テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.43 紙一重の賭け

 

 僕の中に存在している一番古い記憶は、実の父親に「人殺し」と罵られ、殴り飛ばされた記憶……だろうか。こんなこと、一度や二度じゃなかった。だから、分からない。

 

 物心付く前から、父は僕に暴力を振るっていた。母親は最初からいなかった――僕が、殺してしまったから。

 ある程度、成長した頃に。父が本当は暴力なんて振るいたくないということ、それでも手を上げてしまう葛藤に苦しんでいるということに、気付いてしまった。

 

 僕は、僕が殺してしまった母親に、とてもよく似ていたらしい。だから苦しいのだと、だから虐待をやめられないのだと……朧げな意識の中、僕が見た父の姿。大量の酒を飲みながら泣いていたその姿は、あまりにも寂しいものだった。

 

 全て、僕のせいだ。

 僕が生まれてきた事自体が、間違いだったんだ……。

 

 僕の中で込み上げるように浮かんでくるこの嫌な考えは、いつまで経っても色あせず、ドロドロと溢れ続け、とどまることを知らなかった。

 

 これは精霊の使徒(エレミヤ)としての役目を果たす上では邪魔にしかならない。そうだと分かっているから、忘れようと、考えないようにしようとしている。けれど、ふとしたことをきっかけに、どうしても考え込んでしまう。

 しかも眠れば必ずと言っていい程に悪夢を見るから、できることならば眠りたくなかった。

 

 実家でのことだけではなく、施設に売られた後のことを思い出すこともある。

 暴力に、実験、そして、僕のせいで死んでいった大勢の人達――本当に、発狂しそうになる……もう十年以上昔の話だというのに、未だに、考えるだけで震えが止まらない。本当に僕なんて、生まれてこなければ良かったのに……。

 

 

「ッ、は……っ、ッ……」

 

 気が付けば僕は上半身を起こし、柔らかな毛布を握り締めていて。指先から感じる感触から、ここがどこかのベッドの上だということを理解した。

 

 どうやら、先程まで眠っていたらしい。要するに魘されていたのだ。一体どれだけ眠っていたのか、そもそもどうしてこんな場所にいるのか。それを考えることができる余裕は、今の僕には無かった。

 

「……、う――。……ッ、く……っ」

 

 息が苦しい。ちゃんと呼吸をしている筈なのに、身体が不調を訴え、ぴりぴりと痺れてくる。目を覚ましたのは、この苦しさ故らしい。恐怖からなのか、息ができないせいなのかは分からないが、身体が酷く震える。

 

「おい! 大丈夫か!?」

 

 喉を抑え、何とか呼吸を整えようともがいていた僕の肩を正面から誰かが叩いた。ぼやけた視界ではそれが誰なのか判別できない。ただ、その人物が父と同じ金髪をしているという事だけは理解できた。

 

「ひ……っ!? あ……ッ、ああぁあっ!!」

 

 父はもういない。暴力を振るわれることはない。そしてここは研究所でもない。きっと危害を加えてくる人物は誰もいない。ちゃんと分かっているのに……駄目だ。何もかもが酷く、恐ろしく感じる――!

 

「ッ!?」

 

 近くにいた金髪の人物を片手で突き飛ばし、ここから逃げ出そうと寝かされていたベッドから降りる。しかし、身体に力が入らない。右腕に至っては感覚すらない。

 上手くバランスが取れず、身を投げるように勢いよく床に転がり落ちてしまった。そのせいで、身体の至る所から鈍い痛みを感じる。

 

「い、嫌だ……ッ、たす、け……っ、――ッ、う……っ」

 

 ずりずりと、身体を引きずって部屋の隅へと移動する。そこでやっと気が付いたが、この部屋には複数の人間がいたらしい。

 ただでさえ呼吸が乱れている状態で叫んでしまったものだから、状況はさらに悪化した。息ができない苦しさと、どうしようもない恐怖のせいで頭が上手く働かない。

 

 

「――先生!」

 

 

 冷や汗の止まらない、震える身体を強く抱きしめられたのは、そんな時だった。

 

「もう大丈夫! 大丈夫だから……ッ! あたし達は敵じゃない……怖がらなくて良いの。だから……ッ!!」

 

 震えているのは、僕だけではなかった。突然僕を抱きしめてきた人物はひっくひっくと嗚咽を上げながら肩を震わせている。顔は見えなかったが、頬をかすめる桜色のゆるやかなウェーブを描く髪と、そこから漂うほのかな香りには覚えがあった。

