花の名前   作:高嶺 蒼

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第十八話 過去・紐育~連れ去られた姫君~

 真剣な瞳が、少し怒った様にマリアを見つめていた。

 彼の腕が伸ばされ、大きな掌が額に触れる。

 やめろ、と、その手を振払おうと思った。だが、その意に反して瞼が重くなる。

 彼の掌はひんやりと冷たく、とても気持ちが良かった。

 

 目を、閉じる。

 そうしてしまうと、なんだかもう一度目を開けるのが億劫になった。

 

 

 『マリア…?』

 

 

 不安そうに彼の声。

 大丈夫と、そう伝えたいのに声にならない。意識が、途切れる。

 最後に残った記憶は、優しくそっとまわされた彼の腕の感触ーただ、それだけ

 

 

 

 

 

 目が覚めた時、マリアは暗闇の中でただ一人横になっていた。

 ぼんやりと、暗い天井を見上げ、耳を澄ませてみる。

 

 物音一つ聞こえない静寂。

 

 彼はー一郎はどうやら、どこかに出かけているようだった。

 と、その時。外へとつながるドアの向こうで何か物音がした。 

 彼が帰って来たのかと思った。

 ベッドの上に半身を起こし、ドアの向こうに呼びかける。

 

 

 『一郎?』

 

 

 その瞬間、大して頑丈に出来ていない木製のドアが乱暴に蹴り開けられた。

 

 

 『はずれだよ、お嬢ちゃん。残念だったな』

 

 

 その向こうから現われた大きな体の男がにぃっと笑う。

 最悪の、相手だった。

 

 

 

 

 

 

 両腕に荷物を抱え、大神は走っていた。

 薬やら、食料品やらを買い込んだ帰りだ。

 あのショッピングモールには一晩中店を開けているところも少なくはない。それは昼間のうちに確認してあった。

 

 マリアを連れ帰った後、大神は急いで買い出しに出ていたのだ。

 彼女の部屋には薬も、食料だって余分には買い置いてなかったから。

 

 見るともう東の空がうっすらと白みはじめている。後少しで夜が明けるのだろう。

 マリアはまだ眠っているだろうか。それとも目を覚まし、もしかしたら大神の不在を不安に思っているのではないかー?

 

 早く、早くー

 

 大神の心は妙な焦燥感にかられていた。嫌な予感がした。何故だかとてもー

 走って、走って…そうしてやっと、見なれた建物の前に着く。

 休む間もなく階段を駆け上がり、大神は愕然とした。

 

 マリアの部屋のドアが大きく開け放たれていた。

 体中の血液が一瞬にして凍り付いた気がした。

 

 部屋に駆け込んだ大神の目に映ったのは、悪夢のような現実ー

 そこにマリアの姿は無い。

 

 あるのはただ、乱れた寝台と、踏み荒らされた部屋の惨状。

 大神は駆け出した。こんな時、助けてくれる相手を、今の大神は一人しか知らないー

 

 

 

 

 

 バーのドアが、性急に、荒々しく叩かれるのを、ボードウィルは半ば眠りの中で聞いていた。

 カウンターの向こうでマスターが動く気配。ドアの方へ向かう足音が聞こえる。

 

 鍵を開ける音。

 鈍い音をたてて、ドアが開く。

 

 

 『ボードウィルは!?』

 

 

 名前を呼ばれ、一気に眠気が覚める。その声は彼の知っている声だった。

 顔を上げ、ドアの方を見る。

 

 

 『一郎か?』

 

 

 名前を呼ぶと、彼はほぼ中央のテーブルに居るボードウィルを見つけて駆け寄って来た。

 

 

 『良かった。探したんだ』

 

 

 彼は、心から安堵した様に言った。

 そして、真剣なまなざしでボードウィルを見つめ、

 

 

 『頼む。助けてほしいー君しか、頼れる人がいないんだ』

 

 

 そう、言った。

 

 

 『…何が、あった?』

 

 『…っ、マリアがー』

 

 

 

 

 

 

 『あいつだー』

 

 

 大神の話を聞いた後、彼はうめく様にそう言った。

 

 

 『そんな無茶なことするやつ、俺の知ってる限りじゃあいつしかいねぇ』

 

