血しぶきがあがる。
たったいま眼前で父が首を切り落とされた。
「エンリ!ネム!逃げッ……!」
母の叫びが途切れた。
背後から胸を一突きされて、もうそれっきり動かない。
「おねがい、にげて」
体に剣を埋め込まれた姉が殴打され原型を残さない程に腫れ上がった血泡まみれの顔で言う。
無残な姉の亡骸は蹴り倒され地面へと力なく倒れこんだ。
次は自分の番だとわかった。
だから走って逃げようとしたのに、もどかしいことに体が羽毛のように軽く足の裏が大地を蹴ることが出来ない。
後ろからは鎧の音が残酷なほど足早に近づいてくる。
逃げなくては。
焦る心そのままに足をバタつかせるもなんの効果もない。
足音はついに背後に迫った。
二つ結びにした髪の一方が無造作に掴まれる。
髪を引っ張られる痛みと共に体が後ろへと倒れていく。
もうダメだ。ここで死んでしまうんだ。
ぼんやりとした不明瞭な意識でネムがそう思った時、場違いなほどに現実的な何かが体を通り抜けていった。
ネムには黒い色つきの突風としか表現できない何かが吹き荒れ、周囲の景色の何もかもをかき消していく。
世界は瞬く間に削り取られ、やがてネムは真っ暗な空間にたった一人漂っていた。
ぬかるんだ畑の土のようにドロドロとした感覚がネムの全身を覆いつくしている。
ネムの短い人生の中でこれほどまでに粘着質な物体に触れた経験はない。
理解しがたい不快感と不安がネムの肌を泡立たせた。
一昨日までのネムならとっくに泣き喚いていただろう。
しかし今のネムは泣かない。動じない。
理解の及ばない現象に巻き込まれ、それでも平常心を保っているのは何故か?
なぜならば今感じているものよりももっと恐ろしく狂気的でおぞましいモノをすでに体験しているから。
理由に思い当たった時、ネムは全身を包み込む周囲の闇に即視感を覚えた。
そうだ、自分はこの闇から感じる気配を知っている。
「もう大丈夫だネム。怖いものは何処にもない」
突然聞こえてきた声。
それは空間を占める闇自体が言葉を発しているかのようだった。
奇妙に響くその声にネムは驚きと歓喜の滲み出た声で答えた。
「名も無き神様だ!」
「……?あ、あー……うん、そうそう名も無き神様だよー」
その微妙な間はなんだったのだろうか?
一瞬疑問に思ったがネムは気にしない事にした。
今は命の恩人である神様と話をする方が重要なのだから。
「今日は助けてくれてありがとうございました!」
「……いや、昼間お礼言われたからもう十分だから。そんなに気にしなくていいからね?」
言葉の割には神の声は嬉しそうだった。
それがネムには嬉しかった。自分の気持ちを神様が受け取ってくれたような気がしたのだ。
口調が今までとは違ってまるで村の大人達のように穏やかで優しいのもネムを大きく喜ばせた。
「えへへへ」
「なんか思っていたより元気そうだね」
「はい!元気です!」
「そうかー。ネムはえらいなぁ」
粘着質な闇がドロリと動き出す。
何か硬質なモノに頭を撫でられる感覚に、ネムは総身を泡立たせた。
頭から浸透してくる名状しがたい何かがネムの胸をきつく締め付ける。
しかしネムには分かっていた。
これは自分を救ってくれた神が手ずから頭を撫でてくれているのだ。
感じる感覚とは裏腹にとても繊細で優しい手つきに、ネムは今はなき両親を思い出し少し泣きそうになった。
「ネムはいい子だね。ネムが元気にしていたら、きっとエンリも喜ぶよ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。エンリも心の中では辛いだろうからね。ネムが元気を分けてあげるんだ」
「……うん」
「でも無理をしちゃいけない。どうしても元気が出ないときは頑張ることは無いんだ。その時はきっと、周りの人が元気をわけてくれるから」
俺だって、気付く事が出来たらネムを力になってあげるから。
そう続く神の言葉にネムは顔を輝かせた。
「本当ですか!?ほんとにほんと!?」
「本当に本当だよ。指きりしてもいい」
「指きり?」
「ん?あぁ、この世界には指きりないのか。そりゃそうだ、えっと、指きりっていうのはね……」
