テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.54 黒衣の龍

 

 ベティーナとの戦いから三日。幸いにもこの三日間、海は穏やかさを保っていた。そのため、何とか強引にセーニョ港に辿り着くことができた。

 

「ポプリ、クリフォード。お疲れ様、大丈夫か?」

 

 一時はどうなることかと思ったが、案外何とかなるものだと港で沈みかけた船を見ながらエリックは苦笑した。

 

「僕はまあ、何とか……水は友達みたいなものだからな。それよりポプリが疲れているから、早い所移動しましょう」

 

「……クリフ、素の状態でもそこそこ術使えたのね……てっきり、精霊の使徒(エレミヤ)契約が無いとダメなのかと……」

 

「まあ、僕は元々そういう体質ですし。ただ、攻撃魔術の系統は苦手だから威力は相当下がるし、攻撃以外ならちょっとした応用程度になるけどな」

 

「助かったわ。あなたがいなかったら、流石にもたなかったかも……」

 

 しかし、ポプリの消耗がかなり激しい。消火に加え水流の軽い操作を行っていたクリフォードのサポートこそあれど、船の浸水を防いだ功労者はやはりポプリだ。いくら魔術師といえども、三日間能力を発動させ続けたポプリの体力には凄まじいものがある。セーニョ港に宿泊施設があればここで一泊する選択肢もあったのだが、生憎ここには船乗りが使う簡易的な施設しかない。

 それならば、ルーンラシスに行ける可能性に賭けて、休まず泉に向かってしまおうという話になった。クリフォード曰く、ルーンラシスどころかオブリガート大陸に行けさえすれば、ポプリの消費した魔力はあっさり回復するだろうとのことであった。流石、神格精霊の加護を受けた大陸である。

 

 

「ところで、エリック。ベティーナも連れて行くのか?」

 

「あ、あー……だが、他の選択肢が浮かばないんだよなぁ……」

 

 ベティーナに対する行動制限は継続中だ。彼女は魔術や翼による飛行を封じられた状態で、エリック達に着いてきていた。そんな大人しい様子は、彼女がある程度心を開いてくれたように見える――が、油断するのはまだ早いと警戒心の強いアルディスやディアナに告げられた上になんとベティーナ本人にも「完全に自由にするのはいくらなんでも……」と言われてしまったのだ。正直、自由にする気は全くなかったのだが、周りから見ると本当に自分は甘すぎる人間だと映っているのかもしれないとエリックは内心感じていた。

 

 チャッピーに腰掛けた状態で話し掛けてきたディアナを手招きし、エリックは仲間達、というよりはベティーナから距離を置く。ベティーナは純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)であるために無意味な行動となる可能性もあるが、何もしないよりはマシだという判断だ。

 

「一応、そう判断した理由はある。身柄を拘束してここに置いていくという手段もあるだろうが、ベティーナは黒衣の龍幹部。万が一暴れられてしまえば大惨事になる。あと、絶対ベティーナの思考を視ている筈のクリフォードが何も言わないから、良いんだと判断した」

 

「なるほど……セーニョ港の壊滅は防ぎたいし、ジャンは本当に嫌なことは嫌って言うしな」

 

「トゥリモラの件とかな」

 

 そう言ってエリックは両目を閉ざしたまま歩くクリフォードへと視線を向ける。アルディスやディアナもそうだが、この国は彼らが身を隠さずに生活することのできる国ではないのだ。何とかしたいと強く願うものの、今はどうすることもできないだろう。それは旅が終わってから、王位を継承した後の自分が戦っていくべき事案である。

 

「トゥリモラ、な……オレもよく知らないんだが、一体何があるんだろうな」

 

「……」

 

 クリフォードの過去から推測するに、トゥリモラにあるのは『罪人を閉じ込めるための地下牢』ではなく、『実験施設』だったのだろう。

 彼が強い拒否反応を示したことから、その可能性は極めて高いと思われる。だが、ベティーナに探りを入れてみたが彼女がそれを肯定することはなかった。つまり、確証はまだ得られていない。

 どちらにせよ、トゥリモラに行けば何かしら情報はあるだろうし、フェルリオ帝国から拉致された純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)を救うこともできるかもしれない。そして何より、マルーシャの件を解決するための糸口になるかもしれない――エリックとしては早い段階でトゥリモラに行ってみたいと思うのだが、良い口実が浮かばないのだ。また、相談することも不可能だ。

