テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー 作:逢月
「! 目が覚めたんだね!?」
エリック達が村に戻ると、シェリルの兄だというロジャーズがこちらに駆け寄ってきた。どうやら彼は商人であるらしく、店の開店準備をしていたところだったようだ。
今は深夜というよりは早朝という言葉が合いそうな時間帯ではあるが、準備が早いのは間違いない。周囲の状況を見る限り、この村の朝は早いのだろう。
「身体はもう大丈夫……ではなさそうだね。顔色もあまり良くないし、腕の傷が酷いのかな……でも、良かった……」
「……?」
突然駆け寄られ、能力が使えない状況にも関わらず目を閉ざしていたジャンクは全く状況が飲み込めていないようである。そんな彼にロジャーズは優しく微笑みかけ、口を開いた。
「私はロジャーズ=ローエンフェルドっていうんだ。君の母、シェリルの兄だよ」
「ッ!?」
「ど、どうしたんだ!?」
「いえ、大丈夫です……大丈夫、ですので……」
ロジャーズの言葉を聞いた瞬間、ジャンクは顔面を蒼白にし、込み上げる嘔吐感を堪える様に左手で口元を覆って目の前の男から顔を逸らす。
開眼しているが、これは信頼した云々ではなく余裕が無くなったが故のものだろう。第一、
「……ッ、す、すみません……」
震えている。雨粒に濡れて寒いだとか、そういう類ではない震えだ。
「ジャンさん、ここの人達はあなたを咎めたりしない……ちゃんと、理解して下さる筈ですから……」
ジャンクのフォローはアルディス達に任せ、エリックは突然甥に怯えられて困惑するロジャーズの前に移動する。エリックは、赤い瞳を伏せて奥歯を噛み締めていた。
(こいつの過去を考えれば……母親の親族に会うのは間違いなく怖い、よな……)
深く考えなくとも分かる。これはロジャーズに悪気があるか無いかの問題ではない。だが、それをはっきりと理解していないロジャーズには分からない話である。
「ええと、アベル殿下。どうしてこうなったのかが、分からないのですが……」
「申し訳ありませんが、彼は恐らく『シェリル=ローエンフェルドの親族』というだけで無条件に怯えてしまう筈です……どうか、お怒りにならないで下さい……」
エリックは小声で、それもかなり詳細を伏せながら事情を語ったのだが、それでもはロジャーズは察してしまったらしい。
「妹は、もう……この世にはいないのですね」
彼はエリックにしか聴こえない程の声量でそう呟いた後、おもむろに頭を振るい……そして、再び笑みを浮かべてみせた。
「それでも、私は甥っ子達に逢えただけで十分です。妹の生きた証が、ちゃんと残っているということなのでしょう? それを、下の甥っ子君に伝えることはできないのでしょうか。上の甥っ子君よりは、まだ会話が出来そうな気がするのですが」
「え……」
上の甥っ子君、とは間違いなくダリウスのことだ。彼は気付かれないように振る舞おうとしていたようだが、無意味だったようだ。
「はは……甥っ子が二人とも何かしら拗らせているらしいことは把握しました。それでもせめて、下の甥っ子君に祖母に会って欲しいと頼んでも良いですか? 私の母も、孫が来たという話は聞いているので。会いたいと、言っているのです」
「そうですね、言い方は悪いですが、揃って盛大に色々と拗らせておりますが、だからといってそのお話を断る理由にはなりませんよ……ジャン!」
これで無理だと撤退したのでは、流石にロジャーズと彼の母に申し訳無さ過ぎる。上の甥っ子君ことダリウスが何も言わずに帰っているだけに、尚更だ。
「え、エリック……?」
「今はまだ信じられないだろうが、本当に大丈夫だから。この村は、ヴァイスハイトに対する理解がある。少なくとも、お前の父親みたいなことにはならない……だから……」
「……」