説明を聞けば約束する時の儀式らしい。
約束を違えると針を千本飲ませるという非常に苛烈な制裁が行われるとの事。
唐突に発生した重大な契約に思わず身がすくむネムだったが、約束の内容自体は大したことはない。
自分でも守れる約束だ。
そう判断したネムは教えられたとおり小指を差し出した。
その小指に眼には見えない何かが絡みついた。
「「ゆーびきりげんまんうーそついたらはーりせんぼんのーます!ゆびきった!」」
――うんうん。それじゃあ俺はもう行くね。がんばれよー。
契約を交わしたあと、神の声は周囲の闇と共に遠ざかっていく。
徐々に明るさを取り戻していく周囲を眺めながら、ネムは意識が浮上していくの感じた。
「う、ううん?」
ぼんやりと眼を開いたネムの視界に飛び込んできたのはまたもや闇。
しかし先ほどまでの不思議な感覚はなく、どこか慣れ親しんだ心落ち着く闇だった。
隣には姉であるエンリが寝息を立てている。
「夢?」
しかし夢にしてはあまりにも感覚が鮮明すぎた。
いつもは掌から零れ落ちる砂のように失われていく夢の内容もしっかり自分の中に残っている。
ネムは仰向けになり右手を掲げた。
闇の中に薄っすらと浮かび上がる、夢の中で神との契約に使った右手。
神は言った。
自分の元気が姉を元気付けると。
いまやネムに残った肉親は姉であるエンリだけ。
身を挺して自分を守ろうとしてくれた優しくて強い大好きな姉だ。
自分が元気を振りまくだけで姉の力になれるなら……。
ネムは暗闇の中でにっこりと笑みを浮かべた。
朝になったら元気一杯姉のお手伝いをしよう。
ネムはそう決心して掲げた右手を力強く握り締めた。
……そして右手から緑色に発光する怪光線が発射され、天井の梁を焦がした。
「うぅん……もう朝……?」
隣から聞こえたはずの姉の声が、どこか遠くから聞こえたような気がした。
◆◆◆
「うむ。いいことをした後は気分がいい」
クーゲルシュライバーはいまや蜘蛛の巣だらけになった寝室で首にかかったエンジェルハイロウを外した。
このマジックアイテムによるテレパシーは完璧であり、クーゲルシュライバーのしたかったことは全て達成する事ができた。
思っていたよりネムは落ち込んでいなかったが、嬉しそうに自分と会話する彼女の姿にクーゲルシュライバーは一定の手ごたえを感じ満足していた。
「夢の内容まで読み取れるなんて、テレパシーって便利だな」
ネムの容姿を思い出す。
茶色の髪を二つ結びにした愛嬌のある顔立ちの童女である。
個人的には折角伸ばした髪なのだから二つ結びになどせずにセミロングのままにしておけば良いと思う。
自分勝手な不満はあるものの、クーゲルシュライバーはそんな姿かたちのネムに我が事ながら奇妙に思うほど入れ込んでいた。
いくら初めてであった現地人であり、約束を交わした仲であったとしても些かサービスが過ぎる。
その理由を見出そうと試みるが、クーゲルシュライバーはたった5秒で断念した。
直感的にその答えにたどり着いてはいけないと感じたのだ。
「ちくしょうめ……」
誰に向けたわけでもない罵倒を吐き捨てクーゲルシュライバーは今後の予定を確認する。
モモンガから日が昇ったころに陽光聖典の尋問を行うので一緒に来て欲しいと誘われていた。
現在陽光聖典の生き残り達は第二階層にあるシャルティアの自室前に横たわる底の見えない亀裂の中にいる。
クーゲルシュライバーはそこを守護する領域守護者の存在を思い盛大に舌打ちをした。
「超行きたくねぇ……!」
ミュルアニス。
亀裂の中に配置されたアンデッドの群れの更に下に設置された邪悪の架け橋《イビルウェブ・ブリッジ》の領域守護者であり、クーゲルシュライバーが作り上げたNPCの一体である。
尋常ではない執念とこだわりを詰め込んで作り上げたNPCではあるが、その存在は創造主であるクーゲルシュライバーにとって猛毒に他ならない。
端的に言ってしまえば、ミュルアニスはクーゲルシュライバーの黒歴史なのである。
彼自身中学生の頃に患った、俺の右腕に封じられし悪魔が云々という黒歴史を遥かに超越した黒歴史中の黒歴史なのだ。
「あぁぁぁぁぁ……なんであんなの作っちゃったんだ俺ぇ……」
