイオイと言いたげな顔をされる。
「《マヨナカテレビ》だよ、《マヨナカテレビ》!
昨日試してみよーぜって話になったじゃんかよ!」
あー……そう言えばそんな話もあったか……。
「悪いけど、昨日はグッスリ寝てたし……見てない。
それに、何か……部屋のテレビが故障(?)してるみたいだし……起きてたとしても見れたかは分からなかった」
「故障? 修理に出せば?」
横で聞いていた里中さんも口を挟む。
「結構古めの型だし、あと一寸でアナログ放送も終了するから。
どうせなら修理に出すよりも新しいのに買い換えるかも」
「あーそれならあたしも一緒にテレビ見に行っても良い?
ウチもそろそろ買い換えかなって話になってんだよねー」
「良いよ。じゃあ帰りにジュネスに寄ってみようか」
里中さんは傍にいた天城さんにも声を掛けるが、どうやら今は忙しい時期らしく、放課後は直帰しなくてはならないらしい。
家業の手伝いというものも大変である。
そんなこんなで授業が始まり、誰の頭からも《マヨナカテレビ》の事は抜け落ちてしまった。
◆◆◆◆◆
放課後、里中さんと花村と共にジュネスの家電コーナーを訪れていた。
基本的に繁盛しているジュネスにしては珍しく、家電売り場に客の姿は疎らだ。
まぁ、新生活への切り換えの時期からは少し外れているし、そもそも家電は日常的に買い換えるものでもない。
これが人の流入の激しい都会なら兎も角、新たに引っ越したりしてくる人は稀なこの稲羽では、引っ越し関連での家電の買い入れも少ないだろう。
それでもやっていけるのだろうけど。
壁一面に並べられた様々なメーカーの薄型液晶テレビは大きさもマチマチだ。
部屋に置くのに丁度良いサイズかつ値段の手頃な小型のテレビから、どう考えても一般的な家庭では置き場に困る様なテレビまで選り取りみどりである。
最終的に購入するとしても小型のものになるだろうが、特大サイズのモノにはロマンがあってそれはそれで良い。
これで映画を見たりゲームをやったら凄い迫力になる事だろう。
「そーいやさ、結局《マヨナカテレビ》は見れた?」
「うーん……一応?」
特大テレビをしげしげと見ていると、背後で里中さんと花村がそんな話をしていた。
「あたしは……何か人影っぽいのは見えたんだけど……誰なのか分かんなかったし……。
それに多分だけど、あの人影……女の人っぽかったんだよねー……。
なーんか、どっかで見た事ある様な人だった気はするんだけど」
「お前もか、里中。
俺も一応……映ってはいたんだが……画像が粗過ぎて誰なのかは分からなかった。
でも確かに……何かこう……見覚えがある人だったんだよな。
フワッとした、肩位の長さの髪で……あとウチの制服も着てて……。
あー……喉元位まで出かかってる気がすんのに……」
「その人、もしかしてあたしが見た人と同じかも……。
えっ……?
