時間というのは不思議なものだ。
楽しい時間はあっという間なのに、つまらない時間は永遠に感じる。
たった2,30メートルほどに見える、寺子屋の殺風景な廊下。
そんな距離は10秒もあれば渡り終わっているはずなのに、正直もう5分くらい歩いてるように感じる。
多分それは、私に憂鬱が入っているからだ。
「今日は8の段をやるぞー」という先生の言葉を聞くのが、あまりに苦痛だからだ。
……いや、私は別に掛け算ができないから嫌な訳じゃないのよ?
その気になれば二桁の掛け算だって暗算でできるのに、周りにいるアホ面たちと同じタイミングで「えーっと、はちしちごじゅうろく!!」とか口にするのが嫌なだけだ。
そんな憂鬱に苛まれる私を、変な金髪チビが出迎える。
「おっ、れいむ! 今日は来たか!」
やっと教室に着いたと思った矢先、また面倒なのに絡まれた。
もう、憂鬱ってよりも鬱だ。
もうやだ。 おうちかえりたい。
「ふっふっふ。 見てろよ、今日は私が勝つからな!」
「もうあんたの勝ちでいいわ、おめでとう」
「……っかあああああああ、またバカにして!!」
やたら私に絡んでくるこいつは、確か霧雨魔理沙とかいうお金持ちのお嬢様だ。
家の教育方針の差なのか、他の子供と比べて知能も運動能力も少しだけ高い。
例えば算数の時間だと、他の子供が4の段に四苦八苦している間に9の段まで終わって、周りに覚え方を教えてあげる社交性もあった。
そして、いじめっ子の上級生3人を相手に1人で喧嘩をして勝って来た時は完全にヒーロー扱いで、いつの間にかクラス内でもボス猿的なポジションになっていた。
まぁ、私は面倒だから目立たないようにはしてるけど、子供相手の喧嘩ならその気になれば10人や20人に囲まれたところで無傷で制圧できるだろうから、正直そんなに凄いことだとは思わない。
それでも、ちょっと前までこいつはずーっとクラスの皆から羨望の眼差しを受け続けてきた。
それが狂ったのは、この前のドッヂボールとかいう作業の時間。
いつものように他の子供のボールを避け、キャッチし、次々とボールを当てていったこいつは、またも周囲からの注目を一挙に浴び続けていた。
だけど、プロレスラーが腕相撲で普通の子供と腕自慢の子供どちらと勝負したところ大して差を感じないように、周りからヒーロー扱いされてるこいつの動きも、私から見たら他の子供とそんなに変わらなかった。
だから、私は普段は面倒だからほとんどボールに触らないけど、その時は眠くてあんまり長引くのも面倒だったし、とりあえず適当に至近距離からこいつにボールを当てることにしたのだ。
そしたら、辺りが突然シーンとなったのをよく覚えてる。
どうやら、私は力加減を少し間違えたらしい。
「ぅっ、ぅっ……」
「え?」
「うわあああああああああああん」
いつも子供たちを引っ張っていたこいつが、人目もはばからずに大声で泣き出してしまった時は流石に肝を冷やしたものだ。
一応私は勉強がちょっとできるだけの普通の子でいたつもりだったので、私がこいつにボールを当てられたのは偶然ってことで片付けられた。
だけど、ボールが当たったくらいで泣き出すような泣き虫として、それ以来こいつに羨望の眼差しが向くことは徐々になくなっていった。
いや、別に私は悪くないのよ?
確かに当たり所が悪ければ大人でも悶絶するような球は投げたけど、子供のちょっとした戯れよ?
それなのに、こいつはそれ以来やけに私に突っかかってくるようになったのだ。
「もういい、体育の時間楽しみにしてろよ!!」
「あー、はいはい」
私のその返事に少し不機嫌そうな顔を向けながら、そいつはやっと自分の席に戻っていった。
いやー、それにしても相変わらず時間って不思議ね。
たった3,4回のセリフ聞く間に10分くらい回想した気分だわ。
そして、やっと訪れる静かな時間!!
