テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.34 涙と共に

 

「うん、ここで良いわね……さあ、ノア」

 

 エリック達がいた部屋から、バルコニーはそう離れてはいなかった。色とりどりのステンドグラスが美しい扉を引き、ポプリはアルディスに外に出るようにと促す。

 

「ッ、分かってます……」

 

 アルディスは未だ、困惑した様子であった。それでも、ここまで来て逃げ出そうなどという考えは無かったのだろう。彼は意を決し、バルコニーへと足を踏み出した。

 

 

――その先にあった光景を見て、アルディスは目を見開いた。

 

 

「え……?」

 

 宿の周辺、バルコニーから見える場所。そこには、街中の人々をかき集めたのではと考えてしまう程の、大勢の人々が集っていた。

 

「その、状況が全く読めないのですが……これは、一体……!?」

 

 アルディスの問いに、ポプリは廊下側に留まったまま口を開く。

 

「うん。ここまで凄いことになるとは思わなかったわ。あたしはただ、君を認めてくれる人を集めたというか……集まってくれるように呼びかけた“だけ”だったんだもの」

 

「!? どういう、ことですか……!?」

 

 ポプリの言葉に、アルディスは動揺を顕にした。信じられない、とでも言いたげに彼は小さく頭を振り、再び住民達へと視線を移す。

 

「ノア皇子、おかえりなさい!」

 

 その時、誰かがアルディスに向かってそう叫んだ。それに続くように、どんどん声は連鎖していく。彼を非難する声は、一切聞こえてこなかった。

 

「ッ、皆様はこんな私を皇子だと……皇帝の座に相応しい者だと、そう思って、おられるのですか……?」

 

 震える声で、アルディスは人々に問いかける。それはかなり小さな声であったが、住民の半数は彼と同じ、尖った耳を持っていた――彼らは聴力の優れた、純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)だ。だからこそ、そのような小さな声であってもしっかり聴きとることができたのだろう。

 

「当然ではありませんか! あなた様は、我々の誇りです!」

 

「それ以外考えられないでしょう!? 何故、殿下はそのようなことをおっしゃるのですか!?」

 

 返って来る言葉は、今のアルディスには、とてもではないが信じられない言葉ばかりで。バルコニーの柵を力強く掴み、アルディスは真下に集まった大勢の人々を見下ろした。

 

「ですが……! 現在の私は、少なくともかつてのような力は持っておりません! 私は片目を失い、多くの魔力を喪失しました。今となっては、大した戦力にはなれないのです!」

 

 長く伸ばされた前髪を横に流せば、消えることのない傷痕が露出される。その痛々しい傷痕を見て、人々はザワザワと落ち着きを失って騒ぎ始めた。

 

「ですから、再び双国の間で戦が起きたとしても、私は……ッ!」

 

 

「殿下! そのようなことはもう、誰も望んではいませんよ!」

 

 

 役に立てないと、そうハッキリ主張しようとしたアルディスの言葉を遮ったのは、やはり民衆の中の一人であった。

 

「我々が求めるのは永久の平和であって、戦での勝利ではありません! 戦なんて、もう二度と起きて欲しくはないのです! 第一、あなた様は兵器などではありません!!」

 

「そうですよ! 皇子はもう、戦場に立たなくて良いのです! 皇子が戦場に立たなくて良い、いえ……決して、誰も戦場に立つ必要の無い、そんな世界を私達は望んでいます!」

 

 人々の言葉には、嘘も迷いも無かった。だからこそ、アルディスは酷く戸惑っていた。

 

「ご存知だとは思われますが、私は混血です! それに私は、恥晒しの片翼ですよ!?」

 

「それでも、殿下は皇帝族の血を引いているじゃないですか! 大体血筋も翼の有無も、殿下の場合は関係ない! 国のために命を賭けた、優しき人物を皇帝にと願う私達の意志……これが間違いだと、殿下はおっしゃるのですか!?」

 

 

 廊下でアルディスと民衆のやり取りを聞きながら、エリックは拳を握り締めた。

 

「アル……」

 

 彼らの話は、完全に並行してしまっている。ここまで来ると、アルディスの主張が被害妄想のようにも聞こえるだろう。だが、それも彼の育ったとんでもない生活環境を思えば、ああなってしまうのも無理もない。少なくとも、国の上層部にいた人々の思考は、アルディスが今現在考えていることを具現化したような物だっただろうから。

 

(捉え方が、ここまで違うなんて。彼らは、アルの存在を揉み消そうとした大臣達とは全然違う……)

