不思議なほどに、時間がゆっくりと見えた。
あと、互いに三歩。
美鈴の歩幅と、私の歩幅で走り出した時の距離感だ。
けど、きっと美鈴もそれをわかっている。
むしろ距離感なんてものは、武術に精通した美鈴なら私よりも正確に把握しているだろう。
だから、私は深く息を吸って、
「ふっ!!」
三歩を、駆けない。
タイミングをずらすために、あえて一歩で姿勢を低く、より低く飛び立つ。
近接戦において跳ぶことはあっても、飛ぶことは普通はあり得ない。
飛ぶ力よりも駆ける力の方が、瞬間的にはより強く前に進めるのは自明の理だからだ。
不利になるだけのそんな戦術は一種の博打、裏をかくための手段にしかならない。
「速い――っ!?」
だけど、それはあくまで普通の人の場合に過ぎない。
『空を飛ぶ程度の能力』を持つ私にとって、空を飛ぶのは跳ぶのよりも遥かに簡単なことなのだ。
三歩を駆け抜けて走るのより「早く」、私は美鈴の懐へと入り込む。
そして、私はその速度のまま美鈴の直前で踏み込んで、
「が、未熟ですね」
「そんなの、わかってんのよ!!」
二歩目とともに放ちかけた正拳を、突かずに引いた。
私の奇襲なんて、美鈴は簡単に見切って止めてくるだろうという直感に従って。
美鈴が守りに僅かに意識を向けたその瞬間、私は前ではなく真上に飛んだ。
私は自分の未熟さなんて、熟知している。
勝ち目のない近接戦なんて挑みはしない。
さっきの急接近はただのブラフ、本命は……
「こっちよ!!」
恐らく美鈴の意識は、緊急退避で飛び上がった私に向けられるはずだ。
だけどそれは罠、あらかじめ放っていた『夢想封印』を、私は美鈴の死角から一気に解き放っていた。
近距離戦は絶対に挑まない、これは遠距離に身を置きながら時間差で放つ高精度の近距離砲撃。
美鈴の注意を私に引きつけたまま、無色の霊力の弾で美鈴を打ち抜こうとする。
「……致傷性の魔弾が、4つ」
「っ!?」
だけど、美鈴はそれすらも全て見抜いていた。
速過ぎてはっきりとは見えなかったけど、視認できるはずのない霊力の弾を、美鈴はその両の拳でいとも簡単に打ち抜いていた。
一つ、二つ、三つ、四つ。
それらが弾け飛ぶのとほぼ同時に感じるほどに早く、美鈴は空高く跳び上がって、
「誰が、4つだなんて言ったかしら」
私もまた、既に懐からもう一つの切り札を取り出していた。
宝具『陰陽鬼神玉』。
直線コース、避けられるはずがない空中の軌道で、私はそれを構える。
「そんなものっ!!」
美鈴はその弾道をも読んでいる。
全ての戦況が美鈴の掌で踊らされている、かのように見える。
……だけど、美鈴がそれらを全て見切ってくることくらい、私は予測していた。
こいつはきっと、こんなことでは止められない。
裏の裏をかいた程度で勝てる相手じゃないことくらい、わかってるから。
「っ!?」
「いつから5つだと錯覚していたのかしら? 6つ、いや―――」
4つの霊力の弾は、美鈴の注意を逸らすための布石。
二歩目を踏み込みながら大地に張っていた結界は、内包していた力を空高く弾き返す。
私を追って弾け跳んだ追撃弾は、同じように私を追って空高く跳ねた美鈴の顎を綺麗に打ち抜いていた。
その僅かな隙、美鈴の意識がほんの少し私から逸れるとともに、私は気配を殺して大気と同化させていた霊力の全てを一気に解放して……
「20連の夢想封印よ」
美鈴が怯んだ隙に、追い打ちをかけるように四方八方から光弾を叩き込んだ。
スペルカードルールならこれで私の勝ちだろうけど、現実はそうはいかない。
一つ一つが強力な戦術兵器は、それでも美鈴を倒すには至らないかもしれない。
だから……
「これで、終わりよ!」
ここまでの全てが、陰陽鬼神玉を確実に当てるための攪乱。
これにまともに当たれば、たとえ美鈴だって無事じゃ済まないはず。
私はそのまま自分の出し得る全力を込めて、一気に叩き込む。
夢想封印で完全に取り囲んで逃げ道を塞いだ上に陰陽鬼神玉も直撃コース、これで決められない訳が……
「……ああ、そうか。 やはり強いな」
だけど次の瞬間、私の直感は身も凍るような死の気配を察知した。
美鈴の纏う気配が変わっていた。
さっきまでみたいな、洗練された武の気配なんかじゃない。
まるで、野生の獣のような気が膨らんで、
「だが、それがどうした」
「っ―――!!」
私は焦ってしまった。
まるで別人のような美鈴の狂気的な気迫に、ただ本能的に恐怖を感じてしまったから。
そして、それが敗着だった。
陰陽鬼神玉の軌道を見切ると、美鈴は夢想封印に見向きもせずに回り込んでいた。
「嘘っ!?」
前方の10の弾幕を片手で弾き飛ばし、美鈴は既に陰陽鬼神玉の軌道を外れて跳び上がっていた。
何よそれ、正気の沙汰じゃないわよ!?