 『誰なんだ?』

 

 『あいつさ。昨日の晩、マリアに絡んでたあの野郎だ』

 

 

 ほんの一瞬、目を閉じる。

 聞くまでもなく、分かっていた気がした。

 マリアが攫われたと分かった瞬間、大神の脳裏に浮かんだのは昨夜の男の憎悪に満ちた顔だった。

 

 

 『奴はもともと、マリアに執着してた。普段のマリアなら遅れをとるような男じゃないが。今はー』

 

 『…どこだ?』

 

 『ん?』

 

 『どこに行けばマリアを助けられる?』

 

 

 尋ねられ、ボードウィルは苦虫を噛潰したような顔をする。

 

 

 『あー、そりゃあ俺もあいつのアジトのいくつかは知ってるさ。だが、そのどこにマリアが連れ込まれたかは…』

 

 

 歯切れ悪く言う彼の言葉を遮る様に、もう一つの声が響いた。

 

 

 『港の廃工場だ』

 

 

 驚いた様に大神が声の主を見る。

 

 

 『新しい女を手に入れた時、奴はほぼ間違いなくそこに連れ込む』

 

 

 そう言って、無口な老店主は大神を見返した。

 

 

 『マスター』

 

 『いいのかよ?お得意さまだろ、あんな奴でも一応は』

 

 

 からかう様にボードウィル。それに、マスターはにやりと笑って返し、

 

 

 『いいさ。あの娘が居てくれないと、うちの店も困るんでな』

 

 

 そんな彼の言葉に、大神は不意に目頭が熱くなる。

 

 

 『ありがとう、ございますー』

 

 

 深々と頭を下げた。

 マリアはきっと気付いていない。

 どんなに拒絶し、冷たく他人を遠ざけようとしてもーそれでもちゃんと彼女を見つめ、大切に思ってくれる人は居るのだ。

 

 彼女に伝えてあげたい。

 閉ざしていた目をほんの少し開いてみれば、世界はこんなにも優しく、彼女を包み込んでいてくれるのだと言うことを。

 だが、そのためにはー

 

 大神は顔を上げ、真っ直ぐにマスターを見た。

 その目に、大神の決意を見たのだろう。彼は頷き、言った。

 

 

 『早く行ってやれ。お前なら、助けられるさ。俺の目は、こう見えて、意外に確かなんだぜ?』

 

 

 強く、頷く。

 助けなければ、彼女を。誰よりも愛おしい存在を。いつかまた、ここじゃないどこかで、再び彼女と出会うためにもー

 もう一度頭を下げ、大神は駆け出す。もう、後ろは振り向かない。

 

 

 『お、おい!待てよ!!俺も行く!お前一人じゃ無理だぜ』

 

 

 その背を、バタバタとボードウィルが追いかけていく。

 男達の目的は一つだ。大切な少女を、取り戻す事ーだだ、その事のみ。

 

 

 

 

 

 『おい、これを貸してやる。持ってろ』

 

 

 そう言って差し出された銃を見て首を振る。

 

 

 『ありがとう。でも、それは君が使ってくれ、ボードウィル』

 

 『お前はどうするんだ?武器なしで乗り込む気じゃないだろうな!?』

 

 

 まさかー大神は笑う。

 いぶかしげなボードウィルの前で、辺りを見回し、手ごろなサイズの鉄パイプを手に取った。

 手に握るにちょうどいい太さの、真っ直ぐな棒に、同じくその辺りにあったぼろ布を巻き付け、握りやすくする。

 

 

 『うん、これでいい』

 

 

 二、三度軽く振って、それを腰のベルトにさした。

 そんな彼を見て、ボードウィルが呆れたような声を上げる。

 

 

 『まるでサムライだな』

 

 『そうだよ。侍さ、俺は』

 

 

 ボードウィルの言葉に答えて笑った。

 そう、侍の様に己の信念をかけ、守るべき者のために戦うのだ。その、命さえかけてー

 

 

 『行こう。彼女が待ってるー』

 

 

 大神が見る先にあるのは、もう使われていない、古い工場。

 そこに、囚われの少女が居るはずだった。

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

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