テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー 作:逢月
「おい! 誰かこっちに向かってくるぞ!!」
地下水脈の入口付近に、大勢の人集りができている。グレムリーベアが暴れたことに、その異変に、地上にいた人々が気付いてしまったのだろう。
逆光で顔は見えないが、誰かがこちらを指差して叫んでいる。そんなことは気にせず、エリック達は地下水脈の闇から飛び出した。
「は……っ、はぁっ、はぁ……っ」
息が切れる。本気で走っていたわけではないが、人間一人抱えて走るのは病み上がりには少々堪えた。頬を流れる汗を乱暴に拭い、エリックは辺りを見回す。
眩しい。完全に、夜は明けていた。結果として突然光を取り込むこととなったエリックの瞳は、眩しさの余りしばらくその働きを放棄することとなった。
「あらあら、揃いも揃って珍しい容姿ね……この街じゃ、皆浮いてしまいそう」
「藍色の髪の子と金髪の子達は、服装的にディミヌエンドの住民じゃなさそうだね。金髪の子は、もしかしてラドクリフ出身かな?」
「銀髪ってのも、今じゃそこまで見なくなったしなぁ……お前ら、迷い込んだのか? どこからきたんだ?」
好奇と警戒の入り交じった視線が、三人に向けられる。どうやら、本格的にここの地下水脈は放置されているらしい。この場所に入ること自体、彼らには理解できない行動なのだろう。
「え、えっと……」
ここで漸く、目が明るさに慣れてきた。数回瞬きを繰り返した後、エリックは再び辺りを見回す。とりあえず、自分達がとんでもない人数をこの場所に集めてしまったことだけは把握できた。
(うわぁ……)
これはどう切り抜けようか。ここで何の事情も話さずに通過していくような神経をエリックは持ち合わせていなかったし、それ以前に、これは物理的に不可能そうである。助言を求める意味で隣のマルーシャに視線を投げかけてみたが、彼女も困ったように首を横に振るうだけだった。
とはいえ、ここで事情を全て説明しているだけの余裕は無いだろう。エリックの腕の中で、アルディスがカタカタと小さく身体を震わせている。精神的な理由か肉体的な理由かはさておき、彼が負っている傷は決して軽いものばかりではない。
「マルーシャ。今、治癒術使えるだけの余裕、あるか?」
ひとまずアルディスの傷を癒しておいた方が良いだろうと判断したエリックの問いかけに対してマルーシャは静かに頷き、アルディスに手を伸ばして意識を高め始めた。
「――ファーストエイド」
「……」
彼女が術名を唱えると同時、アルディスが負った傷が少しずつ癒え始める。しかし、それによって全ての傷が塞がることは無かった。
「ごめんね。今はこれが限界なの。深い傷は、治せそうにないや……」
「ううん、むしろその方が良いわ」
まだ痛いよね、と眉尻を下げるマルーシャに声を掛けたのは、たった今、この場所にやって来たらしいポプリだった。
「ポプリ!」
「急に騒がしくなったから、来たの。思い当たることなんて、ひとつしかなかったもの」
そうして正解だったみたいね、とマルーシャに微笑みかけた後、ポプリは笑みを消してアルディスへと視線を移した。
「その……あえて、キツいこと言うわ。今は、この子の傷を全部治さない方が良いと思うの。完治させたら、また逃げちゃいそうだから」
「……ッ」
その言葉の内容とは対照的に、ポプリの表情は今にも泣きそうな程に歪んでいて。彼女は近付いて来るなりその場に座り込み、アルディスの手のひらへと手を伸ばして涙をこらえながら笑ってみせた。
「でも、良かった……無事だったのね……」
触れた手のひらの温度を感じ取り、ポプリはしきりに「良かった」と繰り返す。死んでしまうかもしれない、と思ったのはエリックだけでは無かったということだろう。事実、あと少し駆け付けるのが遅ければ、それは現実となった可能性もあった。
「おわッ!? 珍しいな、ブリランテから出てきたのか?」
「ほ、本当ね……私、“愛し子”は始めて見たわ……」
「今日はそういう日なのか? 悪いことが起きなきゃ良いけどよ……」
(……ん?)
