テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.50 想いの旋律

 

「もおおおぉ!! 何考えてるの二人とも!? ジャンとディアナも見てたならちゃんと止めてよぉ!!」

 

 宿屋の一室で、非常に珍しいことだが怒りのあまりマルーシャが声を荒げている。彼女の怒りの矛先を向けられたジャンクとディアナはもはや平常心を保てていなかった。

 

「止めましたよ! 僕らは、ちゃんと止めました!!」

 

「そ、そうだ!! 止めたぞオレ達!! それでも止まらなかったのはそいつらが馬鹿だからだ!!」

 

 オロオロしつつ、ふたりは近くにいたポプリに視線を向ける。だがポプリは「余裕の無い先生とディアナ君面白い」とでも言いたげにクスクスと笑うだけであった。そこまで問題視していない、というのもあるのだろうが。

 

「……。ごめん、マルーシャ。つ、つい……」

 

「“つい”じゃないの!! そんなにボロボロになって、“つい”とか言わないでよ!!」

 

 必死に治癒術を発動させながら、マルーシャは怒り続ける。大人しく怒られながら彼女の術の恩恵を受けているアルディスは左手にタオルを握り締め、右腕の傷口を押さえていた――困ったように苦笑しているが、傷は笑えない状態である。血が止まらないのだ。

 

「もうエリックは後回しだからね!! 完治しなくても知らないんだから!!」

 

「……っ!?」

 

「いきなり!! ケルピウスが!! ズタボロな二人背負って!! 部屋に転がり込んできた!! わたしの気持ちを!! 考えてよ馬鹿ぁ!!!」

 

 

――つまりは、そういうことである。

 

 

「あ、あと少しで、勝てそうだったんだって……!!」

 

「そういう問題じゃないの!! アルディスもアルディスでもうちょっと手加減してよぉ!! もうエリックは放置したいくらいの大惨事だよ!!」

 

「本気で来る相手に手加減する難しさ知ってる!? 大体今回に関しては俺も負けたくなかったんだ!!」

 

「何でそんな張り合っちゃうのかな!? こんな時に二人して本気で殴り合わないでよ馬鹿ああぁあ!!!」

 

 きっかけは、エリックが『精霊同化(オーバーリミッツ)』を取得したことであった。

 それを見たアルディスは、元々精霊同化を取得していたこともあって全力で戦ってみたいと思ってしまったのだろうし、エリックもエリックで完璧に使いこなせるようになってみたいと思ってしまった上、『本気のアルディスと戦いたい』という仲間からしてみれば凄まじく迷惑な願望をむき出しにしてしまったのだろう。

 

 結果、二人はジャンクとディアナの静止の言葉を無視して本気過ぎてもはや訓練とは言えないような訓練を『お互いが倒れるまで』続けてしまったのであった。

 

「すみません、本当にすみません、マルーシャ……僕が本調子なら、おバカさん二人のために君の手を煩わせることは無かったというのに……!」

 

「オレも謝る! オレの力じゃ、追いつかなくって……!! おバカさん二人のために、本当にすまない……!!」

 

 マルーシャの怒りは、収まることを知らない。定期的に矛先がジャンクとディアナに飛んでくるため、反省の色無しの“おバカさん二人”の代わりに彼らが必死にマルーシャに謝る羽目になっている。

 

「でも、本当に……どうしちゃったのかしらね、この子達……ふふ……」

 

「わ、笑いごとじゃないだろう!? オレ達は割と必死なんだからな、ポプリ……!!」

 

 唯一無関係のポジションをキープしているポプリは、困ったように笑いながらエリックとアルディスを見る。そんな彼女を半泣きで睨むのはディアナだ。

 

「ふふ、お疲れ様」

 

 だが、ポプリは動じなかった。彼女は少しディアナに近づくと、他の者には聞こえないようにと小さな声で喋り始める。

 

