花の名前   作:高嶺 蒼

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第五話 過去・紐育~氷の女神・マリア~

 薄暗いバーの片隅で、彼女は一人静かにグラスを傾けていた。

 

 美しい少女だった。

 彫りの深い、整った顔立ち。艶やかな紅い唇。

 誰もが目を引かれるであろう美貌の少女は、だがしかし、見事なまでにその存在感を感じさせない。

 

 彼女は壁際の闇に紛れるように、ひっそりとそこに存在していた。

 ただ時折、鮮やかな金髪の下から覗く緑の双眸で、鋭く店内を見渡しながら。

 騒ぎが起こると、彼女はその瞳をそちらに向ける。

 どんなに酔って凶暴になった男でも、彼女と目を合わせると誰もが皆一様にその動きを止めた。

 まるで頭から冷水を浴びせかけられたかのように。

 

 彼女の瞳は凍れる刃だ。

 その眼差しに貫かれ、それでも平常心を保てるものなど滅多にいない。

 

 だが、たとえばもし、その洗礼に耐え抜き、抵抗するような命知らずな強者が居たとしよう。

 その者は望む、望まざるに関わらず、さらなる恐怖をその身に受けることとなる。

 彼女は自分に抗する者への容赦など、全くと言っていいほど持ち合わせてはいないのだから。

 

 向かってくる者にたいして、彼女はなんの躊躇もなく、自分の持つ武力を行使する。

 エンフィールド改。

 彼女の手によって様々な改造がなされたその銃は、彼女の意志のままに力をふるう。

 その銃口から飛び出す銃弾に耳をそがれて逃げ出す者も、決して少ない数ではなかった。

 

 しかし、ここ最近ではそんな輩もだいぶその数を減らしていた。

 彼女がこの辺りで用心棒まがいの仕事を始めてからもう一月にもなる。彼女という存在への畏怖心が浸透するには十分な時間だった。

 

 だから彼女は今日も静かにグラスを傾ける。

 一時間でも二時間でも、顔色一つ変えることなく。

 彼女が他にすることと言えば、その冴えた眼差しを時折思い出したように店内へと向ける、そのことのみ。

 

 だが、そんな彼女にたいして、店の持ち主たちが異論を唱えることはない。

 ただそうしてそこにいることだけで、彼女は酔い路れ男たちへの十分な抑止力となっているのだから、文句の出ようはずもないのだ。

 

 彼女を知る酒飲みは、決して薄れることのない畏怖を込めて彼女を呼ぶ。

 凍れる眼差しを持つ者。氷の女神ーと。

 

 

 

 

 裏口の方で何か物音が聞こえたような気がした。

 それは普通であれば聞き逃してしまうほどの、そんなかすかな音だ。

 だが、彼女は敏感にそれを察知し、判断を仰ぐようにカウンターの向こうにいるマスターに視線を向けた。

 

 彼もまたその音に気付いていたようで、彼女に向かって素早いうなずきを一つ返す。

 それは、彼女に対するGOサインだ。彼女は即座に行動を開始した。

 

 音もなく立ち上がり、滑るような足取りで裏口へと向かう。

 まあ、行って確かめたところで、大した事実が分かるわけでもないだろうが。

 たぶん、野良猫がゴミをあさるうちに、その山を崩してしまったーそんなところだろう。

 

 だが、用心に越したことはない。

 用心を怠り、慢心した先にあるものーそれはさけられようのない死。

 この世界では、ほんの少しの油断が死を招く。

 死にたくないのならーこの世界でのし上がっていきたいのであれば、注意深く、どんな些細なことにでも警戒心を抱きつつ生きるしかない。

 ここはそう言う世界だった。

 

 銃に手をかけたまま、注意深く外の様子を窺う。

 すぐ近くに人の気配はない。彼女はゆっくりと店の外に出た。

 

 周囲を見回し、彼女は不意にその目を見張った。

 ゴミ置き場に誰かが居る。

 もちろん猫などではない。それは紛れもない人間だった。

 正確には人間の足、だ。二本の足が無造作に投げ出されている。

 

 ぴくりとも動かないその両足を見て、ただ酔いつぶれて眠っているだけか、それとも死んでいるのかを離れた場所から判別することは難しい。

 彼女は慎重な足取りでその足の方へと近づく。

 ゴミの据えた匂いの中にかすかではあるが血の匂いが感じられた。

 

 (死んでいるのか?)

 

 その足の傍らに立ち、彼女は無言のままにその人物を見下ろした。

 その男は眠っているようだった。

 全身に及ぶけがを負ってはいるが、死に至るほどのものではないらしい。規則正しく上下する胸が、その事実を伝えていた。

 

 見た感じ、まだ若い男のようである。眠るその顔が妙に幼く見えた。

 彼の髪は見事な黒髪だった。

 一瞬どきりとするが、たぶん中国人だろうと思い直す。

 この辺りで中国人を見かけることはよくあることであったから。

 それにそう思う方が、遠い島国の人間がここにいると考えるよりも遙かに現実的だった。

 

 『おい、しっかりしろ!』

 