花村とあたしの《運命の人》が同じ人って事?」
「知んねーよ。
でも、マジであれ何だったんだろうな」
ふと、二人の話題に上っている人物を自分も見た覚えがあった事に気が付く。
「私も……もしかしたら、見た、のかもしれない……その人影を。
てっきりテレビの故障かと思ってたけど……」
「あれ? 鳴上は昨晩は寝てたんじゃねーの?」
「一度だけ途中で起きたから……。
すぐにまた寝たんだけど、寝る前にほんの少しの間だけテレビが勝手に点いて……花村達が言う人影らしきものが映ってた」
本当に極僅かな時間だったし、テレビの故障だと思っていた。
それに大体、一度眠ってしまったら途中で目が覚めた事など殆ど無いものだから、もしかしたら夢の中の出来事だったのかなと位にしか考えてなかったのである。
「んー鳴上さんが見たその人影が《マヨナカテレビ》のものだったとして、三人の《運命の人》が同じって事になるのかなぁ……。
てか、あたしも鳴上さんも、女なんだけど」
そもそも《運命の人》も何も……誰が映ったのかてんで分からないのだ。
何処かで見た事があるその容姿が多少は気に掛かるものの……だからと言って、積極的にその人物を探したいのかと問われればそれは否と答えるしかない。
眉唾物だと思っていた都市伝説が、実はそうではなかったという点に関しては興味も沸くが……。
……しかしどういった仕組みであの映像は映ったのだろう。
花村と里中さんも見た以上は、あのテレビの画面にだけに何か問題がある訳ではないだろうし……。
そう思いながら目の前の巨大な画面に手を伸ばす。
だがしかし。
確かに画面に微かに触れた筈の指先には、ある筈の硬い感触が返ってこない。
それどころか、微かな波紋を描いて指先はある筈の画面を通り抜けていく。
「っ!?」
一瞬、壊してしまったのかと思い、慌てて指を引き抜いた。
だが、指先が離れた後の画面には穴なんて空いてないし、何の問題もなくバラエティー番組が映っている。
なら、目の錯覚か……?
そう思い、目を軽く擦った後に、今度は右の掌を画面に触れさせる。
やはり、ある筈の画面の感触がない。
そして、右手は画面に呑み込まれていた。
手首近くまでは沈み込んでしまうのを確認した後、手を引き抜く。
早鐘を打つ鼓動を抑えようと、ゆっくりと大きく息をした。
「ん? どーかしたのか、鳴上?」
様子がおかしく見えたのだろうか、花村が気遣わし気にそう声を掛けてきた。
その声に花村の方を振り返る。
「……花村。
私は……白昼夢を見ているのだろうか……」
客観的にどう見えているのか気になったから、花村が見ている目の前で再び手を画面に伸ばした。
「っ!? お、おいっ!?
どーなってんだ、それ?!」
花村は混乱した様に、画面に沈み込んでいる右手とこちらとを見比べてきている。
「えっえっ?? な、何それ?!
最近のテレビの新機能??」
里中さんも茫然と見比べていた。
混乱し過ぎていて、脳が正常に情報を処理出来ていなさそうな感じである。
「んな訳あるか!!
えっ、マジで?? どーなってんの??
新手のイリュージョンっ?!
タネは?? 仕掛けはっ!?」
慌てた様に二人がこちらに駆け寄ってきた。
右手の先には何の感触も返ってこない。
どうやら相当に広い空間の中にある様だ。
肩程まで沈み込ませても、やはり何も無い。
……引き抜いた右手には特には異変は無い。
画面に突っ込んだところで、そう害は無いと言う事だろうか……?
少しだけ、ほんの少しだけ……沸き上がった好奇心に逆らえず、今度は頭を突っ込んでみる。
しかし、……白く靄がかった視界が広がるだけで、特には何も見えない。
はて、一体何なのだろう、これは。
「ちょっ! 鳴上?!