「エリック君もノアも、普段、相当押さえ込んでるものがあるのかなって、そう思ったわ。ちょっと発散させてあげないと、またこういうことになりそうだから何とかした方が良いかもしれないわ。でも、マルーシャちゃんがちょっと元気になったから、今回みたいなのも、たまには良いかなって」

 

「い、言いたいことは分かる。だが、マルーシャは元気になりすぎだ……」

 

「君が心配する気持ちが分かるくらい、さっきまで嘘みたいに大人しかったんだけれどね……うーん、大丈夫かしら……二重の意味で……」

 

「ああ……」

 

 大人しいマルーシャは不安になるが、怒り狂うマルーシャはただただ怖い。これはもうしばらく落ち着かないだろうとポプリとディアナは顔を見合わせ、苦笑した。

 

 

 

 

「古いのに傷んではいない、か……手入れがよく行き届いてるんだろうな」

 

 宿屋のロビーにあった古いグランドピアノの鍵盤蓋を開けながら、エリックは軽く鍵盤を押してみる。柔らかな音色は、しっかり調律の行き届いた正確なものであった。

 椅子を引き、腰掛ける。傍にいたディアナが、「忘れてるぞ」と言いながらピアノの屋根を開ける――別に開けなくても音は鳴るから別に良かったのに、とは思ったが、気にしないことにした。

 

「……調律も完璧、か。これなら問題なく弾けそうだ」

 

「絶対音感って奴か?」

 

「違うと思うぞ。城にいた頃は毎日のように弾いていたから、単純に耳が覚えてるんだよ。ピアノ以外だとちょっと自信ないな」

 

 エリックは感情が高ぶった時、ピアノの鍵盤を叩くことで気分を落ち着かせていた。今まではそれで良かったのだが、旅に出てからは当然のことながらピアノに触れる機会が無く、感情を押さえ込む最適な手段を見出せずにいたのだ――その結果が思わず近くの壁を殴る、アルディスと本気で殴り合うといった暴力的な方向に突っ走る始末なのだから、自分にとってピアノがいかに重要な存在かが嫌でも理解できてしまう。

 そして昨日、『エリックはイライラをピアノにぶつける癖がある』というのを知ったジャンクはマルーシャ大暴走が落ち着くと同時に彼は部屋を飛び出し、ピアノ使用の許可を取りに行っていた。

 

(間違いなく、問題視されただろうなぁ……気を使わせて悪かったよ、ジャン……)

 

 思わずこめかみを押さえ、苦笑いするエリックとピアノを交互に見ながら「早く弾いて欲しいんだけどな」と言わんばかりにディアナは首を傾げている。そんな彼女の腕の中には、一冊の本があった。

 

「ん? ああ、そうだ。ちょっとそれ、見せてくれ」

 

 軽く指の運動をした後、エリックはディアナの方へ手を伸ばす。ディアナは頷き、持っていた本をエリックに手渡した。それは厳密には本ではなく、楽譜であった。

 

「あー、うん。長いな。ディアナ、譜めくりはできるか?」

 

「……」

 

「よし、分かった。アル呼んできてくれ」

 

 この古びた楽譜はここブリランテに保管されていたものらしく、ディアナが聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者であることに気付いた住民が「ディアナに渡して欲しい」とポプリに預けた、という話は先程ディアナから聞いた。つまり楽譜は無事にディアナに渡ったということだ。

 だがしかし、ここで予想外な問題が発生した。ディアナは楽譜が全く読めなかったのだ。これは流石にブリランテの住民も気付かなかったことだろう。

 そして狼狽えたディアナが「実はピアノを弾くのが特技」な上にストレス解消に丁度ピアノを弾こうとしていたエリックに助けを求めにやってきて、今に至るのだ。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者って能力的に楽譜読めるもんだと思ってたんだが……多分、ろくな教育受けてないんだろうな、ディアナ……)

 

