その白い花は、小さな花屋の古ぼけた屋根の下で、今日も美しくその花を咲かせていた。
見つめながら、大神は一人の少女を思う。
この時代の彼女。
そして、遠い帝都の空の下、遥か未来の時代に在る彼女のことを。
会いたいと思う。
だがそれと同じくらいの強さで思うのだ。離れたくないと。
自分がこの時代に居ていい人間ではないことは分かっている。
いずれにしても大神は近い未来、今のマリアの前から消えることになるだろう。
たとえこのまま、元の時代へ帰れなかったとしても。
自分と言う異分子の存在は、確実にこれから先の未来へ悪い影響を落とすことになる。
それだけは、あってはならないことだった。
だからー
大神は手を伸ばし、その花を手に取る。
ほころびかけた蕾に触れ、顔を上げると、
『この花を、いただけますか?』
店の奥に声をかけた。
すると、中からこの店の主らしい小さなおばあさんが出てきて、ニコニコ笑いながら頷くと、
『いい人への贈り物かい?』
そんな風に言った。
大神はそれを言葉で肯定するでもなく、頷いてみせるわけでもなく、ただ静かに微笑んだ。
おばあさんは、そうかい、そうかいーと頷いて、大神の手からその花を受け取ると、丁寧に、だが素早く包んで渡してくれた。
見ると淡い色合いの、可愛いピンクのリボンが優しく揺れていた。
ありがとうーお金を差し出しながら言うと、それを受け取りながらおばあさんも答えた。
『あんたと、あんたの可愛い恋人のうえにいいことがあるように祈ってるよ』
にっこりと笑いながら。
もしかしたらそれはただの決まり文句だったのかもしれない。多分そうなのだろうと思う。でも、大神は嬉しかった。
にこりと笑い、頭を下げる。それから身を翻して駆け出した。
この花を、一刻も早くマリアに見せたくて。
彼女は喜んでくれるだろうか?微笑ってくれるだろうかー?
ただ一輪の花を大事そうに胸に抱え、大神は走る。
心にあるのは一人の少女だ。過去と未来ー二つの面影を持つ、ただ一人の女性。
(マリアー)
心の中で彼女を呼ぶ。
(マリア、君に会いたい。早く、君に…)
切なくて、苦しくて…だが甘美なこの想いを、人はきっと恋と呼ぶのだろう。
かつて大神は恋をした。
この上も無く幸せで、だがそれと同じくらいに切なく、狂おしい恋を。
マリアが好きだ。強く、そう思う。
彼女を思うことは幸せで、だがやはりどこか苦しい。
辛いとは思わないけれど、胸が痛くてどうしようもないこともある。
甘くて、切ない、それは、きっと恋の痛みだ。
遠くに、古ぼけた二階建ての建物。マリアの、いる場所。
少し乱れはじめた呼吸を整えながら、大神はさらに足を速める。
だんだんと近付いてくる建物。そこは今の大神にとって、唯一帰るべき場所だった。
キッチンから聞こえる物音に眠りの底から意識が浮上する。
ゆっくりと目を開け、音のする方に目を向けた。
そこにはたいして広くもない空間を所狭しと動き回る黒髪の青年の姿。
出会ってからまだ、ほんの数日しか経っていない。
それなのにそんな彼の姿は、まるで最初からこの部屋の住人であったかのように、まるで違和感なくなじんで見えた。
まだ寝ぼけたままの瞳で彼の背中を追いかける。
目が覚めきっていないせいなのか、頭の中に薄い幕がかかっているかのように、なんだかぼーっとしてはっきり物事が考えられない。
彼の背を目で追いながら、こっちを振り向いてくれないだろうかー普段なら絶対に考えないようなことを思ってしまう。
振り向いて、私を見て、こっちがつられて幸せになってしまうような、あの笑顔を見せてほしいー。
バカみたいだー天井を見上げ、小さく苦笑い。
だんだんと目が覚めて来た。
しかし、それでもまだ、体の芯が痺れたように熱っぽい。
眠い訳ではないけれど、なんだかベッドから離れがたくて、マリアはもう一度目を閉じた。
