花の名前   作:高嶺 蒼

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第十七話 過去・紐育~子犬と狂犬の邂逅~

 その夜のマリアはどこか様子がおかしかった。

 いつもの様に、酒場の隅のテーブルで店の中を見ているが、その瞳にいつもの覇気は感じられない。

 

 大神は、彼女のことが心配で仕方が無かった。

 具合が悪いなら休んだ方がいいと言ったのに、彼女は聞く耳を持たない。大丈夫の一点張りだ。

 

 マリアの意地っ張りー給仕をしながら、視界の隅にいつも彼女の姿を映している。

 彼女はぼーっとどこか一点を見つめたまま、何か考え事をしているようだった。

 

 

 (やっぱり、今日は少し早くあがらせてもらえる様にマスターに頼んでみよう)

 

 

 そう思って、カウンターの方へきびすを返した瞬間、その声は聞こえた。

 

 

 『よう、お嬢ちゃん。今日はやけにしおらしいじゃねぇか』

 

 

 濁った響きのだみ声は、明らかに酔っていて、マリアに対する悪意をはっきりと感じさせる。

 反射的に大神は振り向いていた。

 

 大きな体の男だった。重量はあるが太った感じは無い。

 彼は、軽い足取りでマリアの前に立つ。

 彼女を見下ろす男の目の奥に、強い負の感情を見たと思ったのは、決して大神の気のせいでは無いだろう。

 

 マリアはけだるそうに顔を上げ、その男を見上げた。

 不快そうに細められる翡翠の瞳。

 

 

 『どいて』

 

 

 氷の様に冷たい声がそう告げた。

 だが、彼女の目の前に立つ男は平気な顔だ。

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたまま、変わらず彼女を見下ろしている。

 

 

 『そう冷たくするなよ、ベイビー。たまには楽しく飲もうぜ。せっかくのきれいな顔が台無しじゃねぇか』

 

 

 にやけた顔を彼女に近付け男が言った。

 

 

 『お前と慣れあう気はない。早くどこかへ行きなさい。まだ、警告ですむうちにー』

 

 

 睨み付けるようなその眼差しさえ受け流して、大きな手が彼女の手首をつかむ。

 まずいなー大神は思う。

 いつもの彼女なら大丈夫だろう。あんな男一人、どうとでもあしらえるに違いない。しかし今の彼女はー

 

 必要ないって言われるかもしれないーでも…

 心を決め、彼女の元へ行こうとした時、その肩をつかんで引き止める者が居た。

 

 

 『待てよ、一郎。あの男はちょっとヤバいぜ』

 

 

 驚いて振り向く。

 そこに居たのはあの陽気なアメリカ人のボードウィル。

 彼は妙に真剣な顔をして大神を見ていた。

 

 

 『ヤバい?なら、よけいにマリアを一人にしておけないよ』

 

 

 彼の手を振り切り、彼女の側に駆け付けようとした大神の肩を、ボードウィルはさらに強く引き戻す。

 

 

 『待てって。本当にあいつはヤバいんだ。マリアだけなら平気さ。女には結構甘いやつだからな。だが、お前は駄目だ。男にゃマジで容赦ないんだ。しかも執念深い。殺られちまうぜ、お前』

 

 

 彼は、本当に大神のことを心配してくれているようだった。

 大神はマジマジとボードウィルを見る。そしてにこりと笑った。

 

 

 『ありがとう』

 

 

 それに吃驚した様に、男が目を剥く様子がおかしかった。

 大神は微笑んだまま、肩にかかった男の手をそっと外した。

 

 

 『心配してくれて、ありがとう。でも、俺は平気だよ。自分の身くらい、自分で守れるさ。それとも、俺はそんなに弱そうに見えるのかな』

 

 

 そう見えるから忠告してんじゃねぇかーその言葉がボードウィルの口をついて出るよりも前に、大神は駆け出していた。誰よりも大切な少女の側に行くために。

 ボードウィルは、あきれた様にその背を見送り、盛大なため息をつく。

 

 

 『バッカヤロウ…』

 

 

