花の名前   作:高嶺 蒼

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第十四話 過去・紐育~ボードウィルと子犬~

 彼はずっとその青年の様子を観察していた。

 見るからに人の良さそうな青年である。

 黒髪に黒い瞳のその男は、今まさに彼ーボードウィルの目の前に立っていた。

 

 驚きもせずに、ボードウィルは青年の顔を見上げた。

 それも当然のことだ。

 何しろ、彼を呼びつけたのは他でもない、ボードウィル自身であったのだから。

 

 『ご注文ですか?』

 

 バカ丁寧な英語で尋ねる青年を、ボードウィルは無遠慮にまじまじと見つめる。

 それからちらりと店の片隅のマリアへと視線を走らせ、彼女の冷たい眼差しに向かい討たれて小さくため息。

 

 (そんな食いつきそうな怖い目で見なくても別になにもしねぇさ…)

 

 心の中で、そんなふうにぼやいてみる。

 マリア自身にはまるで自覚がないに違いない。

 自分がどんなに心配そうな目で、この黒髪の青年を見ているのか。

 そして、夢にも思っていないだろう。そんな彼女の様子に気付いている男がここにいることなど。

 

 やるせない思いでもう一度ため息をつく。

 全くやっていられない。

 自分の方が先にマリアに惚れていたのだ。それなのに、ひょいと突然現れた男に惚れた女をとられてしまうなんて。

 

 恋愛ごとを早い者勝ちだなんて主張するつもりは更々ない。

 だが嘆きたくもなるというものだ。

 自分は何ヶ月もかけて、それでも彼女の笑顔一つ引き出すことすら出来ないでいたというのに、目の前にいるこの男はあっという間にマリアの閉ざされた心の透き間に入り込んでしまったのだ。

 

 別に、二人の間に特に親密な空気を感じたとか、そう言うわけではない。

 だが、彼女の目を見れば分かる。

 その美しい翡翠色の瞳が、彼のことを心配でたまらないと言っていた。

 彼女を初めてみた日から今日まで、そんなふうに感情をあらわにするその瞳を目にするのは初めてのことだった。

 

 だから思わずにはいられない。天におられる主はなんと不公平なのかと。

 全ての人類が平等だなんてみんな嘘っぱちだぜー彼は心の底からそう思った。

 

 『ったく、マリアも涼しい顔してよく言うぜ。犬っころを拾ったなんてさ。子犬って言うにゃぁ、随分大きな拾いものじゃねぇか…』

 

 口をついてでるのはそんな愚痴のような呟きだ。

 小さな声で、しかも早口だったものだから聞き取れなかったのだろう。

 その黒い瞳を瞬かせ、聞き返そうとした青年の先を征するようにして、

 

 『あんた、名前は?』

 

 短く問いを投げつける。不機嫌そうな表情を隠そうともせずに。

 だが、そんなことは全く気にした様子もなく、青年は生真面目な英語で、その問いに答える。

 その声は、耳をふさいでしまいたくなるほどの騒がしさの中、不思議なくらい鮮明にボードウィルの耳へと響いた。

 

 『一郎といいます』

 

 そう言って、彼はにこりと笑う。

 いい笑い顔だなと、素直にそう感じた。

 濁りのない、真っ直ぐな笑顔だと。見る人の心を不思議と和ませるような、胸が暖かくなるようなー

 

 オレには出来ねぇよな、こんな顔は…そんなふうに思いながら再びマリアの方を盗み見る。

 マリアは気がつかない。

 ただ、一途な眼差しで、この一郎という青年の背中をじっと見つめていた。

 

 なんて目をしてるんだよ…お前らしくもないー再びこみ上げた吐息を飲み込んでそっと天を仰ぐ。

 それからゆっくり視線を戻し、目の前の青年の顔を見上げた。

 ひるむことなく見返してくる澄んだ眼差しに、ボードウィルは思う。

 マリアはこいつの屈託のない笑顔や、こんな真っ直ぐな目に惚れちまったのかもなーそんなふうに。

 

 『あんた、マリアとはどういう関係なんだ?』

 