そうしてそのまま、しばらく耳を澄ませていると、近付いてくる足音が聞こえた。
起こさないように、静かに静かにーその優しい気配は彼のものだ。
「マリア?」
様子を窺うように彼の声。
「食事の準備、出来たよ。まだ、寝てるのかい?」
顔の上に影が落ち、彼がこちらを覗き込んでいるのが分かった。
ちっとも眠くないのに、なぜか重い瞼を開けると、飛び込んで来たのは少し心配そうな彼の顔。
そんな彼を安心させるように、マリアは唇を少し微笑ませ、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫。起きてる」
短く答えて立ち上がる。
一瞬感じた目眩を無視してキッチンへ向かう。
そこに用意されていた朝食は以外にしっかりしたもので、マリアは少し驚いたように目を見張った。
「どうだい。結構ちゃんとしたのが出来てるだろ?」
「料理、得意なのね」
そう言うと、大神は少し照れた顔をして、
「そうだね。胸を張って得意ですって言える程じゃないけど、料理をするのは結構好きなんだ」
食べてみて?ー大神の言葉に促されるように、マリアはふんわりと焼けているオムレツを口に運んだ。
「…おいしい」
思わず口をついて出たそんな言葉に、大神が笑う。心から嬉しそうに。
「良かったぁ」
そう、言いながら。
その、笑顔に目が奪われる。
あまりに素直に自分の目が大神の姿を追うことに、マリアは軽い驚きを覚えていた。
今日の私はやはりなんだかおかしいーマリアは思う。
思いはするものの、何故か思考回路が麻痺していて、うまく考えがまとまらない。
なぜ?とか、どうして?とか、そういうことを考えるのが億劫だった。
そんな風にぼーっとまとまらない考え事をしていたせいか、不意に目の前に差し出されたそれがなんなのか、一瞬理解できずに瞬きを二回。
花、だった。
よく見れば一目瞭然である。
真っ白なー何の花なのか、名前は出てこなかったけれど、綺麗な花だと思った。
ただ、それが何故自分に向かって差し出されているのかが分からない。
その理由を自分で考えるのが面倒だった。
だから、答えを求める様に、それを持つ青年の顔を見る。
彼は真っ赤な顔をして、それでも真っ直ぐにマリアを見ていた。
「ー花屋で見つけたんだ」
それはそうだろう。花は、普通花屋に売っているものだ。
マリアは頷く。
「綺麗だなって、思って」
鼻先に突き付けられたままの花を見ながら再び頷く。
「君にーマリアに似てるって、思った」
目を見開いて、彼を見た。
「そう思ったら、無性にこの花を君に持って帰りたくなった。俺が勝手にそう思ったんだ。いらなければ、そう言って?ーでも、もらってくれれば嬉しい」
無意識のうちに手が伸びていた。
照れくさそうに、でも嬉しそうに大神が笑う。
かつて、そんな風にマリアを花にたとえた人が居た。
その時彼が示したのは、今大神がくれた物とはまるで違う花。
北の大地にひっそりと咲く、白い小さな花だった。
(お前みたいだな。思わず、守ってやりたくなる)
そう言って笑った男の顔を、マリアは今でも覚えている。
彼は、もういない。
いくら探しても、求めても。でもー
手の中の花を見て、青年の顔を見る。
あの人とはまるで違う。髪の色も、瞳の色も、姿形も、その人種も。
なのに重なるー時々、胸が苦しくなるくらいに。
怖いーと思った。目の前に居る、優しすぎるほどに優しい青年が。
何かが変わってしまいそうで。何もかもが、崩れ去ってしまいそうでー怖かった。
けれど、その一方で、それを望む自分も居る。
拒む心と求める心ー二つの矛盾する思いが互いの存在を主張しあっていた。
目を、閉じる。真白の花を胸に抱く様にしながら。
「マリア?」
気づかうような青年の声ー
その声を聞きながら、マリアは、自分はこれからどうなってしまうのだろうか、と、ただそのことだけを考えていた。
読んで頂いてありがとうございました。