 

(懐、かしいな……)

 

 そういえば、これで二回目になる。どうやら、またしても僕は“彼女”に救われたらしい。

 

「……ッ、――ポ、プ……リ?」

 

 相変わらず息は苦しいが、少し意識がはっきりしてきた。頭に浮かんできた、彼女の名を呼ぶ。嗚咽を上げ続ける彼女の後頭部を軽く撫でながら、僕は静かに前を見た。

 

 少しぼやけた僕の視界に入ってきたのは、心配そうに僕を見つめてくる仲間達の姿だった。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

「……すみません。情けないところを、見せてしまいましたね。エリック、どうやら突き飛ばしてしまったみたいですが……怪我は、ありませんか?」

 

 漸く呼吸が落ち着いてきたらしく、やや荒い呼吸を繰り返しながらジャンクは少し引きつった笑みを浮かべてみせる。

 一時はどうなることかと思ったが幸いにもポプリが処置の仕方を知っていた。

 エリック自身も発作を起こして呼吸困難に陥ることはあるが、ジャンクのそれはエリックとは異なるタイプのものだった。本人曰く、完全にストレス性のものなのだという。

 

 ベッドに腰掛け、身体をエリック達がいる方に向けた彼の身体は、じっくりと見なければ分からない程度ではあったが、微かに震えていた。

 

「いや……大丈夫だ。僕の方こそ、何も考えずに近づいたりして悪かった……」

 

 あんなことがあったばかりなのだから症状が出るのも無理はないのだろうが、ジャンクに虐待を繰り返していたという父親の髪色を考えれば、同じ金髪の男性という特徴を持つエリックが近付くのは良くなかったのだろう。悪気があったわけではないが、結果的にジャンクを余計に怯えさせてしまったことを、エリックは後悔していた。

 

「え……ええと……」

 

「ダリウス=ジェラルディーン……あなたのお兄さんから、色々と話は聞いているわ。あたししかまともに聞いてない話もあるけど、多分、大体先生の事情は理解してる。だから、無理に説明しようとかそういう事考えなくて良いわ」

 

 落ち着いてきてはいるが、彼に過去のことを語らせるのはあまりに酷だ。何かを語ろうとしていたジャンクに気を遣い、ポプリはまだ涙の残る瞳を細めて微笑んでみせた。

 

「兄、さん……」

 

「そういえば、ジャンは“ダークネス”としてのダリウスのことを知らないんだよな。大丈夫、元気にやってるよ。アイツも色々あったみたいだが、心配しなくて良い」

 

 お前が目覚めるまで残っててくれれば良かったのになぁ、と笑うエリックに対し、ジャンクはおもむろに首を横に振ってみせる。

 

「良いんです。僕は、大丈夫です」

 

 明らかに大丈夫じゃないぞ、と言いたくなったのはエリックだけではないだろう。事実、彼は先程からダリウスに斬られた右の二の腕を抑えて震えている。もしかすると、痛むのかもしれない。

 もう見られてしまったからと諦めたのか、それともまた閉じている余裕すらなくなっているのか。彼は開いたままの両目を伏せ、長い睫毛を震わせた。

 

「困りましたね……どうも、本調子にならないのです。申し訳ない……」

 

「気にしないでってば。ねえ、ジャン……その右腕、動く? 大丈夫?」

 

 ジャンクの右腕は力なくだらりと垂れ下がっている。見るからに様子がおかしいため、治癒術を掛けようと思ったらしいマルーシャが手を伸ばし――途中で引っ込めてしまった。ジャンクがマルーシャにすら怯え、身体を強ばらせていたのだ。

 

「……ッ」

 

「す、すみません……」

 

 流石にここまで拒絶されると彼女も傷付いてしまったのか、涙をこらえるように下唇を噛み締めていた。だが、本当に無意識にやってしまったらしいジャンクの方も罪悪感からかなり堪えている。それに気付き、マルーシャは「大丈夫」と笑みを浮かべた。

 

「その……駄目ですね。全く動きません。多分、切れたらいけない神経か何かが切れてますね。魔力不足なのか、能力が発動できないからどこがどうなっているのかさっぱりですが……」

 

 傷口は痛むがそこから下の感覚がない、とジャンクは右腕を押さえる左腕に力を込める。その言葉に、ポプリが血相を変えた。

 

「なっ!? あの馬鹿! なんてことしてくれてんのよ……ッ!!」

 