 

 彼をここまで、精神的に追い詰める要因となった者達は、大臣達は、既にこの世にいない。上流階級の人々はどうだか分からないが、ディミヌエンドの住民達は彼らとは全く異なる思考の持ち主だったことは間違いない。

 一部の話とはいえ、国のほんの一握りの存在でしかない人々と、国民との意見が違えるという現実を目の当たりにしたエリックは無意識のうちに首の傷をなぞっていた。

 

「あの子は、本当に頑張ってきたんだもの……だから、当然と言えば当然よね」

 

 そんなエリックの耳に入ってきたのは、この状況を生み出したポプリの声だった。

 

「てっきり、ね。あたしはこの国の人々の大多数はノアを気味悪がってるんだと、そう思ってたの。ノア自身も、完全にそうだって思ってたみたいだし」

 

 横目でアルディスの様子を確認しながら、ポプリはそう言って悲しげに笑ってみせる。

 

「でもね。ノアが皇子だって気付いたここの人達を、その表情を見て、それは違うって分かったから……だからあたしね、ちょっと賭けてみたの」

 

「それが、先程のあなたの行動か。なるほど、凄まじい結果じゃないか」

 

 ポプリが訴えた、正さなければならない勘違いとはこのことだったのだ。

 そして、最初は混乱して取り乱してはいたものの、ようやくアルディス本人もそれを理解し始めたらしい。人々の話を聞けば聞く程に、彼は落ち着きを取り戻し始めていた。

 

 

「本当に、有り難い話です……私のような者には、恐れ多い話ですね……ですが……」

 

 だが、アルディスの問題はまだ残されていた。彼は躊躇いつつも右袖を捲り上げ、白い腕に浮かび上がった赤黒い痣を民衆に晒した。

 

「……どちらにせよ、私は恐らく、近いうちにこの命を終えるでしょう。元々短命だろうとは思っていましたが、そんなものではありません。私はもう……本当に、長くはないのです」

 

「――ッ!?」

 

 あの痣が何であるのかを理解できる者が、果たして何人いたのだろうか。それでも、彼の余命宣告にも等しい発言は衝撃的だったことだろう。

 再び、人々が騒ぎ始める。驚きのあまり、その場で泣き出し、崩れ落ちてしまった者も中にはいた。

 

「ノア皇子……そんな……っ」

 

「……」

 

 結果としてこれまで、ことごとくアルディスの発言を論破してきた人々が、誰一人として何も言い返せなくなってしまっていた。

 

(あの馬鹿……何だかんだ言って、気にしてたんじゃないか……ッ!)

 

 アルディス本人はまるで気にしていないかのような振る舞いをしていたものの、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)は彼の身体のみならず、精神までも蝕んでいたという事だ。

 生きることを望んだとしても、生きることを許されたとしても、自分はもう助からない。犠牲がどうこうの前に、元々彼は生きることを完全に諦めてしまっていたのだろう。

 

「困ったな。大体の人々が、あの痣の意味を察したようです……透視干渉(クラレンス・ラティマー)能力者であれば、容易いことでしょうし……」

 

 今まで黙って民衆の意識を透視していたらしいジャンクが、嫌な情報を告げた。ポプリも、どうしようもないと目を細め、奥歯を噛み締める。

 

「上手くいくかなって思ったのに……皇子としての自信だけ取り戻させたって、死を目の前に、無駄に絶望させてしまうだけじゃない……」

 

 実際、ポプリの作戦は虚無の呪縛(ヴォイドスペル)さえなければ上手くいっていた可能性が高い。

 確かに、この方法でアルディスが抱いていた勘違い“だけ”は、正すことができただろう。ただ、彼女が言うようにこれでは、尚更死の恐怖が増してしまっただけである。

 

(ここでラドクリフ側の問題が出てくるとは思わなかった……! くそっ、せめて僕が虚無の呪縛(ヴォイドスペル)関連の知識を持っていれば!!)

 

 エリックは、自らの無知を酷く恨んだ。頼みの綱であったポプリとジャンクが黙り込んでしまった以上、どうすれば良いかと彼らに問う訳にはいかない。マルーシャとディアナも同様だ。

 こうしている間にも、ただでさえ疲弊したアルディスの精神状態が限界を訴えているというのに――そんな時、エリックはかなり根本的な疑問の存在に気が付いた。

 

 

(……ちょっと待て。僕は一体、『何』に悩んでいるんだ?)

