花の名前   作:高嶺 蒼

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第二十話 過去・紐育~別れは青い空の下~

 薄暗いその部屋に、少女の静かな寝息だけがただ響いていた。

 

 

 『良く、寝てるみてぇだな』

 

 

 良かったーとボードウィルが呟く様に言った。それに大神は頷きで返し、静かに笑う。

 もうじき朝が来るのだろう。カーテン越しの空がだんだんと明るくなっていくのが分かる。

 男と男は静かに向かい合ったまま、朝が来るのを待っていた。

 

 

 『ーもう朝だ。そろそろ俺は帰るぜ?』

 

 『ああ…』

 

 

 頷き、立ち上がる男を見上げる。

 じゃあなーそう言って、立ち去ろうとした男の背中に大神は意を決した様に呼びかけた。

 

 

 『待ってくれ』

 

 

 不思議そうな顔で振り向くボードウィル。その顔をじっと真剣なまなざしで見つめ、

 

 

 『頼みたい事が、あるんだー』

 

 

 そう、切り出した。一瞬、怪訝そうな顔をしたものの、彼はすぐにいつもの表情をうかべ、

 

 

 『…ま、俺で間に合う事なら、頼まれてやってもいいぜ?』

 

 

 そう、頷いた。

 ありがとうー大神は目を、閉じる。

 朝が近い。もうすぐ夜明けだ。新しい一日がまたやってくる。残された時間は、きっと後わずかー

 目を開け、目の前に立つ友人を見た。普通に生活していたなら、決して出会う事も無かっただろう。

 

 彼が好きだった。

 優しくて、曲がった事が嫌いでお人好しー何より、マリアの事を大事に思っていてくれる。彼ならきっとー

 

 

 『マリアを、頼むよー』

 

 

 万感の想いを込めて、微笑んだ。

 ボードウィルが、信じられない事を聞いた様に目を見開く。

 

 

 『何、言ってんだよ!?お前…お前はマリアが好きなんだろ?』

 

 『ああ…とてもね』

 

 『なら、なんで!?好きな女だろう?お前が捕まえとけよ!他の男に頼むなんて言うな。お前がその手で、守ってやればいいじゃねぇか!!』

 

 『…そうだな』

 

 

 そう出来ればいい。けれどー

 

 

 『聞いてくれ、ボードウィル。そして信じてほしい。俺はもうここには居られない。もうすぐ、この時代から居なくなるんだー』

 

 

 そして大神は全ての事情を語った。ここに到るまでの、全ての事をー

 

 

 

 

 

 いつの間にか部屋はすっかり明るく、朝日の中に照らし出されていた。

 大神は眠る事無く、ただ一心に見つめている。ベッドに頬を押し当て、黒い瞳で真っ直ぐに。

 

 マリアをー。

 誰よりも愛おしいたった一人の少女をー

 

 もうすぐ彼女とは別れなくてはならないのかもしれない。

 けれど不思議と心は穏やかだった。

 

 ボードウィルは、あの愛すべき友は、確かに約束してくれた。自分に出来る限りの事はしようと。大神の目を見て、大神の手を取ってー

 たとえ大神が頼まなくても、彼はきっとマリアを見守っていてくれたに違いない。

 そんな事、分かってはいたけれどー彼の力強い誓いは、大神の心に深い安堵をもたらした。

 

 自分がたとえいなくなっても、マリアの側には彼が居てくれる。

 マリア一人の力ではどうにもならない事態に陥った時、そんな時はきっと彼が助けてくれるだろう。だからー

 

 

 「大丈夫だよ、マリアー」

 

 

 何も心配はいらない。たとえ俺が、君の前からいなくなってもー

 

 

 「…何が大丈夫なの?」

 

 

 不意に聞こえた彼女の声に、驚いて目を見開いた。

 そんな大神を翡翠の瞳が正面から真っ直ぐに見つめている。何もかもを見透かす様な澄んだ輝きを宿してー。

 

 ほんの一瞬息をのみ、それからほころぶ様に笑う。

 手を伸ばし彼女の頬に触れた。

 その掌に昨日のような熱さは感じられない。どうやら、なんとか熱は引いたようだった。

 