 

(クリフォードは確定で、マルーシャもほぼ確実にそうだろ? ポプリは母親の件があるし、アルもシンシアの件が……そういう僕も、関係者といえば関係者だしな……)

 

 仲間達は研究者ヴァロンと何かしら嫌な接点がある者が大半であるし、ヴァロンと鉢合わせる可能性がある上、とんでもない資料を発見してしまう可能性もある。焦って行動すれば、大変なことになりそうだ。

 

 

「どうした? エリック」

 

「! いや……」

 

 黙り込んでしまったせいで、ディアナが心配そうにこちらを見ている。誤魔化すつもりでいたが、エリックはふと、あることに気が付いた。

 ディアナは唯一、ヴァロンと接点の無い、この件に関しては“安全”な存在なのではないかと。ディアナなら、大丈夫なのかもしれない、と。

 

「誤魔化そうと思ったが、相談するのも悪くない、か?」

 

「なんだ、珍しいこともあるな。オレが力になれるなら、相談に乗るぞ」

 

 頼られたことが嬉しいのか、ディアナは大きな青い瞳を細め、無邪気な笑みを浮かべてみせる。彼女も不安定なものを抱えているため、明確な理由は話せないが『トゥリモラを調査したいが、自然な口実が浮かばない』と詳細を伏せて相談する分には大丈夫だろう。

 

「とりあえず、落ち着ける場所に着いてからにしよう。少なくとも、近くにベティーナがいる今の状況では話したくない」

 

「分かった。行けるかどうか怪しいが、ルーンラシスに着いたら声を掛けてくれ」

 

 そう言ってディアナはチャッピーと共に、仲間達の元へと戻る。エリックも足早にその後を追った――否、追おうとした。

 

 

「ッ!」

 

「きゅっ」

 

 もふ、とエリックの顔に柔らかいものが当たった。チャッピーの羽毛だ。驚いたらしいチャッピーの小さな鳴き声が、異様に静まったセーニョ港に響く。

 

「……ディアナ?」

 

 ラドクリフの領海に入った後くらいからそうなのだが、イチハの気配が感じられない。フェルリオで「ラドクリフでは精神を乗っ取られていることが多い」と彼が言っていたことをふまえ、今のチャッピーは純粋な鳥に近い状態だと判断して良い。そんなチャッピーを手綱で制御しているのが、乗り手であるディアナだ。つまり、ディアナがチャッピーを急停止させてしまったということになる。まさかエリックが着いてきていることに気付かなかった、などということは無いだろうし、何かあったと考える方が間違いないだろう。

 

「ッ、うぅ……っ!!」

 

「! ディアナ!」

 

 エリックがチャッピーの上に座るディアナを見上げると、彼女は頭を押さえて身体を酷く震わせていた。頭が痛いのだろうか。幸いにも、エリックは彼女がバランスを崩し、ずるりとチャッピーの背から滑り落ちる瞬間を目撃することができた。彼女が地面に落下する前に抱きかかえることに成功したエリックは、腕の中で震える少女の顔を覗き込む。

 

「……っ、ッ、い、いた……い……」

 

「大丈夫か!? マルーシャ、ちょっと来てく――」

 

 苦しむディアナを彼女が着ていたローブで包んでやるようにして抱え、エリックは前方にいるマルーシャに助けを求めようとして……絶句した。

 

 会いたいとは思っていたが、今すぐにではない。

 むしろ、今のこの状況では会いたくない人物が、女の部下と共に目の前にいたのだ。妙に港が静かだったのは、彼らの出現に人々が驚き、怯えてしまったからなのだろう。

 

 

「あ、兄上……それに、フェレニー……!」

 

 

 兄――ゾディートの黒髪が、潮風に靡く。その横に立つフェレニーは、アルディスの後ろにいるベティーナを見て顔を歪めた。

 

「ベティを返して!」

 

 フェレニーが叫び、術式を展開する。標的が誰になるかを察したエリックはその者を庇うために走ろうとしたが、ディアナを抱えたまま動くことはできない。それ以前に、フェレニーはなんと詠唱破棄で術を完成させてしまった。

 

「サイレンス!」

 