突如、静かになりかけていた人々、特に
「正直今は、いつも以上に人混みが嫌だったのですがね……」
「ジャン……?」
「まあ……攻撃されないだけ、まだマシだと考えます。そんなことよりアルだ。全く、命に別状は無かったとはいえ、とても外には出られないような状態だったというのに……」
珍しく顔を微かに引きつらせたジャンクは、そう言ってエリックの前に座り込んだ。そして彼はアルディスがエリックの体を利用して隠していた左腕を掴み、それを人々に見えるように掲げてみせた。
「ッ!?」
慌ててアルディスが腕を引っ込めようとしたが、もう遅い。その左手の甲に刻まれていたフェルリオの紋章を見て、人々は一斉にざわつき始めた。
「! う、嘘だろ!? あれは……!!」
「紋章があるんだもの、間違いないよ! ノア皇子だよ! 生きていらしたんだ!!」
ノア皇子、という言葉にアルディスはより一層身体を酷く震わせる。言うまでもなく、ジャンクの目的は民衆に事実を知らせ、騒がせるためだ。だが、わざわざそうする理由が分からないとディアナはジャンクの隣に座り込む。
「ジャン……」
「アルにとって、これがいかに辛いことか……同じ精神系能力者として、僕にも分かっているさ。実際、さっきからアルの心が僕の方に流れてきて、正直、辛いんです」
その言葉は嘘ではないようで、そのままアルディスの脈を測っているジャンクの手は傍から見て分かる程に震えていた。
「それでも、街の住民達から話を聞いて、心を視て、分かったことがあるんだ。だからこそ、アルは……ノア皇子は、人々から目を背けてはならないんです」
「え……?」
「ディアナ。君がラドクリフに送り込まれた目的。それは、ノア皇子の“暗殺”だったか? 違いますよね? ……ほら、それが答えだよ」
ジャンクに諭され、ディアナはハッとして目を丸くする。かなり遠回しな言い方ではあったが、彼女は何かに気が付いたようだ。
「……」
その様子を、そして騒ぐ人々の姿を見て、ポプリはぐっと両手を握り締める。
「皆、ここはあたしに任せて。先に宿に戻っててちょうだい」
「ポプリ!?」
「あたし、ノアから話聞いただけだったから、勘違いしてたの。要するにそれは、ノアも同じ……勘違いは、正さなきゃいけないわ」
立ち上がり、ポプリは皆に背を向けて人々と向かい合う。ディミヌエンドの住民達は先程よりもエリック達に近付いていたが、何故か一定の距離を保ったままこちらの様子を伺っていた。
そんな彼らの様子を見てからポプリはアルディスの姿を真正面に捉え、静かに口を開いた。
「真実を歪めてとらえてしまうだけの、勘違いをしてしまうだけの悲しみがあったことは確かだと思う。それでもね、全てから目を背けてはいけないわ。それは新たな悲しみを、嘆きを生むことに繋がってしまうから」
切なく紡がれるポプリの言葉は、アルディスに向けられた物――しかしそれは、エリックにも強い意味を持って届いていた。
「だからそこに、どんな恐怖が生じるとしても、人は時として真実と向き合わなければならないの! 勘違いしたまま、終わらせてしまってはいけないの!」
叫び、ポプリは再びディミヌエンドの住民達へと視線を移した。その表情は、未だかつて見た事がない程に凛とした、力強さを感じられる物だった。
「皆さん! あたしの話を聞いて……ノア皇子を救うために、力を貸して!! 皆さんが、皆さんの存在こそが! 最後の切り札なの!! 色々と気になることはあると思う。けれど今は、今だけは! あたしの話を聞いて!!」
声を震わせ、ポプリは声を張り上げる。彼女の必死さに何か感じるものがあったのか、ディミヌエンドの住民達は不思議と、彼らにとっては見知らぬ娘でしかないポプリの言葉に耳を傾けていた。
(ポプリ……)