 決して小さくはない声での罵倒。

 しかしそんな彼の声も、今の大神の耳には届かないー

 

 

 

 

 

 

 いい加減に、この目の前の男をどうにかしなければと思っていた。

 今までも、この酒場で何度か見たことのある男。

 いつもどこか遠くの席から、粘つくような視線をマリアに向けていた。

 

 どうにかしないとーマリアは思う。

 だが、目にも、声にも、つかまれたままの腕にも…まるで思う様に力が入らない。

 体が鉛の様に重かった。

 

 ほんの一瞬、マリアは目を閉じ、微かな吐息を漏らす。それはいつもの彼女なら決して考えられない行為。

 だが、その瞬間ー手首に感じていた圧迫感が消えた。驚いて、目を開ける。

 

 そこに、一郎が居た。

 

 険しい顔をして、目の前の男を睨んでいる。

 その手は、男の手首をつかんで容赦なくひねり上げ、さっきまで余裕一杯に笑み崩れていた男の顔が、今度は苦痛に歪んでいた。

 

 

 『少し、ふざけ過ぎだ。外で、酔いを醒まして来たらどうだい?』

 

 

 いつもと変わらない柔らかな口調の中に、隠しきれない怒気を感じる。

 彼は怒っているようだった。静かにーだか明らかな激しさで。それはマリアが初めて見る彼の一面だった。

 

 

 『てめぇ…!』

 

 

 荒れくれ男の口から、獣のような唸り声がもれる。

 だが、それすらも何の威嚇にもならない。大神は平然とした顔で真っ赤な顔の男を見返している。

 

 

 『おいおい、何遊んでんだよ、大将!!』

 

 『そんなひょろひょろした若造、さっさとのしちまえ!!』

 

 

 そんな周囲のヤジにも、男は唸り声で答える事しか出来なかった。

 言われて出来る者ならさっさとやっている。

 それが出来ないからこうしてぶざまな姿をさらしているのだ。

 

 さっきから何度もつかまれたままの腕を自由にしようと試みるのだが、青年はびくともしない。

 そのすました横面に握った拳を叩き付けようとしたが、それすらも青年の手に止められてしまう。

 

 男は、歯ぎしりをして大神を睨んだ。

 大神は静かに、彼を見返す。その真っ直ぐに澄んだ眼差しに気圧された様に、男が一歩、後ろに足を引いた。

 それを見逃さずに大神は再び男に警告を与える。

 

 

 『今日はもう帰って欲しい。聞き分けてくれないか?手荒なまねは、したくない…』

 

 

 そう言って大神は、男を見る目をまるで威嚇する様に細めた。

 しばらくの間、そうして二人は睨み合いー先に根負けしたのは案の定大神に手をつかまれたままの男だった。

 忌々しそうな舌打ちを漏らし、大神の手を振払う。

 

 

 『覚えてやがれ』

 

 

 そんな、三下の小悪党がよく使いそうな常套文句を捨て台詞に、その男は足音も荒く薄暗いバーの扉の向こうへと消えた。

 大神はホッと息をつく。そうしてやっと、マリアの方を振り向いた。

 ひどい、顔色だった。薄暗い店の照明の下でもはっきり分かるくらいに。

 

 

 『よけいなことを…』

 

 

 かすれた声で文句を言う彼女を無視して、大神は手を伸ばし、その額に触れる。

 眉をひそめ、厳しい顔でマリアを見た。

 

 

 『熱がある』

 

 

 家に連れて帰らないとー大神はカウンターの向こうのマスターに目で問いかける。

 彼も彼女の様子には気が付いていたのだろう。小さな頷きで了解の意を大神に伝えた。

 ほっとした様に微笑み、大神はマリアの方に向き直る。

 見ると押し当てられた大神の手もそのままに、マリアはぐったりと目を閉じている。

 

 

 『マリア…?』

 

 

 名前を呼ぶが、返事は無い。

 大神はそれ以上無駄な時間を費やすこと無く、彼女のコートでその体を包み、そっと抱き上げる。

 彼女が少しでも辛くない様に、苦しくない様にー大事に大事に抱きしめた。

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

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