 黒い霧が、標的――ポプリの周りに現れる。殺傷性は無い術のようだったが、何かしら悪い影響が出ることは確かだ。アルディスがポプリを救おうと薙刀で霧を払ったが、無駄だった。

 

「すみません……ありがとう、ございました」

 

 そう、呟いたのはベティーナだった。彼女はポプリに封じられていた筈の翼を出現させ、颯爽とフェレニーの元へと戻ってしまった。それと同時にポプリは悔しそうに唇を噛み、地面に片膝を付く。

 

「ッ、ごめんなさい。押され、負けた……!」

 

 闇属性の魔術『サイレンス』は対象の魔術や特殊能力などを封じ込める妨害系の術だ。体力や魔力を奪うようなものではないが、術による戦闘を行うポプリにとっては致命的な術のひとつであろう。

 普段のポプリであればこんな術をあっさり受けてしまうことはなかったのだろうが、現在の彼女は酷く消耗している。術に抗うだけの体力は無かったのだ。

 結果、ベティーナにかけていた行動制限が全て解かれてしまい、彼女は黒衣側に戻ってしまったというわけだ。

 

 これは非常に厄介な状況である。ベティーナを交渉材料としてゾディートとフェレニーを引かせる手段はもう使えない上、ディアナ、ポプリ、クリフォードの三名は戦える状況ではない。戦闘になれば、負けは確定したも同然だ。

 

「くそ……っ」

 

 エリックは奥歯を噛み締め、目の前のゾディート達を見据える。ディアナを抱える両手に力がこもった。兄は、クリフォードへと視線を向けている。

 

「……成長した姿を見るのは初めてだな。兄と大差ないくらいにはなった、か?」

 

「ええ、先日は危うく死にかけましたが……“兄を、送ってくださった”でしょう? 本当に助かりました」

 

 ゾディートへの警戒心の薄いクリフォードを見て、エリックは彼の言ったことが事実であったことを悟る。だが、彼は純粋にゾディートとの再会を喜ぶだけのつもりではないらしい。ヴァロンがやって来た時の状況を知るエリック達には、彼がゾディートに探りを入れるつもりであることが理解できた。

 ダリウスは、“精霊が騒いだから来た”と言っていた。ゾディートに送り込まれたわけではない。これに対して、どう出るか伺うつもりらしい。

 

「許可を、出しただけだ。部下が……ヴァルガが、例のごとく勝手な動きをしていたからな、それはそれで気になっていた」

 

「それでも、感謝しています」

 

「……こちらこそ、申し訳ないことをしたな」

 

「!?」

 

 しかし、まさか謝罪されるとは思わなかったのだろう。クリフォードは驚き、エリックの方を振り返った。透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者である彼が、この場面で助けを求めてくる――ということは、

 

(兄上の感情が、読めないってことか……?)

 

 加えて、振り返ったことで分かったのだが、クリフォードは開眼していた。驚いて目を開いてしまったのかもしれないが、想定できる可能性はもう一つある。彼にはゾディートの姿が、見えていなかったという可能性だ。

 

(僕と同じ現象が、兄上にも起こっているってことなのか?)

 

 ディアナを抱えたまま、エリックは仲間達の傍へと歩み寄っていく。相変わらず、可哀想な程に震え、痛みに耐えているディアナを途中でアルディスに託し、改めてエリックは兄へと向き直る。

 

「兄、上……」

 

 そういえば、兄の特殊能力をエリックは知らない。それどころか、属性すら分からない。地属性の術が使えるのは知っているが、兄が使用できる属性は恐らく、地属性だけではない。

 兄弟であることを考えれば同じ能力・属性である可能性も高いが、そもそもその“血縁関係”さえも曖昧なのが自分達の関係だ。

 兄を呼ぶ声がどこか弱々しく、震えていたような気がした。そんなつもりは無かったが、兄を思う自分の気持ちがそうさせたのかもしれない。

 冷ややかな銀の瞳に見つめられ、エリックは思わず息を呑んだ。どくん、どくんと心臓が煩く鼓動している。それでも、何が来るか分からないのだからと、彼は震える指先を首元の透明なレーツェルへと伸ばした。

 その様子を眺めていたゾディートは、特に表情を変えることなく、おもむろに口を開く。

 

 

「……心配する必要はない。今のお前達と戦ったところで、何が得られるというのだ」

 

 別に小馬鹿にしているわけではなく、本心から「メリットがない」と思っているからこその発言であった。これに対し、反応を見せたのはアルディスだった。

 