「大丈夫ですよ。大したことじゃない」

 

「大丈夫なわけないじゃない! 片腕動かなくなったって、一大事じゃない!! やっぱりダリウス一発殴っときゃ良かった……!!」

 

 怒りのあまり、ぎりぎりと奥歯を鳴らすポプリの姿を見たジャンクは軽く首を傾げて笑ってみせた。

 

「本当に、大丈夫です。腕自体が繋がってさえいれば、治ります。僕なら恐らく、二週間もすれば元通り動くようになりますよ。まあ、流石にこれだけ深いと傷跡は残るでしょうが……」

 

「え……」

 

「そんな反応しないでください……あの時、僕は言ったはずです」

 

 強がっているのか、先程からやたらとジャンクが笑っている。だが、そろそろ虚勢を張るのも限界が近いらしく、動く左手の爪で自らの太ももを服の上から抉って何かに耐えている様子だった。

 

「僕は、普通ではない……異常な存在です。人ではない、と……」

 

 

『所詮、僕は人ではありません……そんなこと、気にしないでください。こうなって、当然の化物なのですから……だから……』

 

 

 そういえば、ジャンクは確かにそんなことを言っていたなとエリックは思った。恐らく、エリック達からの言葉を聞きたくないのだろう。ジャンクは先程まで口数が減っていたのが嘘のように、突然せきを切ったように喋りだした。

 

「兄さんが、僕の腕を斬った理由はここに押された焼印のせいでしょう……焼印は僕に、永続的に魔力を放出させ続けるための術式でもあります。今までは、マクスウェル様のおかげで逃げ続けていられたのです……」

 

 声が、酷く震えている。もう喋るのも辛いだろうに。まだ何かを喋ろうと必死に考えているのが分かる。こちらの反応を一切待たず、それどころか目を閉ざしていることから、表情を見る気さえないようだ。

 

「だから、精霊の使徒(エレミヤ)として活動している間は、見つからずにいられたのです……ですから、その……」

 

「ジャンさん」

 

「そうですね……僕は、マクスウェル様に甘えすぎていたんでしょう……だから……」

 

「――クリフォードさん!!」

 

 喋り続けるジャンクにしびれを切らしたらしいアルディスが、ついに声を荒らげた。その声に驚いたのか、ここで漸くジャンクは一度口を閉ざした後、目を開いてアルディスの顔を真っ直ぐに見据えた。

 

「あ、アル……」

 

「クリフォード、さん……ッ、ごめん、なさい……っ! 俺のせい、で……ごめんなさい……っ」

 

 声を震わせ、アルディスはぼろぼろと涙を溢し始めた。

 

「あなたは出会った時から、最初からずっと、俺の味方でいてくれた……それに、俺がどれだけ救われたか! なのにっ、なのに俺は……!」

 

 拭っても拭っても、キリがない程に涙が流れる。時々奥歯を噛み締め、皮膚に爪を立て、何とか泣くのをやめようと必死にはなっているが、全く効果がない。

 元々アルディスは今回のジャンクの件に対してかなり責任を感じていた。そんな状態の彼が見たのが、今までほぼ平常心を保ち続けていたジャンクが錯乱した姿。いくらなんでも、ショックが大き過ぎたのだろう。

 

「あなたの苦しみに、俺は気付けなかった。ただ、甘えるばかりだった……ッ!」

 

 アルディスはジャンクと同じヴァイスハイトで、異端として扱われる辛さを、悲しみを知っていた。だからこそ、気付きたかった。気付かなくてはいけなかった。少なくとも、より彼を追い込むような行動はしたくなかった――のに。

 

 

 今更後悔しても遅い。何を言っても言い訳にしかならない。

 そう言ってアルディスは固く目を閉ざす。まだ何かを言いたげだが、泣き過ぎが原因でもう上手く言葉にならないらしい。その様子を見ていたディアナが、ぎゅっと胸元で腕を組んだ。

 

「アルだけじゃない……散々助けられておきながら、何もできなかったのは……アルだけじゃ、ない……」

 

 ディアナもまた、ジャンクに助けられた者の一人だ。今にして思うと、ジャンクが彼女の世話を焼いていたのは恐らく、ディアナの境遇が自分のそれと被っていると感じたからなのだろう。様々な事実を知った今なら、そういうことだったのだと判断できた。

 

「お願いだ、ジャン……オレ達相手に、怯えないで欲しい……悲しいよ……」

 