ジャンクはまだ、怯えている様子ではあった。しかし、いつまでもこの状態ではいけないと考えたのだろう。彼はロジャーズの方へ向き直り、深く息を吐いた後で口を開いた。
「ジャン……いえ、違いますね。僕は、クリフォードと申します。どうか無礼を、お許しください……」
偽名を名乗りかけたものの、最終的に彼が名乗ったのは本名の方だった。今はこちらが適切だと、そう考えたのだろう。実際、彼の偽名はあまり人に良い印象を与えないものだ。
「無礼だなんてとんでもない! うん、君は少し見ただけで分かるくらいに、力の強いヴァイスハイトのようだね。細かいことは気にしないで欲しい。思うことはあるだろうけど、君さえ良かったら私の母に会って貰えないかな?」
「そ、その……僕は……」
ロジャーズの申し出に、ジャンクは酷くたじろいだ。ゆるゆると首を横に振るい、後ろに一歩足を踏み出す。
「駄目、です……ぼ、僕は、僕の存在は、あなたの母親を……酷く、傷付けてしまうと思います。人格が変わってしまう程に、どうやっても塞がらないような深い傷を、与えてしまう……そんなのは、もう、嫌だ。見たく、ない……嫌、だ……!」
敬語でしか喋れなくなっている時点で理解はしていたが、ジャンクはかなり情緒不安定になってしまっているらしい。酷く怯え、真っ青な顔色をした彼は震えながら後ろに足を踏み出し続ける。このままだと、この場から逃げ出してしまうかもしれない。
(これは一体どうしたものか……)
ロジャーズは別にジャンクを傷付けようとしているわけではないし、彼の母もそれは同様だろう。しかし、今のジャンクにそんな余裕は無い上に、ここで下手な刺激を与えては取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。
申し訳なさを感じつつ、エリックはロジャーズを止めるために動こうとした――その時だった。
「あーあ、こんなにびしょ濡れになって……うちにお入り」
いつの間にか、老婆がジャンクの後ろに立ち、彼の腕を掴んでいた。何を考えたか、彼女はそのままジャンクの腕を引いてロジャーズの店へと向かおうとする。
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってくださ……!!」
当然ながら困惑し、相手が老婆であるためか振り払おうにも振り払えないらしいジャンクはそのまま彼女に連れて行かれている。その様子を見たロジャーズは、慌てて声を張り上げた。
「か、母さん!」
「!?」
そしてジャンクは自分の腕を掴んでいる老婆の正体に、気付いてしまうのであった。
「誘拐じゃないよ、ロジャーズ。あたしは可愛い孫を連れてくただの婆だよ」
「そうじゃない! そうじゃなくて、ちゃんと本人の意思を……!」
「何を言うかね。ずっと見てた。見てたから動いたの。ロジャーズ、お前のやり方じゃ決着が付かん。こういう頑固な子には、これが一番よ」
幸か不幸か、また精神退行を引き起こすのではないかと心配する程にジャンクは怯えており、無抵抗な状態となってしまった。そのために老婆一人の力であっさりと店の中に引き入れられてしまった。その様子を見ていたマルーシャは、目を丸くして固まってしまっている。
「お、おばあちゃん強い……」
彼女の言葉に「そうですね」と思わなかった者はきっとこの場には存在しないだろう。ひとまずエリックは、マルーシャ同様に固まってしまっているロジャーズに話しかけることにした。
「あの、失礼を承知でお伺いします。私達も同席、させていただいてもよろしいでしょうか?」
「はは……そうですね、あれじゃ、不安ですよねぇ……」
部外者は居ない方が良いとは思う。しかしながら、まだ危うい状態のジャンクを、老婆と二人きりにするのは不安でしかなかった。
エリックの意図を理解してくれたのだろう。ロジャーズは苦笑いしつつも慣れた手つきで店を閉め、店の奥へと案内してくれた。