 アルディスを呼びに行ったディアナの背を眺めていると、嫌な感情に支配されそうになる。エリックは頭を振るい、視線を手元の楽譜に落とした。

 

「……何だ、これ」

 

 読めない――いや、譜は読めるのだが、言語が。この曲のタイトルが。

 

「んん……? 似てる、けどな。似てるんだが、何だこの字は。読めない」

 

 パラパラと譜を流し読みするが、指示記号はまあ、読める。指示記号まで読めなかったらどうしようと思っていたエリックはひとまず安堵した。理解不能なのはタイトルと、所々に記載されている楽章の名前らしきものだけだ。文字そのものはエリック達が使う言語そっくりなのだが、どう考えても配列がおかしいのだ。フェルリオ帝国の方言か何かだろうか――と悩んでいたエリックのもとに、ディアナがアルディスを連れて戻ってきた。

 

「お待たせ。譜めくりすれば良いの?」

 

「その前に、このタイトルと楽章っぽいの。読めるか?」

 

 別に読めなくても弾けるが、気になる。そう思ったエリックはやって来たばかりのアルディスに楽譜を押し付けた。

 

「ん……? ああ、これフェルリオの旧言語だね。タイトルは『精霊王に捧ぐ鎮魂歌』……って、これ聖歌詩篇集じゃないか!!」

 

「えっ、何だ!? それそんなに凄いものなのか!?」

 

 アルディスが旧言語をあっさり解読したことにも驚いたが、その後の彼の反応にさらに驚かされた。エリックが尋ねると、アルディスは「国宝みたいなものなんだけど」と簡単に答えてくれた。

 

聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者が、聖歌(イグナティア)を発動させるためにはこの譜を頭に入れとかないといけなくてね。能力者達が歌うのは主旋律だけだけど、歌詞だけじゃなくて対旋律とか、曲に込められた意味だとかを全部理解していないと効果が出ないんだ……なのに、何かこの譜、大昔に行方不明になったらしくてね……」

 

「なんでそんなことになってんだよフェルリオ……」

 

「知らない……十中八九聖者一族の人間が恨み買って隠されたんだと思うんだけど……」

 

「うわぁ……」

 

 嫌というほど感じていたが、こんなことを口にすればアルディスの逆鱗に触れてしまいそうだが、フェルリオ帝国民は本当にやることが陰湿過ぎる。馬鹿正直な皇子を筆頭に全員が全員陰湿な人間ではないと信じたいが、何だか人間不信になりそうだ。エリックはゆるゆると力なく首を横に振るい、アルディスの話の続きを待った。

 

「詩篇集は全七楽章で、第二楽章『クララフィケーション』と第五楽章『ホーリーソング』はディアナが歌ってるの聴いたことあるんだけど……うーん」

 

「え? オレ、何か間違ってるのか?」

 

「そうじゃなくて、俺、この楽譜、読めない……」

 

「!?」

 

 ごめん、旧言語しか読めない。そう言ってアルディスはエリックに楽譜を返してきた。

 

「お、おい……お前、横笛吹けるだろ? じゃあ、楽譜……」

 

「その楽譜読めない……多分、それが一般的な“楽譜”なんだとは思うんだけど」

 

「お前の知ってる楽譜ってどんな楽譜だ!?」

 

 アルディスが謎の横笛を演奏できることをエリックは知っていた。だからこそ、アルディスに譜めくりを頼もうと思ったのに。予想外過ぎる彼の言葉に、エリックは狼狽えてしまった。

 

「音が独特だとは思ったが……やっぱりピッコロでもフルートでもなかったんだな」

 

「君の中じゃ横笛ってそういう名前になるんだね。多分、それが普通なんだろうけど」

 

 そう言ってアルディスが懐から取り出したのは、問題の横笛だ。特殊な術が掛かっているというケース(だから戦闘中に壊れないそうだ)に入っていたそれは、やはりエリックの知る横笛ではない。

 

