その日、大神一郎の朝の目覚めは、決して心地よいものとは言えなかった。
目を開けて、閉じて、また目を開ける。眠いわけではなかったが、何とはなしに体がだるい。
カーテン越しの光がやけに眩しく感じられ、大神はそっと目を細めた。
ゆっくり、そろそろと体を起こすと、頭を襲う鈍い鈍痛。
のどの渇きも堪え難く、何の言い訳もしようの無い、完璧な二日酔いだった。
とにかく水を飲もうーそう思ってベッドを降りようとした大神は、そこで初めてベッドに寄りかかるようにして眠る少女の姿に気が付いた。
彼女は毛布一枚にくるまって丸くなっている。
大神は一瞬困ったような顔をして、それから黒い瞳を優しく細め、彼女の傍らに膝をついた。
「マリアー」
顔を覗き込み、彼女の名を呼ぶ。
よほど疲れているのか、彼女は大神の声にもまるで反応せずに眠っている。揺り起こしてしまうのは、あまりに忍びなかった。
腕をのばし、抱き上げる。彼女の眠りを妨げないように、静かに、優しくー
眠る少女をベッドの上に降ろし、しばしその寝顔を見つめてから、足音を殺すようにしてキッチンへ向かう。
その背を、涼やかな声が追いかけた。
「一郎…?」
まだ眠気の抜けきらない、ほんの少しだけ甘い響きを残すその声を耳にした瞬間、胸の鼓動が大きくなる。
振り向く前に、深呼吸を一つ。心を落ち着かせ、ゆっくりと振り向いた。
体に毛布をまとわりつかせたまま、半身を起こした彼女は、その翡翠の瞳を大神の方へ向けている。彼女の瞳を黒曜石の瞳で見返して、大神は微笑んだ。
「おはよう、マリアー」
「…えぇ」
不機嫌そうな声。彼女はまだまだ眠そうだ。
「ごめん。起こしちゃったみたいだね」
「別に、そんなこと無いけど…それより、これ」
言いながら、彼女は右手を差し出した。その手の平の中に何かが握られている。
受け取ろうと出した大神の手の上に、小さな袋が音をたてて落ちた。耳に聞こえたのは、金属と金属が触れあう音。
なんだろう?ー首を傾げる大神にマリアが言う。
「あなたの分よ。昨日あなたに渡すようにマスターに頼まれたの」
袋を開け、中をのぞいてみた。
そこには数種類の硬貨が混じりあって入っている。
大神はまるで子供のように目を輝かせた。
マリアを見る。
ありがとう、マリアーそう言うと、彼女はちょっとだけ困ったような顔をして、それから少し、その口元をほころばせた。
そんなマリアを見て、大神もまた、嬉しそうに微笑む。そして言った。
「もう少し眠るといいよ、マリア。食事の準備は俺がするから」
「大丈夫よ。もう起きるわ」
そう言って起き上がろうとするマリアを押しとどめるように、大神はその傍らに膝をつく。
彼女の顔を覗き込み、
「いいから眠って。疲れが溜まってるはずだ。俺が、大分世話をかけたからね」
優しく、目を細めた。
マリアはそんな大神を見つめ、それから意外なほど素直に再び横になる。
毛布をその肩口まで引き上げてやり、大神は少女の額にそっと手の平を乗せた。
触れたその部分が、少し熱いような気がするのは気のせいだろうか?
柔らかな、絹糸のような髪にそっと指を滑らせながら、ゆっくり、ゆっくり言葉を継ぐ。
「眠って、マリア。君が目を覚ます頃には、おいしい食事の準備をしておくからー」
低く、どこまでも穏やかに響くその声に眠気を誘われたように、マリアは目を閉じる。
泥のように体が重かった。
確かに疲れているのだろう。普段なら、こんなことは無いのにー。
一郎の声は不思議だー半分眠りながらそんなことを思う。
彼の声を聞くととても心が落ち着く。彼の声は、とても…心地いい…
いつの間にか、少女はかすかな寝息を立てていた。大神は微笑んでその寝顔を見つめた。
穏やかな時間が過ぎる。
幸せだった。
ずっと、こうやって、彼女のことを見守って生きていけたらどんなにいいだろう。
だが、大神はこの時代の人間では無い。
いずれ、彼女の目の前から消えてしまうーそんな存在かもしれないのだ。
紅蘭は言った。
時間旅行の期限は、五日前後がせいぜいだろうーと。
この時代にきて今日で三日目…。
明日か、明後日か…自分は消えてなくなってしまうのかもしれない。この時代の時間軸の中から。
「マリア…」
大神は少女の名を呼ぶ。何よりも愛おしい名だ。
「…マリア」
もう一度、その名を呼んだ。密やかに、だが想いを込めて。
朝の澄んだ空気の中、愛しい少女に触れることもせずに、大神はただその寝顔を見つめていた。
何にもかえがたいほどの幸福と付きまとう切なさを、胸に確かに抱いたままで。
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