店はどうやら住居と一体化した形のようで、奥の部屋にはこじんまりとした小さな一室があった。そこに、テーブルを挟んで椅子に座っているジャンクと老婆の姿を見付けた。
「着いてきたのかい? それならちょっとこの子を宥めておくれ。固まっちまって、動かないんだよ」
「……」
エリック達の姿を確認したジャンクは「助けてください」とでも言いたげな視線を痛い程に送ってくる。声に出さず、さらに逃げ出そうともしないのはある意味救いだった。
「お友達には反応するんだねぇ……まあ、ちょっと待ってなさい。お菓子を持ってくるわ。ロジャーズ、お友達の席を用意して!」
「は、はあ……」
▼
用意されたのは焼き上がったばかりらしい、焼き菓子の山だった。ロジャーズの話によると、老婆――ミカエラは娘シェリルの息子が村にやって来たという話を聞き、ちょうどエリック達が外に出たくらいの時間帯から延々とお菓子を作り始めていたらしい。
そんな話を聞き、流石にいつまでも黙っているのは申し訳ないと思ったのだろう。ジャンクは忙しなく動き回るミカエラに声をかけた。
「あ、あの……どうして……僕は、あなたの娘を……」
「……。気付いてるよ、シェリルが死んだことくらい。それでも、あたしは孫をもてなすのをやめる気はないね」
「!」
椅子に座ったジャンクの声に反応し、ミカエラは彼の傍へと移動する。そして、微かに震える孫の右頬へと、深いシワの刻まれた指を伸ばした。
「あの子に、とてもよく似た顔をした子だ。母親に、似たんだね……あたしはミカエラだ。お前の名前を、聞いても良いかい……?」
「く……クリフォード、と申します……」
「クリフォード……良い名だね。優しそうな目をしたお前に、ピッタリの名だよ……」
ジャンクの顔を覗き込み、「ヴァイスハイトなんだね」とミカエラは目を細める。その声音からは、ジャンクに対する敵意や嫌悪は全く感じられなかった。
「あの娘はヴァイスハイトではなかったけれど、とても強い力を持っていたんだよ」
「……」
母親であるシェリルの話をされるのが、辛いのかもしれない。それでもあからさまな反応をするのは良くないと思ったのだろう。ジャンクは一瞬だけ目を泳がせこそしたが、ミカエラから顔を逸らすことはなかった。
「うちの家は別に裕福でもなんでもなくってね。シェリルも普通の村娘として、それなりの生涯を終えるだろうなと、そう思っていたんだけれどねぇ……」
「……」
「あの娘は精霊様との意思疎通が得意だったから、精霊巫女っていう役職に選ばれたんだ。聖者の皆様の聖地巡礼に、精霊様と言葉を交わす為に同行したんだよ……もう三十年近く前の話になるんだけれどね」
シェリルの事を語るミカエラの姿は、寂しげではあったがどこか幸せそうで。だが、その反面ジャンクの顔には明らかな憂愁の影が差している。態度には出さないが、本当に辛そうだ。
「あっ、あの……っ!」
見ていられない、とマルーシャはミカエラを止めようと二人の傍に寄ろうとする。それに気付いたロジャーズは、すぐさまマルーシャの手を掴んで静止した。
「待ってください。母のことですから、きっと、何か意図がある筈です」
「な、なんで……っ」
意味が分からない、とマルーシャは頭を振るう。そうこうしているうちに、ジャンクの虚勢が限界を迎えようとしていた。
「……自慢の、娘さんだったんですね。娘さんに、帰ってきて、欲しかったですよね……」
どんどん、声が弱々しくなっていく。エリック達が何度も伝えたものの、ジャンクはまだこの村とヴァイスハイトとの繋がりを理解していない――否、村の事情を知っていたとしても彼は、自分が産まれたことで母親シェリルが死んだという事実に苦しんでいただろう。
こればかりは、彼自身が乗り越えるしかない問題だ。エリック達には、どうすることも出来ない。