 ぽつりと、寂しそうにディアナがそう呟いた。

 

「とはいえ、あなたの気持ちはよく分かる。怖いよな、下手に相手を信用して……それで、信じた頃に手のひらを返されるのは。本当に、怖いよな……」

 

 両腕で自分を抱え込むようにしながら、ディアナは弱々しい声で、それでいて訴えかけるように喋り続ける。

 

「きっと……あなたは透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者だから。人一倍、人の汚さや醜さを知っている。その汚さや醜さの矛先が、あなた自身に向いた経験もオレなんかよりずっと多いんだろう。いっそ、誰も信じない方が良いと、そう思ってしまうくらいには……」

 

 ジャンクは両目を閉ざして生活しているため、ほぼ常に透視干渉(クラレンス・ラティマー)の能力を発動させている。あの状態ならば当然、うっかり誰かの心を視てしまうこともあっただろう。その時見てしまった心が酷く穢れていたとすれば。当然彼は、尚更人間に対して心を閉ざすに違いない。

 きっと、その状態は辛いだろうに。だからといって能力を使えない状態では目を開けなければいけなくなる上、危険を事前に避けることができなくなってしまう。今、ジャンクが怯えているのは能力が使えない状態だということもあるのだろう。

 

「……」

 

 アルディスはどうしようもない程に泣いてしまっているし、ディアナは今にも泣き出しそうだ。他の面々も、難しい顔をして黙り込んでしまっている。

 

「違う……違うん、です……その、僕は君達のことを汚いだとか、そういう風に思ったことは、一度もない……気にかけたのは、助けたのは、本当に僕の自己満足です……だから二人は、気にしなくて、良いんです……」

 

 流石に申し訳なく思ったのか、ジャンクは「アルディスとディアナは悪くない」と繰り返す。そして彼は、深呼吸してから話し出した。

 

「……僕はどうも、人との間に壁を作ってしまうらしい。そんなつもりは無いんだ。けれど実際、考えてみると僕はほとんど自分のことを話していなかったり……本音を、言わなかったり。これを繰り返したせいで、酷く傷付けてしまった人がいるんです」

 

 ジャンクはにへら、と笑みを浮かべてみせた。相変わらず取り繕ったような、見かけだけで中身のない、悲しい笑みだった。

 

「彼は非力な僕に戦う術を教えてくれて、彼の方が年下にも関わらず、ずっと気にかけていてくれていた。だが、僕あまりにも壁を作り過ぎたせいで、旅立つ前に言われてしまったんです……『お前に信じて欲しいのに。お前に信じてもらおうと、どれだけ頑張ったって、お前には届かないんだな』と……」

 

 これでも、反省したつもりだったんです。もう繰り返したりしないと、もう、こんなことで誰も悲しませたくないと――そう言った彼の、ハリボテのような笑みが崩れた。

 

「それなのに、僕はまた繰り返してしまったんですね……君達を、信じてないわけじゃなかった……なのに、やっぱり壁を作って、傷付けてしまった……」

 

 ジャンクは今にも、泣き出しそうな顔をしていた。彼の、この顔を見るのはこれで二度目だ。無理に笑おうとするのも、あの時と同じだった。そんな無茶なことをせず、いっそおもいきり泣いてしまった方が、ずっと楽だろうに。それでも堪えようとする彼の態度に、エリックは目を細め、溜め息を吐いた。

 

 

「今、こんなこと言うのもアレだが……ちょっと厳しいこと、言っても良いか?」

 

 無意味な問いだ。嫌だと言われても言うつもりだった。エリックはその場にしゃがみ込み、ジャンクと視線を合わせる。

 

「結局……お前は、僕らのことが、信じられなかったんだよ」

 

「!? ち、ちが……」

 

「……違わないよ」

 

 反論しようとしたジャンクの言葉を、エリックは首を横に振って否定した。

 彼は確信していた。何故、ジャンクの知人が傷付いたのかを。その理由を、彼は身をもって感じていた。

 

「僕らに弱みを見せた時、頼ってしまった時……それが原因で、態度を変えられてしまうんじゃないかと、最悪ディアナの言うように手のひらを返されてしまうんじゃないかと。多分、本当に無意識なんだろうが、お前はそういう風に考えるんだろうな」

 

「……」

 

「どうしてハッキリ『怖い』と言わない? 僕らに『助けて』と頼ってこない? 最初はお前のプライドがそうさせているんだと思った。けれど、お前の場合は違うだろ……怖かったんだろ、僕達のことが。僕達の前で、全てを曝け出すことが」