「皆、行きましょう。今は、彼女の行動の意味を問いただすべき場面じゃない」
その様子を眺めていたエリックの肩を叩き、ジャンクは人ごみの中に消える。こんな状況である。彼の言葉は、正論だった。
「そうだよな! よし、帰るぞ。マルーシャ、ディアナ!」
彼を追うという結論がエリックの中でなされるのは、必然的な物であった。エリック達はポプリに全てを託し、宿へと戻っていった。
▼
宿に着くまで、アルディスは一度もエリックの腕から逃れようとはしなかった。しかし、それと同時に彼は何の言葉も発さなかった。
「……」
自室に戻り、ベッドに下ろされても相変わらず彼は一言も喋らない。ただ、憎しみや怒りといった感情に支配されて黙り込んでいるというよりは、困惑して何を言っていいやら分からない、という様子である。
「まあ、無理もないでしょうね」
そんな彼の様子を見て、ジャンクはやれやれと肩をすくめてみせた。
「崖から飛び降り、死んだつもりだった。更に言えば、恐らくあの地下水脈でアルは死ぬつもりだったんでしょう? それなのに、二度も見事に助けられてるんだ。もはやどうこう言える状況ではない筈だ」
「……ッ」
ジャンクの言葉に、アルディスはぐっとシーツを掴んだ。奥歯を噛み締め、必死にエリック達から目を背けようとするその姿は、痛ましい以外の何でもない。
「あ、アル……」
「ディアナ」
何か言おうと、前に出てきたディアナを静止し、エリックはゆるゆると頭を振った。
「とりあえず、僕から話させてくれないか? で、また僕が妙なこと言っていたら、お前の判断基準で僕が許せないと思ったなら、その時は容赦なく、もう一度僕を殴り飛ばせ」
「え……っ」
「お前らに何されたって、もはや文句は言えないさ……自分でも、自分に対して腸が煮えくり返るような思いなんだ」
そう言って、エリックはベッドの傍に落ちていた親書を手に取り、それをベッド脇のチェストの上で丁寧に伸ばした。それでも、付いてしまったしわは、完全には取れない。
「! エリック、それ……!」
久しぶりに見た、純白の封筒。その存在を思い出したらしいマルーシャは目を見開き、両手で口を覆った。そんな彼女に、エリックは自嘲的に笑いかける。
「情けないだろ? 完全に、忘れていたんだ」
できる限りしわを伸ばし、エリックはそれをアルディスの前に差し出した。
「これ、は……?」
震える声でつぶやき、アルディスは封筒へと手を伸ばす。よく見ると、その指先すらも微かに震えていた。
「今更言った所で遅い。それは分かっている……唯一の救いは、お前が今生きていることだな」
「エリック?」
「あー……そうだ。お前、皇子だしな。僕も一応、自分の立場をわきまえて話そうか。まさか、お前に対してこれをやる日が来るとは思わなかったよ」
自分の顔を不思議そうに覗き込む彼はやはり、あまりにも見慣れた姿をしていて。一般人だろうと皇子だろうとアルディスはアルディスだと、ちゃんと理解していても何だか変な感情になってしまう。
しかし、これではいけないだろうと咳払いし、エリックはその場で片膝を付いた。
「ラドクリフ王国を代表し、フェルリオ帝国の皇子たる貴殿に親書をお持ち致しました。大変恐縮ではありますが、この場でお目を通して頂ければと思います」
アルディスの左目が、大きく見開かれる。彼は突然かしこまったエリックから目をそらし、その場で親書の封を切った。
彼が親書に目を通す間、しばしの沈黙が、部屋の中に訪れる。
「なんで……」
「……」
「何故……ですか。私どもは、フェルリオは……事実上の、敗戦国です。我が国はもはや、このような扱いを受けるべき立場では、ない筈、です……」
沈黙を破ったのはやはり、当事者であるアルディスだった。エリックは親書の内容を知らなかったのだが、酷く声を震わせ、困惑した様子の彼を見る限り、その言葉を聞く限りでは悪い内容では無かったらしい。