 

 

 悩んでいるのは、自信も何もかも失って絶望しきってしまった今のアルディスを救う手段であって、自分の無知がどうこうという話ではなかった筈。虚無の呪縛(ヴォイドスペル)に関しても、今ここで討論を繰り広げるべき問題ではない筈だ。

 

「はぁ……勝手に頭の中でグダグダ悩んで、結局最終的には動かないって所。どう考えたって直した方が良いよな」

 

 ガシガシと頭を掻き、エリックはため息を吐く。どうして自分は、先程のポプリのように、試しに行動してみるという思考回路に至らないのかと。

 

「ん……あのバルコニーの作りなら、上だけ着替えてしまえばそれっぽく見えるよな?」

 

「エリック……?」

 

 突然妙なことを呟き始めたエリックを心配して、マルーシャが顔を覗き込んできた。だが、そんなことは気にせずにエリックは踵を返して軽く廊下を走り始めた。

 

「すぐ戻る」

 

 軽く結い上げた髪を解いて上着を脱ぎ、エリックは先程まで自分達がいた部屋へと向かう。マルーシャがその様子を怪訝そうに見守る中、エリックは自身が口にした「すぐ戻る」という言葉通り、元々着ていた上着の代わりにラドクリフの紋章が刻まれた藍色の上着と、スカーフを手にして帰ってきた。

 

「どうしたの……?」

 

「見てられない。ちょっと顔出してくる」

 

「え、えぇ!?」

 

 上着を羽織り、スカーフを巻き、髪を一つに結い直す。手櫛で軽くまとめただけだが、この場合は仕方ない。ここに来てようやくエリックの「それっぽく見える」の意味を理解し、マルーシャはパクパクと口を動かしている。そんな彼女を放置したまま、エリックは迷う事なく扉を開き、アルディスの隣へと移動した。

 

 アルディスは身体を震わせてこそいたが、涙を流すことなく民衆の前に立っていた。流石に、この状況で泣くのはプライドが許さないということか。

 

「泣いてるかと思った」

 

「え、エリック!?」

 

 エリックの存在に気付いたアルディスはビクリと肩を揺らし、いつもと微妙に違う彼の姿をまじまじと見つめる。

 

「その格好は、一体……?」

 

「一応、僕はラドクリフの代表で来てるからな。いつもの服装じゃ、ちょっと」

 

 とは言っても、見えない部分はそのままなんだけどな、とエリックは苦笑する。二人のやり取りも多少は聞こえているだろうが、民衆からしてみればエリックは突然現れた珍しい容姿の少年だ。最悪の話を皇子の口から聞き、それに続く形のエリックの登場に、民衆は更なる混乱を見せていた。

 

「そうだ、こっち放置したら駄目だよな……って、うわ! お前……この人数前によく平然と喋れたな……!」

 

 自分に向けられる視線は、先程の地下水脈から出たばかりの自分達に向けられたものの比では無かった。極度の緊張で、体中から変な汗が吹き出すのを感じる。ただ、これで馬鹿にされたのでは意味がない。

 

(ああもう! こうなったら自棄だ!!)

 

 エリックはその場で深く頭を下げ、民衆に聴こえるように声を張り上げた。

 

「少しだけ、私にお時間を頂ければと思います! 私はラドクリフ王国第二王子、エリック=アベル=ラドクリフです! この度、和平の使者としてフェルリオに参りました!」

 

 身体が震える。人々の声が頭に入ってこない。敬語がちゃんと使えているかどうかすら自信がない。それどころか、アルディスを心配して来たというのに、逆に彼に心配されているーー!

 いくらなんでも、これは無謀過ぎたかもしれない。アルディスの視線まで感じながら、エリックは拳を握り締めた。

 演説くらいやっておけば良かった、とエリックは自分の王子としての日頃の態度を今更悔やむ。それでも、今更逃げるように廊下側に引っ込んでいくわけにはいかないだろう。

 

「ノア殿下の右腕の件……驚かれたかと思います。私も、実際に目にしたのはつい最近の話です。本当に驚きました。しかし、残念ながら現在の私は、あの忌々しい痣を殿下のお身体から取り除く手段を、一切存じ上げておりません!」

 

「! ちょっと、エリック……! いきなり何言ってるの!?」

 

「これが真実だ! 第一、この状況で大嘘つける程に僕は器用じゃない……!」

 

 今『虚無の呪縛(ヴォイドスペル)は我が国で作り上げた物。私なら、彼を救うことができます』と言ってのけるのは簡単なことだ。しかし、エリックは分かっていながらそれをしなかった。当然ながら、民衆からはエリックに対する非難の言葉が飛んでくる。