「篠笛」

 

「……知らないな」

 

「だろうね。多分イチハさんと、ひょっとしたらジャンさんが知ってるかもしれないっていう横笛」

 

「あ、あー、そういうことか」

 

 アルディスの説明で理解した。恐らく『篠笛』は暗舞(ピオナージ)の間で受け継がれている楽器なのだ。エリックが知っているはずがない。そしてアルディスが知る楽譜もまた、暗舞の間でしか通用しない楽譜に違いない。

 

「しかし困ったな……誰かいないのか、譜めくりできる奴」

 

 アルディスが無理な時点で、もう自力で何とか譜めくりするしかなさそうだとエリックは諦めてしまった。マルーシャは楽器の演奏できないため、譜が読めるとは思えない。アルディスが何も言わない時点でポプリも無理なのだろう。ジャンクが本調子なら透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力で何とかなっただろうが、今は無理だ。彼の境遇を考えれば、能力無しに譜読みができる可能性は極めて低い。

 

「……」

 

 そんなことをエリックが考えていると、ふと背後に人の気配を感じた。警戒しなかったのは、ほのかに香る匂いに覚えがあったからだ――正直「自分が気持ち悪い」と思ったが、悲しくなるのでこれ以上考えないことにする。

 

「わたし、読めるよ。譜めくりしたら良いの?」

 

 やってきたのは、マルーシャだった。彼女は椅子に腰掛けたエリックの後ろから楽譜を覗き込み、「大丈夫」と笑っている。

 

「え……マルーシャ、楽譜読めたのか?」

 

「うん。楽器は弾かないけど、読めるよ。エリックがピアノ弾くの、ずっと見てたから……その、勉強してたの」

 

「ッ!」

 

 マルーシャの言葉に、顔が熱くなってくるのを感じた。駄目だ、ここで変な反応を見せるのはいくらなんでも格好悪すぎる!

 

「そ、そうか……じゃあ、頼むよ」

 

 少し素っ気なさを感じるような態度でピアノに向き直るエリックを眺めていたアルディスが、盛大にため息を吐いた――色々と、隠しきれていなかったようだ。

 

 

 

 

――第一楽章『ディープ・ブルー』

 

 聖歌詩篇集の最初の楽章は、どこか不気味さを感じる暗い旋律のものであった。演出としての不協和音が頻繁に入ってくる面白い曲である。だがそれ以上に、肝心のディアナがあまり良い反応をしていなかったのが妙にエリックの中で印象に残っていた。彼女の場合、この楽章のタイトルがそうさせている可能性もあるが。

 こんなタイトルが付くくらいなのだから、藍色の髪は有能な聖歌祈祷(イグナーツ・エリス)能力者の証なのかも知れない。そう考えると皮肉だな、とエリックは軽くため息を吐いた。

 

 

――第二楽章『クララフィケーション』

 

 アルディスは理解していなかったが、やはりディアナが歌っていたのはこの曲で間違いなかったようだ。暗い旋律が印象に残る第一楽章とは異なり、静かだが優しげで、それでいて厳かな印象の旋律である。

 ディアナは第二楽章と第五楽章以外はどれも覚えていないらしく、少し悲しげな表情をしていた。「これから思い出していけば良い」とアルディスが慰めているのを聞きながら、次の楽章へと移……ったのを、若干後悔したくなった。

 

 

――第三楽章『サクリファイス』

 

 高音域でまとまっているが、決して耳障りではなく、驚くほどにとても優しい主旋律だ。そしてピアノは、恐ろしいほどに優美な和音を奏でている。きっとディアナが歌えば、感動的なアリアが聴けることだろう……が、何だこの題名は。何でこんな美しい曲に『生贄(サクリファイス)』なんて題名を付けたんだ。絶対にまともな術じゃないだろうとエリックが思っていると、どうもアルディスがディアナの耳を塞ごうとしたらしい。それを咎めるマルーシャの声を聞きながら、エリックは鍵盤から手を話したくなった。