ただ、彼本人はもはや『親書』とは言えないような、そんな内容の文面であることを想定していたようであったが。
「貴殿が……う、うーん……」
「……。アベル殿下?」
「だ、駄目だ! 調子が狂う! 色々指摘したいことあるのに言いにくいから普段通りで行くぞ! ……お前も、自分の立場忘れろとまでは言わないから今まで通りに喋ってくれ」
「は、はあ……」
親書は真面目に渡したのだから良いだろうと、エリックは言葉遣いを崩した。何しろこの八年間、アルディスに対して堅苦しい言葉を使ったことは一度もないのだ。違和感しかない上に、今更遅いような気しかしない。そして何より、他人行儀な喋り方でアルディスに何かを訴えたとしても、それが彼に届くとは到底思えなかった。
困惑するアルディスを前に、エリックはガシガシと頭を掻き、少し頭の中で言葉を整理してから口を開いた。
「確かに、皇帝家が壊滅的な被害を受けたのは分かる。遺体が見つからないってことは、アルカ姫もどこかで生きている気もするが……生存確定なのは、結局のところお前だけだからな。だが、お前が生きている以上、皇帝家はまだ無事じゃないか」
「君は知らないだろうけどさ。俺みたいなのが生きていた所で、どうしようもないんだよ……」
前向きなエリックの発言に対し、アルディスが発したのは彼自身をどこまでも蔑む言葉。彼の翡翠の瞳は悲しげに細められ、涙に潤んでいた。そんな彼の姿を見て、マルーシャは肩を震わせる。
「『俺みたいなの』って……そんな……ッ、そんな言い方……!」
「マルーシャ、落ち着け。まあ、ラドクリフ出身の僕らには訳の分からない話だよ。だけど、お前達にとってそれは重大な話なんだろ? 確かにお前、右翼……無かったしな」
「ッ!?」
右翼が無かった、というエリックの指摘を聞いたアルディスの瞳が、悲しげに揺らぐ。そして、そのまま彼はエリックから目を背け、俯いてしまった。
「なんだ、知ってたのか……じゃあ、分かるだろ? 俺は、普通じゃない。普通じゃない上に、とんでもない失敗作にすぎない」
やはり、アルディスは自らの異常性を知っていた。だからこそ彼は、ここまで歪んでしまったのだろう。自分は人間ではない、とでも言いたげな彼の姿に、感情を高ぶらせていたマルーシャでさえ言葉を失ってしまった。
「俺は結局、戦争の道具でしかない……まあ、道具としての役割さえ、俺は果たせなかったけれど」
「アル……!」
「どうせ俺は、欠陥品だ……失敗作でしか、ない……ッ」
ぽろぽろと、アルディスの目から涙がこぼれ落ちた。自分が発した言葉によって、更に追い込まれてしまったのだろう。
「……、……っ」
エリックの視界の片隅に、ジャンクが壁に手を付いて呼吸を整えている姿が映った。誰が見ても分かるほどに、尋常ではないほどに辛そうな様子である。
恐らく、
このままでは駄目だと何かを発そうとしたエリックの前に、今まで黙っていたディアナが飛び出した。
「違う! あなたは……ッ、あなたは、道具なんかじゃない! あなたは、この国を敗戦という名の屈辱から、人々を間一髪護りきったと聞いている! ラドクリフ軍が、ヴィーデ港と帝都以外の街を破壊するのを防いだのは……ッ! 他でもないあなたと、あなたが率いていた帝国騎士団の人々なのだろう!?」
ベッド横のチェストを叩き、ディアナは声を震わせて叫ぶ。しかし、アルディスはゆるゆると力なく首を横に振るうだけだった。
「それでも俺は、ヴィーデ港とスウェーラルに壊滅的な被害を負わせてしまった。スウェーラルに至っては、十年そこらでは修復できない程の深刻な被害を負った……シンシアは、未だに行方不明だしね……この事実は、決して変わらない」