「そうだね。シェリルが自慢の娘だってのも、帰ってきて欲しかったのも……否定はしないよ」
ミカエラの言葉に、ジャンクは奥歯を噛み締めて俯いてしまった。この言葉が帰ってくるのを、彼は恐れていたのかもしれない。だが、ミカエラは静かに微笑んでいた。
「ふふ、意地悪をしてすまなかったね。先に言っておくが、自分が母を死なせたなどと謝るんじゃないよ。クリフォード、お前のせいじゃない……仕方が無かったことなんだよ……」
あまりにも悲しげな顔をしているから、ちょっと意地悪をしたくなったんだ。そう言ってミカエラは顔を伏せたまま目を見開いているジャンクの頭を撫でる。
「シェリルは、幸せ者だね。精霊様に、深く深く愛された子を身ごもったんだね。それも、このブリランテに伝わる浄化の力を持った子だなんて……あの子はきっと、嬉しかったろうね……」
「……」
ジャンクは、何も言えなくなってしまっていた。それだけ、彼の中ではミカエラの行動が予測不可能なものだったのだろう。傍から様子を見ているエリック達には想像もできない程に、強い衝撃を受けているに違いない。
「……ちょっと、お隣失礼するわ。あたしにも喋らせてね」
そんな彼の肩に手を置き、ポプリはミカエラと向き合うような体勢をとった。一体何を、とは思ったがポプリのことだ。ミカエラ同様に何か考えがあっての行動だろう。エリック達は、黙って成り行きを見守ることにした。
「あたし、ポプリっていいます。クリフォードさんは、旅仲間だとでも言えば良いんでしょうか? 偶然、耳にしたことがあったので、この場を借りてお話させてください」
軽く自己紹介をしてから、ポプリはジャンクの顔を横目で見た。ポプリのことを気にしている様子ではあったが、相変わらず言葉が出ないようだった。
「……場違いな気もするのだけれど、言うなら今しかないかなって。そう思ったの」
それをチャンスと見たらしいポプリは、ジャンクの肩に置いている手とは反対側の手を自身の胸元に当て、口を開く。
「クリフォード……彼の名前は、母親であるシェリルさんの名前の頭文字を取って名付けられた、『清く導く者』という意味を持つ名前なのだそうです」
『クリフォードは母親シェリルの名前の頭文字を取った、『清く導く者』という意味の込められた名前だ。嫌な思い出も多いだろうが、それでも両親の愛情が込められた名前だからな。知らないままなのは、可哀想な気もするんだ』
彼女が紡ぐのは、ダリウスから託された言葉。ミカエラとロジャーズのみならず、隣で微かに震えているジャンクの心にも届けと、彼女は願った。
「シェリルさんへの確かな想いと、息子への願い……その両方が込められた名前。それを愛する旦那から聞いた彼女は、きっと嬉しかっただろうなって、思うんです……」
悲しみに歪み、狂ってしまったシェリルの夫。ダリウスとジャンクの父でもあったその男が、間違いなく、家族全員の幸せを心から願っていたであろう彼が、こんな結末を望んだ筈はない。
「うふふ……きっと、お二人や彼の兄の想いが強すぎたんでしょうね。あまりの仲睦まじさに、精霊達が思わず祝福してしまう程に。だから、こんなにも優しい力を持った子どもが生まれたのでしょう」
『一応言っておくが、父親はクリフォードの誕生を心から楽しみにしていた。それにも関わらず、クリフォードが虐待された理由はアイツが母親の死因になってしまったこと……種族を越えて愛を選ぶような人だ。きっと、虐待の理由はそれだけだったんだと思う。母親さえ生きていれば、息子が異端児でもあの人には関係なかったはずだ……』
かつてシャーベルグの地に存在していた上流貴族、ジェラルディーン家。その姿をポプリ自身の目で見たわけではない。だが、彼女は確信していた。
騎士としての威厳を持ちながら、家族を本気で愛する父。
迫害される境遇にも折れない、真に強い心を持った優しい母。
