あの夏の日に味わった、至福のひととき。
暑さを忘れさせてくれる、口の中でとろけるアイスの感触。
ああ、この気持ちに身を委ねたい。
今すぐこの氷の雨を受け入れて、灼熱地獄から脱出したい。
「ぅぅぅ……負けるかあああああああ!!」
落ちていく。
私の隣を、氷の塊が落ちていく。
触れることもできないまま、無情にも通り過ぎていく。
私は今、どんな顔をしているのだろう。
きっと、ひどい顔をしているのだろう。
それでも私は博麗の巫女として、鉄の意志でもって宣言する。
「……スペルカード、ブレイクね」
全ての氷を避け終わるとともに、汗と一緒に温かい何かが頬を流れていくのを感じた。
きっと、私の目から零れ落ちた何かが。
私にとって初めての異変での、初めてのスペル取得。
なのに、それがこんなに悲しい取得宣言になるなんて思ってもみなかった。
「そ、そんなっ、あたいの弾幕が…」
「大丈夫だよ、チルノちゃん。 もう一枚、とっておきのがあるでしょ?」
「あ……うん!」
と、とっておき!?
休む間もないっていうの? 私は今、やっと自分の中の悪魔を押し留めたというのに。
なのに、既に私は次の弾幕が気になって仕方がないのだ。
「くらえっ、雪符『ダイアモンドブリザード』!!」
え……? 何、この弾幕。 私のこと馬鹿にしてんの?
速さなんて皆無の、ただゆっくりと空から降りてくるかのような……
「雪符『ダイアモンドブリザード』。 堅い氷とは違う、雪のような柔らかさの結晶ですよ」
……あ、もうダメな気がしてきた。
これを無視して全部避けるなんて。
そんな生殺しに耐えきる自信なんて、今の私には残されていない。
きっと、全て避け切った頃には、私は血の涙を流していることだろう。
あぁ、スペルカードルールって、こんなに残酷なルールだったのね。
恨むわよ母さん、紫。
こんな、心を砕くようなルールを作ったりして……
――ちなみに、スペルカードルールには『グレイズ』っていう特殊ルールがあるの。
ふと、紫に聞いた言葉が走馬灯のように蘇ってきた。
……グレイズ?
あの時の私は、全部避ければいいじゃんとか言ってあんまり真面目に聞いてなかったけど。
でも、確かその特殊ルールって……
――ただ避けるんじゃなくて、かする。 あえて弾幕に触れるか触れないかのところを通過できる、紙一重の美しさを評価するルールよ。
「……ふふ。 ふふふふっ」
「え? 何、どうしたのあの人?」
嗚呼、そっか。
ありがとう、神様。
ありがとう、世界。
私に、こんなに素晴らしいプレゼントをくれて。
「ほっ!!」
「あ! 当たっ……て、ない?」
1HIT。
だけど、私に掠った雪の粒は、軌道を変えることすらなく落ちていく。
これがグレイズだ。
同時に、私の頬を襲うのは少しだけ冷たい感触。
「まだまだあああああっ!!」
2HIT、3HIT、4、5,6,7……ええい、数えるのが面倒くさいわ!!
降り注ぐ雪の弾幕に、私はこれでもかってくらいグレイズしていく。
私の体温が、少しずつ下がっていく。
気持ちが楽になって、頭が冴えていく。
こうなったら、もう誰も私を止められない。
縦横無尽に飛び回り、全ての弾幕に次々とグレイズし続けて―――
「―――スペルカード、ブレイクね!!」
今度は、私は高らかに宣言した。
悲しい取得宣言とか言ったけど、前言撤回。
こんなにも清々しいスペル取得宣言ができるだなんて、思ってもみなかったわ。
ありがとうチルノ、あんたは最高の妖精ね。
お礼に、一瞬で勝負を終わらせる本当の弾幕ってのを、私が見せてあげるわ!!
「ちょっ、ちょっと待ってください! 貴方けっこう当たってたじゃないですか!?」
「知らないの? 今のは、グレイズっていう特殊ルールなのよ。 あえて掠るように避けることで高評価が得られんのよ」
「そんな、また後付けみたいな!? ほら、チルノちゃんからも何か…」
「すげえ!!」
「え?」
だけど、欲望にまみれた私の濁った目や大妖精の真剣な目とは対照に、チルノの目はキラキラと輝いていた。
「やるなお前! なんか……すごく、カッコよかった!!」
「え? あ、ああ、ありがとう。 じゃあ次は私が弾幕を…」
「いいんだ! 今回はあたいの負けだ」
「え!? チルノちゃん!?」
え、それでいいの? じゃあ、私の勝ちってことね!!