 

 

――第四楽章『ミティゲイト・レイ』

 

 嫌な予感しかしなかったが一応弾ききった第三楽章。続く第四楽章は第三楽章同様に高音が美しい旋律であった。異なるのは、所々で主旋律が時々低音に移ることだろう。非常に歌いにくそうな曲だな、とエリックが感じていると案の定ディアナが頭を抱えてしまったようだ。もしかすると、彼女は低音域が苦手なのかもしれない。

 

 

――第五楽章『ホーリーソング』

 

 第二楽章同様、やはりディアナが歌う聖歌(イグナティア)の旋律だ。どうして楽章が飛んだのかが気になったが、主旋律以外の音は最低限の和音のみで、穏やかで控えめな印象を与える曲である。静かで厳かな第二楽章と通じるものがあった。第一楽章、第三楽章、第四楽章には感じられなかった「ディアナらしさ」を感じる。ディアナの本質に近い曲だからこそ、第二楽章と第五楽章は記憶を失った彼女の中に残り続けたのだろうか。昔からディアナは、「ディアナ」だったのだろうか。

 後で、ダイアナとディアナは似ているのかをアルディスに聞いてみよう。エリックはそう思いながら、次の楽章に移った。

 

 

――第六楽章『フォークロア・ブリス』

 

 第四楽章で「もしかして」と思ったことが事実だったことに、この楽章に移ってすぐに判明した。ディアナが「無理無理無理無理」と呟き始めたのだ……第六楽章は、低かった。

 主旋律はもちろん低いのだが、ベースとなる和音が最も低い音域から出てこない。もう全体的に音が低い。そのせいか、どっしりとした印象を受ける。ディアナの繊細なソプラノでこれを表現するのは極めて難しいことだろう。

 

 

「……は?」

 

 

 そして、ここでエリックの指が止まってしまった。譜めくりをしてくれていたマルーシャも苦笑いしている。第六楽章に絶望していたディアナも顔を上げ、アルディスは不思議そうに首を傾げていた。

 

「エリック?」

 

「悪い、ちょっとこいつだけは時間をくれ。何だよ、これ……」

 

 第六楽章までは何とか、問題なく弾けた。だが、最後の最後に、とんでもない楽章が待ち構えていた。

 

 

――第七楽章『エヴァンジル・オーブ』

 

 第六楽章まではアルディスが現代語に言い換えて題名を伝えてくれていたのだが、第七楽章だけは上手く言い変えられない、ということで旧言語のまま教わった題名。そんなイレギュラーな楽章は、譜面の方もとんでもなくイレギュラーであった。

 譜面が黒い。音符の羅列だ。連符は曲を盛り上げたいときに有効なものだとは思うが、ここまで並べられると指がおかしくなりそうだ。しかも連符地獄の後に始まる肝心の主旋律という名の歌唱部分は第三楽章以上に高音。超高音域、とでも言えば良いだろうか。ディアナの喉が死にそうである。

 

「ディアナこれ……喉、大丈夫か?」

 

 とりあえずディアナが歌う主旋律だけ軽く弾いてやれば、ディアナは盛大に目を泳がせながら「頑張ります……」と言い出す始末。こんなの、一体誰が歌うんだ。作曲者出てこい。

 

「第七楽章は……聖歌(イグナティア)の中でも難易度の高い奴、でね。俗に言う『秘奥義』に相当する奴なんだよね……当然、効果はすごく高いんだけどね。ある意味、第三楽章のがすごいけど……」

 

「ああ、やっぱりお前、全部の楽章の効果把握してるんだな。なあ、第三楽章って歌ったらどうなるんだ?」

 

「歌唱者が『救いたい』と願った者全てを救う代わりに、歌唱者が“生贄”になるとんでもない旋律だよ」

 