 

 「良かった。熱は下がったみたいだ」

 

 「ー答えになってないわよ。一体何が…」

 

 

 少しいらついたような彼女の声。その言葉を遮る様に、

 

 

 「何でもないんだ」

 

 

 大神は微笑む。

 

 

 「何でもないんだよ、マリアー。君が元気になって嬉しい。本当に」

 

 

 怪訝そうなマリアの顔。

 

 

 (そう、何でも無い。君は知らなくていいんだ)

 

 

 そんな彼女を見つめながら大神は思う。

 

 突然現れた異邦人は、消える時もただ静かにー俺はここにはいないはずの人間だから…だから、それでいい。

 それで、いいんだー

 

 

 

 

 

 少し、買い物に出ないかー?

 

 日が昇り、十分に暖かくなった昼時、突然黒髪の青年はそんな事を言い出した。

 体の調子ももう悪くもなく、否と言う理由も特には見いだせなかったマリアは、頷き、彼の後に着いて部屋を出た。

 

 柔らかな日差しの中、彼は病み上がりのマリアを気づかう様に、ゆっくり、ゆっくり歩く。

 その斜め後ろを同じ速度で歩きながら、マリアは揺れる大神の大きな手を見ていた。

 

 不意に手を伸ばし、彼の手に触れてみる。

 何を考えて、と言う訳ではない。ただ、何となく。何故、と問われると、答えに困ってしまうけれども…

 

 驚いた様に、青年の瞳がマリアを見る。

 綺麗な目だと思う。夜の闇よりも深い黒ーまるで黒曜石のようなー。

 

 その瞳をふわりと細め、彼が笑う。

 その、笑顔が好きだ。今は素直にそう思える。

 彼の手が伸びてそっとマリアの手を包み込む。ドキリとするが、決して嫌ではない。 

 穏やかな午後。

 触れあう指先から伝わるぬくもりが、ただ嬉しかった。

 

 

 「マリア…」

 

 

 不意に名を呼ばれ、マリアは大神を見上げた。

 

 

 「俺はいつか、君の前からいなくなるかもしれない」

 

 

 彼の唇が言葉を紡ぎ、どこまでもまっすぐで真摯な眼差しがマリアを見つめる。

 

 

 「けど、もしそうなったとしてもー覚えていて。俺は必ず、いつか再び君と出会うから」

 

 

 何の根拠も、確かな証もない言葉。

 でもマリアは彼の言葉に嘘は無いと信じた。

 だから頷く。

 素直な瞳で、大神を見上げながら。

 

 彼が嬉しそうに笑う。

 そして、ゆっくりと空を仰いだ。良く晴れた、澄んだ青空を。

 そこにある物を見つけた彼は、小さな歓声を上げた。

 

 

 「見てごらん、マリア。ほらー」

 

 

 その声の促すままに、マリアは空を見上げる。

 目に染みるような青。そこにはー

 

 

 「ー飛行機雲だ。あんなにはっきり…」

 

 

 彼の、声。

 少しはしゃいだような、子供の様に無邪気な響きのーその声が不自然に途切れた。

 

 隣を見た。

 そこにはもう誰もいない。

 さっきまで居たはずの青年の姿は影も形もなくなっていた。

 

 立ち止まったまま、マリアは静かに目を閉じる。

 そして彼の手と繋がれていたはずの掌をそっと握った。

 

 そこにはまだ、彼のぬくもりが確かに残っていて、彼はー一郎と言う不思議な青年は確かにそこに居たのだと言う事をマリアに信じさせてくれた。

 

 目を開け、翡翠の瞳で再び空を仰ぐ。

 いつか再びー彼はそう言った。それがいつになるのかは分からないけれども、彼の言葉に嘘は無かったと、そう信じられるからー。

 

 マリアは微笑む。

 

 悲しいくらいに澄んだ青ーその中心を走るのは、さっき二人で見上げたままの飛行機雲。

 鮮やかなまでに潔く、真っ直ぐーそう、それはまるで、彼の揺るぎない眼差しの様に。

 

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。
次回が最終話になります。

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