「エリックやクリフさんに対しての発言なら、まだ分かります。俺が、いるというのにそれを言いますか……!」

 

「! お前……今、お前が抱えている“娘”は……!」

 

 ディアナを抱えたまま、アルディスはゾディートに訴えかける。そんな彼に――否、彼の腕に抱かれていたディアナに、漸くゾディートが反応を示した。

 

「まずい、解けかかってる!」

 

 ゾディートの様子を見て、フェレニーも何かに気付いたらしかった。彼女は即座に術式を展開し、そちらに意識を集中し始めた。何のことか分かっていないマルーシャやポプリがフェレニー対策に動こうとしたのを、エリックとクリフォードが静止する。口を開いたのは、アルディスだった。

 

「あなただったのですか!? この子の……ディアナの記憶を、封じ込めたのは!」

 

 ディアナを抱えたまま、アルディスはフェレニーの様子を伺った後、能力柄真相の確認が可能なクリフォードへと視線を移した。クリフォードの反応次第で、対応を考えるつもりなのだろう。

 クリフォードは、何も言わない。つまりは、そういうことなのだろう。フェレニーが、ディアナの悲しみの記憶を封じ込めていたのだ。

 

「な、何故……です、か……」

 

 痛みの酷さ故か、気を失ってしまったディアナを抱きしめる腕に力を込め、アルディスは声を震わせる。

 

「俺の予想は、間違ってない……? あなた達の目的は、一体何なのですか? 何故、俺達を助けるのですか……?」

 

 アルディスの予想。それは、エリック達はゾディートの思うままに動かされているのではないか、というものだ。クリフォードのみならず、ディアナまでも助けていたことが判明してしまったのだから、これはより濃厚な説と化した。

 

――そもそも、黒衣の龍は本当にエリック達の敵なのだろうか?

 

 確かに黒衣の龍はスウェーラルを崩壊させた。だが、それは別にエリック達の妨害がしたかったわけではなく、彼らは彼らで、勝手に行動しただけなのだ。

 加えてこれさえも、ゾディートにとっては『エリック達を成長させるための手段』であった可能性がある。手段は最悪だが、もしそうだとすれば彼はエリック達のためを思って行動しているということになってしまうのだ――仮にアルディスの予想が合っていたとすれば、アルディスの家でエリック達を殺そうとした、あの日の出来事さえも『演技』ということになり、彼らが“敵”であるという前提が完全に覆ってしまう。

 

 

「……」

 

 ゾディートは、何も言わない。ただ、黙ってフェレニーの術の完成を待っている。しかし、フェレニーが術の完成を諦めて首を横に振ったのを見て、彼は閉ざしていた口を開き、語りだした。

 

「……前にも、言ったが」

 

 彼の銀の瞳は、エリックに焦点を当てていた。かと思えば、アルディスへと視線が移る。つまり、エリックとアルディスに向けて話がしたいのだろう。

 

「お前らの持つ、宝剣……それを、絶対に手放すな。うっかり“奴”の手にでも渡れば、どうなるか分からん」

 

 

『キルヒェンリートを探し出せ。誰かが所持しているのならば、奪わなくとも良い……ただ、それが“卑しき男”の手に渡ることだけは全力で防げ』

 

 

 エリックは気付いた。今、兄の口から発された言葉は言い回しこそ違うが、数年前に彼が口にしたものと同じだったということに。

 

「つまり、ベティーナを仕掛けたのは、兄上ではなかったということですね」

 

「……」

 

 しかし兄は、何も答えてはくれない。何も答えぬまま、彼は別の言葉を紡ぐ。

 

「解けかけた術をもう一度かけ直すのは、不可能だったらしい。恐らく、その娘はいずれ記憶を取り戻す。ちゃんと、守ってやれ……私はもうこの件に手出しできそうもない」

 

 ゾディートの表情は変わらない。しかし、彼はどこか、悲しげなようにも思えた。

 

「それから、クリフォード。死ぬなよ、ダリウスが荒れると困るんでな。それと、桜色の髪をした娘宛てにこれを預かってきている。多分、そこのお前のことだろう? 渡しておくから、好きにしろ」

 