 

 ジャンクが錯乱した時。エリックはそのあまりの豹変に驚かされた。少々精神的に退行していたのもあるだろうが、抑えていたものを爆発させるにも程がある。何故、彼が感情を押さえ込んでしまうのか。その理由にも、エリックには心当たりがあった。

 

「人に頼れないっていうの。お前の場合は仕方ないとも思うよ。お前を助けてくれてたっていうダリウスは実験体にされるし、詳しいことは知らないが、チャッピー……いや、イチハの時も多分、似たようなことがあったんだろうし。要は今まで、お前が縋った奴全員、お前に危害を加えてくる存在になるか、お前の存在をきっかけにして何かしらの事件に巻き込まれるかしかして来なかったんだろ」

 

 これは完全に推測に過ぎなかったのだが、ジャンクの反応を見る限りは当たりだと考えて良さそうだ。ただ、それは同時にラドクリフ王国の問題を突きつけられているようなもので。この推測が当たっているとなると、エリックの立場としてはかなり辛かった。

 

「……ごめんな。自国の問題にも関わらず、僕は何も気付かなかった。あまりにも、僕は無知過ぎた……」

 

 ジャンク自身もそうだが、ダリウスもイチハも、ラドクリフ王国で秘密裏に行われていた人体実験の被害者だ。そんな大きな問題に、エリックは本当に、つい最近まで気付かず過ごしていた。恐らくこの旅がなければ、一生気付くことはなかっただろう。

 

「……エリックは、何もしてません。悪くない……」

 

「お前だって悪くないだろ……厳しいことを言いはしたが、僕はお前を責めるつもりは微塵も無い。僕が責められる側に回るならともかく、だ……」

 

 ジャンクが人を頼ってこない理由。それは、アルディスの“疫病神”の話に近いものがある。

 

 彼は、自分が原因で誰かを傷付くのを恐れ、同時に自分自身が誰かによって傷付けられるのを恐れている。

 これらを同時に防ぐには、人と距離を置くのが一番だ。実際、ジャンクはその手段を取っている。だが、それを繰り返していれば当然、正しい距離感というものが分からなくなってしまうだろう。

 

「そりゃ、な……できれば、お前の口からもっと色々なことを聞かせてくれると嬉しいよ。昔話をするのは苦しいだろうから、せめて辛いなら『辛い』って、言ってくれよ。少しくらい、僕らに頼って欲しい。甘えたって良い相手なんだって、信じて欲しい。でもな、それがすぐにはできないって、分かってる……分かってるから……」

 

 誰かを信じることと、誰かに裏切られることは紙一重だ。信じた相手が裏切るか裏切らないかはもはや、一種の賭けのような物だ。

 そして、その紙一重の賭けに乗れる程、今のジャンクは強くない。

 彼はきっと、もう二度とこの裏切られるかどうかの賭けに負けられない。これ以上の“負け”は、耐えられないと理解しているから。自分が壊れてしまうと、分かっているから。

 そして、こればかりはエリック達がどうにかできる問題ではない。どうしようもない話なのだ。

 あまりにも高く、分厚く築かれた壁を乗り越えるのは当の本人にしかできないことなのだから……。

 

 

「なあ、ジャン……とりあえず、今はこれだけ言わせてくれ」

 

 過去に囚われたまま、怯え続ける彼の力になりたいとエリックは思っていた。この思いは、決して自分だけのものではない。エリックはそうだと確信していたが、ジャンク本人に届くことはないだろう。「信じてくれ」といったところで無駄だ――だから、

 

「すぐに信じろと言うつもりはない。そんな無理矢理に得た信頼に、価値なんて無いから」

 

 命令して、無理矢理に得た信頼。

 そもそも、それは信頼と呼べるかさえ怪しいだろう。それこそ、虚像にしか過ぎない。

 そんな物は、誰も求めていない。無意味だ。彼が自分達のことを心から信じてくれた、その瞬間にこそ意味があるのだ。

 しかし、負った傷がすぐには癒えないように、その瞬間が訪れるまでには、きっと時間がかかる。それどころか、もしかすると待ったことが無駄になる可能性さえある。それでも、構わなかった。

 

「……ただ、僕が一方的にお前を信じる。それは、許して欲しい」

 

 

――エリックは、信じていた。

 

 