「そ、それは……!」
「お前も見ただろう!? あのスウェーラルの有様を……あれが、俺の生に対する答えなんだよ!!」
二週間前、スウェーラルの廃墟のような有様を見て、アルディスは冷静さを保ってこそいたもののあれは彼にとって、発狂したい程に残酷な光景だったに違いない――否、だからこそ、彼はフェルリオ城でエリック達を待つという選択肢を選んだのだろう。
彼は、あの残酷な光景を見て、耐えられなくなってしまったのだ……。
「俺が次期皇子として認めてもらえたのは、国を守る力があったから……けれどそんなの、まやかしでしかなかった! 俺は、何一つとしてろくに守れやしなかった……そんな俺に、皇族たる資格なんて無いんだよ!!」
叫び、アルディスは親書をエリックに叩きつけるように投げ返した。親書は床に落ち、カサリと無機質な音を立てる。
思わず、誰もが黙り込んでしまった。その後は、完全に泣きだしてしまったアルディスの、抑えきれない嗚咽だけが微かに聴こえるだけであった。
自分自身の存在意義を完全に見失い、かといって死んでこの場から消え去ることも許されなかった。それが今現在、アルディスが置かれている状況である。
もしかすると、自分は彼にかなり残酷なことをしてしまったのかもしれない、とエリックは思う。それでも、死を願う程の苦しみの先にあるのが『絶望』であるとは限らないことを、エリックは知っていた。
「……アル。そういえば、お前に話してなかったことがある」
エリックは自分の首の後ろに手を回し、チョーカーを外した。隠れていた酷い傷痕が晒され、まだそれを見慣れぬ皆が息を呑んだのが分かる。
「これ、自分で見るのも嫌なんだ……だから、いつも何かで隠してるんだが、それにしたって、お前には教えておくべきだったな」
八年も一緒にいたのにな、とエリックは自嘲的な笑みを浮かべてみせる。その表情を、傷痕を見たアルディスは、どこか悲しげに目を細めた。
「お前の目に、アベル王子としての僕がどう写っていたのかは知らない。もしかすると、僕がノア皇子に対して抱いていた感情とほぼ一緒なのかもしれない。けどな、どのみち僕はそれ程優れた人間なんかじゃない。王位継承権を得たのだって、成り行きだ」
たまたまラドクリフ王家に生まれ、身体的な問題こそあれども他に問題は無かった。
兄に継承権がない以上、自分の他には王位を告げるような人間がいなかった。
これらの条件のうち、どれか一つでも欠けていれば、自分の右手に紋章が刻まれるようなことは無かっただろうと、エリックは右手を握り締めて言葉を紡いだ。
「だからこそ、僕は思うように動かないこの身体が憎かった。マルーシャのおかげでかなりマシにはなったが、この思いは変わらない。何より、戦時中に国民の期待を散々裏切ってしまった自分のことが、今だって許せない……」
船で、『アベル王子とノア皇子が逆に生まれていたら良かったのに』と言っていた男達の姿が、声が、脳裏に焼き付いたまま消えてくれない。
恐らく、彼らのような者達はエリックが生きている限り、考えを改めてはくれないのだろう。
「……」
エリックは少しの間だけ黙り込んでしまった。この話の続きをするのをためらっているのだろう。だが彼はおもむろに首を横に振るい話を続けた。
「この傷は十年前。戦場から一時帰還してきた父上との訓練の最中に付いた物だ……真剣を用いた、訓練だった。ちゃんと避けなければ死ぬと分かっていながら、僕は父上が振り下ろした剣をこの身に受けた」
「! ま、まさか……」
「死んでも良いって、あの時は本気で思っていたよ……“ラドクリフ王子”の地位は、“アベル”という名は、あの頃の僕には、あまりにも苦痛すぎたんだ」
あまりにも重々しい空気が、皆の間を流れていく。エリックは赤い瞳を伏せ、忌々しい傷痕を右手の指でなぞった。
