私は今、先生と一緒にすっごい大きい屋敷の前に来ている。
一周するのに10分くらいかかるんじゃないかと思うほどの敷地を柵で囲まれた大豪邸である。
この成金め、こんな家があるからウチの神社は貧乏なのよ。
「いくぞ、霊夢」
「うん」
そう言われて、私は先生の後についていく。
霧雨という表札の掲げられた家の中に。
……さて、どうしてこんなことになったかというと、ことは2時間ほど前に遡る。
紫から3日間の修業の休みをもらった私だったが、昨日はただ境内でボーっとしてたらあっという間に1日が終わってしまった。
今までずっと修業ばっかりしてたから、逆に修業なしだと何していいのかわかんないのよねぇ。
それはそれで確かに有意義といえば有意義な時間だったけど、せっかくだし何かもう少し実のあることをしたいと思ったのだ。
そんな時、私は先生がここ一年くらい毎週この家を訪れているという話を耳にした。
だいたいの場合は門前払いを食らってしまうが、それでも諦めずに不登校になってしまったあの金髪を寺子屋に連れて行こうと頑張っているらしい。
それを聞いた私は……これだ! と思った。
先生が目を輝かせて喜んでくれる顔を見れたし、クラスの辛気臭い空気を変えられるし一石二鳥だね!
……まぁ、それにあいつが不登校になったのは私に一因があるとも言えるので、罪の意識を感じていないわけではなかったのだ。
だって、あいつ私の霊力ボール目の前で見て、皆の前で漏らしたでしょ?
あの後、あいつは白い目で見られるのが嫌だったのか、寺子屋に来なくなってしまったのだ。
「魔理沙、いるか」
先生が数十あるだろう部屋のうちの一室のドアをノックする。
ここ数週間は先生も会えていなかったらしいが、今日は私が来ていると言ったら久しぶりに本人が会うと言ったそうだ。
あれ以来一度も会っていないので、私もしかしてむっちゃ恨まれてるのかなーとかすっごい不安はあった。
そして、少し間をおいてドアが開いた。
いきなり殴りかかられたらどうしよう、骨の一本二本くらい折っていいかな?
いや、流石にやめておこう。
今回は多分私が悪いのだ。
だから、何か恨み言を言われてもとりあえず謝っておくことにしよう。
「こんばんは、お久しぶりです博麗さん」
……ん?
誰だこいつって感じだった。
私の知ってるあいつはもっとふてぶてしい態度をとる奴だった気がする。
それなのにこいつの雰囲気は、まるでお金持ちのお嬢様だ。
ああ、そういえばこいつお金持ちのお嬢様だったわね。
「……久しぶりね」
なんか、そんな挨拶しか出てこない。
これじゃ藍のことをどうこう言えないわ私。
何を言うつもりか決めてなんか来なかったけど、ここまで何言っていいものかわからないとは思わなかった。
こいつ相手なら適当なこと言っておけば大丈夫だろうと思ってたのに、すごい気まずい感じね。
そして黙っている私の隣で、先生が張り切って話し始める。
「ほ、ほら、久々に友達に会うのも悪くないだろう? なあ魔理沙、そろそろ寺子屋が恋しくはないか?」
「すみません。 私まだ、いろいろとやらなくちゃいけないことがあって……」
「それはそうかもしれないが、青春は寺子屋でしか味わえないぞ、魔理沙!!」
「でも……」
あー、ダメよ先生、それは完っ全にNGよ。
そんな熱血が誰にでも通用すると思わないで。
ほら、そんなに言いたいことばっかり一方的に言って、ああもう、こいつ完全に黙っちゃったじゃない。
私ならうるさいって言って助走つけて殴りかかるレベルよ。
熱血が取り柄の先生もこういう場面ではダメダメだし、こいつは見た感じ性格まで変わってそうだし、気長に攻略していくしかなさそうだ。
あーあ、せっかく貴重な休日を費やしてこんなところに来たってのに、無駄足になっちゃいそうね。
と、気楽にそんなことを思っていたけど、私はこいつが片手に持っていた本のタイトルを見てしまった。
見てしまった。
「……それは?」
「え? これですか。 その、微積分の参考書です」
待て。
それは確か噂に聞く数学の高等テクで、私もまだできないやつではないのか?
それを、何故こいつがやってる?
あのアホ面が、何故私よりも先に進んでる?
ふ、ふふん、どうせハッタリに決まってるわ。
背伸びしてできもしないことに手を出そうとするなんて、まだまだお子様ね!
「へ、へぇー。 でもそんなの覚えて、一体何に使うのかしらね」
「その、計量経済学で必要になったので、とりあえず数学を一通り復習しておこうと……」
「……ふーん、経済! 経済ね。 なるほど、あんたもあれから少しは進んでるみたいね」
計量経済学……何それ、初めて聞いた。
正直、何に使うのって感じだ。
ってかちょっと待ちなさいよ、そんな頭よさそうにしてたって、どうせただのハッタリでしょ?