 

「そもそも十年前! 我が国は貴国に対し膨大な損害を与えました! 今更、和平がどうこう言ったところで信用することができないのは分かります! だからこそ、私はあえて皆様の前に顔を出しました!」

 

 声が震えそうになるのを必死に押さえ込みながら、エリックは顔を下ろすことなく話を続けていく。

 

「和平の証として、まず私はノア殿下のお命を救うために全力を尽くします! 双国の平和のために、私は命を賭ける覚悟です!」

 

 エリックの言葉に、嘘はない――しかし、ただこれだけのことで信頼を得られる程、フェルリオ帝国とラドクリフ王国の間にできてしまった溝は、浅くはなかった。

 

「口だけならいくらでも言えるだろう!? そうやってお前の父親はフェルリオを侵略したんじゃないか!! 第一、お前は戦にも顔を出さなかったくせに! 偉そうなことを言うんじゃない!!」

 

「そうよ! 命を賭けるというのなら、証拠を見せてみなさいよ!!」

 

「そこまで言うのなら、証拠を見せてみなさい!!」

 

 人々の間から、エリックに対して「証拠を見せろ」という訴えが飛び交う。冷静に考えて見れば、それは当然の主張であった。

 

「しょ、証拠……」

 

 しかしながら、その場の勢い任せに飛び出してきたエリックがそのようなものを所持している筈がない。戸惑うエリックを前に、国民達の非難の声はますます大きさを増していく。

 

「ふざけないで! 私達を舐めているの!?」

 

「出て行け! この国から出て行け!!」

 

「出てってよ!!」

 

 ひゅん、と風を切る音が聴こえてきた。その音が何なのかは、足元に転がった石が教えてくれた。

 

「皆さん落ち着いてください! 私は……!!」

 

「うるさい! ラドクリフ王家の人間の声なんか聴きたくない!!」

 

 一人が石を投げたことで、怒りに身を任せた人々の勢いはどんどん増していった。一人、また一人とエリックに向かって石を投げてくる。方向が狂い、宿のステンドグラスにヒビを入れてしまう石もあった。

 

(ラドクリフ王家ってだけで……随分な嫌われ様だな……!)

 

 このままではアルディスに石が当たりかねない。これ以上彼に傷を負わせるわけにはいかないだろう。どうにか人々の怒りを沈めなければとエリックは必死に考えを巡らせる。だが、良い案が浮かばない。せめてアルディスに石が直撃することだけは防ごうと、エリックは一歩前に足を踏み出した。

 

「痛ッ!」

 

 しかし、その行動が間違いだったのだろう。前に出たその瞬間、尖った石がエリックの額に直撃した。皮膚が裂け、患部から血が流れていく。ズキズキとした痛みに、エリックは思わず目を細めた。

 

(あーあ……)

 

 上着を汚さないためにとスカーフを外して患部に当てたのだが、頭部にできた傷だ。それくらいでは出血を押さえきれないらしい。スカーフはどんどん血を吸って赤く染まっていく。まさか頭部に直撃してしまうとは思わなかったのか、先程とは違う意味で人々から落ち着きが失われていった。

 

「え、エリック……! そ、その……っ」

 

「おい、こら。アル」

 

 そしてそれはアルディスも同じだったらしく、彼は顔を真っ青にして狼狽え始めてしまった。せめて彼には冷静でいて欲しかったなと、エリックはスカーフで額を押さえたままため息を吐く。

 

「命に関わるような傷じゃないんだ、これくらいどうってことないだろう? それともアル、お前は僕がこれくらいで戦争起こすような大馬鹿野郎だと思ってるのか?」

 

「違う! そういうわけじゃ……っ」

 

「だったら良いだろ。第一、民衆を怒らせるようなことしたのは、僕の方だ」

 

 アルディスが『大馬鹿野郎』を即答で否定してくれたのは唯一の救いだった。彼にまで変な反応をされれば、本気で自信を無くしてしまう。

 

「さて、と」

 

 エリックは軽く深呼吸した後、再び人々の方へと向き直った。血に濡れたスカーフを手から離し、頭部から血を流しながらエリックは微笑んでみせる。

 

「別に私は、こんなかすり傷程度で戦争を起こすような真似はしません。仕方ありません。証拠が無いのですから……ですが、おかげで良い案が浮かびました」

 

 いくらなんでも、もうエリックに石を投げてくるような者はいないらしい。困惑して落ち着きを失っている人々を前に、エリックはレーツェルを宝剣へと変え――それを、自らの首に押し当て口を開いた。

