霊夢と巫女の日常録   作:まこと13

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第23話 : 今一つ危機感が湧かない

 

 

 

「……何を、してるのよ」

 

 紫に頬を叩かれた母さんは、動かなかった。

 そもそも何が起こったのかすら理解していないようだった。

 ただ呆然と、立ち尽くすだけ。

 そんな母さんの胸倉に掴みかかった紫は、ギリギリと歯を食いしばった音を立てて、言った。

 

「確かに、私も悪いことをしたと思ってるわ。 貴方の怒りも、もっともだと思う。 でも!!」

 

 紫は、また母さんの頬を叩いた。

 無抵抗の母さんの頬を、何度も叩いた。

 だけど私には、母さんはその痛みすら感じていないように見えた。

 母さんは未だに悪い夢から覚めていないかのような、空虚な目に支配されていた。

 

「……違うでしょ、こんなの」

「……」

「貴方は、霊夢だけは守るって言ったじゃない! それが、どうしてこうなったのよ!?」

 

 本当に、紫は涙ぐんだ目で母さんの身体を何度もゆさぶっていく。

 ここまで激昂した紫を見たのも、私は初めてだった。

 やがて母さんを掴んでいた紫の手からは力が抜け、母さんの身体は静かにその場に崩れ落ちた。

 紫はただ物悲しい目で母さんを見ながら、その声もまた弱弱しかった。

 

「貴方が本当に霊夢を守るというのなら、私は別に遠くから見守るだけでもいい。 貴方の言うとおり、もう霊夢に近づいたりしないわ」

「……」

「でも、それなら貴方がちゃんとしなきゃダメじゃない」

 

 紫の声は、震えていた。

 でも、きっとその声は母さんに届いてはいないだろう。

 母さんの顔からは感情が抜け落ちてるようにすら見えた。

 そして、母さんはまるで紫の声が聞こえていないかのように、ゆっくりと私に目を向ける。

 

「……霊夢」

「何?」

「ごめん。 私は……最低だ」

「……」

「ごめんな、私は母親失格だよな。 ごめん、霊夢」

 

 母さんは、謝っていた。

 頭を下げる訳でもなく、何度も何度もただ「ごめん」と繰り返すだけだった。

 でも、静かに一筋の涙が零れたその瞳の色は、あまりに無機質で。

 その表情から見えるのは悲しみでも後悔でもない、まるで壊れてしまった人形のようだった。

 

「……違う」

 

 そうじゃないのに。

 私が聞きたかったのは、そんな言葉じゃない。

 母さんに、そんな顔で、そんなことを言わせるために頑張った訳じゃないのに。

 

「なんでよ。 嫌だよ、こんなの」

「……」

「私は、今のままでよかったのに。 母さんが、紫が藍が橙が、皆がいてくれればそれだけで十分だったのに」

「でも、私にもうそんな資格は…」

「そんなの、どうでもいい!!」

 

 母さんが、一体何を背負ってるのか。

 一体、何に負い目を感じているのか。

 今はそんなことなんて、本当にどうでもよかった。

 確かに私は、紫が来なければさっきの追撃でこの世から消えていてもおかしくはなかったのだろう。

 目の前に広がる凄惨な光景を冷静に見ると、震えが止まらなくなってくるのもまた事実だ。

 だけど、今大事なのはそんなことじゃない。

 そんなどうでもいいことのために、この時間を無駄にしたくはなかった。

 

「ねえ。 私、母さんの本気を正面から受け止めきったのよ? だったら、もっと悔しそうにしてよ!」

 

 今は、ちゃんと私のことを見てほしかった。

 

「私が初めて勝ったんだから、よくやったって誉めてよ」

 

 私の成長を、喜んでほしかった。

 

「勝負はもう終わったんだからさ……いつもみたいに、笑ってよ」

 

 ただ、今までの元気な母さんに、戻ってほしいだけだった。

 