天蓋付きベッドの上でクーゲルシュライバーは腹を上に向けて痙攣した。人間状の上半身が本体である蜘蛛の巨体に押しつぶされている。
しかしそんな事は意にも留めずクーゲルシュライバーは苦悩する。
クーゲルシュライバーにとってミュルアニスとはモモンガにとってのパンドラズ・アクター……どころの話ではなかった。
クーゲルシュライバーは未だにパンドラズ・アクターの事をモモンガが言うような黒歴史ではないと思っている。
しかし風呂場にて創造主自らに彼が如何に度し難く苦痛を与える存在なのか、懇切丁寧に語られたからにはクーゲルシュライバーとしてもその主張を呑むほかない。
何をもって黒歴史と感じるのかは人それぞれだからだ。
ただそれでも、それぞれの黒歴史がもたらす苦痛には差が存在するのだ。
もしも黒歴史発表会なる地獄の宴が存在したとして、そこでモモンガと問題のNPCを紹介し合ったならば自分の方がより審査員に苦しみを味わわせる事が出来るとクーゲルシュライバーは断言できる。
「モモンガさんのはまだ笑い話になるじゃんか……俺のは笑い話にもならねぇよ……」
もう黒歴史というか、狂気の産物とでも呼んだ方がしっくりくる。
なんにせよ、ミュルアニスと会うことだけは絶対にできない。
尋問にミュルアニスを参加させる事を提案したのはクーゲルシュライバーだったが、彼自身は絶対不参加を心に誓っていた。
「なんか別の予定いれよ……」
そういえば陽光聖典戦後にアルベドと交わした約束があった。
あれをねじ込んで参加を拒否しよう。
クーゲルシュライバーはそれだけ決めると意識のスイッチを切るかのように眠りに落ちていった。
◆◆◆
ナザリック地下大墳墓第九階層に存在する従業員食堂。
朝のこの時間は一日の仕事前に食事を取るホムンクルスである一般メイド達で賑わっているはずの場所はいま、耳が痛くなるほどの静寂の只中にあった。
人が居ない訳ではない。
何時ものように一般メイド達がグループを作って席に座っており、そんな彼女達の前には食欲を刺激する山盛りの朝食が並べられている。
にも拘らず会話も食器を扱う際に発せられる音が一切しないのには理由があった。
それは――
「……エントマ。もう一度聞くけど、その、あなたが持っているそれは、なんですって?」
プレアデスの副長であるユリ・アルファと並んで冷静沈着、出来る女の見本のように一般メイドから評価されているソリュシャン・イプシロンが極めて冷静な口調で問うた。
一般メイド達や男性使用人達が固唾を呑んで声の発せられた先、つまりナーベラルを除くプレアデス5人が座るテーブルに意識を集中させる。
この時間帯にプレアデスが従業員用食堂に集合することはとても珍しいことだ。
一般メイドからアイドルの如く慕われている彼女達がいるとなれば、自然多くの耳目を集める事になる。
だが今日のそれは常のものとはその真剣さと緊張感をまったく異にしていた。
重苦しい沈黙が場に降りる。
「んー。これはねぇ」
ソリュシャンに問いかけられて多くの視線をその身に受けるエントマは手にした白い包みをくるくると優しい手つきで回転させて言った。
「クーゲルシュライバー様に授かった、私の赤ちゃん」
――きゃああああああああああああ!?
「え、ちょっ、あなた達!声を控えなさい!」
背後で爆発した黄色い歓声とも悲鳴ともつかぬ叫びにユリが慌てて立ち上がり注意するが、その程度で興奮仕切った年頃のメイド達を押し留めることなどできなかった。
いつのまにか大挙して詰め寄ってきていたメイドの大群に囲まれユリは顔を引きつらせた。
「い、いつなの!?いつ授かったの!?」
「昨日ぅ」
「「「昨日!?」」」
昨日、寵愛を、授かってもう産まれたというのか?
一般メイド達のテンションがさらに上昇する。
「ねぇねぇあのさ、それで……どうだったの?」
「どう……ってぇ?」
「だぁからぁ!その……クーゲルシュライバー様よ!や、やっぱりすごかった?」
「……実はぁ、あんまり覚えてないのぉ。色々な事があって何が何だかさっぱりぃ」
「「「きゃああああああああああ!!」」」
前後不覚に陥るほどだったのか!
