花の名前   作:高嶺 蒼

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第十話 過去・紐育~子犬の忍耐~

 深夜ー

 ベッドに横たわる大神の隣にはなぜか下着姿のマリアが静かな寝息を立てていた。

 

 何でこんなことになってしまったんだろうー暗闇の中、天井を見つめながら大神は今の状況を作り出したその原因について考えを巡らせる。

 眠りにつくべき時間はとうに過ぎていたが、どうにも眠れそうにない。

 それは決して昼間寝過ぎたという単純な理由からだけでなく、隣に眠る少女こそが大神の睡眠を妨げる最大の原因だった。

 

 彼女はなんの屈託もなく健やかな眠りの中にいる。

 純粋なのか、鈍感なのか、はたまた、ただ単に大神を異性として意識していないだけのことなのかー。

 あるいは彼女が大神のことを信用してくれている、その表れなのかも知れないが。

 なんだか複雑な心境だった。

 嬉しいような、悔しいような、切ないような、なんだか笑い出してしまいたいような、そんな気持ち。

 

 ずるいよなぁー声に出さず、大神はそんなことを思う。

 自分はマリアを意識しすぎて眠れないでいるのに、彼女はまるで涼しい表情で眠っているのだから。

 

 本当に君はずるいなー思いながら、大神は横目でマリアの寝顔を盗み見る。

 眠る彼女の表情は年相応に幼く、あどけなく、そしてなんだか可愛らしい。 

 そんな可愛い寝顔を見せられたら、ずるいって怒ることも出来やしないではないか。

 大神は口元を優しくほころばせ、それから再び天井を見上げた。

 それからそっと目を閉じてみる。まだまだちっとも眠れそうにはなかったが。

 

 そして自分に向けてもう一度同じ問いかけを行う。

 どうしてこんなことになったのか?

 答えを探し大神の思考は過去へとさかのぼる。

 そう、ことの起こりは今からほんの少し前ー

 

 

 

 

 

 

 「今日は君がベッドで眠るといいよ」

 

 食事が終わり、そろそろ休もうかという時間になり、何気なく大神が言ったその言葉に、マリアは酷く怪訝そうな表情で応えた。

 

 (あれ?)

 

 その表情に大神は一瞬首を傾げた。

 特別おかしなことは言わなかったと思う。

 もしかして聞き取りずらかったかなーそんなふうに考えて大神はもう一度同じことを言おうと口を開きかけた。

 

 なぜそんなふうに思ったかと言えば、それは大神がこの目の前の少女の日本語力をだいぶ把握してきたからだと言える。

 この時代のマリアも感心するくらい上手に日本語を使いこなしてはいたが、それでも大神の知るマリアにはまだまだ及ばない。

 複雑な日本語を理解するのはやはり困難なようだった。

 だが、そうして大神が再び同じことを繰り返す前に、マリアの方が先に、低くその言葉を発していた。

 

 「なぜ?」

 

 短く明確にそう問われ、大神はとっさに返事を返すことが出来ずに口ごもる。

 

 「あなたはまだ熱があるわ。病人がベッドに寝るべきよ」

 

 そうでしょう?ーと、マリアの瞳が問う。大神は情けなくもまた言いよどみ、それでも何とか抗弁を試みようと口を開いた。

 

 

 「だ、だけど。マリア…」

 

 「いいから。おとなしくベッドに入りなさい」

 

 

 そんな大神を一蹴し、マリアは彼のシャツの襟首をつかみ上げベッドの中へ押し込んだ。

 まるで子供扱いだ。

 実際には大神の方がだいぶ年上だと言うのに、マリアの目には頼りない子供のように映って見えるのかも知れない。

 大神は上目遣いに、だが憮然とマリアの顔を見上げた。それに気付いたマリアが、

 

 「なに?」

 

 そう言って大神の方を見た。

 そんなマリアの冷静そのものの表情が、妙に気に障って仕方なかった。

 そんなふうに感じること自体、きっと体調が万全でない証拠であったのだろう。

 大神も本当は分かっていた。マリアの言うことが理にかなっていると言うこと。

 それでも、熱があるせいだろうか。変に意地になり、大神はなんだか頑固なだだっ子のように、

 