「父上の剣術はかなりの物だったからな。首が飛ばずに済んだのは、父上が直前で矛先を逸らしてくれたからだ。ただ、それでも、僕は致命傷を負うことになったよ。つまり本来なら、この傷が原因で死んでいた筈だった」
何しろ、辺り一面が赤く染まる程の、とんでもない出血量だった。父はそんな自分を、本当に汚い物でも見るように見下ろし、去っていった。そういえば、心配すらしてくれなかったな、とエリックは彼の姿を思い返す。
彼はそのまま、エリックに別れを告げる事なくフェルリオへと戻っていった――そして、結果としてこれが、エリックが最後に見た父の姿となった。
「ただ、たまたまそこに兄上と……マルーシャが、いたんだ。マルーシャは、ほんの数日前に僕の許嫁になることが決まって、シャーベルグからやってきた。僕との接点が殆ど無いどころか、一方的に僕が冷たくあしらっていた……本人を目の前に言いたくなかったが、当時の僕にとって、明るい彼女の姿はあまりにも眩し過ぎた。苦痛でしかなかった。自分自身が、より一層醜く思えるから」
マルーシャはエリックの発言を訂正しようと、何か言おうとしていたが、それが言葉として紡がれることはなかった。
事実、今も昔もエリックは決して明朗な少年ではない。それどころか、世間一般的な同年代の少年達と比べるとかなり大人しい方だろう。こればかりは否定の仕様がない。それを、エリックはよく理解していた。
それでも、少しは改善していれば良いなと思いつつ、エリックは軽く息を吐いてから口を開いた。
「あの時、マルーシャはいきなりその場で覚醒してみせたんだ……七歳だから、かなり早めの覚醒ってことだ。それに伴って、爆発的な治癒力が開放されたんだろうな。傷こそ残ったけれど、僕はこの通り生きている。しかもあの一件以来の僕は余程のことが無い限り、寝たきり状態になる程に体調を崩すことはなくなった」
体質のことが何よりもコンプレックスだったエリックにとって、それは本当に有り難いことであった。
しかしながら、その十年後にエリックはマルーシャに関する恐ろしい話を耳にすることとなる。マルーシャの能力は、時として彼女自身の命を脅かすようなものと化してしまったという話を。
「マルーシャの早期覚醒。その原因を作ってしまったのは僕だ。結果として僕は、自分の生を引き換えに、彼女を危険な状態に追い込んでしまった」
恐らく、マルーシャの早期覚醒は『エリックを救いたい』という彼女の優しさが引き起こしたもの。 責任を感じて悲しげに笑うエリックの腕を、マルーシャは咄嗟に軽く引っ張った。
「で、でも! あれは、わたしが勝手にやったことだよ!? エリックは何も悪くないもん!」
「とは言っても、事実は変わらないさ。僕があんな行動を起こさなければ、君はあるべき形で覚醒出来ていたんだろうしな……ただ、あの一件があったからこそ、分かったこともある」
何とかエリックをフォローしようと狼狽えるマルーシャの頭をぽんぽんと軽く叩き、エリックはアルディスへと視線を移した。
「例えどんなに身体のことで非難されようとも、僕は死にたくない。王族である以上、普通に生きることは叶わない。それでも僕は、精一杯生きていたいと願うんだ」
「……」
「きっと幼い日の僕も、心のどこかでは生を望んでいた。ただ、現実と理想の差に打ちのめされていただけだったんだと思う。実際、あの後の僕は割とあっさり立ち直ってたしな」
チョーカーを付け直しながら、エリックは少し困ったように笑ってみせた。我ながら単純だと思うし、まだこの傷を晒して生きる程の度胸はないけれど、と。
「なあ、アル。ちょっと考えてみて欲しい。お前の人生……色々、悲しいことが連鎖してしまったのは分かってる。それでもさ、投げ出すのはまだ、早いんじゃないか?」