『正義』を何よりも重んじ、努力を怠らないしっかり者の兄。
ジャンクがこの三人に囲まれて育つという、道を歩めていたのならば、きっと彼は、己が生まれたことを悔やむことは無かっただろうと――。
「……」
悔しい、とポプリは訳も分からずそう思った。一体何処で、彼らの歯車が狂ってしまったんだと彼女は奥歯を噛み締め、必死に涙を堪える。ここで自分が泣いてしまったところで、どうしようもないのだから、と。
「確かにシェリルさんは、精霊に愛された子を身ごもった……それだけじゃ、無いんですよ。シェリルさんは……きっと、一人の女としても、最期まで幸せだった……あたしは、そう信じています」
――シェリルは決して、己の人生を嘆いてなどいなかったに違いない。
それがダリウスの話を聞いて出した、ポプリの結論だった。理由を上手く言い表わすことは出来なかったが、それでもミカエラには伝わっていたようだ。ポプリの話を聞いたミカエラは、老いた身体を震わせて「くっくっく」と少しだけ悪戯めいた笑い声を上げた。
「なるほど……ね。我が娘ながら、大したものだよ……アンタもなかなか肝の座った娘だけどね。続きはあたしに言わせてもらえるかい? まあ、嫌だと言っても言わせてもらうがね」
「え、ええと……は、はい、お願いします……?」
「それは良かった。じゃあ早速……クリフォード」
ミカエラに名を呼ばれ、ジャンクは漸く顔を上げた。その顔に、再びミカエラが手を伸ばす。余程娘と彼が似ているからなのか、それが彼女の癖なのか、深い意味などなく、単純に孫の顔に触れたいだけなのかは少々判断に苦しむものではあったが、害を加えるものでないのは確かだ。
「あたしもだけど、シェリルは優れた
ジャンクは母親が
「僕が聖獣ケルピウスの化身であったから、でしょうか……?
「いいや、違うね」
娘は宗教的な考え方をしないんだよ、とミカエラは苦笑する。シェリル本人に産む意思が無ければ、自分の身に宿ったのが聖獣だろうが神の遣いだろうがお構いなく自分の生を優先しただろう、と。
「ポプリといったか? そこの娘の考え方で間違いなかろう。娘は最期の時まで、幸せだった筈さ……だからこそ、お前を産もうと考えたんだ」
頭が追いついていないジャンクが意味を問うよりも先。ミカエラは彼の頭をぽんぽんと叩き、目を合わせて言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「あの娘はきっと、自分が愛した世界を、お前に生きて欲しかったんだろうよ」
告げられたのは、あくまでもミカエラの考えでしかない。しかしながらそれは、驚く程に『真実の事柄』であると感じさせるものであった。
「だから、もうシェリルの死に責任を感じるのはお止めなさい。シェリルも、あたし達も、お前にそんなことは望んじゃいないよ。変なこと考えてる暇があったら、幸せにおなり。あわよくばひ孫を見せておくれ」
そう言ってミカエラがポプリを見ると、ポプリは顔を真っ赤にして首を横にぶんぶんと振っている。彼女は自分自身を「優れた
何せ、気の強そうな老婆である。慣れているのか、ロジャーズはただ、困ったように笑うだけであった。
「ほらほら、あんた達も。せっかく焼いたんだ。食べていくと良いよ。口に合うと良いがねぇ……どうも良いとこの坊ちゃんか嬢ちゃんばかりのようだから、こればっかりは分かんないねぇ……」
そう言ってミカエラはエリック達にも菓子を勧めてきた。これで食べないのは失礼だろうし、何より焦がしバターの芳醇な香りが食欲をそそる。アルディスに聞くと、これは『フィナンシェ』という卵白をベースにした焼き菓子なのだという。
「美味しい。どんな分量で作ったんだろ……聞いたら教えてもらえるかな……」
「お前……メニューを増やすなメニューを……でもまあ、確かに美味しいなコレ」