馬鹿な真似は止せって!!」
「てか、人!! 人が来ちゃうってっ!!」
背後で二人が騒いでいるな……と思い、一旦止めるか、と顔を画面から引き抜こうとしたその時。
背後から急に重みが加わって、バランスを崩し。
重力に従って、成す術もなく画面の中へと全身が呑み込まれてしまった。
▲▽▲▽▲▽
…………………………
……………………
………………
…………
……
「っ!」
僅かな浮遊感の後に落下して辿り着いたのは、不思議な場所だった。
咄嗟に受け身を取ったのであまり痛くはない。
背後でドサドサッと二回何かが落下してきた音がした。
あの状況から推察するに、恐らくは里中さんと花村だろう。
振り返って近寄ると、花村は少し着地に失敗したらしく、涙目になっていた。
二人に特には怪我らしい怪我は無さそうである事を確認してから周りを見渡す。
一面の霧で殆ど何も見えないが……。
「ここは……」
何処、なのだろう。
少なくとも、ジュネスの店の中では無い。
直前に見ていた光景から地続きの場所であるとするならば、ここはテレビの中、という事になるのだが……。
……。
…………。
……いや、そもそもの話からして突拍子も無い事ではあるが、ここはそうとでも考えなくては話が何も進まない。
まずは脱出する為の方法を探さなくてはならないが……。
辺りが濃い霧に覆われているとはいえ、出口も入り口も……それらしき物が見当たらない。
落下したと言う事は、入り口は上方にある筈なのだが見上げてみても特にはそれらしきモノは見当たらなかった。
霧で見えないだけと言う可能性も有ろうが、落下した時間から逆算すればその高さは1.5メートルも無いだろう。
今居るのは、まるでテレビスタジオの様な場所だけれども、撮影する為の機材などは何処にも見当たらず、ただただ剥き出しの鉄骨に取り付けられたライトが静かに霧を照らしている。
一体この場所が何を目的として存在しているのか皆目見当も付かないが……。
里中さんと花村は異常事態に動揺して平静を失っている。
気持ちは分かるが、しかし、焦ろうが怒鳴ろうがそれで元の場所に戻れるという訳でも無い。
そんな事は体力の無駄遣いでしかないだろう。
別に、今目の前に命の危険が差し迫っているという訳でもないのだから、無闇に焦る必要性はない。
「……出口を探さないと……」
「探すって、どうやってだよ?!」
「この辺りを歩き回るしかない」
地図とかそんな物は無い。
スマホはネットに繋がらないし、そもそも圏外だ。
電波の通りが悪いのか、将又近隣に基地局が無いからなのかは分からないが……。
何の手掛かりも無いが、とにかくやってみるしかない。
この場に止まってきた所で、第三者から救助される可能性は、限り無く零に近いのだから。
取り敢えずは行ける所までは行ってみようという事になり、スタジオらしき場所を後にした。
◇◇◇◇◇
またスタジオに戻れる様に、所々にサインペンで印を残しながら進んで行くと、マンションの様な建物に辿り着いた。
霧の中から突然現れたかの様に佇むそれは、生活音が無く、人の住んでいる気配が全く無い上に、所々ハッキリとは言葉にし難い違和感を感じるが……。
まぁそれでも周囲にそれ以外に目ぼしいものはないのだ。
明らかに怪しいのだが、半ば仕方無しに足を踏み入れた。
……?
……一瞬霧の向こうで騒めきの様な微かな音が聴こえた気がする。
花村と里中さんには何も聴こえなかった様なので、気の所為なのかもしれないが……。
最大限警戒しつつマンションの中を進んでいくと、小部屋に行き当たった。
所々にあった扉には、何も書かれていない表札や滅茶苦茶で何の法則性も見出せない部屋番号らしきものが添えられていたが、それらの扉が開く事はなく、鍵穴自体が存在していなかったのでそもそも扉としての用途を成しているのかさえ疑問に思わざるを得なかった。
そんな中、まるで招き入れ様としているかの様に、行き当たりの部屋の扉は開け放たれていた。
中に
万が一住人がいるのなら不法侵入になるな、と思いはするものの、まぁ人が住んでいる生活臭が全く無いので、その点は多分大丈夫だろう。
部屋の中は心なしか大分霧が晴れている様に思える。
尤も……それによりハッキリと見えている室内の様子は、“異様”と表現するに相応しい有り様だったが。
壁一面に誰なのかは分からないが同一人物のポスターらしきものが貼られ、そのポスターはどれもこれも特に顔の辺りを重点的かつ執拗に切り裂かれていて、更には止めと言わんばかりに様々な色彩の塗料を撒き散らされていた。
相当の怨みつらみが無くては、ここまでは出来ないだろう。
ポスター以外の部屋の内装自体は、殺風景にすら感じる程のものだから余計にそのポスターの異様さが目立つ。
塗料を被っていない僅かながらも読み取れた部分には《演歌道》や《みすず》という文字が書かれていた。
そしてポスター以外にこの部屋の異様さを一層際立たせているものは、天井から垂れ下がった荒縄とその先に括り付けられた輪っか状にされた朱を基調としたスカーフ、そしてその真下の椅子。
それはまるで首吊りをする為のものの様で……しかし実際に首を吊った形跡は無いので未遂に終わったのかもしれないのだけれど。
花村も里中さんも、この部屋の異様な光景に竦んだ様に立っている。
表現し辛い異質さに呑まれた様に茫然としている二人を尻目に、部屋を一通り捜索した。
正直見ていて気分が良くなる様なモノでも無いが、しかしこの部屋にはそれ以外は何も無さそうだ。
如何にも訳あり感が漂っているのに、残念な事である。
長居しても仕方ないので、来た道を引き返そうとしたその時。
霧の向こうから『何か』がやって来る音がした。
逃げようにも、部屋の出入り口は一つしかない。
完全に袋小路だ。
咄嗟に花村と共に里中さんを背後に庇い、『何か』の出方を探る。
そして、霧の向こうから現れたのは……。
……何と表現するべきなのだろう?
