なまはげ、というものを知っているだろうか。
外の世界では有名な、悪い子を探して回るとされる山神の使いらしい。
架空の存在ではあるが、親が子供に「悪い子はなまはげに連れて行かれる」と教え、悪いことをしないよう躾をするためによく名前を出されるようだ。
そんな、なまはげにも似たような教えのある妖怪が、幻想郷にも存在する。
私が寺子屋に入って間もない頃に、先生が「命」についての授業で子供たちに教えたことだ。
自分の意志で動き回るものだけではない、動かない植物も生きているのだと。
だから、命ある花を大切にしなさい。
もしそれを粗末に扱ったら、風見幽香がお仕置きに来るぞという話だ。
だけど、ただの作り話に思えるその教えは、今なお子供のみならず幻想郷中で絶大な効果をもたらし続け、不良っぽい奴ですら花を粗末に扱うことはない。
なぜなら、それは実際にいるかわからないおとぎ話の存在ではなく、幻想郷では実在の大妖怪だからだ。
……そして、今私の目の前にいる妖怪が、風見幽香その本人である。
「あら、これは随分と可愛らしいお客さんね」
ただ、正直言うと私は少し拍子抜けしているところだ。
私はずっと、般若のような表情で威圧感満載の佇まいをした恐ろしい妖怪を想像していた。
だけどそこにいたのは、綺麗な花畑に囲まれながら優雅に佇む、日傘の下に微かに隠れた笑顔が似合う、優しそうなお姉さんだった。
「こ、こんにちは。 あの、お願いがあるんですけど」
だけど、それでも私は自分の背中を冷や汗が流れていくのを止められない。
紫の創った境界を抜けた一歩目、境界の不具合なのか、なぜか先生とはぐれてしまったからだ。
そして、先生を探してよそ見をしていた私が、全力で駆け抜けたのが花畑の真上だったからだ。
ちくしょう紫め、こんな時に適当な仕事しやがって。
この状況で先生がいないというのは、私は予想もしていなかった。
だけど、今の私には先生を探しに行く時間なんて残されていないから、先生がここにいないことは諦めるしかない。
それ以上に私が何を焦ってるかというと、今私の遥か後方には、紫が開いた境界に飲み込まれたり私に踏み荒らされたりしてメチャクチャになった花畑が広がっていることだ。
それを、魔理沙を助けるまで気付かれてはいけない。
ってよりも、むしろ気付かれた瞬間、魔理沙の前に私の人生が終わる。
「お願い? 何かしら」
「私の友達が、今にも死にそうなんです。 だから、それを助けられる薬が欲しくて…」
「薬って……別に私は薬剤師でも何でもないわよ」
「でも、幻想郷のあらゆる花を司ってるって聞いてます。 それこそ、万能薬の材料にもなる伝説上の薬草でも持ってるって…」
そう言った瞬間、背筋に寒気が走った。
笑顔は崩さないけど、微かにその目に敵意が混じったのを感じる。
「……持ってる訳じゃないわ、あの子たちを育ててるのよ。 材料だとか、そうやって物みたいに言うの、やめてくれない?」
「あ……ご、ごめんなさい!」
私は慌てて頭を下げる。
ヤバいヤバいヤバいヤバい、こいつを怒らせるのだけは絶対ダメなのに何言ってんだ私!
だけど、焦ってパニックに陥っている私の頭が優しく撫でられた。
「いい子ね。 そうやって、ちゃんと謝れるのは偉いわ。 ご褒美にいいこと教えてあげるから、ついて来なさい」
「え? あ、ありがとうございます!」
……あれ、それでいいの?
ちょっと難易度易しすぎるんじゃない? ドSはドSでもド親切とかそういう感じじゃん。 噂と全然違うんだけど。
でも、何だかよくわかんないけど、これで魔理沙を助けられる!
問答無用に痛めつけられるのではないかと思っていただけに、あまりにあっけなすぎてぶっちゃけ拍子抜けもいいとこだ。
やっぱり、私の日頃の行いがいいのかしらね。
「……ここで、いいかしら」
そして、私はそのまま林の奥の秘境へと案内された。
でも、私の目にはただの殺風景な荒れ地にしか見えない。
さっきまでいた山肌の花畑の方が、まだそれっぽい雰囲気だった。
まあ、フラワーマスター風見幽香なら、こんな場所にでも生命の息吹を見つけ出せるのだろう。
それでも、私は気になって聞いてしまう。
「あの、本当にこんなところに薬草があるんですか?」
「ええ。 確かに、上手くすればある程度の疾患を治せる力のある花なら、この近くにあるわよ」
そう言って、風見幽香は私の頭をポンと叩く。
……そして、優しい手つきだったそれが、私の頭を鷲掴みにするように変化して、
「例えば、貴方に踏み潰されて靴の裏に張り付いている、その子とかね」
「え……?」
あ、やっぱり気付いてました?
秘境に来たんじゃなくて、荒らしても問題のない場所に移動しただけなのね。
そうよねー、あれだけ派手に荒らしたんだもんねー、気付かない訳ないかー、あははははは。
……終わった。
さようなら、楽しかった日々。
懐かしの記憶が走馬灯のように駆け巡っていく。
あ、あれは初めて寺子屋に行った日の……
「ぃや”あああああああっ!?」
って、走馬灯見てる場合じゃない、これ本当にヤバい!
