今回は霊夢視点です。
目の前が真っ暗になりそうだった。
私の手は、取り返しのつかない血で染まっていた。
殺したんだ。
あの悪魔ではない。きっと、レミリアを。
咲夜が、パチュリーが、小悪魔が、美鈴が、誰よりも大切にしてきた人を奪った。
そんなつもりじゃなかったなんて言い訳は許されるべきじゃないし、きっと断罪されるべきことなんだと思う。
だけど、今の私はその事実にさえ思考を割く余裕がなかった。
だって、どうしようもないくらいに怖いのだ。
「ぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛っ!?」
さっきまで悪魔が垂れ流していた狂気が、殺意へと変わったのを感じる。
暗く淀んだ感情が悪魔の魔力を増大させて、辺りの大気を歪ませていく。
恐らくはレミリアを遥かに超える力の塊が、私たった一人へと向けられている。
そして、その声が響くと同時に私の本能は一瞬で最大級の警戒音を鳴らす、はずだった。
「……何、これ」
私の顔についているのが自分の目玉ではないんじゃないかと。
脳が、心が、ここにある何もかもが私のものではないと感じるくらい、気持ち悪かった。
世界の動きが、ひどくゆっくり見える。
そして何より、奇声を発しながら私に向かってくるあの悪魔が――全然、恐ろしくなかった。
右に寄りに向かって来る、だから私は少し左に寄った。
空振った悪魔の身体はあまりに無防備だ。だから私は少しだけ手を伸ばして、
「あ゛っ――――――!?」
いつの間にか私の目の前には血煙が舞い、隕石が落ちたように飛び散った大地には大穴が開いていた。
私は無意識に攻撃を避けて、悪魔に向かってほんの少し霊力を叩き込んだだけ。
なのに、それで終わっていた。
腹部がはじけ飛んで全身を真っ赤に染めた悪魔は、再生することもできず苦しみ悶え、地を這いつくばっている。
さっきまで敵う気のしなかった悪魔が、まるでただの有象無象のように見えていて。
……なのに、私にはそれが不思議と、当然のことのように思えた。
――足リナイ。
むしろ、何か物足りないようにすら感じていた。
だから私は、死にかけの悪魔へと近づいていく。
「待って霊夢、何をしてるの!?」
何か聞こえてきた気がした。
大した生命力を感じない、恐らくはただの羽虫の声。
鬱陶しい。
喰らう価値もない、邪魔だから消して―――
「霊夢!!」
「っ!? ……咲夜?」
あれ? なんだ咲夜か。どうして……って、ちょっと待って。
私、今、何を考えてた?
あの悪魔が向かってきたから、避けて反撃して、それで私は一体……っ!?
「霊夢、あのね…」
「お願い咲夜、傍にいて!!」
「え……?」
「一人にしないで! 手を離さないで、私を呼び続けて!」
怖い。言葉にできないくらい怖くて、息が苦しい。
レミリアを殺してしまったことが? それともあの悪魔にむけられた殺気が?