片手でどうにかできるような弾幕じゃないはずよ、そんなことしたら美鈴の手が無事で済むわけが……
「ぁ……」
だけど、それを見た瞬間、私は美鈴との埋めることのできない差を思い知らされた。
心・技・体。 武術の極意。
技は、未熟な私と比べるまでもない。
体も、妖怪と人間ではそもそもの体のつくりが違う。
だから、私はせめて心で勝たなきゃいけないのに。
「っオオオオオオオッ!!」
地の底から湧き出るかのような雄叫びは、私の反応を一瞬鈍らせた。
きっと今、焼け爛れたその右腕は灼熱の炎に焼かれたような激痛に襲われているはずなのに。
それでも美鈴は僅かにも表情を歪めないまま、その右手で私の首を掴んでいた。
「―――がっ、はっ!?」
その次に私の耳に届いたのは、風切り音と、派手な衝突音。
そして、私の骨が軋むような嫌な音だった。
多分、私は上空から地面に向かって投げつけられたのだろう。
霊力の鎧を纏ってなお、衝撃に脳が耐えきれずに目の前の世界が揺れている。
そして、美鈴はそのまま私の身体に馬乗りになって、
「……は、ははっ。 なんだ、簡単じゃないか」
その顔は、狂ったような笑みに支配されていた。
憎しみを込めたように歪んだ表情で、私を押さえつけていた。
それだけで、もうわかった。
私は、負けたんだと。
しかも、これは弾幕ごっこじゃない。
首を刎ねられるか、胸を貫かれるか、頭蓋を砕かれるか。
生殺与奪の権利は全て、美鈴にあるのだ。
普通なら。
私が邪神の力なんて持たない、普通の人間だったなら、ここで終わりだった。
「これでいいんだ。 これで、お嬢様は……」
「え……?」
だけど、私は動けなかった。
美鈴の目から、あまりに自然に流れていた涙に気を取られてしまって。
負けたと、思ってしまったから。
誰かを守りたいという思いで、心で負けてしまったのだから。
美鈴の目に映っているのは、美鈴自身でも私でもない。
ただ、お嬢様と呼んだその相手のことを。
大切な人を守りたい、そんな強い想いだけが痛いくらいに伝わってきたから。
……だから、私には美鈴を殺せない。
反撃しなければこの場で殺されるとしても。
私に、それを覆して美鈴を殺すことができる力があっても。
そんなこと、私にはできない。
「……たすけて」
だから、私は卑怯にも、また縋りつくことしかできなかった。
無理矢理に代わってもらった、博麗の巫女の座だったのに。
なのに、私は結局何もできなかった。
ごめんなさい。
母さんや紫たちに頼ることしかできない無能のくせに、一体私は何を勘違いしていたんだろう。
弱い自分が情けなくて、何もできなかったことが悔しくて。
私はただ、静かに涙を流すことしかできなかった。
「――――スパークッ!!」
……だけど、微かに何かが聞こえるとともに、気付くと私の上に美鈴はいなかった。
私から距離をとって、再び構えていて。
「え……?」
「おいおい。 何やってんだよ霊夢」
その声で、私の頭は再び覚醒した。
「魔理沙……?」
「おう、魔理沙さんだぜ」
顔を上げると、そこには私の数少ない友達がいた。
なのに、いつも一緒にいたはずのその顔を見るのが辛くて。
いつも隣にあったその声を聞くのが辛くて。
「……逃げて、魔理沙」
「は?」
さんざん偉そうなこと言っておきながら、私は何もできなかった。
きっと私には、魔理沙を助けることも守ることもできやしない。
そんな情けない姿しか見せられないのが、悔しくて。
だけど、それでもせめて魔理沙には逃げ延びてほしいから。
「何言ってんだ、お前」
「無茶だったのよ、最初から。 こんなの、私や魔理沙に勝てる相手じゃ…」
「……ま、お前が言うならそうなのかもな。 でもよ、だったら―――」
でも、魔理沙は逃げなかった。
私の後ろでもなく、私の前でもなく。
ただ、箒から降りて私の隣に立っていた。
「早く立てよ、霊夢」
「え?」
「え?じゃねーよ。 お前が勝てない相手に、私一人で勝てる訳ねーじゃねーか」
そう言って、魔理沙は私に手を差し出した。
その顔は、最初と何も変わらない。
ただ、いつものように憎たらしいほどニヤついた顔で。
「安心しろよ。 一人じゃない、私がいるんだ。 霊夢も、まだやれんだろ?」
「ぁ……」
……そうだ。
何を勘違いしてたんだろ、私。
なんで一人で突っ走っちゃったんだろ。
私はまだ、未熟者で。
母さんみたいに一人で大妖怪を退治できるほど、強くなんてない。
一人で何でもできるほど、強くなんてない。
そんなの、博麗の巫女になった日から、最初からわかっていたことなのに。
「……何言ってんのよ。 当然じゃない」
不思議と、また力が湧いてくる。
私は一人じゃない。
心から信頼できる親友が……いや、同じ道を進んでくれるライバルがいるから。
一人で戦ってる訳じゃないからこそ、私は立ち上がれる。
「ははっ、やっと霊夢らしくなってきたな。 よっしゃ、足引っ張んなよ」
「そっちこそ!」
だから、私は諦めない。
私には私の戦い方がある。
母さんみたいに一人で何でもできる必要なんてない、私が博麗の巫女としてここにいる意味をもう一度噛みしめて。
誰かに頼らないと何もできない未熟な私だからこそ進める道があるって思えるから、私は戦えるんだ!