 クリフォードに声を掛け、ポプリには手のひらにすっぽり収まってしまう程に小さな紙袋を投げ渡す。もしかすると彼らは、ただベティーナを回収しにきただけなのかもしれない――あまりにも敵意の感じられないゾディートの態度に、声を掛けられた二人は唖然としてしまっている。そしてそれは、エリック達も同じであった。

 ゾディートがそんな態度を取っているせいなのか、横に控えているフェレニーも大人しい。だが、フェレニーは何故かポプリへと視線を送っていた。

 

「……ねえ、あなた」

 

 その視線に、ポプリが気付いた。彼女は少し悩み、考えた末に、口を開く。

 

 

「……。フェリシティ=トルーマンって、知ってるかしら?」

 

「!」

 

 フェリシティ=トルーマン。聞きなれない名前である。しかし、フェレニーにとっては違ったらしい。彼女は鳶色の目を丸くし、唇を震わせた後――ポプリを、強く睨みつけた。

 

「アンタには、分からないだろうね。羨ましいよ……同能力者の癖に」

 

 フェレニーは、ポプリと同じ秩序封印(ヴァルデマール・フレイヤ)能力者である。よくよく考えてみると、この能力は殺傷能力が極めて高く、“その手の分野”では大いに活躍する能力だ。だからこそ、フェレニー――否、フェリシティは、ポプリを恨んだのだろう。

 

「……」

 

 フェリシティの言葉に、ポプリは唇を噛み締め、俯く。それに対し、フェリシティは小さく舌を打ち、踵を返して歩き出した。その後を、ベティーナが追う。ゾディートも、それに続こうとした。

 

「兄上!」

 

 兄の背中に向かって、エリックは思わず声を張り上げる。軽く振り返ってくれた兄に向かって、エリックははっきりと言葉を紡いだ。

 

「僕は、今も兄上を信じていますから」

 

 その言葉が、兄にどのような形で届いたかは分からない。振り返ることなく去っていく兄を、エリック達はただ、静かに見守ることしかできなかった。

 

 

 

 

「わぁ……懐かしいね。いつ来てもここは澄んでるんだね」

 

 泉の水に触れ、マルーシャは気が抜けたような言葉を発する。彼女のことだ。妙に重苦しい空気に耐え切れず、あえてこんなことを口走ったのだろう。それに気付いたエリックはマルーシャの横に移動し、泉の水に触れて「そうだな」と呟いた。

 

「水の聖獣ケルピウスの泉、だもんなぁ……そりゃ、澄んでるよな」

 

「済んでるけど、見た目は普通の泉なんだけどね。ジャン、本当にここからオブリガート大陸に行けるの?」

 

「……多分」

 

「多分かぁ……」

 

 期待の眼差しを一心に受け、視線を泳がせるクリフォードを見て、エリックは苦笑する。さらに言えば、自分達の後ろでディアナを抱えたまま、微妙な距離を取って立っているアルディスのことも気になる。水への恐怖心が多少和らいだとはいえ、泉に落ちたくないのだろう。

 

「とりあえず、試してみます」

 

 そう言って、クリフォードは自身の胸に手を当て、魔力を高め始めた。獣化するのかと思ったが、そこまでは行かなかった。今の彼は、人の姿にヒレが付いた、半獣化の状態である。その姿に反応し、泉が瞬き、水面に魔法陣が浮かび上がった。

 この泉は、クリフォードが人間の姿で近付いても獣の姿で近付いても反応しないようになっているのだろう。エリック達とここに来た時もそうだが、恐らく獣化状態でポプリと共に過ごした時も、泉は何の反応も見せなかったのだろう。泉の変化に驚いているポプリの姿を見れば、それは一目瞭然だ。

 

「良かった。まだ、通れそうですね」

 

 そう言って、クリフォードは泉の上を“歩いた”。まるで凍っているかのように、泉はしんとしている。人が上を歩いたというのに、波紋さえ立たないのだ。

 

「す、すごい! ジャン、水の上を歩けるんだ!」

 

「いや、今なら皆歩けるぞ……なので、皆さんこっちに来てください」

 

「……え?」

 

 クリフォードの言葉を聞き、間抜けな声を上げたのはアルディスだ。水の上を歩け、という彼の言葉が信じられないのだろう。

 

「アル……?」

 

「……」

 

 アルディスは何も言わないが、全身で「無理」と訴えている。彼は首を横に振るい、ディアナを抱えたままその場に座り込んでしまった。

 