 それでも、母さんの目の焦点はどこか虚空を切っていた。

 何も返事をしてくれずに、ただ沈黙だけが流れ続ける。

 気付くと、私の目からは涙が溢れていた。

 魔理沙と本気で話した時とは違う。

 風見幽香に泣かされた時とも違う。

 本当に、涙っていうのが悲しくて出てくるものなんだと、私は初めて知った。

 

「お取込み中、失礼」

 

「っ!!」

 

 だけど沈黙の中、それは突然聞こえてきた。

 紫だけは跳ね上がって身構えたけど、誰も声を出せなかった。

 神社内の空気が、明らかに重々しい。

 そこにいるには、あまりに異質すぎる雰囲気。

 後ろにいるのは確か、この前会った死神の小町。

 そして前に立っているのは、小柄ながらも紫や母さんとも違う、静かで厳格な覇気を纏った何か。

 会ったことはなかったけど、一目見ただけでわかった。

 

「あらあら、閻魔様じゃないですか。 ご機嫌麗しゅう」

 

 紫は態度をさっきまでと一変させて、取り繕った言葉を並べていた。

 まるで母さんを隠すかのように、いつものような態度で前に出る。

 

「そんなに畏まらなくても結構ですよ、八雲紫。 貴方はまだ、彼岸で説教の途中だったはずですが?」

「いやー、すみませんね。 私なら今すぐにでも戻って…」

「いえ、それは結構」

 

 閻魔が見ていたのは、会話をしていた紫ではなかった。

 

「今は、私の用があるのはそちらですから」

 

 こんな出来事の中でも虚ろな目をしたまま膝をついていた母さんを、ただ静かに見下ろしていた。

 そこで、私は思い出した。

 母さんが彼岸で閻魔に喧嘩を売って帰るという、前代未聞の大罪を犯したことを。

 小町の話では、私を捕えるように死神に指示が出ていたという。

 それはきっと私が目的ではなく、母さんの娘である私が目的だったのだと思う。

 多分、死神の手には負えない母さんを捕えるために、私を人質にでも使おうという話だったのだろう。

 そして、遂にはこんなところまで閻魔直々の登場。

 今の母さんには、それと戦う余力や逃げる気力なんてあるようには見えない。

 いや、それ以前に抗うつもりすら全く感じられない。

 このままでは、母さんがどうなるのかは明白だった。

 

「っ、紫! 母さんを逃がして…」

「……」

 

 返事は、なかった。

 閻魔から少しも目を逸らさずに向き合ったまま、紫は一歩も動かなかった。

 

「紫っ!!」

「無理よ」

「どうして!?」

「相性が悪すぎるのよ、私の能力と」

 

 相性が悪い? こんな時に何言ってるのよ!?

 紫の『境界を操る能力』を使えば、母さんを簡単にここから逃がせるはずでしょ。

 紫なら今の状況がヤバいことくらい分からない訳がないのに。

 なのに……

 

「この世界が曖昧な連続性の上に成り立つからこそ、私は万物に生じる境界を操れるわ。 でも、映姫の持つ『白黒はっきりつける能力』は曖昧性を否定する。 連続という概念を強制的に二元的な断続世界に決定できるの」

「……うん?」

「ああもう、簡単に言えば今まで0から1まで存在した世界の概念が、映姫の能力で0と1だけにされてるって言えばわかる?」

 

 ……あー、なるほど。 なんとなくだけど、言いたいことはわかったわ。

 0から1の間だと0.1と0.01の境界でも0.999と1の境界でも無限に創れるはずのものを、全て0と1の間という境界だけに統一することで紫が普遍的な境界以外に介入できなくしたってことね。

 今いる場所と行き先の場所との境界線が曖昧だからこそ境界同士を無理矢理同一化して空間を繋げられたけど、完全に分けられて単一化した境界ではその隙間の移動はできないと。

 要するに、紫の能力を単調化して弱体化させてくる、まさに天敵ってことね。

 

「……ちなみに、逃げずに戦った場合の勝算は?」

「能力が使えないなら、藍を呼ぶこともできないし勝てる訳ないじゃない」

「だよねー」

 