 「君が床で寝るのに、俺だけベッドで寝られない」

 

 そう言い張った。

 呆れたようなマリアの眼差しが痛い。だが大神は主張を曲げずに真っ直ぐマリアを見上げていた。

 

 「仕方ないわね…」

 

 しばらくにらみ合ったあと、とうとうマリアがその言葉を口にした。吐息混じりの、独り言のようなかすかな声で。

 大神はほっとしたように表情を崩し、それから嬉々としてベッドを彼女に譲ろうとした。

 だが、そうしてベッドを這い出そうとした大神の上にマリアの冷たい声が降り注ぐ。

 

 

 「なにをしてるの?」

 

 「えっ、なにって…」

 

 「ほら、さっさと奥へつめて」

 

 

 きょとんとした顔の大神を、そんな言葉と共に奥の方へと追いやる。

 訳も分からないまま壁際へよった大神は次の瞬間大きく目を見開いて絶句した。

 マリアが服を脱いでいる。

 正確にはシャツのボタンを半ばまではずした状態だ。

 はだけた服の隙間から覗く白い肌が目に突き刺さるようだった。

 大神は慌てて目を閉じ、半裸のマリアに背を向けた。

 

 

 「な、ななな、なにを」

 

 「服を脱いでるのよ」

 

 「だから、なんだって服を!?」

 

 「服を着たまま寝たら、皺になるでしょう?」

 

 

 何を当然のことをとばかりにマリア。

 その声には当然のことながらなんの動揺すら伺うことが出来ない。

 

 一方、大神はと言うと、彼はまさに混乱の極みの中にあった。

 背後から聞こえてくる衣擦れの音。

 あまりに艶めかしいその音は大神の心に良からぬ想像をかき立てる。

 

 闇の中に浮かぶ白いしなやかな肢体ー見たこともないはずのその姿をはっきりと脳裏に思い描くことが出来る自分がなんだか酷くいやらしい生き物のような気がして、大神は目を閉じたまま耳からの情報も遮断しようと両手で耳をふさいだ。

 

 しかし、そんな大神の努力をあざ笑うかのように次の瞬間、人一人の重さを受けてベッドが大きくきしんだ。

 そして大神の鼻腔をくすぐる甘い香り。背中のシャツごしに伝わる人の温もりがそこにマリアの存在を伝えていた。

 

 たいして広いベッドではない。

 人が二人横になればそれでいっぱいいっぱいだ。

 今も大神の背中にはマリアの体が密着している。

 そんな状態で何事もなく一晩が過ごせるほど大神も己の自制心に自信を持てなかった。

 

 「もういい!!俺が床に寝るから!」

 

 たまらずに叫んで身を乗り出した大神をマリアの手が制止する。

 

 「ダメよ」

 

 そう言って見上げてくるマリアの目を真上から見下ろして大神はそのあまりの美しさに息をのんだ。

 むき出しになった肩の柔らかな優しいラインが、その艶やかな肌の白さが、大神にめまいにも似た感覚を引き起こす。

 

 彼女の唇に口づけて、その首筋に、胸元に顔を埋め、その全てを自分のものにしたいという激しい衝動に大神は歯を食いしばり、耐えた。

 それは体中の自制心を総動員してすらも難しいことではあったけれど。

 彼女からわずかに目をそらし、大神はうめくような声を絞り出す。

 

 「いいかい。君は女で、俺は男なんだよ?」

 

 そして、大神はマリアを見た。

 マリアは、いつもの彼女と少しも変わらぬ涼しい眼差しで大神を見上げている。

 そんな彼女の眼差しが、大神を何とも思っていない彼女の心の現れのように思えてとても、辛かった。

 

 「-それがどういうことか、分かるだろう?」

 