「……。ディアナ、歌うなよ。約束だ。第三楽章は、歌うんじゃない」

 

 やっぱりとんでもない術だった。ディアナの耳を塞ごうとしたアルディスを咎めたマルーシャすら、唖然としている。

 ただし、曲を聴いたからといってすぐに聖歌が歌えるようになるわけではなく、自分の中で曲をしっかりと解釈して、楽譜には書かれていなかった『見えない歌詞』を感じ取らなければいけないらしい。そのためディアナがこの場で唐突に第三楽章を歌い出す……なんてことにはならないそうだ。聖歌(イグナティア)の難しさを感じるとともに、エリックは思わず「ああ良かった」と思ってしまった。

 

 

「とりあえずこれは置いといて……適当に何か弾きたいから、もう散ってくれて構わないよ。マルーシャ、アル。付き合ってくれて助かったよ……ありがとう」

 

 確実に何度も間違えるであろう第七楽章は、完全にひとりの時に弾きたい。今は暗譜している別の曲が弾きたいと考えたエリックは、そう言って三人に笑いかける。だが、三人ともその場を離れることは無かった。

 

「……ん?」

 

 これは次の曲を待ってるんだな、とエリックが感じ取るのはそう難しいことではなかった。赤い瞳を細め、エリックは軽く首を傾げてみせる。

 

「特技と言えば、特技なんだよ。だけど、そう期待されるのは、少し恥ずかしいな」

 

「聖歌詩篇集を初見で弾いておきながら言う台詞じゃないんじゃないかな。良いね、ピアノの音色って。俺、ピアノの演奏をまともに聴くのは十数年ぶりだから、もう少し聴いていたいなって思ったんだ」

 

「……分かった、じゃあ好きにしてくれ」

 

 これは「どっか行け」とはっきり言ったところでどこにも行ってくれないだろう。仕方がないな、とエリックは肩を竦め、再び鍵盤に指を乗せた。

 

 

 

 

 数曲を弾き終え、「これで終わりだ」とエリックが言うとアルディスとディアナはお礼を言うとともにそれぞれ自分の行きたい場所に移動した。どうやらエリックの演奏を聴くのとは別にやりたいことがあったにもかかわらず、後回しにしていたらしい。申し訳なくなるのと同時、どこか誇らしさを感じた。

 一方のエリックは一旦場所を移動した後、こっそりとピアノのもとに戻った――こうでもしないと、皆離れてくれなさそうだなと思ったのだ。

 

 

「第七楽章の練習、するの?」

 

「……マルーシャ」

 

 だが、狙い通りに動いてくれなかった人物もいた。マルーシャだ。

 彼女はエリックがそうするのを分かっていたかのように、ピアノの傍に戻ってきていた。愛らしい笑顔を浮かべ、彼女はエリックがピアノを弾くのを待っている。

 

「君は……まあ、良いか。失敗しても、笑わないでくれよ……」

 

「笑わないよ。大体エリックが失敗するの、何度も見てるし」

 

「う……っ」

 

「だけど、最後はしっかりやり遂げちゃうんだもん。エリックはすごいよ」

 

 それはピアノだけじゃないけどね、とマルーシャはどこか悲しげに笑う。何故、そんな表情をするのか。エリックには分からなかった。

 

「アルディスの件から逃げなかったことも、ジャンとしっかり向き合ったことも、ゾディートお兄様やダリウスの件にしたってそう。すごいなって思う……エリックは強いね。わたし、尊敬してるんだよ?」

 

 マルーシャが、褒めてくれる。普通に考えれば、嬉しいことだというのに。

 

(何だ……? この、感じは……)

 

 

――嫌な胸騒ぎを、感じた。

 

 

「……。マルーシャ、一体どうしたんだ? 君、何か悩んでるのか? 僕が、力になれるなら――」

 

「ううん、大丈夫……ありがとう、大丈夫だから」

 

