花の名前   作:高嶺 蒼

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第九話 過去・紐育~子犬と氷の女神 2~

 空腹を訴える腹の虫に目覚めを促され、目を開けてみると、窓の外はすっかり暗くなり、明かりのない部屋も薄暗闇の中に沈んでいた。

 寝起きで、まるで頭の働かない大神は、マリアの姿を探してぼんやりと部屋の中を見回す。

 

 が、目の届く範囲に彼女の姿を見いだせず、大神は熱の名残か、まだけだるさの残る体を起こして、もう一度ゆっくりと首を巡らせた。

 しかし、部屋のどこにも彼女の影はなく、耳を澄ませてみてもその存在を感じさせる物音一つしない。

 どうやら大神が寝ている間にどこかへ出かけてしまったらしい。

 

 (こんな時間までいったいどこに行ってるんだ?)

 

 マリアが酒場で用心棒をしているなどとは夢にも思わない大神は、分厚いカーテンを開けて窓の外を見ながら形のいい眉をひそめた。

 薄い窓を通して差し込む明かりの主は、夜空の中空に座し、その存在を主張している。

 はっきりとした時間は分からないが、もうだいぶ遅い時間だろう。

 マリアのことが心配だった。

 

 そんな大神の杞憂を知れば、彼女からは余計なお世話と煙たがれるかも知れない。

 大神とて、マリアが大神の助けを必要としないくらい強いということは分かっている。

 でも、それでも、大神は彼女を案じずにはいられない。

 それは理屈などで割り切れるものではなくーしばらく不安そうに窓の外を眺めていた大神は、心を決めたように一つ頷き、ベッドを降りた。

 

 まだふらつく足を踏ん張って、何かを探すように周りを見ていた大神は、ベッド横のサイドテーブルの上に探すものを見つけ、思わず微笑みを浮かべてしまう。

 洗濯され、マリアらしい几帳面さで綺麗にたたまれたそれは、その小さな台の上、読書用のライトのしたにそっと置かれていた。

 

 ズボンをはき、シャツに腕を通して初めて、それが新調されたばかりのものと気がつく。

 ズボンはともかく、真っ白なシャツに付いた汚れは落としきれなかったのだろう、と自分の体についていた大小数え切れない擦り傷を思い返しながら大神は苦笑を漏らした。

 よく見てみれば、ズボンの方も決して無事と言える状態ではない。

 所々破けているのを丁寧に繕ったあとが伺える。

 彼女が大神の眠る横で繕い物をする様子が目に浮かぶようだった。

 

 大神は微笑み、まだ頼りない足取りでドアの方へと向かう。

 この時代でのマリアも、大神の知る彼女と変わらず一生懸命で優しい。そのことが、無性に嬉しかった。

 

 扉を開けると、冷たい夜の空気が頬を撫で、眠りから覚めきらない体を覚醒へと導く。

 まだ四肢に力は入らないが、それでも足はもうふらついてはいない。

 一段一段、階段を踏みしめながら、大神はゆっくりと階下へと降りていった。

 

 通りを離れているせいか、暗闇に沈む路地は思いの外静かだ。

 見上げる空には満天の星ー。

 大神はしばしその光景に目を奪われ、それから改めて歩き出そうと前を見ると、正面から歩いてくる人影が目に映った。

 

 夜の闇に、鮮やかな金髪が浮かび上がる。

 大きな荷物を抱えたその人物は目指す建物の前に立つ大神を認め、その緑の瞳を見張った。

 

 ほんの一瞬彼女の足が止まり、大神が駆け寄る。

 しかし、その足取りはまだ危なげで、マリアは眉を寄せ、彼の顔を鋭く見た。

 その眼差しに首をすくめた大神は彼女のいいたいことを素早く察して、

 

 「君がいないから心配で、迎えに行こうと思ったんだ…」

 

 と、言い訳じみた言葉を口にしながら、彼女の持つ荷物をそっとその手に受け取った。

 あなたの方がよほど危なっかしいわーそう思いはしたものの、口にはせずにただ嘆息して、彼女は前を行く大神の背を追いかけた。

 

 

 

 

 「ところで、こんなに遅くまでどこに行っていたんだい?」

 

 「-仕事よ」

 

 

 階段を上りながらそう尋ねる大神の頬がかすかに上気しているのを見て取って、マリアは短く答えながら再び眉をひそめた。

 勝手に動き回ったりするから下がりきらない熱がまた上がり始めたのだろう。

 たいして動いてもいないのにもう荒くなり始めた彼の息づかいがそのいい証拠だった。

 

 再び暗い部屋の中へと戻り、荷物を置いて振り向いた大神の額にマリアの手の平が当てられる。

 その行為と、彼女の手の冷たい感触に驚いて目を丸くする大神に、熱がある、と少し怒った顔をする少女。

 

 大丈夫だよーそう言い募ろうとすると、有無をいわせずにベッドへ行けと、命令された。

 それでも、自分がもう大丈夫なのだとアピールしようと口を開きかけた大神は、不意に何かに気付いたように、自分を見ている綺麗な顔を見つめーそれから嬉しそうに破顔した。

 マリアが本当に自分のことを心配していてくれると、そのことに気がついたから。 

 

 さあーと、マリアの指がベッドを指し示す。

 大神は、今度は素直に彼女の指示に従いベッドに潜り込むと、そこから彼女の顔を見上げた。

 

 そうして横になったまま誰かを見上げると、なんだか頼りないような、心細いような、無性に人に甘えたくなるようなーそんな気分になってくるから不思議だ。

 じっと見つめる大神の目から逃れるように目線をはずし、彼女は台所へと向かう。

 

 とはいっても、さほど広くもない部屋だ。

 案外近くにある彼女の背に向かって、何をするのかと聞いてみる。

 そう口に出してみて、大神はそれが愚問であることに気がついた。

 何しろ彼女が向かった先は台所なのだ。そこに立ってすることと言えば一つしかあるまい。

 

 「-食事の準備をするわ」

 

 案の定、彼女の唇からもそんなにべもない返事が返ってくる。

 大神は苦笑しーそれでも懲りずに再び彼女の背に問いかける。

 

 「何を作るんだい?マリア」

 

 肩越しに振り向いたマリアは、ほんの一瞬大神を見つめ、

 

 「-ボルシチよ」

 

 短く、そう答えた。

 大神はまた嬉しくなって笑ってしまう。

 マリアはきちんと覚えていてくれたのだ。今朝の大神とのやりとりを。

 

 

 「じゃあ、何か手伝うよ。料理は結構得意だよ?」

 

 「ダメよ。病人は寝ていなさい」

 

 

 いそいそとベッドから這い出そうとした大神に再び飛んできたマリアの叱責。

 大神は肩をすくめーまるで小さな子供のように「はぁい」と素直な返事を返し、毛布を肩の所まで引き上げた。

 

 しばらくしてー。キッチンから響いてくるのは規則正しく彼女が操る包丁の音。

 そのリズムに眠気を誘われて、大神の瞼は自然と重くなってくる。

 ほとんど閉じかけた目にマリアの背を映しながら、大神はその口元に幸せそうな笑みを浮かべーそして今日何度目かの眠りの中へ落ちていった。

 

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

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