 マリアは答えない。ただ静かに澄んだその瞳が大神だけを見ていた。

 自分の、少し乱れた呼吸の音が、耳にやけに大きく響いて聞こえた。

 そしてそれに相反するように響く、少女の密やかな息づかいも。

 

 「-どうするつもり?私を…抱きたいの?」

 

 不意に彼女が口を開いた。どこまでも真っ直ぐに、投げつけられた言葉。

 大神は息をのみ、言葉を失った。

 彼女の言葉に応えなければと思う。違う、と。そんなつもりじゃないんだ、と。

 だが混乱しきった頭はそんな簡単な言葉さえも導き出すことが出来ずー大神はただ沈黙する。

 魅入られたように、マリアの瞳を見つめたままー。

 そんな無言の時間に、マリアは何を思ったのだろう。

 

 「……あなたの好きに、すればいい」

 

 しばらくして彼女の唇が紡いだのはそんな言葉。素っ気なく、どこか投げやりな、そんなー。

 そして彼女は目を閉じた。まるで全てを諦めてしまったかのように。少なくとも大神の目にはそう映って見えた。

 

 訳の分からない悲しみが胸をふさいでいくのが分かる。

 どうしようもなく悲しくて、切なくてー大神は黙って彼女に背を向けた。

 出来る限り壁により、背中を丸めて目を閉じる。今は何も感じたくなかった。彼女の気配も、その息づかいさえもー。

 

 「なぜ?」

 

 しばしの空白のあと彼女の声が大神に問いかける。

 放って置いてくれーそう、叫びだしたいような衝動を、大神は拳を握り、自分の中へ押し込めた。

 

 今の自分の感情が理不尽なものであることは分かっている。

 彼女は何も悪くはないし、彼女の言葉に、態度に、自分が勝手に傷ついて落ち込んでいるだけなのだから。

 きっと明日になれば普通に振る舞える。

 あと1時間でもーいや30分でも間をおけばなんでもなかったように彼女と向かい合えるだろう。

 

 でも、今はダメだ。とても彼女と向き合えそうもない。

 今の自分はきっと情けない顔をしているに違いない。

 そんな顔を彼女に見られたくなかった。だからー

 

 「もう、遅い。俺も寝るから、君も、寝た方がいい」

 

 大神はその場を濁すようにそう言った。

 そして自分の言葉の通りに目を閉じ、口をつぐむ。

 背後からはもの問いたげな気配が伝わってきたが、大神の、「これ以上何も言いたくない」そんな気持ちを敏感に感じたのかーそれ以上の問いが重ねられることなく、代わりに、

 

 「-分かった」

 

 そんな短い彼女の言葉が小さく大神の耳に届いたのだった。

 

 

 

 

 

 しばらくしてー背中越しに聞こえてきたのは彼女の静かな寝息。

 大神の口元に小さな苦笑いが浮かぶ。

 よほど疲れて眠かったのか、それとも大神などは眼中に入っていないだけなのかーここまではっきりしているといっそ清々しいくらいだ。

 

 だが、それと同時にこうも思う。

 彼女がこうして側に置いてくれることは、それ自体が心を許してくれている証なのかも知れないと。

 男としては見てもらえてないのかも知れないが、そう考えるとなんだか少し嬉しくもあった。

 

 静かに寝返りを打ち、大神は天井を見つめる。

 夜の沈黙がおりたこの部屋に響くのは大神のかすかな息づかいと、マリアの寝息だけ。

 大神は口元をかすかに微笑ませ、そっとマリアの方へ首を傾けた。

 

 暗闇に、ほのかに白く浮かぶ彼女の横顔。

 目を閉じ、鋭い眼差しをその奥に隠したそのの顔は、年相応に幼くあどけない。

 優しく、優しく彼女を見つめながら、

 

 (好きだよ。君が好きだよ、マリア)

 

 胸に満ちる苦しいまでのその思いを心の中で言葉に変える。

 声に出して伝えるにはまだ勇気が足りないけれど、いつかーいつの日にか真っ直ぐに彼女の目を見て伝えられる日が来ればいいと思う。

 伝わる温もりが愛しくて、切なくてー大神は息苦しいような幸福感の中、ただ壁を見つめた。

 彼の長い夜は、まだまだこれからだった。

 