「お、おーい」

 

 エリック達が全員泉の上に立っても、アルディスは動かない。どうしたものかとエリックがこめかみを押さえていると、既に泉の上に誘導していたチャッピーがアルディスの方へと歩き出した。

 

『情けないな! クリフを信用しろ! 大丈夫だから、こっちに来なさい!』

 

 否――今はイチハだったらしい。イチハはアルディスの服をくわえ、そのまま泉へと戻ってきた。その刹那、視界が暗転する。

 

 

「な……っ!?」

 

 眼前に広がるのは、深い霧のかかった樹海。セーニョ港の近くにあったものとは若干形状の異なる泉の上に、エリック達は立っていた。マルーシャはふらふらと数歩前に進み、両手で口を覆って声を震わせた。

 

「ここが……オブリガート大陸……?」

 

 なんて幻想的な場所だろう、とマルーシャは目を輝かせる。彼女に続いて泉から離れたエリックは、露で湿った深緑の草を踏みしめ、辺りを見渡した。

 

 樹齢を重ねた大きな木々が生い茂り、差し込む太陽光も随分と少ない薄暗い場所だが、不思議と嫌な感じがしない。澄み渡り、かつどこか厳かな雰囲気の漂う本当に美しい場所だった。ここが精霊の加護を受けた大地だということが、身をもって実感できた。

 

「身体が楽だわ……すごいのね、ここ……」

 

 クリフォードが言っていた通り、ポプリの魔力も少しずつ回復し始めているらしい。しばらくこの大陸にいれば、彼女は元通り魔術を使えるようになるだろう。

 

「うぅ……っ」

 

「ディアナ!?」

 

 そして、アルディスの腕の中で眠っていたディアナも動き出した。彼女は自分が置かれている状況を察し、慌ててアルディスから離れ、飛び上がった。

 

「す、すまない! オレ……!」

 

「気にしなくて良いよ。それより、大丈夫かい?」

 

「ああ……もう、大丈夫だ……ここは……?」

 

 狼狽えるディアナに対し、少し戸惑ったような反応を見せたのはマルーシャとポプリだ。そうだ、とエリックは微かに顔を引きつらせる。ゾディートが、ディアナを指して『娘』と言っていたのだ――事情を知らないマルーシャとポプリからしてみれば、どういうことなのかと非常に気になっていることだろう。

 どうやって誤魔化そう、そもそも誤魔化すべきなのかとエリックが悩んでいた、そんな時。ガサガサと目の前の茂みが揺れ、ファーの付いた上着を羽織った青年が姿を現した。

 

「なんだ……? お前ら、見慣れない顔だな。オレ、マクスウェル様からは何も聞いてないぞ」

 

 少し茶色がかった赤い髪を持つ、眼鏡の青年。眼鏡の下の丸っこい赤紫の瞳は、突然現れたエリック達を見逃すまいと言わんばかりにしっかりと写していた。

 だが、彼は集団の中に見知った顔を見つけ、目を丸くする。そして、叫んだ。

 

 

「……って、クリフ!? クリフだよな!」

 

「はい」

 

「ということはそいつら、お前の連れか……」

 

 ふうん、と見定めるように、青年はエリック達を見る。その輪から離れ、クリフォードは青年の傍に歩み寄っていき――何かを耳打ちした後、そのまま茂みの中へと消えていった。

 

「!? おい、クリフォード!!」

 

 慌てて後を追おうとするエリックの前に、青年が立ちはだかる。胸元で揺れていた青いレーツェルの付いたペンダントに右手で触れ、彼は不敵な笑みを浮かべてみせた。

 

「おっと、通さないぜ。無関係な奴は立ち入り禁止だ」

 

「ッ、さっきの見て分かったろ!? 僕らはクリフォードの知人だ!」

 

「ああ、そうだろうな……とりあえず、お前らがアイツに大事に思われてるってことは伝わったよ。だが、それとこれとは話が別だ!」

 

 青年のレーツェルが武器へと変化する。短めの双剣だ。それを構え、笑みを浮かべる青年の口からは、微かに牙が覗いていた。

 

 

「オレはこの地の番人、ライオネル=エルヴァータだ! お前らをマクスウェル様の元には行かせねぇからな!」

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
最後に出てきたライオネル君

【挿絵表示】


(絵:長次郎様)

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