 

 

「彼が命を落とした時……その時は私も、この場で自ら首を切り落としましょう」

 

 

「――ッ!?」

 

 アルディスがまるで、恐ろしいものを見るような目でこちらを見ている。エリックはその姿を横目で確認した後、エリックはそのままの姿勢で話を続けた。

 

「これを証拠、と言い切るにはかなり弱いものだとは思います……ですが、お願いします。どうか……どうか私に、お時間を頂けないでしょうか?」

 

 それは、あくまでも口約束。当然ながら、エリックが責任を一切取らずに逃げ出すという可能性は大いにある。しかし、それでも。彼の目には一切の迷いも、偽りも感じられなかった。

 

「ッ、君は馬鹿か!? 方法も分からない解呪に、俺を生かすことに命をかけるなんて!!」

 

 そんなエリックの態度に最も困惑していたのが、隣にいたアルディスだった。彼はエリックの腕を掴み、発言を撤回するようにと訴えかける。

 自国の民の前であるにも関わらず、アルディスはその行動を全く躊躇わなかった。それだけ、自分は彼に慕われているのだろう――その思いを、絶対に忘れてはならないとエリックは誓った。絶対に、彼を生かさなければ、と。

 

「お前、生きたいんだろ? お前が生きるのを邪魔するような人は、ここにはいなかったじゃないか」

 

「仮にそうだとしても、君にそれは関係ない……!」

 

 アルディスはこの場でハッキリと「生きたい」と言った訳ではないが、これは肯定したと取って良いだろう。しかし、相変わらず彼は自分の生に対して後ろ向きであった。エリックは再びスカーフを額の傷に当て、悲しげに目を細めた。

 

「こんな状況だ。もう、変な意地張らなくたって良いだろ。少しくらい、僕に甘えてこい。頼むから、勝手に自己完結して死のうとするんじゃない……本当に、頼むから……」

 

「……ッ!」

 

 アルディスの目に、じわりと涙が浮かぶ。直後、彼はエリックの腕から手を離し、そのまま逃げるようにバルコニーを後にしてしまった。

 

「あ! お、おい! アル!!」

 

 まさか、何も言わずに民衆の前からいなくなるとは。不幸中の幸いだったのは、彼の態度が分かりやすかったために、その行動が人々に変な印象を与えなかったことだろうか。ついでに、自分達が赤の他人では無いということも伝わったらしい。

 だからこそ、フェルリオの国民達は今、エリックに対して不信感は抱きつつも明確な敵意を向けることはやめてくれたのだろう。それを幸いに感じつつ、エリックは深々と頭を下げ、「失礼します」と叫んでからアルディスの後を追って廊下へと戻った。大体想像はついたが、彼は廊下の端で、微かに肩を震わせながら座り込んでいた。

 

「泣いて、良い……?」

 

「うん……まあ、それは泣きながら言う言葉じゃないな」

 

 まあ、よく廊下に戻るまで我慢したよなとエリックは苦笑する。自他共に認める『泣き虫』が民衆を前に泣き出さなかったのは相当な努力の賜物だろう、と。

 

「は、はは……あはは……」

 

 嗚咽を必死に押さえ込むようにして泣くアルディスの頭をポンポンと軽く叩き、エリックはふらりと壁にもたれ掛かった。一番エリックの近くにいたディアナが、即座に反応して目の前に座り込む。心配したのだろう。

 

「エリック!?」

 

「その、あれだ。問題ない……ただ、緊張し過ぎて、倒れるかと思った……はははは……」

 

 エリックは壁にもたれたまま力を抜き、崩れ落ちるようにその場に腰を下ろした。精神を宥めたいのか、彼は両目を軽く閉じ、ひたすら深呼吸を繰り返している。

 

「駄目。無理。演説とか絶対無理。もう二度とやりたくない……」

 

「いや、あなた……後々、王位を継ぐのだろう? だったら演説とか普通にするだろう? それで大丈夫なのか?」

 

「代役立てようと思う」

 

「問題発言にも程があるだろう!?」

 

 引っ込んですぐに泣き出したアルディスも問題だが、これはこれで大問題である。ディアナは苦笑しつつ、直接傷に触れないように気を付けながらエリックの前髪を掻き分けた。

 

「傷、出血の割に深くは無さそうだな。これくらいなら、歌わなくても治せそうだ」

 

 そう言って、ディアナは胸の前で両手を組む。白い魔法陣が、彼女の真下に浮かんだ。

 