 いくら紫が妖怪の頂点だからといって、それはどうしようもないのだろう。

 閻魔とかは本当に、人間や妖怪とは格が違う種族なのだ。

 今や伝説上の存在となっている、妖怪の力を遥かに超えた鬼、その頂点にあたる鬼神と同格扱いされる化物だもんね。

 普段は幻想郷にいないけど、もしこちらに住んでいれば間違いなく幻想郷最強と呼ばれるに相応しい相手。

 紫が大人しく説教を受けていたのも、仕方ないことなのだろう。

 ……じゃあ、完全に詰んでるじゃないこれ。

 

「でも、一つだけ。 映姫には決定的な弱点があるわ」

「え?」

 

 それを、紫はヒソヒソ声で言った。

 見ればわかると言わんばかりに、そのまま前を見る。

 

「お喋りは、済みましたか?」

 

 厳かな声で響き渡ったそれは、まさに死の宣告。

 その目に宿った余裕と圧倒的ラスボス感は、私の身体を震え上がらせる。

 本当に、弱点なんてあるのかこれ。

 そう不安に思ってたけど、紫は困ったような顔で弱弱しい声をして、言った。

 

「いえ、その、閻魔様。 大変恐縮ですが、もう少しだけお待ちくださいませんか?」

「どのくらいですか」

「あと、もう1分くらい?」

「そうですか。 仕方ありませんね」

 

 ……え?

 あれ、えっと、ちょっと待って、それで待つの?

 閻魔はまっすぐ綺麗な姿勢で立ったまま、動かない。

 ……もしかして、ツッコミ待ち?

 ねぇ、ツッコミ待ちなの? これツッコミ待ちなの!?

 

「これで多分、このままきっかり1分待つはずよ、あの人」

 

 小声で紫にそう言われて、私は思わず二度見してしまった。

 ……マジか、本当にじっと待ってるよあの人。

 そういえば紫が能力の解説をしてる時も、遮りもせずに待っててくれたよね。

 最初に登場した時も、不意打ちせずに一言断ってから来た。

 天然……ってよりも、単純に度を過ぎて真面目ないい人なんじゃないかしら。

 頭の後ろで腕を組みながらそれを黙って聞いていた小町も、これには思わず苦笑いだ。

 ヤバいどうしよう、何か私の中の恐ろしい閻魔大王像が音を立てて崩れていく。

 私や橙ほどじゃないけど、母さんよりも小柄な体格のせいで、悔悟の棒を両手で持ちながら律儀に立って待ってる姿がお人形みたいでちょっと可愛く見えてきた。

 

「でも、実力は本物よ。 時間稼ぎはできても、まだピンチってことに変わりはないわ」

 

 ピンチ。

 でも、そんなこと言われても何か緊張感が一気に失せたのよね。

 癒され効果のせいか、こんな状況なのに頭が回らないというか、何というか。

 実際のところ紫が本気になれば何とかなるんじゃないのかとか、思ってきたりもしちゃって。

 そんなことを考えていた私の表情を見て、紫は少しだけ呆れ顔を向けた後、

 

「……もう、とにかく! 詳しい説明をしてる暇はないけど、映姫の狙いはこの子よ。 とりあえずもう時間がないから、霊夢はすぐこの子を連れて逃げて。 橙も一緒に!」

「は、はい紫様!」

「紫は?」

「私は足止めするけど……多分30秒はもたないと思うから、後は何とか頑張ってね」

 

 30秒って……うそーん。

 確かに紫は能力を全く使わなければ藍と互角くらいだったりするんだけど、一応九尾の妖狐って、聞いただけで誰もが恐れおののく最高位の大妖怪なのよ?

 それと同格以上の紫をたった30秒で倒す相手とか、本物の化物じゃない。

 それはもう、全力で逃げるしかないわね。

 思考停止しつつあった私の頭が、瞬時に覚醒した気がする。

 

「わかったわ。 行くわよ、橙!」

「うん、霊…」

 

「あー、ちょい待ち。 流石にそれはズルいんじゃないかねぇ」

「っ――!?」

 

 いつの間にか紫の前を素通りして、小町が私の首元に鎌をつきつけていた。

 ……マジでぇ? 初動の気配とか何もなかったんだけど。

 何なの、小町ってただのギャグ要員とかじゃなかったの?