あんたなんて、私の足元にも及ばないガキどもの一人なんでしょ?
落ち着きなさい博麗霊夢、こいつに見せてやればいいのよ。 私と凡人の差を、他の子供とは違うってことを!
「……536かける464は?」
「え?」
「ふふふ、ほーらわからないでしょ、あんたもまだまだみたいね!」
秘技『3桁の難しい掛け算』!!
授業中の暇なときに脳内で練習して、最近できるようになった私の必殺技である。
ぶっちゃけ、こんなことできたからどうだという話だが、こいつに負けるのは私のプライドが許さない。
だけど、ここまで言って初めて、私は少し冷静になった。
「そ、それじゃあ私はもう行くわ。 あんたもこれからせいぜい精進することね」
「あ、待て霊夢、もう少し……」
先生が何か言っていたが、私は一目散に逃げ帰った。
……そして、走りながら果てしなく虚しくなった。
なぜ、あの場面であんな子供じみたことをしたのか。
自信満々に「536かける464は?」……って。
うわああああああ、思い出しただけで恥ずかしくて死んでしまいたいぃぃぃ!!
何よ!? 微積分やってる奴に掛け算の問題出して何得意気になってんのよ私!?
そして、同時に私の隣で隙間が開いて……
「ふふっ、あははははは」
やっぱり一番聞かれたくない奴に聞かれてたああああああ!!
やめて、お願い母さんには言わないで、何でもするから、何でもするからあああああ!!
そして泣きそうになりながら走っていた私を、追いかけてきた先生が呼び止める。
「おい霊夢、どうしたんだ?」
「何でもない、今日はもう先に帰るからっ!」
「そ、そうか。 ああ霊夢、そういえばお前が走り去った直後に魔理沙が248704と伝えてくれと言っていたんだが」
……はい。
それを聞いた瞬間、何か頭冷えすぎて足も止まった。
自分の愚かしさがどんどん浮き彫りになってきて、本当に情けなくなってきたわ。
もう、認めるわよ。
私が悪かったわよ。
「……紫」
「あら、何かしら? 掛け算の得意な霊夢ちゃん?」
「ってうおっ!?」
例のごとく突然隙間から現れた紫が笑いすぎて震えた声でバカにしてきたり、先生がそれに驚いていたりしたが、そんなものはもう目に入らないし聞こえない。
そんなことはどうでもいい。
「41729かける73845は…」
「3081478005だけど、霊夢は答えわかってるのかしら?」
言い終わる前に一瞬で返される。
適当な数字を並べただけの私には、もちろんその答えがあってるかなんてわからない。
だけど、多分あってる。
こいつも、そういう奴だ。
藍も多分、あと5桁くらい増やした問題を出したところで一瞬で正解を答えて「もう10桁の計算をしているのか、最近の教育は進んでいるな」とか真顔で言いそうだ。
つまりは、そういうことなのだ。
こんなのは、私が自己満足のために身に付けた付け焼き刃に過ぎない。
実際の私は他のアホな子供たちを頭の中で見下して調子に乗っているだけの、愚かで凡庸な子供に過ぎないのだ。
実際の私はあの金髪の足元にも及ばない、戦うことしか能のない体力バカに過ぎないのだ。
「……特訓よ」
「あら、一応休みはもう1日残ってるわよ? 遂にやる気になった?」
「ありったけの数学の参考書を集めて。 それと、1週間だけ修業の休みをちょうだい」
「へ?」
だけど、それをわかっていてなお、私の中にある言葉にできない感情が止めどなく溢れてくる。
紫や藍や母さんに負けるのならまだいい。
初めて子供に打ち負かされた。
完膚なきまでに、差を見せつけられた。
昔はあんなアホ面を見せていたガキに出し抜かれた屈辱。
「訳のわからない修業なんかしてるからお前はアホなんだよ、れいむ」っていう心の声が聞こえてきた気がした。
「なんで…」
「文句があるなら来週から20時間だって修業してやるわよ。 だから、今は私に協力して」
私の気迫に押されたのか、紫が黙ってしまった。
もう、これが終わったら地獄の特訓でもなんでもやってやるわよ。
だけど、今はこっちが先決よ。
「ふふ、ふふふふふふ、あいつ絶対泣かすわ」
もう二度と私に逆らう気も起きないほどに叩きのめしてやる。
でも、ただのガリ勉になってるあいつをぶっ飛ばしても何の意味もない。
だから、あいつが得意気になってる計量経済とかいうのをマスターして見下してやる。
寺子屋なんかに行ってるアホに負けた超アホとして、一生バカにしてやるんだから!
こうして、私のプライドを満たす以外にあまり意味のないだろう一週間が始まった。