「――慈悲たる女神の、恵みの抱擁よ……クララフィケーション」

 

 それは、ディアナがよく歌っている聖歌と似たような効果を発動した。半透明の光の輪がエリックの額の傷を塞ぎ、そのまま消えていく。普段の聖歌との違いは、術の効果がエリックのみにしか発揮されなかったことだろう。

 

「よし、治ったな。しかし……これでも感心していたのだが。あの場で、アルのために命を懸けると言った頭の回転の速さには」

 

 よく思いついたよなぁ、と呟きつつ、ディアナはエリックの前髪から手を離す。そんな彼女の態度に、エリックは少し不服そうに目を細めた。

 

「お前、ハッタリだったとでも思ってるのか? 言っておくが、あれは本気だ。アルの解呪に失敗したら、本当に僕はここで首を跳ねるから」

 

「なっ!?」

 

 何の躊躇いも無しに発せられた、エリックの言葉。「ありえない」と首を横に降るディアナの額を指で弾き、エリックは不敵な笑みを浮かべてみせる。

 

「解呪に成功すれば良いだけの話だろ? アルは死なせないし、僕も死なない」

 

 エリックはどこまでも自信満々な様子で、とんでもないことを口走った。当然ながら彼は、何をどうすれば虚無の呪縛(ヴォイドスペル)を解呪できるのか知らないどころか、虚無の呪縛の原理さえも知らない。要するに何の知識も無いのだ――それにも関わらず、その自信はどこからやって来るのやら。

 

「なあ、マルーシャ……この人、こんな感じだったか?」

 

 少なくとも、自分の中の『エリック像』はこうではなかったと、ディアナはマルーシャに問いかける。しかし、それはどうやらマルーシャも同じだったらしい。

 

「うん……違うと思う。ちょっと、わたしも驚いてる。めちゃくちゃなこと言い出したから怒ろうと思ったのに……もう、どうでも良くなっちゃった」

 

「だよ、な?」

 

「お、お前らなぁ……!」

 

 狼狽えるディアナとマルーシャを前に、エリックは思わず目を泳がせた。いくらなんでも先を考えてなさ過ぎたが故に流石に呆れられてしまったのだろうかと。しかし、そんなエリックの思いとは正反対に、ディアナはクスクスと笑ってみせた。

 

「しかし、だ。オレは少々無茶なことを言うあなたの方が、好感を持てるぞ。何だか危なっかしいが、それでも、悲観的になられるよりずっと良い」

 

 ディアナは自分の胸に手を当て、大きな青い瞳を真っ直ぐにエリックの顔へと向ける。その表情は先程とは違う、どこまでも真剣なものであった。

 

「見届けさせてもらっても良いだろうか? あなたが叫んだ、ある意味命懸けの宣言が果たされる時を、その決意が歪みない物であったと、証明される瞬間を」

 

「ディアナ……」

 

「何の根拠もないが、あなたならできる気がする。というより、できてもらわなければ困る。絶対にやれ」

 

 困ったように笑うディアナの額を、エリックは「当然じゃないか」と再び指で弾いた。

 

「まあ……とは言っても、あれだ。あんな偉そうなこと言っておきながら、自分ひとりでできるとは思ってないんだ。本来なら、これを先に言うべきだったとは思う。だが……その、良かったら……僕に、協力してもらえないだろうか?」

 

 ここまで来る間、何度仲間達に助けられたことか。それを分かっておきながら、自分ひとりで虚無の呪縛(ヴォイドスペル)をどうにかすると言える程エリックも無責任ではない。申し訳なさそうに笑うエリックの言葉に、マルーシャ達はおもむろに頷いてみせた。

 

「当たり前でしょ!? わたし、できることなら何でも協力するよ!」

 

「見届ける、とオレは言った。つまりは、そういうことだ」

 

「エリック君はもう、大切な仲間よ。それに、本当の事情は後で説明するとして……ノアはあたしの弟だもの。そういう意味でも、あたし自身の贖罪って意味でも、あたしは全力で君をサポートするわ」

 

 ジャンクは頷くだけで何も言わなかったが、それでも、否とは言わない。誰も、エリックの頼みを断らなかったということだ。

 

「助かる。それで、これからのことなんだが……」

 

 

「訳が分かりません……! 俺は、皆さんに本当に申し訳ないことをしてしまったというのに……! どうして……どうして……ッ」

 

 

 そんな時、唯一異議を唱えてきたのはアルディスだった。

 