 なぜか放っておくことができずに、そう声をかける。

 その声に答えるように青年ー大神はわずかに身じろぎをして目を開けると、髪と同じ黒い瞳で少女を見上げた。

 その少女は大神のよく知る人物だった。

 まだ頭が覚醒していないのか、彼女の名前がどうしても出てこない。

 それは何よりも愛しい、そんな名前であるはずなのに。

 

 『ーどうした?大丈夫か?』

 

 自分を見上げたまま、一言も発しない大神の様子に不安を感じたのか、彼女が再び声をかける。

 その言葉はもちろん英語だ。大神は目を見開き、それからかすかに首を傾げる。

 彼女はなぜ、いつものように日本語を使わないのかーと。

 そんなことを思った瞬間、不意に彼女の名前が頭に浮かんだ。

 

 「良かった。やっと思い出せたよ、君の名前を…」

 

 独り言のようにつぶやき、微笑んだ。

 そんな大神の言葉を聞いて、今度は少女の方がその面を驚愕に凍り付かせる。

 聞き慣れない異国の言葉ー。しかしそれは少女にとって決してなじみ無い言葉ではなかったのだ。

 

 その不思議な響きを持つ言語は彼女のもう一つもふるさとのもの。亡き母の生まれた国、日本の言葉だった。

 なぜ?-その言葉だけが頭の中をぐるぐる回っていた。

 しかしその驚きも、次に発せられた大神の言葉でさらに大きなものへと変わることとなる。

 

 「でも、良かった。君が居てくれればもう安心だね、マリア…」

 

 少女ーマリア・タチバナは大きく目を見開いた。驚きのあまり声も出ない。

 自分はこの青年と会ったことはないはずだった。マリアの知る日本人は、亡き母一人だけのはず。

 それなのになぜ、この行き倒れの日本人は自分の名を知っているのだろうー?

 

 そのことを問いかけようとして、再び彼の方へと視線を戻したマリアは、それがかなわないことだと気付く。

 彼は眠っていた。この上もなく安心しきった寝顔で。

 

 吐息を一つ。

 

 このまま放っておくわけにもいかないわねー彼女は立ち上がり、店の方へと向かう。

 今日はこれで帰るーそのことを店主に伝えるためだ。

 

 さて、理由はどうしよう?

 マリアはほんの一瞬立ち止まり、そうだなーと考える。視界の端に、爆睡中の大神の姿が映った。

 

 (けがをした野良猫を拾ったとでも言っておこうか?)

 

 その思いつきにマリアは口元にかすかな笑みを刻む。本当に無造作に、無意識に。

 それはここ最近、彼女の顔に浮かぶことのなかった、ごく自然な優しい笑顔であった。

 

 

 

 

 

 意識のない男に肩を貸し、やっとの思いで自らのアパートに着いたとき、けがのせいか、男は発熱をしているように見えた。

 玄関先にどさりと降ろした男の頬がやけに紅いことに気付き、乱れた息を整えつつ、その額に手を当てる。

 そこは燃えるように熱くなっていた。

 

 彼の熱に気がついたマリアの行動は早かった。

 汚れた服を脱がせ、下着一枚にすると、その体をベットの中へと押し込む。

 あるだけのタオルケットや毛布でその体を包み、額を冷たいタオルで冷やした。

 

 だが、それだけのことで高熱が下がりきるはずもない。

 薬を与えようにも、そもそも彼女の部屋に薬なんて代物はおいていないのだ。

 買いに行こうかと思いはしたが、意識のない彼を一人おいておくのはどうも心許ない。

 結局マリアはそのまま青年が目覚めるのを待つことにした。

 

 となると、今彼女にやれることはそう多くない。

 噴き出す汗を拭ってやり、額のタオルをこまめに代えながら、マリアは黙って彼の寝顔を見つめていた。

 そうしているうちにも、彼はうわごとのように何度もマリアの名をその唇に乗せる。

 大切そうに紡がれる自分の名前を聞きながら、何とも言えず不思議な気持ちがした。

 

 何度見ても、自分はこの男の顔に見覚えはない。

 それなのに彼は大事な人の名を呼ぶように、優しくマリアの名前を口にするのだ。

 なんだかへんな気分だーマリアは思う。だがそれは決して不快な感情ではなかった。

 

 (お前は私を知っているの?それとも私によく似た誰かを知っているだけ…?)

 

 声に出さずに問いかける。

 知りたいが、眠る男から答えを引き出せるはずもなく、マリアはおとなしく彼の目覚めを待つ。じっと彼の横顔を見つめながらー。

 そんなマリアの見ている前で、彼は再びマリアの名を呼ぶ。

 彼女の存在を求めて伸ばされた手に、とまどいながらもそっと己の手を重ねた。

 熱い手だった。

 それはまだ熱が高い証拠だ。空いてる方の手を伸ばし、額の汗を拭く。

 

 「-マリア……」

 

 彼の声が愛おしそうに彼女を呼び、熱い手の平に力がこもる。

 そこに、確かに彼女の手が存在することを確認し、彼はふわりと微笑んだ。

 本当に、この上もなく幸せそうな、そんな笑顔で。

 

 そんな彼の笑顔に目を奪われ、そのことに気付いたマリアは思わず苦笑を漏らす。

 深い寝息を繰り返す彼の目覚めは、まだ当分先のことになりそうだった。

 

 

 




過去のマリアとの邂逅です。

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