 唇をとがらせ尋ねた。その質問は彼にとって、よほど不意をつくような問いかけだったのだろう。 

 

 『マリア…と?』

 

 きょとんとまん丸い目をしてそう言うと、彼はしばし下を向いて考え込んでしまう。

 その唇が開きかけ、また閉じてーそして、

 

 『彼女は、恩人です。俺の。怪我をした俺を助けてくれた』

 

 彼の口からでたのはそんな当たり障りのない言葉。

 嘘をつけとばかりに見上げたボードウィルの目の前で、二つの黒い瞳がそっとマリアの方を見た。

 そこでやっと、自分の方を心配そうに見守る彼女に気がついたのだろう。

 彼は何とも言えない表情をその面に浮かべ、そして微笑んだ。

 幸せそうなーだが、見ているこちらの胸が痛くなるような隠しきれない切なさを奥にひそめた、そんな顔をして。

 

 そんな青年の横顔を、ボードウィルは頭をかきむしりたいような心境で見つめた。

 放っておけばいいのだと、理性ではそう考える。

 だがその反面で思うのだ。あんな顔見せられて放っておけるか、と。

 

 『ったく、なんだってオレって奴は…』

 

 思わず口をついてでたのはそんな言葉。

 吐息と共に青年の顔を見上げると、彼は少し首を傾げボードウィルの方を見ていた。

 その様子はまるで無防備で、マリアがこの青年を捕まえて子犬と表した意味が、何となく分かった気がした。

 

 しょうがねぇなぁーボードウィルはかすかな苦みをはらんだ笑みを、その口元に浮かべる。

 もともと俺は犬・猫・子供、ついでに可愛い姉ちゃんにはめっぽう弱いんだーそんなことを思いながら。

 

 

 『おい、お前…一郎だったか?』

 

 『はい』

 

 『ちょっとここに座ってな』

 

 『え…?』

 

 

 言うが早いか、立ち上がると、無理矢理のように一郎ー大神を椅子に座らせ、まるで子供にするように手の平でその頭を二度、軽くたたく。

 そして、面食らった大神が目を白黒させている間にテーブルとカウンターの間を一往復。

 戻ってきた彼の手には冷えたビールが二本、ちゃんと握られていた。

 

 『ほら、飲めよ』

 

 そう言って、二本のうちの一本を、彼は当然のことのように大神の方へと差し出した。

 一方大神は、困ったような顔をしてそれに答える。

 何しろ、まだ仕事の最中なのだ。さすがにアルコールを摂るわけにはいかないだろう。

 

 『俺はまだ仕事がありますから…』

 

 結構ですーそう言って断ろうとしたその言葉を、ボードウィルの声が遮り、

 

 『平気だって。ボスにはちゃんと許可をもらってきたんだ』

 

 そう言ってニッと笑う。

 とっさに振り向いた大神は、その視線の先でマスターがやれやれとばかりに肩をすくめるのをはっきりと見た。

 怒っているわけではない、とは思う、たぶん…。

 きっと、ただ単に呆れているだけなのだろう。大神は何とも言えない表情をして再びボードウィルの方へと向き直る。

 彼はー

 

 『な、平気だろ?』

 

 言いながら、まるで悪気のない顔で笑った。

 そして大神の手を取ると、強引にビールの瓶を握らせた。

 

 断らなければと思う。

 思うのだが…自他共に認めるお人好しの大神である。

 強く押されるとどうしてもうまく嫌だと言い出せない。しかも、相手に悪気がないとなれば尚更のこと。

 

 そして案の定、断ることの出来なかった大神は、ボードウィルと差し向かいで酒を酌み交わすこととなってしまったのである。

 

 

 

 

 

 ほんと、人のいい兄ちゃんだなぁーとはボードウィルが。

 なんだか憎めない人だよなーはもちろん大神が思ったことである。

 

 二人は酒を飲みながら、いろいろなことを話した。

 お互いのことーちょっとした身の上話や、それからマリアの話も。

 ボードウィルは、彼の知るマリアのことを大神に語ってくれた。アメリカに来てからの、彼女のこと。

 

