第1話 : あの頃のわたし
あの頃の私は、いつも俯いたまま歩いていた。
周囲の声に耳を傾けないよう、無心で歩いていた。
「ねえお母さん、今日の晩ごはんはなにー?」
「ふふふ、秘密よ」
「えー、教えてよケチー」
ちょっと目線を上げれば広がっている、そんな光景が私には眩しすぎたからだ。
母親に手を引かれながら頬を膨らましていた、あの頃の私と同い歳くらいの子供が、ただただ羨ましかったからだ。
あの子にはきっと、これから温かいお家で温かいご飯が待っている。
母親が子供と繋いでいない方の手一杯に持った荷物は、寺子屋のテストでいい点を取ったあの子へのご褒美が詰まっているのだろう。
これからあの子を待っているのは、疑うこともない、ただ幸せな時間だけなのだろう。
「……どうせ自分一人じゃ何もできないくせに」
その時の私は、確かそんなことをボソッと口にしていたと思う。
あんなアホ面の子供がいい点を取れたテストなんて、私だったら簡単に満点をとれるだろうからだ。
それだけじゃない。私はもっと冷静に物事を考えられたし、自分で食料を狩ることだってできたし、空を飛ぶことだって妖怪に勝つことだってできた。
それでも、自分を褒めてくれる、自分と手を繋いでくれる温かい手なんてものは、私には存在しなかった。
だから、多分私はちょっと見栄を張ろうとしたんだと思う。
他の誰にもできないことをやってみせれば、誰かが私を褒めてくれると本気で思っていた。
まともに読み書きができる子すら少ないような年齢でありながらも、大人でもできないことを顔色一つ変えずにやってのける気味の悪い子供だからこそ誰も手を取ってくれないということに、私は気付かなかったのだ。
生意気でぶっきらぼうなくせに、そんな時だけ頭がお花畑だったあの頃の私を思い出すと、ちょっぴり恥ずかしくなる。
だけど、私は少しだけ、昔の私に感謝している。
もしその時の私があんな気を起こさなければ、何も始まることはなかった。
あの人たちに出会うこともなく、ただ孤独に一生を終えていくだけだった。
少なくとも、今の私は存在しなかった。
これから話すのは、その頃の話。
私の人生が変わった、とある日々のお話――
◆
今日の天気は、久々の快晴。
川のせせらぎが心地よいメロディを奏でる、絶好の日向ぼっこ日和!
私にとっての、至福のひと時。
……だったはずの時間を妨げる人なんて、私は一人しか知らない。
「霊夢っ! 霊夢はどこだっ!!」
ドシンドシンと神社の床板を踏み抜かんばかりに大袈裟に足踏みをしながら声が近づいてくる。
わざわざ身体を起こすのも面倒だったので、私は廊下に寝転がって頬杖をついたままそれに答える。
「うるさいわよ。そろそろ風情ってものを理解したら?」
「って! まーたそんな格好でダラダラして、たまには子供らしくしなさい!」
「グチグチグチグチと、あんたは私のお母さんか」
「いや、お母さんだよ!?」
教えてはくれないけど、見た感じ年齢は20歳弱くらい。
巫女服という神に仕える神聖な服を着ているはずなのに、足首のあたりまで届きそうなほど長い髪は、それに似つかわしくない茶髪をしている。
別に生まれつき茶髪という訳でもなく、いわゆる「おしゃれ」のために最近になって染めたのだそうだ。
巫女のくせにそんなのでいいのかと聞いても、「別に私は気にしないし」とか神を神とも思っていないような自分勝手なことを言い始める始末。
わがままで、ぶっちゃけ私より精神年齢の低そうに見えるこの人は……一応、私の母さんということになっている。
私の歳の割に若すぎるっていうのは、お察しの通り血の繋がった親子って訳ではないからだ。
「まぁ、とりあえず冗談はおいとくとして、何か用?」
「あ、よかった冗談か……って、そんなことより霊夢! 慧音……先生から、聞いたぞ。あんたまた最近寺子屋サボってるんだって?」
普段名前で呼び慣れてるってのなら、無理して私に合わせずにそう呼べばいいのになーとはいつも思う。
友達少ない母さんの、貴重な話し相手なんだから。
「だって、寺子屋つまんないんだもの」
「つまんないって……」
読み書きの練習に簡単な計算問題、それとちょっとした体育。
これだけ流暢に話せる私にとって読み書きの練習がどれだけつまらないかなんて、説明するまでもない。
知らない子供に混じって、しちいちがしち、しちにじゅうしと声を揃えて言う算数の時間なんて、正直バカらしくなってくる。
それに、体育の時間にしたってそうだ。
無防備に飛び跳ねてる子供の死角からボールを投げて当てていくだけの、ドッヂボールなんていう作業の何が面白いのか私にはわからない。