……でも、何だろう、この気持ち。
目的を果たして、スペルも半数以上を取得して。
勝負に勝ったはずなのに、なんか人間としてすごく負けたような気分なんだけど。
「だから、あたいにもそのカッコいい飛び方教えて!!」
……ああ。
そっか、やっとわかった。
この子はバカなんじゃない。
ただ飽きれるくらいに自分に正直で、なにより純粋なんだ。
「……わかったよ。 チルノちゃんがそれでいいのなら、今回はそうしようか」
「うん! だけど、次は絶対負けないからね!!」
どうしよう、なんかこの無邪気な笑顔が、一周回ってすごくかわいく見えてきた。
ぎゅっとしてあげたい衝動に駆られてきたわ、ひんやりしてそうとかそういうの抜きにして。
もう、この異変が終わったらウチで飼っていいかしら。
私みたいな生意気なクソガキさえ可愛がってくれる母さんなら、相談してみれば何とかなる気がするしね。
「コホン。 それじゃ、約束通り今日は私に付き合ってもらうからね」
「わかった! あたい、頑、張る……あれ?」
だけど次の瞬間、チルノは倒れ込んでいた。
とっさに大妖精に抱えられて、それでもうまく立つことができていない。
「チルノちゃん!?」
「あれ? なんで、あたい、力が…」
「あ……」
そこで、私はやっと気付いた。
頭が冷えたからってのもあるけど、どうして今まで気付かなかったのか。
そもそもチルノは、暑さと紅い霧のせいで弱ってここまで逃げてきていたのだ。
あの時点でかなり弱っていたのに、そんな状態で弾幕ごっこなんてすれば、どうなるかは誰でもわかるはずなのに。
なのに、私は無理矢理チルノに勝負を仕掛けた。
自分勝手に保冷剤扱いして、チルノのことなんて何も考えていなかった。
……最低だ、私。
種族を超えて誰とでも共存していける幻想郷にしたいって、そのために博麗の巫女になろうって決めたはずなのに。
なのに私はチルノを、妖精を道具みたいにしか扱ってなかった。
結局のところ、私は口だけ達者で何の覚悟もできてなかったんだんだ。
「……ごめんチルノ、やっぱりさっきの約束は取り消し」
「え?」
「今日は涼しい所を探してゆっくり休むこと。 それと、約束通り私の飛び方も教えてあげるから、明日の朝、博麗神社に来なさい」
「明日って……そんなの、今のチルノちゃんの様子じゃ、とても…」
「大丈夫よ」
大妖精も、心なしか口調が沈んでいる。
それはそうだろう、この子が優しい子だってのは、見てればわかる。
きっと、ただチルノを心配してるだけじゃない、ひどい罪悪感に襲われているんだろう。
チルノに助言して、必要以上に力を使わせてしまったのではないかと。
私が悪いのに、きっとこの子は自分のせいでチルノが弱っていると、そんな自己嫌悪に陥ってるんだろう。
だから、助けが必要なはずなんだ。
この状況をどうにかできる、そんな救世主がいなきゃいけないんだ。
「心配しなくても、明日の朝までには私がこの霧を晴らしてやるわよ」
「え?」
「だって、私は幻想郷の異変を解決する、博麗の巫女なんだから!!」
……そう。 博麗の巫女である私が解決しなきゃ、異変は終わらないのだ。
なのに、私は今まで異変から目を逸らしていた。
暑いからチルノを探そうとか、吸血鬼に勝てる訳ないとか、挙句の果てにはスペルカードルールだから仮に負けても死なないだなんて。
そんな、甘えたこと言ってんじゃないわよ!
私が立ち止まってるせいで、こんなに苦しんでる子たちがいるのよ、もう迷ってなんかいられる訳ないでしょ!!
「だから、私はもう行くわ。 チルノのこと、お願いね」
私は既に、遥か遠くを見ていた。
あの霧の濃いところ、吸血鬼のいる館へと気持ちを切り替え、私は大妖精の返答を聞くこともなく飛び立った。
もう、こんなことは終わらせる。
私に助けられる子たちがいる。 それを待っている人たちがいる。
きっと私はそのために戦っているんだと胸に刻み、一心不乱に前に進んだ。