「本当に申し訳ないこと、か……僕の方も、結果としてお前を二週間昏睡状態に追いやったんだし、お前がそう言うなら僕だってなかなか酷いことをしているわけだが?」

 

「違う! それは……っ」

 

「僕はあれを正当防衛として認めるつもりはない。まあでも、そこまで言うんだったら、“おあいこ”ってことにしてくれたら僕としてはありがたいかな」

 

「エリック!」

 

 立ち上がりつつ、エリックの上着に掴みかかり、アルディスは頭を振るう。この調子では再び「今すぐ先程の発言を撤回しろ」と無茶苦茶な事を言い出しそうだ。とりあえず落ち着かせておこうとエリックは目の前の白銀の髪を撫で、控えめに笑ってみせる。

 

「お前、やっぱり強いな。本気出されたら、叶わなかったと思う。剣も使えるみたいだし、ディアナと一緒に剣術指南してくれると助かるな」

 

「――ッ」

 

 それは、あくまでも本心だった。アルディスの強さは、出生の異様さだけで説明可能な物ではないだろう。あれは彼の努力と、悲しい話だが実戦経験の多さゆえに成せる物だ。しかし、今それを言うのかとアルディスは目を丸くする。

 

「君って奴は……本当に馬鹿だな……」

 

 気が抜けてしまったのか、アルディスはその場にぺたんと座り込んでしまった。

 

「お前、さっきから人のことを馬鹿馬鹿言い過ぎだと思うぞ。流石に失礼じゃないか?」

 

 落ち着きを取り戻したかと思えば、この「馬鹿」発言である。元々アルディスはよくこの言葉を口走るのだが、いくらなんでも今日は、それも自分に対して言いすぎだろうとエリックは苦笑いした。

 

「……俺も、君みたいな馬鹿になれるかな」

 

 しかし、今回の「馬鹿」は少し意味が違ったようだ。アルディスは軽くため息を吐き、首を傾げてみせる。久々に、彼の穏やかな表情を見たような気がした。

 

「アル……?」

 

「強さは、力だけじゃない。必死に身体を鍛えたって、戦術を学んだって、それだけじゃ、何も救えないんだね……情けないな。そんな簡単なことさえ、忘れてたよ」

 

 アルディスは頬に残った涙を乱暴に手のひらで拭い取り、真っ直ぐにエリックの、そして仲間達の顔を見た。

 

「俺さ……誰かを傷付けてしまうのが、怖かったんだと思う。だから、さっさと嫌われて、遠ざけてしまおうって思ってた。でも、それじゃ駄目だよね。嫌われるような行動を起こしてる時点で、俺は相手を傷付けてる。それじゃ、意味がないのに」

 

 十八年という年月の中、アルディスの目の前では数多の人々が命を落とし、傷付いてきた。そんな人々を見る度に、アルディスもまた、酷く傷付いてきたのだ。

 いつの日か、彼は自らを“疫病神”と称するようになり、極力人に冷たく当たるようになっていった。笑うことも、無くなってしまった。本来は、常に誰かと共に在りたいと願うような、明るい少年だったというのに――。

 

「俺は皆を、散々傷付けてしまったのに。それでも俺から離れずにいてくれたこと、今だって、俺にかけられた呪いをどうにかしようと動こうとしてくれてること。心から、感謝してる。こんな曖昧な言葉じゃ、上手く言い表せないくらいにね……ッ」

 

 せっかく拭ったというのに、またしてもアルディスの頬を涙が伝っていく。アルディスは一瞬だけ皆から目をそらし、それをゴシゴシと拭い取った。

 泣いているせいで微かに震えてしまってははいるものの、アルディスが紡ぐ言葉は、いつも通りの彼が放つ独特の雰囲気を持っていた。その雰囲気を感じ取り、エリックは旅立つ前の、マルーシャが好きだと言っていた、三人でのんびりと過ごしていた時間のことを、八年間の日々を、思い出す。

 

「……」

 

 

――何も知らなかったあの頃には、もう戻れない。

 

 

 しかし、それは決して不幸なだけの話ではない。そうだと、信じたかった。少なくとも、アルディスが命を落とすという最悪のシナリオだけは、回避できたのだから。

 

「皆はどうか知らないが……僕は、お前が無事だったことだけで、十分だよ」

 

 そう言って微笑むエリックに釣られるように、マルーシャとポプリも口を開いた。

 

「わたしもだよ! お願いだから、二度とあんなこと、しないで……!」

 

「そうね……正直あたし、あの時ばかりはもう駄目かと思ったもの……」

 