どうやら相当に熱く濃厚な夜だったらしい。
具体的なことは全く分からないというのに、アイドルであるプレアデスの一人と至高の御方による夜の情事という情報だけで一般メイド達の想像は膨張を続けあらぬ方向へと飛躍する。
ついには一般メイドの中から気絶するものまで出始めた。
対するエントマは落ち着いたもので、卵嚢を一通り回転させると懐へとしまいこみ食事を再開している。
健啖家であるエントマだったが、今日は不思議とその食事の量と速度は控えめだった。
「っていうかエンちゃんズルいっス!なんで一人だけ至高の御方専用メイドになってるッスかぁ!」
「しかもご寵愛を受けた。御子まで授かってる。すごく特別扱い、ズルい」
鮮やかな赤色をしたお下げを振り回しながら人狼であるルプスレギナ・ベータが叫び、自動人形であるCZ2128・Δ……略称シズ・デルタがそれに追従する。
動と静、正反対な特徴を持つ彼女達の主張はここに居るメイド達全員の心情を代弁していた。
一般メイドの群れの向こうで一人コソコソと食事をしていたシクススがびくりと肩を跳ね上げた。
半ばクーゲルシュライバーの専用メイドとなっているシクススにとって、プレアデスの二人の言葉は自分にも向けられているように聞こえたのだ。
(き、気まずい……早く食べてクーゲルシュライバー様のお部屋に行こう……)
どうすれば至高の御方に気に入られるのか、エントマの業務は今後どうするべきか、メイド長とセバスに報告はしたのか、この事実をアルベドに伝えるべきか。
背後から聞こえてくる様々な話を受け流しつつ食事を終えたシクススは足早に食堂の出入り口へと向かう。
昨晩情事の後と思われるエントマを介抱している時から大事になりそうだとは感じていたけれど、その予感は間違いではなかった。
今はエントマを質問攻めにしている同僚達だが、情報を漁りきったらその矛先が自分に向くのは確実である。
三十六計逃げるに如かず。シクススは仕事へ逃げることにしたのだ。
しかし――
「この騒ぎは一体どういうことかしら?廊下まで漏れ聞こえているわよ」
開けようとした扉が勝手に開き、そこから現れた人物の姿を見てシクススは思った。
もっと大事になる。そして自分は逃げ遅れたのだ、と。
シクススはぞっとするような笑顔で話しかけてくるアルベドに対し深く頭を垂れた。
◆◆◆
「お待たせいたしました。守護者統括アルベド、御身の前に」
「よく来たなアルベド。まぁ楽にするがいい」
クーゲルシュライバーは日が昇ると同時にモモンガに陽光聖典への尋問不参加を伝えると、アルベドに鎧を装着した状態で部屋に来るよう命令していた。
果たして時間通りにクーゲルシュライバーの自室にやってきたアルベドはカルネ村で身に着けていた全身鎧《ヘルメス・トリスメギストス》を装備していなかった。
代わりに装備しているのは伝説級の魔法の武具である全身鎧だ。これはクーゲルシュライバーの私物である。
ヘルメス・トリスメギストスと比べればかなり劣る防具だ。
これからアルベドに付き合ってもらう実験に使うには丁度いいゴミアイテムだった。
「では、失礼致します」
そういって立ち上がるアルベドの首元をクーゲルシュライバーは凝視する。
主人への礼を示すために頭部全体を覆う兜は取り外され小脇に抱えられている。
そのお陰で完全装備だったなら見ることは叶わなかった喉元への刺突を防ぐ為に備え付けられた鉄板の奥には、アルベドの細く白い首が見えていた。
そしてアルベドの首を覆う白いドレスのネック部分も確認できた。
(鎧の下にいつものドレスを着ているのか?いや、この場合好都合だから下手に突っ込みをいれる事も無いか)
クーゲルシュライバーは定位置である巨大な蜘蛛の巣から降りるとアルベドの前に立った。
「これより昨日言っていた実験を行う。まぁ難しい事は何も無いし、時間も然程掛からん。アルベドは鎧を着てそこに立っているだけでいい」
「畏まりました。しかし、この場で行ってもよろしいのですか?」
「かまわん。多少周囲の家具が散らばるかも知れないが、たまにはメイド達の仕事を増やしてやったほうがいいだろうしな」
仕事こそが生きがいと豪語して憚らないのがナザリックのメイドである。
そんな生き方自分だったら絶対に御免だが、仕事イコール趣味な人間から仕事を取り上げるのはいかにも可哀想だろう。
適度に仕事を与えてやるのがよい上司……適当に思いついた言葉に従うとクーゲルシュライバーは両前肢を持ち上げた。
メイド、という言葉を出したとたんにアルベドの微笑が微かに引きつったように見えたが、気にするほどの事も無いだろう。
クーゲルシュライバーの両前肢の先端についた巨大な首切り鉈のような爪が魔法の光を反射して怪しく光る。
「では行くぞ」
「どうぞ、いかようにも」
返事を聞くとクーゲルシュライバーはゆっくりと二本の爪をアルベドの両肩へと近づける。
耐久力や攻撃力を調べる為のサンドバッグにでもされると思っていたのか、この遅さが予想外だったらしいアルベドは眼を丸くして自身に近づいてくる爪を見つめている。
アルベドが見せた意外な表情をこっそり観察しつつ、クーゲルシュライバーは二本の鉈状になった爪の腹で鎧の肩を優しく一回ずつ叩いた。
パァンッ!