熊を思いっきり可愛らしくデフォルメしたかの様な着ぐるみ、なのだろうか?
首と胴が分離出来るタイプの様で、首もとの大きなジッパーがやけに目立つ。
いやしかし。
その耳はピコピコと動いているし、一昔前の少女漫画かと言いたくなる程のクリクリとした大きな目はパチパチと瞬きを繰り返している。
これがただの着ぐるみだとは到底思えない。
人間、かどうかすら分からない。
「えっと……どちら様?」
取り敢えず、こちらに敵意を持つ存在かどうか位は確認しなくてはならない。
混乱しつつもそう思い、目の前の不思議な存在に問い掛けてみると。
「キミたちこそ誰クマ!
クマはクマクマ!
ずっとここに住んでいるクマ!
そんな事よりも、キミたち早くあっちの世界に帰るクマー!」
『クマ』と名乗った着ぐるみに、そう捲し立てられた。
少なくとも言語的コミュニケーションが可能な相手ではある様だ。
「帰れと言われても……」
そもそも、その為の出口を探しているんだが……。
いや、待て。
この奇妙な着ぐるみ、『ずっとここに住んでいる』と言わなかったか?
もしかして、出口か何かを知っているんじゃ……。
そう思い、着ぐるみを問い詰め様とした時。
周囲の空気がガラリと変わったのを肌で感じた。
「あわわわわっ!!
キミたち、早くここから逃げるクマよー!
まだ霧は晴れない筈なのにやたらとシャドウが殺気立っているクマ!
このままじゃキミたちシャドウに襲われちゃうクマよ!
ほら! これをキミにあげるから、早くここから逃げるクマ!!」
「《シャドウ》?」
そう早口で捲し立てられ、よく分からない内に着ぐるみから何かを押し付けられた。
押し付けられたその何かは、一見するとただの眼鏡にしか見えない。
だが、よく調べてみようとレンズを覗くと。
「霧が……見えなくなった……?」
いや、正確にはまだ微かに残ってはいるのだが、あれ程視界を塞いでいた霧は気にもならない程の薄さになっていた。
しかしレンズから目を外すと、やはり霧は重苦しくそこに存在している。
……このレンズを越しならば、視界を確保出来る、という事か。
罠の可能性は十分に有り得たが、今は視界を確保出来る方が良い。
迷わず渡されたその眼鏡を掛けた。
霧があるのと無いのとでは見えてくる物が大違いだ。
さて、先程から騒いでいる《シャドウ》とは一体何なのだろう?