多分違う。
あの力が……いや、その更に奥底に眠る何かが私を支配していくような感覚。
風見幽香に追い詰められた時と同じ、目の前の全てが塵芥のように見えていく感覚。
あの悪魔の殺意さえ軽く止められる得体のしれない力、こんなのは私がどうにかできるものじゃないと再認識させられた。
このまま私が私じゃなくなってしまいそうで、怖い。
無意識に、当然のように咲夜さえ殺してしまいそうになった自分が怖いんだ。
「一旦落ち着いて霊夢、冷静に…」
「ぅぅぁ……あはっ、あはははははははっ」
「……え?」
だけど、私の心は再び別の恐怖に襲われた。
関節をあり得ない方向に曲げながら無理矢理に立ち上がった悪魔の表情は、理解不能だった。
憎しみではない、再び狂気の――いや、むしろ狂喜とでも思えるほどの笑みでもって私を迎えている。
それは『空を飛ぶ程度の能力』を持っている私だからこそわかる、感情のうねり。
こいつの中には、最悪の憎悪と至上の愉悦とでも言うべき感情が混在していた。
私へ向けた破壊衝動、そして――自分を滅ぼしうる力を期待する、自殺衝動。
今の私ならきっと誰でも殺し得るのだと、こいつはきっと本能的にわかっているのだろう。
一体こいつがなぜそんな目的を持っているかもわからない。
だけど、一つだけわかることがあった。
私の中にある何かが、ずっとこいつの存在を待ちわびていたということだ。
「来ないで」
私は反射的に臨戦態勢に入っていた。
これ以上こいつの前にいるのは危険だ。
こいつも確かに化物クラスの力を持っているのがわかる、だけど私の力は間違いなくその上位にあるものだ。
今の私が本気になればすぐにでも倒せる。
だから、やるなら今しかない。
このまま、こいつを――――
「っ――!?」
だけど、また一歩前に出ようとした私の身体は蹴り飛ばされていた。
それも悪魔にではない、咲夜に。
「咲夜、何、を……」
……だけど、咲夜に拒絶された事実を冷静に考えればすぐにわかった。
本当はそれを予想していたのに、ただ現実逃避をしていたに過ぎないこともわかっていた。
咲夜にとっての敵。この世で咲夜が最も忌むべき仇は他でもない、レミリアを殺した私なのだから。
「もういいわ霊夢。後は私が引き継ぐから、早く逃げなさい」
「……え?」
だけど、咲夜は私を責めてる訳じゃなかった。
ただ静かに私に背を向けて、悪魔の方へと向かっていく。
「待って、いくら弱ってるとはいえ咲夜じゃそいつは…」
「でも、今の霊夢がやったら殺しちゃうでしょ。この子を」
「え……?」
その背中は、ひどく寂しそうで。
それでも、咲夜から負の感情は全く感じられなかった。
私への憎悪も、あの悪魔への恐怖も。
「咲夜。そいつのこと、知ってるの?」
「いいえ。霊夢と同じで、たった今初めて会ったばかりよ」
「なら、どうして…」
「決まってるじゃない」
咲夜は振り返らない。
それでも、私の問いかけに答える咲夜の声は、
「この子はお嬢様が命を懸けて守った人。なら、私がそれを守ることくらい当然でしょ」
「あ……」
何か大切なものを慈しむかのように、ただ優しかった。
……そうだ、どうして気づかなかったんだろう。
レミリアはこの子を守ろうとして、この子を庇って私の力に飲み込まれたんだ。
今ならわかる。この子が私に向けていた殺意は、レミリアを奪った私へ向けた憎しみ。
きっとこの子は、レミリアのことを大好きだったんだ。
「そうだ、私、は……」
なのに私は、そのレミリアを奪った最低の化物。
悪魔はこの子じゃない。悪魔は私の方だったんだ。
「霊夢……?」
だって、私は殺した。
皆からこんなにも愛されていた人を、殺した。
絶対に許されない。
私の頭にはただ、後悔ばかりが巡ってるはずなのに。
なのに、どうして。
自分がわからない。
私は。
どうして私は。
こんなに優しいこの子を――喰らい尽くしたい衝動が抑えきれないんだろう。
「霊夢っ!?」
無意識に地を蹴った私の目の前には、何もなかった。
視界から何もかもが消えて、目の前に広がるのは一面の荒野。
「……こっちよ、霊夢」
振り返ると、そこには咲夜だけがいた。
きっと危険を察知した咲夜が、時間を止めてあの子を逃がしてくれたんだと思う。
だけど咲夜の能力には限界がある、多分遠くまでは逃がせてないだろう。
きっとまだ、あの子はこの近くにいるはずだ。
――感じル。何処か近クニ。
けど、それじゃダメなんだ。
あの子の魔力を探している。
私の身体から何かどす黒い、霊力とは違う何かが溢れているのを感じる。
全てを飲み込むもの。
この世の全てを破壊するための、ただそのためだけのものが。
――喰イ足リナイ。邪魔ヲスルナ。
声を出そうとしたけど、思うように身体が動いてくれない。
感情が真っ黒に染まっていく。
視界に映る色が反転していく。
多分もう私には抑えきれない、止められないから。
――否ナレバ、汝ニ。
だから、お願い咲夜。
いきなりこんな無理難題を頼むのは心苦しいけど。
死なないで。
このまま、私が壊れてしまう前に――
――永遠ノ安ギヲ賜フ。
私の手からあの子を、皆を守ってあげて。