 きっぱりとそう言われてしまうと、何も言い返せない。ただ単に、自分が不必要に心配している可能性だってある。マルーシャの純粋な、優しげな笑みを見ていると、それ以上なにも言えなくなってしまった。

 

「あ、そうだ! 失敗といえば!」

 

 エリックが悩んでいると、マルーシャは両手を叩き、ニコニコと笑いながら口を開いた。

 

「あの時の曲、エリックが失敗してた奴。リベンジしてよ!」

 

「ッ、あ、あれか……!」

 

 あの時の曲、というのはポプリとジャンクに送ってもらい、城に帰った後に弾いていた曲のことだ。無理だ、とエリックは首を横に振るう。

 

「応えてやりたいけど、あれは暗譜していない。楽譜が無いと、無理だ」

 

「えー……」

 

「そ、そんな顔するなよ……」

 

 心底残念そうな顔だ。だが、無理なものは無理なのだ。あれはまだ練習中の曲で、暗譜した挙句、即興で弾けるレベルには到底到達していない。それにしても、今日のマルーシャは妙に表情豊かである――と、頭を悩ませていたエリックの中で、ひとつの曲が浮かんだ。

 

「じゃあ、あの曲とは違うけど。これで我慢してくれよ」

 

 軽く深呼吸し、エリックはピアノに向き直る。両手の指を鍵盤の上に乗せ、静かに、音を奏で始めた。

 

 

「え……?」

 

 マルーシャが驚き、弱々しい声を出した。エリックは口元に微かな弧を描き、追憶にふけりながら指を動かし続けた。

 

 

―――

 

―――――――

 

―――――――――――

 

 

『エリック、ピアノ弾けるんだ! すごいね!!』

 

 思い返すのは、十年前。マルーシャと出会って間もない頃――いつものように突然押しかけてきた明るすぎる少女に、まだ鬱陶しさを感じていた頃。

 

『……また、来たんだ』

 

『もう! またそうやって!! ねえ、ピアノ、続けてよ! わたし、ここで聴いてるから!!』

 

 その日のマルーシャ登場は丁度エリックがピアノを弾いていた時で、要するにマルーシャによって演奏が妨害されてしまったのだ。

 とはいえ、エリックの態度は訪問者に対する態度ではない。会話のキャッチボールをする気がないどころか、ほんの僅かな苛立ちと、それ以上に無気力感の込められたエリックの言葉。マルーシャは頬を膨らませて近くにあった椅子に腰掛けた。

 

『……エリック?』

 

 マルーシャの期待が、叶えられることは無かった。エリックは特に何も言うことなく、鍵盤蓋を下ろしてしまったのだ。無言の、拒絶であった。

 

『そっか……えへへ』

 

 それなのに。マルーシャは悲しげに笑ってみせる。エリックを責めることは無かった。

 

 

『エリック。いつか……いつか、で良いから。わたし、ね。大好きな曲があるの……その曲、弾いて欲しいな』

 

 

 今にも泣きそうな笑みを浮かべながら、拒絶された悲しみを押し殺しながら、マルーシャは大好きだという曲のタイトルを口にした。その曲は――――。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「なん……で……」

 

 マルーシャの声が、震えている。それもそうだ。エリックは今この瞬間まで、この曲を彼女の前で弾いたことが無かったのだから――我ながら酷い奴だな、とは思う。

 

 マルーシャが過去に、一度だけ教えてくれた『大好きな曲』のタイトル。彼女が覚醒し、エリックの命を救ったのはこれより後の話である。

 

 何かお返しがしたい。そう思ったエリックが思い出したのが、この曲だった。こっそりと楽譜を手に入れ、練習をすると勘付かれる可能性があるので練習はせずに暗譜だけを行い、彼女が家族と出かけるとかでルネリアルを発っている時限定で、密かに鍵盤を叩いた。エリックはもう、何年もそれを続けている。

 