エリックの問いに、アルディスは微かに身体を震わせた。怯えるようにこちらを見つめてくる翡翠の瞳が、彼の迷いを明白に表していた――エリックは見抜いていた。アルディスの本心を。
「……たい、よ……」
シーツを握り締めた彼の左手が、酷く震えている。力を込められ、一層シーツのシワが深くなるのと同時、彼は声を荒らげた。
「許されるのなら、生きていたいよ! 俺だって……ッ、俺だって本当は死にたくなんかない!! それも“兵器”としてなんかじゃなく、一人の“人間”として……ッ、この世界を生きたいって、そう思ってるよ……ッ!!」
涙ながらに語られた、アルディスの「生きたい」、「人間でありたい」という本音。
「ッ、だったら……!」
「それでも結局の所、俺は兵器として生み出された紛い物だよ! 平和な世界に、兵器なんてものはいらないだろう!?」
「お前! まだそんなことを……!」
しかし、悲しくもアルディスの考え方は、あまりにも歪んでしまっていた。とはいえ、そうなってしまうだけの理由はエリックにも理解できる。幼少期の経験は、後の人格形成に大きく影響を及ぼすものだ。どうしても卑屈な考えが先行するエリックの性格も、幼少期の経験がもたらしたものに他ならない。
エリックの言葉が拍車をかけてしまったのか、更に気が立ってしまったらしいアルディスは軽く歯軋りした後、髪を振り乱して叫んだ。
「どちらにしても、世界の頂点に立つのは一人だけで十分だ! そんな存在が二人もいるから、戦争なんかになるんだよ! 俺達のどちらかを間引くなら……“いらない方”は、誰がどう考えたって、俺の方に決まってるだろう……ッ!?」
「な……ッ!?」
――今、彼は何と言った……?
激情するあまり、口を滑らせてしまったらしい。慌ててアルディスは口を閉ざしたが、出てしまった言葉は、もう戻らない。
「それ、どういう、意味だよ……!?」
「……」
「アル!!」
聞かずとも大体、彼の言葉の意味は察することができた。しかし、それでもあえてエリックは、彼の口から答えを聞こうとした。
エリックに掴みかかられ、アルディスはほんの少しの間目をそらし、一言も喋らずにいた。だが、それも時間の問題だと思ったのだろう。彼はエリックから目をそらしたまま、小さな声で呟いた。
「俺の例で分かるように、戦の功績っていうのはかなり高く評価される。仮に病弱体質だったとしても、最後の皇族を討ち取ったとすれば、君は全ての国民から、相当な信頼を得ることができる筈だ。それに……君とゼノビア陛下なら、フェルリオを悪いようにはしないだろうしね」
「やっぱりお前……そのためだけに、僕に殺されようとしていたのか……?」
「……きっと、その方が人々のためになるから」
天才と呼ばれたアルディスの首を国に持ち帰れば、国民のエリックに対する見方は大きく変わることだろう。
そのまま、一気に国をひとつにまとめることも可能かも知れない。しかしそれは、当然のことながらアルディスの死を代償になされることだ。
そこまで、彼に考えがあったとは思わなかった。衝撃のあまり、エリックは目の前が真っ暗になるのを感じる。するりと、手からアルディスの服が滑り落ちた。
「アルディスの馬鹿! わからず屋ぁ!!」
そんな時、エリックの耳に届いたのは、マルーシャの悲痛な叫び。呆然と立ち尽くしていたエリックを押しのけ、彼女は大きく右手を振り上げた。
「あ……っ!」
気付いたエリックが慌てて止めに入ろうとしたが、もう遅い。直後、平手打ち独特の乾いた音が、沈黙に包まれていた部屋の中に響いた。
「ッ……」
「痛い? 痛いよね? 生きてるんだもん。当然だよ……! わたしだって今、色んなとこが痛いよ!!」