「だからね、私はこうやって日光を浴びながら精神統一して、有意義に時間を使ってるの」
「……あのな霊夢、子供は勉強するのが仕事なんだぞ? 働かざる者食うべからず! ってね」
「でも、どうせ母さんだって本当は寺子屋の勉強なんてまともにやってこなかったんでしょ?」
「ぅ……」
それを言った途端、母さんは次の言葉に窮する。
しばらく前、私が寺子屋に行かないことを怒る母さんに2桁の掛け算を出してみたら、たった10本の指をしばらく曲げたり広げたりした挙句、私の目の前だというのに突然泣き崩れてしまったことがある。
次の日まで口を開かなくなってしまって正直言うと面倒くさかったから、それ以来母さんに勉強のことを聞いたことはない。
「だけどよそはよそ、うちはうち! 霊夢は立派な大人になるんだから」
「母さんのことだし、よそのことじゃないでしょ……あ、じゃあさ、母さん! うちはうちの霊力の使い方、私に教えてよ!」
「……あー、それはまだ霊夢には早いかな」
「えー、ケチー」
母さんは人間なのに「霊力」という特殊な力を使える。
私も一応使えることは使えるけど、母さんのようにうまくは使えない。
というよりも、母さんは私が霊力を使うことをそもそも禁止してくるのだ。
……まぁ、内緒で時々使ってるけどね。
こんなことを言うのも何だけど、多分それが母さんの唯一の取り柄だから私に追いつかれたくなくて出し惜しみしてるんじゃないかとも思う。
「もう、とにかく!! 明日からはちゃんと寺子屋行ってもらうからな」
そして、母さんは結局私に有無を言わさず寺子屋という退屈な場所へ追いやろうとしてくる。
だけど、それを黙って聞く私じゃない。
「あれ? 母さん、そういう時はどうするんだっけ?」
私はゆっくりと立ち上がって、少しにやけるようにそう言った。
「……そうだな。『いつもの』、やる?」
我が家には、最近できたルールがある。
私が言うことを聞かない時や母さんが頑なになっている時に、とあるゲームをする。
そして、そのゲームの敗者が勝者の言うことを聞くというルールだ。
そのゲームのやり方は簡単。ある程度の距離を置いて向かい合い、そこから母さんが撃ってきた霊力の弾を全部避けきれたら私の勝ちだ。
元はといえば、だいぶ前に一度言うことを聞かずに空を飛んで逃げた私を、母さんが固めた霊力の弾で撃ち落としたことからこのゲームは始まった。
霊力の弾はまともに食らうとめっちゃ痛い上、運が悪ければ気絶したまま地面に落ちた衝撃で死ぬので、私としてはもう真正面から逃げて撃ち落とされたくはない。
かといって無条件で私が降伏するのも不公平な気がするので、母さんが威力を弱めた弾を撃って、もし私が一定時間それを避けられたら擬似的に逃げ切れたことにするという取り決めになったのだ。
「だけど、霊夢も懲りないな。せっかく勉強はできるんだから、そろそろ学習したら?」
「大丈夫よ。今日こそは私が勝つから!」
私の答えを聞きながら、多分母さんは今「勝った」と思って内心ニンマリと笑っていると思う。
このゲームで私は母さんに勝ったことがないのだ。
その原因には、母さんがその身体に霊力を纏って動いていることによる、根本的な身体能力の差がある。
つまりこれは、霊力の使用が禁止されている私にはほぼ勝ち目のない出来レースなのだ。
だけど、そんな勝負の中でも私には狙いがあった。
母さんの霊力の使い方を観察することだ。
実は私は、今はまだこのゲームで勝つ気なんてなく、出し惜しみする母さんの技を盗むために挑んでいる。
いつかその技を盗んでここぞという場面で突然霊力を使いこなして母さんを負かすために、わざと何度もわがままを言って勝負の回数を増やしているのはまだ内緒だ。
そうとは知らずに、私の言葉をバカ正直に受け止めて一人で張り切っている母さんを眺めるのも割と和むしね。
「準備はいいか、霊夢?」
「いいわよ」
境内に降り立った私が母さんから離れた位置に立つと、母さんはその右手を振り上げた。
その手から解放された霊力が、光の弾となって空中に漂う。
お互いに、準備はできた。
このゲームのスタートを宣言する時の掛け声も決まっている。
母さんのテンションが上がるらしいので、博麗の巫女に代々受け継がれる必殺技の名を叫ぶのだ。
私があらゆる方角に対応できるよう構えると同時に、母さんが大きく息を吸って宣言する。
「じゃあいくぞっ、霊符『夢想封印』!!」
そして、宙を舞った数多の弾が色鮮やかに視界を覆っていった。