 

 

 

 

 『だめ…』

 

 そんなかすかな声に揺り起こされて、大神はそっと目を開けた。

 考え事をするうちにいつの間にか微睡んでいたらしい。

 まだ眠り足りないと訴える瞼をこじ開け、色気も眠気には勝てなかったかと苦笑い。

 薄明るい部屋は、もうすぐ夜明けなのだと、そのことを伝えていた。

 

 『行かないで…お願い…』

 

 再び背後から聞こえる声。全く理解不能なその響きに首を傾げ、だがすぐにそれが彼女の母国ーロシアの言葉だと言うことに気がついた。

 

 (ロシアでの夢を見ているのか…?)

 

 多分そうなのだろう。だが、その夢が決して楽しいものでないことも分かる。

 言葉の意味は分からないものの、それでも彼女の声の響きは楽しそうでも幸せそうでもなくーそれは酷く切なく悲しそうな響きを大神の耳へ伝えていた。

 

 『だめ…いけない…。行ったらあなたは…』

 

 その言葉の内容を理解できないことがもどかしくて仕方なかった。

 大神は背を向けたままで考える。起こした方がいいのか、それともこのままそっとして置いた方がいいのかー

 そんな時、ひときわ高く彼女の声が狭い部屋の中に響いた。

 

 『お願い。死なないで…。そばにいて…ユーリー…』

 

 ユーリー。

 その名前には覚えがあった。

 

 彼はマリアがロシアにいた頃の隊長であり、彼女が心からの信頼を捧げ、そしてーたぶん彼女が生まれて初めて愛した男。

 その彼が、マリアの見るその目の前で真っ白の雪にその命を散らしたことは、いつだったかマリア本人の口から直接聞いて知っていた。

 彼女が随分と長い間、その瞬間の幻影に悩まされ続けていたことも。

 

 だから、瞬間的に大神は悟っていた。

 彼女がその時の悪夢を夢に見ていること。

 今まさに彼が死に至ろうとするその時の映像が彼女の目の前で再び繰り返されようとしていることをー

 

 そんなことはさせられない、そう思った。

 なんのためらいもなくマリアの方を向き、大神は震える彼女の肩を腕の中に抱きしめる。

 愛する人を失う恐怖にこわばった少女の体を何とかしてあげたくて、さらさらの金髪をぎこちなく撫で下ろしながら、大神はその耳元に何度も何度もささやいた。

 

 大丈夫だよ…安心して…俺はここにいるよ…ずっとずっと、君のそばにいるから…

 

 その言葉がどれだけ彼女の心に届いたのかは分からない。

 だが、ゆっくり、ゆっくりと彼女の体からこわばりが消えーやがては穏やかな寝息が大神にも聞こえてきた。

 

 ほっと息をつき微笑む大神。

 細い体を抱きしめていた腕を解き、そのまま腕枕をして彼女の寝顔を見つめた。

 涙に濡れた頬を手の平で拭い、額に触れるだけの優しいキス。

 もう彼女が泣かなくて済むように…悲しい夢を見なくてもいいようにーそんな思いを込めて。

 

 腕に感じるのは愛しい少女の重み。

 大神は彼女を守るようにそっと腕を回すと、再び静かに目を閉じた。

 こんな状態で眠れるとは思えなかったものの、なんだかとても満ち足りた、幸せな気持ちだった。

 

 微笑み、彼はじっと耳を澄ます。

 自分の鼓動と、彼女の鼓動とー心を凝らして聞き入るうちに、二つの鼓動がだんだんと重なり合って聞こえる気がした。

 

 トクン…トクン…トクン…トクン…

 

 そんな規則的な律動が大神を眠りへと誘い込む。

 腕の中の愛しい存在を壊さないように、でもしっかりと抱きしめたままー大神は再び微睡みの中へと落ちていった。 

 

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。
うちの大神は自制心の男です。優しいヘタレなので仕方ありません。

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