 あのままアルディスが永遠に目覚めなければ、冷たい海の中で命を落としていれば――考えただけで恐ろしくなるような可能性が、有り得た結末が、いくつも存在していた。

 アルディス自身は恐らく、未だに理解できていないことの方が多いだろう。しかしながら、ほとんど眠ることができない二週間を過ごしたエリック達にとって、彼が今こうして自分達の前に座り込んでいるという状況は奇跡以外の何物でもないのだ。

 

「医者とはいえ、僕も万能ではないので。あまり、無茶はしないでもらえると助かるな」

 

「よく言うよ。あなたがいなければ今頃、この国全域で葬式だ。どちらにしても、あのような血の気が引くような思いは、今後一切勘弁して欲しいものだがな」

 

 皆の言葉に、アルディスは軽く顔を伏せて静かに耳を傾けている。一通り話を聞いた後、彼はもう一度涙を乱暴に拭い、そして、おもむろに顔を上げた。

 

「皆、ごめんなさい……もう二度と、あんな気を起こさないって、約束する」

 

 フードに隠されていない白銀の髪が、彼の動きに合わせてさらりと流れる。

 

「それから……本当に、ありがとう……ッ」

 

「……!?」

 

 

――その言葉を紡いだアルディスの顔は。その表情は。

 

 

「の、ノア……ッ、ノアぁ……!」

 

 頭を振るい、ポプリがその場に泣き崩れた。ひっくひっくと嗚咽を上げる彼女の声が、廊下にこだまする。

 

「え……?」

 

「はは、分かってないんですね。ということは、無意識にやったのか……まあ、できなくなっていたのも無意識下のことでしょうしね」

 

 突然の出来事に唖然とするアルディスの頭を、ジャンクはぽんぽんと軽く叩いた。

 

「あの、一体、何が……」

 

「今、お前……ちゃんと、笑えてたんだ。笑顔って、良い物だな」

 

「!?」

 

 ジャンクの言葉に、アルディスは大きく目を見開く。彼は両手でぺたぺたと顔を触りながら、音にならない声を上げていた。

 

「アルディス本人が驚いてどうするの……でも、良かったね。アルディス感情豊かだもん。嬉しいとか楽しいって思ってるのに、表情が変わらないって……悲しすぎるもん」

 

 最初は感情が欠けちゃってるのかと思ったりもしたんだけどね、とマルーシャは困ったように笑う。マルーシャの言葉にアルディスは少し驚きを隠せなかったようだが、それも無理はない話だ。

 アルディスと交流の少ない相手ならば、確実に彼を無愛想な人間だと思い込んでしまう。彼自身はそれを分かった上で、マルーシャにもそう思われていると考えていたのだろう。

 

「その……何で笑えなくなったのかは、自分でもよく分かってなかったんだ。だから、どうしたら良いのか、さっぱり分からなくて……相談するようなことじゃ、ないしね」

 

「確かに、一度も相談されたこと無かったな」

 

 アルディスは未だに自身の変化に困惑していた。エリックもマルーシャも勘付いてはいたが、それだけ、彼は笑えないということを気にしていたのだろう。

 彼が笑顔を失う元凶となってしまったポプリは相変わらず泣きじゃくっている。彼女のことを気にしているのか、アルディスはチラチラと様子を伺っていた。

 

「とりあえず、あれだ。細かいことは考えないことにしとけ。気になるなら、ポプリが落ち着いてからにしろ」

 

「……うん」

 

 ポプリにはジャンクとディアナが付いている。もしかすると、気を使ってくれているのかもしれない。この状況をありがたいと思いつつ、エリックはマルーシャと顔を見合わせた後、アルディスに笑いかける。

 

「良かったな、笑えるようになって」

 

「これからは、普通にその顔、見られるんだよね?」

 

「……」

 

 アルディスは俯き、泣きすぎて僅かに赤く腫れてしまった目元を再びゴシゴシと拭い、おもむろに顔を上げた。

 

「笑うよ。どんなに辛くたって、悲しくたって……もう、逃げ出さないよ。だって、生きてて良かったって、生きたいって、改めて、そう思えたから……」

 

 顔を上げたアルディスの表情はもう、無愛想なものでも悲しげなものでもなかった。

 

「ありがとう……」

 

 涙を流しながらも、彼は穏やかな笑顔を浮かべ、もう一度「ありがとう」と言葉を紡いでみせた――涙と共に笑う彼の顔にはもう、嘆きの色は無かった。

 

 

 

―――― To be continued.


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