風船が破裂するかのような音がクーゲルシュライバーの自室に響いたと思えば、続いて金属板が転がるけたたましい音があちらこちらから発生した。
前者の音はアルベドから発せられていた。
「んなっ……!?」
思わず驚愕の声を漏らしてしまったクーゲルシュライバーの眼前。
「まぁ!」
そこには妖艶な肢体を惜しみなく晒すアルベドの姿があった。
「し、下になんにも着てなかったのかお前!?」
「はい。ドレスを着ていては鎧を装備することはできませんわ。そして私が所蔵する衣類は普段着ているドレスと同じものだけなので」
あ、ショーツだけは履いております。
その言葉に無駄に広くなっている視界でアルベドの下半身を確認してしまったクーゲルシュライバーは自分の高性能な肉体を呪った。妖艶なアルベドらしかぬパステルカラーである。ふざけんなタブラさん、そこは紫とか黒だろ。なにそんな所でギャップ萌えだそうとしてんだよ、イメージ崩れたわちくしょうめ。
そんな不埒な事を考えるクーゲルシュライバーの前でアルベドのアルベドが震える。バインバインのポヨンポヨンである。
絶世の美女たる彼女のあられもない姿を前に、完全な蜘蛛に対してのみ激しい性欲を掻き立てられる体になってしまったクーゲルシュライバーであっても欲情を抑えることができなかった。
(でも体から沸き起こる感じじゃあないな。これはあれか、人間の心が反応しているだけなのかな)
精神作用無効化が発動し作り出された精神的な凪の中でクーゲルシュライバーは現実逃避に似た自己分析を行っていた。
しかしそれで事態が好転するわけもなし。
クーゲルシュライバーは自身の肉体に絡み付いてきた柔らかい感触に現実世界へと引き戻された。
「そういう事がお望みとあればこのアルベド、いつ何処であろうとお応えする準備ができております!しかもあのメイドには出来なかったようなあんなことからこんな事までオールOKばっちこいでございます!」
「ま、まてアルベド!早まるな!」
擬腕を伸ばして取り押さえようとするクーゲルシュライバーだったが、まるでポールダンスを踊るように4対ある肢を利用して避けるアルベドを捕らえる事ができない。
(な、なんという技量だ!素早さに特化したこの俺がいいように翻弄されるなどと!)
これがサキュバスの力かと戦慄するが、こんなアホな事をいつまでも続けるわけにはいかない。
なぜならばモモンガが陽光聖典の尋問が一段落つき次第この部屋にやって来る予定になっているからだ。
今はこの部屋にいないシクススには、モモンガが来たら一々確認せず中に通してもよいと伝えてしまっている。
流石にこんな短時間で尋問が終了するとは思えないが、それに甘えてこの状況を長引かせては取り返しのつかない事態に発展するだろう。
こうなればアルベドを傷つけまいと動かさなかった肢を一斉に振り回し彼女を振り払うもやむなしか?