 

「……小町。 まだ19秒ですよ、もう少し待ちなさい」

「はーい」

 

 そして、時間前に逃げようとした私を怒っている訳でもなく、小町にジト目を向けながらも約束通り微動だにせず立っている閻魔様。

 どうしよう、ピンチなのに何かこの律義さがかわいい。

 

「っ……!? 霊夢っ!!」

 

 いやいやいやいや、違う、そんなこと考えてる場合じゃないのに!

 いつの間にか目の前に回り込まれて命を握られたのに、私はおろか紫ですら全く反応できなかったのだ。

 小町が私より格上だってのは何となくわかってたけど、まさかこれほどだとは予想していなかった。

 という訳で結論。 小町がいる以上、逃げるの無理。

 ちょっと無謀だけど、ここでどっちか……まぁ、普通に考えて小町を人質にでもして時間を稼ぐのが最善だろう。

 ぶっちゃけ、それも可能かは微妙だ。

 まぁ、でも紫と2人がかりなら少しくらい可能性は…

 

「わかってるわ! 橙は母さんを連れて先に逃げ…」

 

「聞き分けの悪い子には、お説教が必要ですか?」

 

 あ……ダメだ。

 足が地に縫い付けられたかのように、全く動いてくれない。

 殺気とかで身が竦んだ訳じゃないんだけど、本能が無理って告げてる。

 風見幽香とは何だったのかと言ってしまえそうなほどの、実際に戦わなくてもわかる絶望的な力の差。

 どうやら、立ち向かうことも逃げることも、小細工を弄することすらできそうになかった。

 

 ……それなら、もう方法は一つしかない。

 本当は怖いけど、母さんを助けられる方法は、一つしか……

 

「霊夢っ!!」

 

 だけど、止められた。

 それを止めたのは、母さんだった。

 その強い声色は、母さんが正気に戻ったのかとも期待したけど、違った。

 母さんは、何か諦めたような目で橙の手を払う。

 多分、母さんは私が何をする気だったのかを悟って無理に声を出したのだろう。

 

「……霊夢を放してくれよ、小町。 私が大人しく捕まれば、それで解決なんだろ?」

「あっ、待って……」

 

 呼び止めようとする橙から離れて、母さんがフラフラの身体で歩いてくる。

 その目には、まだ光は宿ってなかった。

 多分、母さんは抗うつもりなんてないのだろう。

 このまま地獄に落とされるとしても、抵抗もなく受け入れてしまうのだろう。

 

 そんなのは、絶対に……

 

「ダメっ!!」

「あっ」

 

 私は小町に突きつけられた鎌を振り払って、閻魔の前に立ち塞がった。

 怖かったけど、耐えられなかったから。

 母さんがいない、つまらない日常を。

 母さんがいなくなった、寂しい博麗神社を。

 母さんがいなくなって、悲しむ紫たちの顔を。

 ほんの少し想像しただけで、私の心が張り裂けそうになるから。

 

「来ないでよ」

「待てっ、霊夢…」

 

 私にはもう、何も聞こえない。

 母さんが制止しようとする声すらも聞こえない。

 もう、誰が何と言おうと、今の私にできることは一つしかないのだ。

 この前ので、少しだけコツは掴んだから。

 またこの力で誰かを傷つけるのが怖くないと言えば嘘になる。

 だけど、それ以上に母さんを失うことの方が遥かに怖かったから。

 今はむしろ、邪神の力とやらの存在に感謝している。

 母さんを助けられるかもしれないたった一つの希望が今、私の中にあるのだから。

 だから、私は感情の昂りとともに身体の奥底から湧き出してくるその力に身を任せて―――

 

 

「母さんに、触るなあああああああっ!!」

 

 

 目の前が、真っ白に染まった。

 

 

 

 


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