それを着ぐるみに訊ね様とした時だった。
まるで背筋に限界まで冷却された水をぶっかけられたかの様な悪寒が走る。
「ギャーッ! 来るクマよ!」
そう叫んでクマは何処かへと走り去ってしまった。
その逃げ足の速さはあっという間に視界から消えてしまう程のものである。
「えっ、あっ、ちょっ……待ちなさいよ!」
里中さんがそう叫ぶが、今はそれどころではない。
「二人とも、一刻も早くここを離れよう」
そう言ってまだ事態を把握出来ていない二人の腕を掴んで来た道を引き返す。
勿論全速力でだ。
「ちょっ、待てよ鳴上!」
「今は説明する手間も惜しい!
一先ずあのスタジオの様な場所に!!」
戸惑う花村に懇切丁寧に説明している暇は無い。
霧が掛かっていない視界には、今の状況が嫌になる位にハッキリと映ってしまっているのだから。
まるで床から染み出てくる様に黒い“何か”が何処からともなく現れた。
まるでゲルの様なやや不定形な
そしてその仮面を中心として体が持ち上がり、見る見る内にその形状を変えていった。
変態後のそれは例えるならマリオシリーズのパックンフラワーの花の部分だけが中空に浮かんでいる感じだ。
もしくは懐かしのレトロゲー、パックマンか。
どういった原理で浮いているのかは甚だ疑問ではあるが、今はそれどころではない。
パックマン(仮)はどう見たって友好的な存在には見えない。
見た目で物事を測るのは良くないのだが、見た目云々の前に殺気だっているのだから仕方無い。
パックマン(仮)の姿は、この霧の中でも二人にも僅かながらも見えている様だ。
「な、何だよコイツ!」
「わわ、分かんないけど、とにかく逃げなきゃ!!」
◇◇◇◇◇
しかしパックマン(仮)の数はどんどんと増えてきて、建物を出た辺りで四方を囲まれてしまった。
逃げる途中で拾った錆びた鉄パイプで応戦するが、鉄パイプは呆気なく折れ曲がったというのにパックマン(仮)は全く堪えた様子がない。
「っっ!!」
「里中!」「里中さん!!」
その時、パックマン(仮)が不意を突いて里中さんの背後に回り込んだ。
パックマン(仮)の、気味が悪い程巨大な舌に顔面を舐められた里中さんは恐怖が限界に達したのか、気を失って力無くその場に倒れる。
「くそっ!!」
花村が慌てて里中さんを抱き抱えるが、里中さんが目を醒ます気配は全く無い。
パックマンは容赦なく、そんな動けない二人に襲い掛かろうとする。
「畜生っ! 何で、こんな所でっっ!!」
「っ! 諦めるなっ!!」
目を閉じて襲い掛かるであろう痛みに備えようとした花村に檄を飛ばしながら、襲い掛かるパックマン(仮)に全力で体当たりをして押し飛ばした。
ダメージにはなっていないだろうが、それでも一応押したりして動かす事は出来るのだ。
諦めてたまるか。
こんな所で死にたくない。
家では菜々子ちゃんが待ってるし、叔父さんだって、待ってる。
今は遠く海の向こうに居るが、父さんや母さんだって、次の春には帰ってくる。
彼らを思うと、こんな所で死ねない。
彼らを思うのなら、こんな所で死にたくなんてない。
諦めてたまるか。
諦める事なんて、出来る訳ない。
どんな事があっても、生きる事を諦めてたまるか。
だから、死なせない。
花村も、里中さんも。
死なせない。死なせてたまるか。
「花村っ! 里中さん抱えて走れっ!!!」
「鳴上っ!!」
道を塞いでいたパックマン(仮)に体当たりをして退かせながら、花村に叫んだ。
「良いから、さっさと!!」
再度飛び掛かってきたパックマン(仮)の突進を身を屈めて回避してから、更にもう一度体当たりをする。
戸惑いながらも花村は頷き、里中さんを引き摺る様にその場から逃げた。
その背後を襲おうとするパックマン(仮)に、手近な所にいたパックマン(仮)の舌を掴んで、ハンマー投げの要領でブチ当てる。