「何だか懐かしいなぁ、またお菓子作ってよ、アルディス」
「うん、気が向いたらね?」
テーブルを囲んで甘い物を食べるのは、エリック達にとっては少し前の“日常”であった。それを思い出し、エリックは苦笑する。
ちらりと横目でジャンクを見れば、茶色いチョコレートフィナンシェを恐る恐る口にしようとしていた。能力が使えれば透視していたのだろうが、今はそれができないのだ。いかに彼が自身の能力に頼り続けていたかが、嫌でも理解できてしまった。情緒が不安定なままなのは、能力が使えないということが大きいのかもしれない。
「変な物入っちゃいないよ。大丈夫。それにしても、そういうの怖がる癖にわざわざ色の黒い奴選んじゃうなんてねぇ……ひょっとして、チョコレートが好きなのかい?」
「え……は、はい……」
「うーん、やっぱり親子なのかねぇ。シェリルもこれが大好きでねぇ……ノア皇子にレシピ教えとくから、また作ってもらうと良い」
先程の会話が聞こえていたようで、ミカエラはアルディスの方を見て笑った後、漸くフィナンシェを口にしたジャンクの頭を撫でていた。その表情を見る限り、彼もまたこのチョコレートフィナンシェが気に入ったのだろう。そんな姿を見て、エリックは思わず口元を緩ませる。
ジャンク――クリフォードの負った傷は、あまりにも深い。それでも、彼の目に見える世界は、少なからず変わったことだろう、と……。
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この子は、“普通の子”ではないから。幸せになるのは難しいかもしれない――。
けれど、私はこの子を産みたかった。私の愛した、この世界を生きて欲しいと願ってしまった。人は、それを『愚か』だと言うでしょう。だって私も、自分は『愚か』だと思っているから。
――時は、二十三年前に遡る。
「……もうすぐ、お別れね」
涼しい海風が入り込む窓際で娘は黒の瞳を細め、泣き出しそうな笑みを浮かべる。我が子が宿っている大きな腹を撫でながら、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「今は一緒にいられるけれど、もうすぐ、離れ離れになっちゃうから……」
癖の無い、空色の長い髪がさらさらと風に流れる。娘の顔色は、決して良くは無かった。彼女には死期が迫っていた。しかし娘は、必死にそれを周りに悟らせまいと過ごしていた。
「ごめんね、酷いお母さんで……ごめんね……」
それでも一人、“正確には”二人になると、どうしても弱くなってしまう。死ぬことが、怖くないわけではない。生きたいと願ってしまう。それでも彼女は死を選んだ。
「これから成長していくあなたの姿どころか、私はきっと、産まれてくるあなたの顔さえも見れない。それだけが、心残り……でもね、私はこの選択を後悔なんてしていないの」
だからあなたも、何も気にしないで育ってね。あなたは、何一つ悪くないんだから。
そう言って儚く笑う娘の白い頬を、涙が伝う。そんな時、部屋のドアがノックされた。
「シェリル、私だ。入っても良いかな?」
「はい、どうぞ」
慌てて涙を拭い、笑みを浮かべて返事をするとすぐさま背の高い金髪の男が静かに部屋に入ってきた。胎児の父親であり、娘――シェリルの夫であるディヴィッドだ。
彼は窓際に座っているシェリルの姿を見るなり、慌てて駆け寄ってきた。
「海風に当たるのは止めなさいとあれ程……! 顔色も悪いじゃないか、ほら、早く横になるんだ! ほら!」
「あらやだ。ディヴィッドさんったら、本当に心配性なんだから」
そうは言いつつも、シェリルは嫌がるような素振りを見せなかった。むしろ、嬉しそうだった。ベッドに横になった彼女は、脇にあった椅子に腰掛けたディヴィッドのゴツゴツした手に指を絡めて首を傾げてみせる。
「それで、どうしたの? ディヴィッドさん?」