「みんな席に着けー。 授業始めるぞー!」
「はーい!!」
……は、2秒くらいしかなかった気がするなぁ。
先生の声に元気よく返事をしながら席に戻っていく子供たちをよそに、私は無言のままゲンナリした顔をしていた。
「よーし、じゃあ今日は8の段をやるぞー」
「えーっ!?」
はい、フラグ回収。
さーて、今日も眠らないように頑張るぞー。
頑張るぞー。
頑、張る…
が……ま……
◇
頭が、クラクラする。
授業も残り10分ってところまで耐えた私だったが、遂に耐えきれなくなって寝てしまった。
だってしょうがないじゃない? 8の段ばっかり何十回やるつもりよ!?
という本音を呼び出された職員室でつい漏らして開き直ってしまったばっかりに、先生からお叱りの頭突きを食らったのだ。
白状する。 この頭突きは、ヤバい。
低級妖怪の拳ですら何とか耐え切る私に、ここまでのダメージを残すなんて体罰ってレベルじゃない。
ちなみに低級妖怪の拳というのは、まともに食らえば平均的な人間の成人男性の半数近くが一撃で致命傷となるレベルだ。
この人は加減を間違えてもう何人か子供たちを殺してるんじゃないかと、私はけっこう本気で心配している。
「霊夢、もう一度だけ言う。 授業中に、居眠りはよくないぞ」
「……スミマセンデシタ」
私の目の前でため息をつくこの人は、上白沢慧音というウチのクラスの先生だ。
歴史の専門家らしいけど、教えるのは全部の教科を担当している。
いい先生だとは思うんだけど……歴史以外の授業はできない子に合わせる分ペースが遅いので、勉強ができる人からはあまり評判がよくないらしい。
かくいう私も、そう思う一人だ。
だから、せっかくの機会だし思い切って言ってみる。
流石に2回連続で頭突きをされるなんてことはないだろう。 普通の子供だったら間違いなく死ぬからね。
「だって、授業つまんないんだもん」
「ほーう。 言うなぁ、霊夢」
「掛け算が嫌だとまでは言わないけど、せめて次に進んでよ」
「……まぁ、霊夢は魔理沙と一緒で、できちゃうからつまんないんだろうな。 だけどな、霊夢」
先生は私に目線を合わせるようにかがんで言う。
その両手は、がっしりと私の肩を掴んでいた。
「寺子屋はな、勉強だけをしにくる場所じゃないんだ」
「……」
「勉強が得意な子も苦手な子も協力して、共に高め合い、友情を育み、そこから青春を得られる素晴らしい場所なんだ!!」
「……」
「って、ああすまない。 何を言ってるかわからないよな。 少し熱くなりすぎてしまった、許してくれ」
先生がキラキラした目で何か言っていたようだが、私は本当に何を言ってるかわからなかった。
両肩を掴まれたこの体勢は、忘れるはずもない、頭突きをくらう直前のポジションだったからだ。
いつ頭突きが飛んでくるのかとヒヤヒヤしている子供に、何を言ったところで響かないことがわからないのかこの人は。
そうこうしているうちにチャイムが鳴る。
「あっ、すまない。 せっかくの休み時間を説教に使い切ってしまったな」
「ううん、大丈夫。 好きだから」
「え!? そ、そうか。 あ、じゃあ霊夢、教室に行くぞ!」
先生は何か少し嬉しそうな顔をして、張り切って立ち上がりながらそう言う。
まぁ、私は休み時間に教室にいても変なのに絡まれるのが面倒だし、ぶっちゃけ大人しかいない職員室の雰囲気の方が静かで落ち着くから好きなのだ。
そして、その私の好きという言葉を自分に向けられたものだと思って照れる先生かわいい。
けっこう歳はいってるはずなのに初心な、先生のそういうところは私はけっこう好きだったりする。
さて、次は読み書きの授業。
それが終わったら週に一度のドッヂボール大会とかいうやつだ。
今回は早々に当たって、また普通の子に戻ろう。
そうすれば、きっとあいつももう私に付きまとったりはしなくなるだろうしね。