 『最初見たときは、怖いくらいに綺麗な顔した女だって、ただ単純にそう思った』

 

 彼は懐かしそうに目を細めながら言った。

 

 

 『だけど正直、綺麗だけど関わり合いにはなりたくないと思ったね。この女はやばいって感じたからな。氷みたいな冷たい目をして、いつもどこか遠くを見てた』

 

 『それなのにどうして…?』

 

 

 尋ねた大神を見て、ボードウィルは小さく笑う。

 

 『一体どうしておれがマリアに惚れたのかって、言いたいんだろう?』

 

 その言葉に、大神が小さく頷く。

 二つの黒い瞳が真面目な輝きを宿して真っ直ぐにボードウィルを見ていた。

 そんな彼を見ながらボードウィルは気が付いている。

 いつの間にか自分が、この目の前の青年に確かな好意を抱きはじめているーその事実に。

 ボードウィルは、そうだなぁーと考えるように天井を見上げる。そして、

 

 『なんだかよ、ほっとけねぇなって、思っちまったんだよなぁ』

 

 言いながら、少し照れくさそうに笑った。

 酒の力も手伝ってか、彼は小さな声でそっと大神に話してくれた。マリアには内緒だぜ?-そんなふうに言いながら。

 

 『今にも凍えちまいそうで、見てられなかったんだよ。あいつがあんまりに一人すぎて、どうにかなっちまうんじゃないかって、思った。つい目が離せなくて目で追っかけているうちに、いつのまにかさ…』

 

 惚れちまってたーそう言って彼は、子供みたいな顔をして笑った。

 大神はそんな彼をまぶしそうに見る。

 

 彼は自分と同じだーそんな風に思う。自分もそうだったのだ。

 最初は彼女の厳しいまなざしに戸惑いと不安を覚えたものだ。自分は彼女とうまくやっていけるのかー彼女に認めてもらえるのか…と。

 だが、ともに戦い、同じ時間を過ごすうちに、その思いは少しづつ変化していった。

 そうして気が付いた時には彼女を誰よりも大切に思うようになっていた。

 

 愛しくて、愛しくて、愛しくて…彼女の笑顔を見るだけで幸せな気持ちになれる。

 こんな想いを、一体どんな言葉にしたらいいのか。

 きっと言葉になどできない。きっと…

 

 

 『お前はどうなんだ?』

 

 『えっ…』

 

 

 ふいに問われ、現実へと引き戻された大神は、顔を上げて目の前の男の顔を見た。

 

 

 『オレにばっかり話させないでお前も言えよ。一郎、お前はどう思ってるんだ?』

 

 『どうって…何を?』

 

 

 いまいち質問の意味がつかみきれずに問い返す彼を見ながら、やれやれとばかりに肩をすくめるボードウィル。

 

 『何とぼけてんだよ。マリアのことさ。決まってるだろ』

 

 やっとのことで何を問われていたのかに気が付き、大神は軽く目を見張って目の前の男を見た。

 彼の顔に浮かぶのは何もかも承知だといわんばかりの人の悪い笑み。

 だが、その瞳だけは妙に真剣に、大神の顔を見つめていた。

 

 一瞬、考えるように上を向く。

 ボードウィルは、黙って大神の答えを待っている。

 周囲の喧噪が、なんだか遠のいたような、そんな気がした。

 

 『…マリアは…マリアは俺にとって、とても大切な人だよ。この世界の誰よりも、幸せでいてもらいたい人だ』

 

 一言、一言噛み締めるようにーだが、一息にそう言い終えてから、大神は喉がひどく渇いていることに気が付いた。

 きっと、緊張したせいだろう。のばした手にグラスを取り、それを一気に飲み干した。

 

 『幸せでいてもらいたい人?幸せにしたい人の間違いじゃないのか?』

 

 からかうようにボードウィル。

 そんな彼に、大神は微苦笑を返しー

 

 『出来ることなら、俺の手で幸せにしたいと思う。でも、結局それは俺のエゴなんだ。彼女が幸せであればいい。たとえ彼女が俺以外の誰かの隣にあったとしても、彼女が笑っていられるのなら、それでいいと思うんだよ』