恥ずかしかったのだろう。えへへ、と幸せそうに笑う彼女から少し目を背け、ディヴィッドは壊れ物に触るかのようにシェリルの腹部にそっと手を伸ばす。
「この子の名前を考えたんだ」
遅くなってすまないね、と言ってディヴィッドは笑う。二人の間には既にダリウスという名の男児がいるのだが、彼の名前はシェリルがディヴィッドの名前の頭文字を取って勝手に名付けたものであった。そんな経緯があったものだから、ディヴィッドは「次男は私が付ける」と言い出し、二人目の子が男児だと判明してから今日までずっと彼は頭を悩ませていたのだった。
「待ってたわ。やっと、この子を名前で呼べるのね……」
「悪かった。それで……クリフォード、というのはどうかな?」
クリフォードとは、神歌伝説の主人公“ルネリアル”と“スウェーラル”が生きていたとされる古の時代に存在した泉の名が語源であり、その泉の水が清らかに澄みきっていたこと、ルネリアルとスウェーラルが大切にしていた泉であるということから『清く導く者』という意味を持つ。
今の世には詳しいが、古の時代に関する知識が無いディヴィッドがこの名を考えるまでに、一体どれほどの苦労があったことだろう。シェリルは目頭が熱くなるのを感じた。
「良い名前……でもクリフォードが古の時代の言葉だって、知っていたの?」
「ダリウスに合わせて付けたくて調べたんだが、文献が間違っていないか不安なんだ」
お世辞にも信仰深いとは言い難いシェリルだが、神話の舞台である古の時代の言葉を好んでいるらしく、彼女が長男ダリウスに付けた名がそれを物語っている。
長男の名前の意味は『正義を貫く者』。元々は例の泉の側に住んでいたが、神に導かれるようにしてルネリアルとスウェーラルの二人に出会い、共に闘った青年の名だそうだ。
「合ってるわ。それに、水を司るこの子にぴったりの名前だと思う……」
ディヴィッドは「良かった」と言って顔を綻ばせた。余程苦労して調べてくれたのだろう。しかも、クリフォードはシェリルと同じ頭文字から始まる名前だ。ディヴィッドは何も言わないが、そういう意味も含めて考えられた名前に違いない。
「……クリフォード。あなたは、今日からクリフォードよ」
腹を撫で、シェリルは花が咲くように微笑んだ。
クリフォード――決して会うことの叶わない息子の名を、胸に刻み込もうと何度も紡ぐ。
「辛いことも、あるかもしれない。悲しいことも、あると思う……それでもね、あなたにはきっと、素敵な出会いが待っているから。だから、大丈夫よ。クリフォード」
ディヴィッドが「妻は一体何を言い出したんだ」と言わんばかりに首を傾げているが、シェリルは構わずに息子への言葉を紡ぎ続けた――もうすぐ、お別れだと分かっていたから。
そのことは、ディヴィッドにもダリウスにも告げていない。最低な母親ね、とシェリルは心の中で自分を蔑んだ。それでも、自分の選択を間違いだとは思いたくなかった。
「ッ、ディヴィッド、さ……」
それは、少なくともディヴィッドにとっては突然のことであった。今まで穏やかに話していた、シェリルが苦しみ始めたのだ。力が抜けてしまったのだろう。彼の手に絡めていた彼女の指が、するりと宙を舞う。
「シェリル!?」
夫に名を呼ばれるのを感じながら、シェリルは今この瞬間に産まれてこようとしている胎児に意識を向ける――この子はきっと、私に名を呼ばれる日を待っていてくれたのね、と。
「シェリル……っ!!」
ディヴィッドさん、ダリウス。何も言わず、愚かに死んでいく私を許して下さい。
クリフォード、ごめんね……私の愛したこの世界で、どうか、幸せになってね……。
――そして“その子”は、母の命を犠牲に生まれてきた。
その子は……“その子が共にあることを望んだ者達”は、今度は、世界のために――。
―――― To be continued.