クーゲルシュライバーがそう思った瞬間。
部屋の扉が断りもなしに開け放たれた。
「おはようクーゲルシュライバー。いやぁ参った実は捕虜に魔法が……ってなにしてるんだお前ら!?」
「ギャアアアアア!モモンガさん見ないでぇぇぇぇぇ!!」
「くふー!モモンガ様も来ましたわー!」
阿鼻叫喚である。
クーゲルシュライバーの予想を大きく裏切って訪問してきたモモンガは、眼前で繰り広げられる蜘蛛の邪神の肉体を使った淫らなショーを直視することが出来ず骸骨の両手で眼を覆っている。
一方見られた側のアルベドはお客さんいらっしゃいといわんばかりに腰の動きを激化させ、なりふり構わず振り回されるクーゲルシュライバーの肢の勢いを利用して三次元的でダイナミックなダンスを披露している。
そしてクーゲルシュライバーはこの誤解をどう解くのか、そもそも何処からが誤解なのか、どうすればこの状況を切り抜けられるのかがさっぱり分からず、眼を擬腕で覆いながら肢をバタつかせるのみである。
今この時、この空間で主導権を握っているのは間違いなくほぼ全裸のアルベドだった。
「あぁ此処で私は初めてを迎えるのですね……しかも二人の愛する御方の手で!初めてが3P!くふー!あぁ……でも私はどなたに純潔を捧げればいいのかしら!」
……アルベドのその言葉がキッカケだった。
乱痴気騒ぎの空気に呑まれていたクーゲルシュライバーの胸中に精神作用無効化であっても抑えきることの出来ない激情が滾った。
――好きな人が6人いて、誰にすればいいのかわかんないの。
――仕方ないじゃん。好きになっちゃったんだから。
――あなたの事も、大好きだよ?
それほど遠くない昔、呆然と聞いた言葉がありえないほど鮮烈にクーゲルシュライバーの脳裏で蘇った。
「……アルベド。服を着ろ」
あふれ出す百の罵倒を飲み込んで放たれたその言葉に、狂騒状態に陥っていた部屋の空気が一瞬で凍りついた。
助太刀に入ろうとしていた天井のエイトエッジ・アサシン達も、ギルド長として強権を振りかざしても事態を収拾させようとしていたモモンガも、愛に狂って暴走を続けるアルベドも皆一様に動きを止めて押し黙った。
「は、はい。……こ、この度は至高の御方に対して大変な無礼を」
「黙れ。服を着ろと言っているんだ」
「っ!!」
静かに放たれるクーゲルシュライバーの言葉に含まれた激怒の気配に、アルベドは何も言う事が出来ず、怯える幼子のように震えながら部屋に四散した鎧を集めて身に着けた。
これはクーゲルシュライバーが行った行為が装備破壊ではなく装備解除だった事と、身に着けていたものが魔法の防具だったから出来たことだ。
普通の防具だったらこうも早く全身鎧を装備しなおす事は出来なかっただろう。
「……着ました」
「……」
鎧を着たアルベドは先ほどまで朱に染まっていた顔を真っ青にして、冷や汗を流しながら床に跪いた。
そんなアルベドを前にしてクーゲルシュライバーは言葉を発しない。
二人の間に胃が痛くなるような沈黙が降りる。
数十秒が経ち、見るに見かねたモモンガが口を開いた。
「その、なんだ。クーゲルシュライバーさん、アルベドも反省しているみたいだしもう許してあげてくれませんか?」
モモンガは友人たるクーゲルシュライバーに寛恕を求めた。
素の口調で話すのはクーゲルシュライバーが演技ではなく本気で怒り狂っている事に気付いたからだ。
何が悪かったのか、モモンガにはわからない。
しかしアルベドの言動の何かがクーゲルシュライバーの逆鱗に触れたのは確かだった。
モモンガは大変危険な状態だと思った。
今にも死にそうな顔で跪くアルベドの前に立つクーゲルシュライバーは牙を広げ、狂器たる前肢を持ち上げ、めくりあがった擬腕の先端をアルベドに突きつけている。
それはクーゲルシュライバーの戦闘態勢であり、モモンガにとって最悪の光景だった。
こんな光景見たくは無かった。
モモンガは湧き上がっては抑圧されるを繰り返す怒りを意志の力で冷却し、もう一度声をかけた。
「もう一度だけ言います。アルベドを許してあげてください」
クーゲルシュライバーが視線をアルベドから外す。
モモンガの鬼火の如き瞳とクーゲルシュライバーの紅玉のような8つの瞳が互いを正面から捉える。
死の超越者と深淵の大蜘蛛の視線がぶつかり合い火花が散った。
どれだけそうしていただろうか?