掴んだ際の舌のヌルリとした感触に内心悲鳴を上げたが、目論見通りに花村の背後に迫っていたパックマン(仮)は弾き飛ばされた。
しかし、実際に感触はあるのに、何のダメージにもならないのは不可解な話である。
いや、今はそんな事よりも。
そう思い直して、花村達の後を追う。
「クッソ、アイツら何処まで追ってくる気なんだ!」
「分からないけどっ、とにかくっ、走るしかないっ!!」
逃げなきゃ死ぬのだろう、とは誰に説明されるでもなく最早本能的な部分で理解していた。
あのパックマン(仮)どもがお化けとか幽霊だとか怪物だとか、一体何なのかは分からないが、一つ言える事があるとすれば、あれは普通の人が、何の武器や対抗手段も持たずに太刀打ち出来る様な存在ではない。
あの着ぐるみを捕まえれば、何か対抗手段が見付かるかもしれないが、今はあれを探している暇など無い。
「チッ! あんな見た目のクセに移動が速過ぎんだろ!!」
花村は後ろをチラリと振り返って舌打ちをしつつ叫んだ。
空中を滑る様に追ってくるパックマン(仮)どもの移動速度は速い。
こっちだって別に鈍足ではないし、ある種火事場の何とやら的な速さで全力疾走しているのに、グングンと距離を詰めてくる。
しかしパックマン(仮)達は小回りは利き辛い様で、曲がり角に行き当たる度に距離を離す事が出来る。
だが……。
「あっ!」
死角から飛び掛かってきたパックマン(仮)に驚き、それを避けたは良いが、花村が足を縺れさせて転んでしまった。
助け起こそうと駆け寄ると、その隙にまたパックマン(仮)に周囲を囲まれる。
どうにか抜け出そうにも、警戒されているのか今度は中々体当たりを出来そうな隙がない。
これは……万事休す、かもしれない。
倒れた花村達を背後にして、この怪物どもの群れに相対する。
大きく口を空けて襲い掛かろうとしてくるパックマン(仮)達を、せめてもの意地と矜持で、死の恐怖に震えそうになる体を押さえ付け、絶対に目を反らしてやるものかと睨み付けた。
その時。
━━我は汝……汝は我……
……声が。
何時か何処かで聴いた事がある声が、聴こえた様な気がした。
そして同時に。
頭痛にも似た微かな目眩がする。
そして、その目眩を感じたのとほぼ同時に。
今にも襲い掛かろうとしていた怪物達は、まるで何かに怯える様に震えながら静止した。
━━汝、扉を開くものよ……
額を押さえようとした手には、いつの間にか、見た事も無いカードが一枚、握られている。
ひっくり返して見ても、そのカードには何の絵柄も無い。
“今は、まだ”。
━━己が双眸を見開きて……
手の内のカードは、自己の存在を主張する様に、青い光を放っている様に見えた。
それに呼応する様に、自らの内から沸き出る、力強く荒々しい
自然と口元に笑みが浮かぶ。
自らを鼓舞し相手を威嚇する様な笑みに、怪物達が動揺しているのを感じた。
━━汝、今こそ発せよ……!
どうすれば良いのかは、分かった。
そう、扉を開けるだけだ。
その先にあるものは、ずっと昔から己と共にあり、紛れもなく“己”であるものなのだから。
恐れる必要は無い。
躊躇う必要も、無い。
だから━━
「…ぺ」
光が一際強くなる。
「ル…」
ビリビリと震え上がる心を律しながら、それでもより強く震える様に。
「…ソ…」
手を一度大きく広げる。
そう、掴み取る為に。
「ナ……ッ!!」
猛々しい光を放つカードを握って砕くと同時に、それは雄々しく吼える様に現れた。
◆◆◆◆◆
冒頭の『』内は、正しくは『我は汝、汝は我。汝、“扉”を開く者よ』ですが鳴上さんは寝惚けていてちゃんとは聞いてません。
テレビに入れる事に気付くタイミングが原作からズレております。