 いつか、ジャンクが自ら、自分のことを話してくれると。弱みも本心も全てをさらけ出して、彼自身が作った壁を乗り越えてくれると。きっと、その時が来ると。

 

 これを今この場で彼に言ってしまうことは、ただの重荷にしかならないかもしれない。そうだとしても、言わずにはいられなかった。だからエリックは言ったのだ。“許して欲しい”と。

 

「少なくとも僕は……いや、僕らはお前のことを信じている。だから、こっちは好き勝手にお前のことを信頼して、頼らせてもらうぞ。お前が嫌になるくらい、僕らは弱みを見せるかもしれない」

 

 実際、博学なジャンクの知識や彼の持つ様々な能力はかなり頼りになるものだ。恐らくこれから先は、彼の知識や能力に頼る場面が増えてくることだろう。

 

「悪いが、その時は助けてくれ」

 

 エリックは微かに震えるジャンクの顔を真っ直ぐに見据え、赤い瞳を細めて笑ってみせた。

 

「そしていつか、今度はお前が僕らを信じて、頼ってきてくれ」

 

「――ッ!」

 

「その時は必ず、僕らが力になってみせるから」

 

 きっとジャンク自身は人を、自分の傍にいてくれる人を、心から信じたいと願っている。

 それなのに、“彼自身”がそれをさせない。信じたいのに、信じられない。

 どうしようもないジレンマに支配されているうちに、彼は人を傷付けてしまった。それが、その事実が、さらに彼を追い込んで行ったのだろう。

 

 エリックの言葉に、ジャンクは視線を泳がせる。固く目を閉ざし、奥歯を噛み締め、膝に爪を立てる――しかし、もうそれは無意味なものであった。

 

「ッ、……な、何故、ですか……っ、何故、こんな僕を……こんな……っ」

 

 酷く震えた、か細い声。その声を出すと共に開かれた彼の両目から、涙が溢れた。嗚咽だけは漏らすまいと思っているのか、彼は左手で自身の口を塞ぎ、肩を震わせている。

 

「とりあえず……さ。このハンカチを取るところから、僕にハンカチを借りるところから、始めてみようか」

 

 エリックは上着のポケットからハンカチを取り出し、微笑んでみせる。

 

「やっぱりお前は感情を持った人間だよ。だから、自分を化け物だなんて、二度と言うな。考えるな」

 

 ジャンクは両の目を見開き、エリック達を見据える。誰も、目をそらしはしなかった。

 だが彼には、ただそれだけのことが救いだった。それだけで、本当に嬉しかったのだろう。

 

「……約束は、できません。僕は、自分が人間であるとは、どうしても思えないのです……生まれてきて良かった存在だとは、思えないのです……」

 

 ジャンクが紡ぐ言葉は、落ち着いた調子ではあったものの、その内容は決して良いものではない。

 何か言い返さなければと、エリックは思考を巡らせる。だが、その必要は無かった。

 

「それでも皆の傍にいれば、この考えを変えられるかもしれない……そう、思うことができました」

 

「! ジャン……」

 

「だから、どうかお願いです……一緒に、いさせてください。今の僕では、きっと足を引っ張ってしまいますが、どうか……」

 

「え……っ、お、お前なぁ……」

 

 進歩したのか、していないのか。それが駄目なんだろうと言ってやりたくなったが、今はとりあえず、こうしてやろう。

 

「ぶっ!」

 

 ジャンクの顔面にハンカチを投げ付け、エリックはため息を吐く。

 

「良いに決まってるだろ……逆に、着いて行きたくないと思った時は言ってくれ。それを言うまでは、むしろ引きずってでも連れて行くからな」

 

 しまった、ハンカチを本人に取らせてない。そうは思ったが、もう手遅れだ。

 ジャンクはエリックの言葉を聞きながらも、ぶつけられたハンカチを握り締めている。その体勢のまま、彼は暫しの間、何かを考えていた。

 

「……分かりました、では、こう言うべきでしょうか」

 

 結局使われなかったハンカチをエリックに差し出しながら、ジャンクはおもむろに口を開く。

 

「これからも、よろしくお願いします」

 

 色々と何かがおかしい気はしたが、彼の場合はこれで良いのだろうとエリックは考える。人との距離感や接し方をあまり理解できていないのだから、こればかりは仕方がない。

 

「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」

 

 それでもこれからは、少しは彼が自分達に頼ってきてくれることを願いながら、エリックは差し出されたハンカチを手に取った。

 

 

 

―――― To be continued.

 

 

 


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