 弾くたびに思うが、この曲はどうにも「マルーシャが好きな曲」という印象が付きにくい曲だった。要は、物静かな曲なのである。この曲を聴いて太陽のように明るい彼女を連想するのは不可能に等しいだろう。十年前のマルーシャの言葉が無ければ、エリックは彼女のためにこの曲を練習しようとは思わなかったはずだ。

 どこか寂しさを感じる、ゆったりとした高音の優しい旋律。その旋律は、美しい幻想的な情景をイメージさせる。きっと、マルーシャはその情景が好きなのだろう。だから、この曲を好んだのだろう。この曲は彼女にとって、特別な曲であるに違いない。後にも先にも、彼女がある特定の曲を「好きだ」と言うことは無かったから、恐らく間違いない筈だ――ただせっかく練習したにも関わらず、エリックがこの曲をマルーシャの前で弾くことは無かった。

 

「その……あれだ、あんな馬鹿みたいな態度取ってただけに、恥ずかしかったんだ。実は十年前から、ずっとこの曲を練習してた……なのに、言い出せなくて」

 

「……」

 

「驚いた、か……?」

 

 楽譜が無くても問題ない。それどころか、喋りながらでも弾ける。それだけエリックは、この曲を頭に叩き込んでいた。指に、覚えさせていた。

 振り返ることなく、エリックはマルーシャに語りかける。背後から、マルーシャの弱々しい、無理矢理引き出したような声が聴こえてくる。

 

「絶対……っ、覚えて、ない……って、そう、思って……ッ」

 

「……」

 

「……な、のに……」

 

 嗚咽混じりの、マルーシャの声。これは「泣くほどのことか?」とエリックは思ったが、きっと十年前のあの日、彼女はエリックが考えている以上に、傷付いたのだろう。傷付けて、しまったのだろう。

 

「……ごめん」

 

 悩むまでもなく、エリックの口から謝罪の言葉が紡がれた。曲は、最後の繰り返し記号を過ぎた。もうすぐ、曲が終わる。そうすれば、後ろを振り返ることができる。

 演奏を中断することも考えたが、これだけ待たせた挙句、泣かせてしまったのだ。彼女が大好きだという曲を、途中で止めてしまいたくはなかった。

 最後の数小節が、妙に長く感じられた。色々考えすぎて、間違えてしまいそうだ。だが、こんなところで間違えるわけにはいかない、と一旦エリックは意識を鍵盤に集中させる。

 

「……」

 

 曲が、終わる。最後の音が儚く響き、聴こえなくなる。

 

 嗚咽を上げながら泣くマルーシャの方を振り返ると、彼女は涙を流しながら、無理矢理笑ってみせた。

 

「あり、がとう……ッ、すごく、良かっ……」

 

「……こちらこそ、ありがとう」

 

 そう言ってハンカチを差し出せば、彼女は「ごめんなさい」と音にならない言葉を発し、その場に座り込んでしまった。ひっくひっくというあまりにも弱々しい泣き声が、ロビーに響く。

 

(マルーシャ……?)

 

 またしても、エリックは思う――そこまで、泣くほどのことか、と?

 感激したのだとしても、過去に傷付けたのだとしても。これはちょっとおかしい気がしてならない。

 

 嫌な予感がする。だが、どうすれば良いのか。

 

 何も言うことができず、エリックは静かに、マルーシャの目の前にかがみ込んだ。するとマルーシャは我慢できないといった様子で、エリックの胸に飛び込んできた。

 

「ひっく、うぅ……ッ、ぐす……」

 

 泣き叫びたいのを、懸命に、必死にこらえているようであった。何かがおかしいとは思った。しかし、エリックは何も言えなかった。

 ボロボロと涙を零しながら、酷く身体を震わせるマルーシャの肩に戸惑いながらも手を回し、エリックは静かに、彼女が泣き止む時を待っていた。待つことしか――できなかった。

 

 

 

―――― To be continued.

 


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