モモンガとクーゲルシュライバーにとっては一瞬、アルベドにとっては永遠ともいえる時間が過ぎ去り、唐突に室内の空気が和らいだ。
「……ふぅ。すみませんモモンガさん。頭に血が上りました。止めてくれてありがとうございます」
「……いえ、此方こそお願いを聞いてくれて感謝しています」
アルベド、お前はもう行きなさい。
モモンガが優しくかけた言葉にアルベドは涙を流しながら頷くと、クーゲルシュライバーの部屋から退出していった。
◆◆◆
「実は俺……ビッチがダメなんですよ……」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
アルベドが退出した後、護衛のエイトエッジ・アサシンも部屋から追い出したクーゲルシュライバーは疲れた中年のように背を丸めてそういった。
聞いているモモンガが喉から搾り出すような声で驚愕するのも仕方のない事だろう。
「だってクーゲルシュライバーさんアルベドの設定弄るときに『まぁ結局範囲が狭まっただけでビッチですけど。でもそこがいいんですよ、そこが!』とか言ってたじゃないですか!」
「いや、ビッチが許されるのは創作の中だけであってですね。リアルビッチとかマジ無理ですって。ビッチ殺すべし、慈悲は無い……そういうレベルでダメなんですよ」
ウンザリするほどの実感が篭ったクーゲルシュライバーの言葉に、モモンガはなんて声をかけたらいいのか分からなくなった。
モモンガにはろくな恋愛経験がない。
それでも多情な女性と付き合って浮気された時の心情について察するのは童貞にとっても然程難しいことではなかった。
考えただけでも気が滅入るが、実際に経験したなら想像以上の苦痛なのだろう。
それを知らない者が、安易に口を出すことはためらわれたのだ。
「……ていうか、あれですか?毎年嫉妬マスクゲットして騒いでたからいないと思ってたんですが……クーゲルシュライバーさん彼女いたんですか?」
「……居ました。奇跡的に出来た、5年間付き合った人生初めての彼女です」
アチャー……。
モモンガは天を仰いだ。
ビッチ嫌い、人生初彼女、5年間。
もうこれだけでこの友人の身に何が起こったのかがおぼろげながら理解してしまったのだ。
「それで、結構酷い別れ方になっちゃって……未だにトラウマなんです」
「そのトラウマをアルベドが刺激しちゃったってわけですか……」
モモンガは先ほどまでの静かに怒り狂うクーゲルシュライバーを思い出す。
あれは間違いなく激怒していた。
精神作用無効化を持っているのにもかかわらず、あれほど長時間怒りをキープできるのは並の怒りではない。
同じ特殊能力によって精神を抑圧されているモモンガだからこそ、それが分かるのだ。
クーゲルシュライバーの言うトラウマとは軽口や冗談などではなく、正真正銘のトラウマなのだろう。
「アルベドには悪いことをしちゃいました。俺がビッチ設定にしたようなもんなのに。……いやまぁビッチと言っても色々あるんですがね?俺はなにも処女じゃないとダメって言っているわけじゃないんですよ。そういう問題じゃなくてですね。ただのエッチなお姉さんとかなら……サバサバ系ビッチとかなら余裕で許せるんですよ。そこに恋愛感情がないから。でも恋愛が絡んできたらもうダメ。その点アルベドはアウトなんですよ。あと娼婦とか、売春やってるようなのはもうアウト。売ってる癖して恋とかしちゃう奴とか殺してやりたくなりますよもうマジで。つーか殺します。精神的に追い詰めて殺します」
いや、それでも例外はあるんですけどね?
そう言ってどんなビッチがアウトなのかを懇々と語るクーゲルシュライバーに対してモモンガは思った。
(今後絶対にこの話題には触れないようにしよう……)
たった一人の友人が抱く超特大地雷を知って、モモンガはもう二度とこんな事が繰り返されないようにそう心に誓った。
だが、モモンガはまだ知らなかった。
クーゲルシュライバーが隣で喋っている内容に一切嘘や冗談が含まれていない事を。
そして……この一点に関してクーゲルシュライバーは完全に狂ってしまっている事を。
ビッチ絶対殺すマン。
なおガガーラン様とかはボールペン的にセーフな模様。
地味にナザリック崩壊の危機でした。
ボールペンのこの執念はモモンガ様のアインズ・ウール・ゴウンに対する執念に匹敵します。
ボールペンはわりと普通の人なんですけど、この一点に関してはマジで吐き気を催す邪悪ですのでちょ~っとイメージが崩れるかもです。
あ、あとネムはクラス《ウォーロックLv0》を取得しました。
やったね!