一応神社の屋根の上から頭から落下しても無傷でいられるレベルの結界を全力で張ったつもりだったけど、それを鶏の卵でも握ったかのように簡単に粉々にされた。
どんなレベルの握力よ!? って痛っ、マジで痛い痛、痛あああああああああっ!?
ちょっと本当にシャレにならないくらい死にそうな激痛が、現在進行形で私の頭を駆け巡ってる。
でも、結界が壊れたのに私の脳みそがトマトみたいに飛び散らないのは、そこをうまく加減しているからなのだろう。
花を粗末に扱ったからといって、風見幽香はそれだけで相手を殺したりはしない。
殺さないよううまく加減しつつ「痛み」で済むギリギリのラインで甚振り続けることで、花を見ただけで全身の震えが止まらなくなるほどのトラウマを植え付けるだけだ。
いや、むしろそっちの方がたちが悪いわよ! ドSとかいうレベルじゃないわよ!
実際、先生や紫が私を止めたのも、風見幽香を敵に回したせいで一生外に出られないのではないかと思うほどに心を壊された人や妖怪が数知れないからだ。
……だけど、それでも私は諦める訳にはいかない。
ここで私が倒れたら、魔理沙はどうなってしまうのか。
今こうしている間も、魔理沙のタイムリミットは刻一刻と迫っているのだろう。
「ぁああああっ! 宝具、『陰陽鬼神玉』っ!!」
「っ―――!?」
だから、私は激痛に耐えながら懐に入れていた陰陽玉を炸裂させた。
閃光弾のように光って視界を奪いつつ、弾け飛んで数メートル程度を切り刻んでいく媒体。
中堅どころの妖怪なら、これだけで相当な重傷を負わせられるはずの、私の切り札の一つ。
それを飛ばすと同時に僅かに緩んだ手から、私は慌てて逃げる。
「……へえ。 いい度胸ね、貴方」
だけど、その光で一瞬だけ風見幽香の目をくらました陰陽玉は、無情にも弾ける寸前に掴まれ、握りつぶされて粉々に砕け散っていた。
……さて、やってしまったよ。
これで、間違いなくあの風見幽香を怒らせてしまったのだろう。
「ごめんなさい! あの、私、必死で……」
「いいわ。 そんなに私と遊びたいのなら、貴方の勇気に免じて少しだけ相手してあげる」
「え?」
「ルールは簡単よ。 これから先、もし私に一撃でも入れられれば、貴方の言うことを聞いてあげるわ」
「ほ、本当ですか!?」
あれ? 何か知らないけど、なんというたなぼた。
いやー、人生何が起こるかわかんないね、ラッキーラッキー。
とか半分投げやりに現実逃避してたけど、私に向けられている視線は確かに変化して、
「でも、もう手加減なんてしてあげない」
周囲の空気が変わった気がした。
辺りを覆い尽くすのは、呼吸すらまともにできなくなるほどの圧倒的な妖力。
どうしよう。 これはかなり怒ってらっしゃる。
表情は微笑を浮かべたままだけど、肌から感じられる殺気みたいなものは、怒り狂った野生妖怪なんかとはまるで比較にならない。
普通ならここで諦めて、スライディング土下座でも決め込んで半殺しくらいで済ましてもらうべきなのだろう。
だけど、何度も言うようだが、ここで私が逃げる訳にはいかないのだ。
思い出せ。 昔、紫に聞いていたことを。
――幽香? ああ、あの子のことね。
私は以前、興味本位で一度だけ紫に聞いたことがある。
それは、とある書籍を見てふと疑問に思ったことだった。
紫は、あらゆる妖怪の頂点に位置する妖怪だという。
それなら、その紫を差し置いて、なぜ風見幽香が最強の妖怪と呼ばれているのか。
――そうね……単純な強さなら、多分私より上よ。
それを聞いた時は、信じられなかった。
紫以上の妖怪が存在するということ自体が、私には想像もつかなかった。
――でも、何の制約もなしに本気で殺し合えば、9割方私が勝つわ。
だけど、その後に紫が続けたそれは、私を混乱させた。
その矛盾を、あの時の私は理解できなかった。
――強い相手と勝てない相手はまた別物よ。 幽香は単純だし、悪ぶってみても根っこの部分までは非情になりきれない優しい子だからね。 そういう相手に勝つにはどうすればいいのか、頭を使えばいいのよ。
紫や藍のように、長年積み続けた経験を活かして冷静に戦況を支配できる達人的な妖怪とは対照に、風見幽香はその時その時の戦いの空気とでもいうものを感じとって柔軟に動く、いわゆる天才肌の妖怪だそうだ。
戦いの権化とでもいうべき相手だけど、だからこそ達人とは違って付け入る隙やムラもあるという。
……本当か、それ。 けっこう疑ってたけど、ぶっちゃけ本当にこの妖力は紫以上よ。 前に立っただけでこんなに足が震えるのなんて初めての経験だもの。
でも、迷ってるような場合じゃない。
今こうしている間にも魔理沙の命が削られているのだから。
倒す必要なんてない、たった一撃入れるだけでいい。
覚悟を決めて、短期決戦で終わらせる!!
そして、私にとって初めての命懸けの実戦が始まった。