あの高さから手を振り下ろせば、アルディスは当然のことながらマルーシャ側にもかなりの痛みを与えたことだろう。それでも、彼女は止まらなかった。
「今まで、黙って聞いてたけど……何なの? わかんない……全然、わかんないよぉ!」
微かに赤くなった右手をアルディスの乱れた服へと伸ばし、縋るように掴みかかる。両膝を床に付いた彼女は左頬を赤くしたアルディスの顔を見上げるような体勢で、決して目をそらすことなく叫び続けた。
「アルディスはアルディスじゃない! フェルリオの皇子様だって、どんな生まれ方してたって、そんなの、関係ないじゃない!」
嗚咽を上げ、頭を振り、混乱して上手くまとまらない言葉を必死につなぎ合わせていく。
「今となっては、甘えなのかもしれない! だけど、わたしは……っ、わたしは、エリックとアルディスと一緒に過ごす、のんびりとした時間が大好きだった! 大好きだったのに……!! どうして、どっちかが死ななきゃいけないの!? 犠牲にならなきゃいけないの!? わたし、そんなのやだよ!!」
マルーシャは垂れ目がちな黄緑色の瞳からぼろぼろと涙を流し、絶対に逃がさないと言わんばかりに両手でアルディスの服を掴んだ。
「平和のために誰かが犠牲にならなきゃいけないなんて、そんなのおかしいよ! 間違ってる! わたしはそんなの、絶対に許さないんだからぁ……ッ!!」
マルーシャ自身、もう限界だったのだろう。あまりにも、色々なことが起こり過ぎた。自分の意見を主張し終えるなり、彼女はその場に座り込み、大声で泣き出してしまった。
「マルー、シャ……」
これには流石に心動かされるものがあったのか、アルディスは酷く肩を震わせて泣きじゃくるマルーシャに手を伸ばそうとして――それを、引っ込めてしまった。
「だけど、俺は……」
「『俺は』……何? 変なとこ頑固なのは、本当に変わらないわね」
「!?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、今となっては聞きなれた、優しくもはっきりとした力強い声。エリック達が振り返ると、そこにはポプリの姿があった。
「ポプリ!」
「お待たせ。やっぱり、色々と難航してるみたいね……大体、分かってたけれど」
軽く首を傾げ、ポプリは困ったように笑ってみせる。結局、アルディスと彼女の関係は厳密には分からないままになってしまっていたが、完全な赤の他人というわけではないことは確かだ。だからこそ、彼女はあのような行動に出たのだろう。
「ノア、歩けるかしら? ちょっと、この宿のバルコニーに出て欲しいの。いえ、出なきゃ駄目。最悪、引きずってでも連れて行くわ」
ポプリに、一体何の考えがあるのかは分からない。彼女に限って見当違いな行動を起こしたとは考え難いが、全くもって想像が付かない。
「とは言っても、足の傷が酷いからな。最悪、僕が抱えて連れて行くが……」
「……。良いよ、自力で歩くから」
アルディスは軽く息を吐き出し、フラリと立ち上がった。それでもやはり傷が痛むらしく、少し顔を引きつらせている。
素直に立ち上がったことを意外に思ったのか、ポプリはしばしの間目を丸くしていた。だが、やがてその表情は真剣なものへと変わる。
「ほら、こっちよ。あたしにもたれかかってくれて良いから、転ばないように……ね」
彼女らに着いて行って良いものなのか、それは分からない。だが、後を追おうとするディアナとジャンクをポプリは咎めなかった。要はどちらでも良いということなのだろう。
「僕は着いて行こうと思う。君はどうする?」
「わたしも……わたしも、行く……置いて、いかないで……」
「そうか」
ポプリは一体、何の行動を起こしたのか。
その答えを知るべく、エリックはマルーシャと共に彼女らの後を追っていった。
―――― To be continued.