 

 なんて、ただの強がりかもしれないけどねー大神は言った。

 そして再び、彼の黒い瞳は愛しい人の姿を求めるように店の奥を彷徨った。

 どこまでもひたむきで真摯な眼差し。

 

 (きっとこいつなら、そうするんだろうな)

 

 ボードウィルは思う。

 強がりーそんな風に言ってはいたけれど、彼の思いに、言葉に嘘は無い。

 そのことは、痛いくらいにボードウィルの心にも伝わった。

 

 『そうかー』

 

 頷いて、大神のグラスにビールを注いだ。飲もうぜ?ーそう言うと、大神も頷き、グラスを取る。

 なんだかとても酒を飲みたいーそんな気分だった。

 

 

 

 

 

 朝が近付き、男達の馬鹿騒ぎの喧噪も遠のいた頃、ようやく酒場の営業終了の時間になった。

 少し前からカウンターの向こうで片づけを始めていたマスターが手を休め、マリアを呼んだ。

 ゆっくりと、彼の前に立つと、いつものごとく差し出される一晩の報酬。

 小さく頷き、それを受け取ると中身を確認した。

 

 『確かに』

 

 呟くようにそう言って、マリアはそれをコートのポケットへ無造作に仕舞いこんだ。

 

 

 『いや、あんたが居てくれて助かってるからな。今晩も頼む』

 

 『…あぁ』

 

 『あと、こいつはー』

 

 

 言いながら、彼は上着の隠しからもう一つの袋を取り出した。

 それをマリアの方へ突き出しながら、あご先で店の中央のテーブルを示す。

 そこには男が二人、突っ伏すようにして酔いつぶれていた。

 二人とも、マリアの知る人物だった。

 

 『こいつはあの兄ちゃんの分だ。後半は役立たずだったが、前半は、まぁ、それなりに頑張ってたからな。明日も気が向いたら雇ってやると伝えといてくれ』

 

 珍しく、にやりと相好を崩したしわ深い顔を見ながら、分かったーと短く答える。

 そしてそのまま、眠る大神のもとへと行きかけたが、ふと思い付いたように足を止めると、

 

 『ボードウィルはどうする?』

 

 そう尋ねていた。

 

 

 『あのお調子者か。あいつは、まぁ、いつものことだからな。適当にその辺にでも転がしとくさ。起きたら勝手に出ていくだろう』

 

 『そうー』

 

 マリアは頷き、

 

 『それなら、私たちは先に帰る。片づけは手伝えないけど…悪いわね』

 

 そんな、今までの彼女であれば決して言っていなかったであろう言葉を口にした。

 店主は少し驚いたような顔をしてマリアを見たが、すぐにその口元を笑いの形に歪めると、

 

 『そんなことは気にせんでもいいさ。あんたの仕事に片づけ仕事までは含まれてないからな』

 

 それよりも、あいつの面倒を見てやんなー優しげに目を細めた店主に頷き、マリアは大神のところへと向かう。

 耳元で声をかけると、彼はうっすらと目を開き、マリアの顔を見た。

 うれしそうにほころぶ顔。

 

 『マリアー』

 

 彼はこの上も無く幸せそうに、その名前を唇にのせた。

 

 『…帰るわよ』

 

 そう言うと、彼は、

 

 『うん、分かった』

 

 そう答え、たよりない仕草でテーブルに手をついて、どうにかこうにか立ち上がる。

 だが、酔いの抜けないその体は、いかにも危なげで、マリアは彼の腰に腕をまわすようにしてその体を支えた。

 

 ドアを開ける。

 夜の世界から、明るく白みはじめた朝の世界へ。

 

 ほんの少し、まぶしそうにその瞳を細め、マリアはゆっくり、ゆっくり歩いた。

 肩にかかる重みと、その息づかいと…心にかかるというほどでなく、かといってまるで気にならないわけでもない。不思議な違和感ー。

 

 まだ朝も明けきらない、そんな時間。当然のことながら人影などほとんど無くーかすかな朝日に照らされる道に、マリアと大神、二人の影だけがほのかに揺れていた。

 

 

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

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