テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.31 答え

 

――自分の、価値なんて。

 

 

「痛……っ!!」

 

「こんなこともできないというのか! 我が息子ながら、情けない……!! お前がこんなことで、ラドクリフの未来はどうなるというのだ!?」

 

 

――そんなもの、無いと思っていた、生きていても、何も楽しくなかった。

 

 

「さあ、稽古の続きだ。早く剣を取れ! アベル!!」

 

「……はい」

 

「ノア皇子はお前の半年後に生まれて、あの実力だというのに……」

 

 真名(まな)ですら、ちゃんと呼んでもらえなくて。何かと敵国の王子と比較されて。本当に僕なんて、必要ないんじゃないか、そう思ってしまって。

 

「! な……っ」

 

 

――だったら、望み通りに死んでしまおう。そう思った。

 

 

「!? やだぁ!! エリック! 死なないで!!」

 

 それなのに。よく分からないうちに決まっていた許嫁の少女は、僕の死を酷く嫌がった。

 こんな僕の許嫁になるなんて、絶対に嫌だろうなって思ったのに。王子の許嫁だから、必死によく振舞っているんだろうって思っていたのに。

 

「お願い……っ! お願いだからぁ……っ」

 

 彼女の態度からは、そんなのは微塵も感じられなくて。それが、本当に嬉しくて。

 悪いようにしか見てなかったせいか、鬱陶しいとすら思っていた少女だった。だけど、それが彼女の良さなんだって、やっと気付けた。

 

 

――こんな子が傍にいてくれるなら、生きているのも悪くないなって、そう……思えた。

 

 

――――――――――

 

――――――

 

―――

 

 

 

「――ッ!!」

 

 ハッとして目を開くと、視界に淡い黄色の天井が映った。寝汗でベッタリと張り付いた髪と服が、気持ち悪い。

 

 

(夢、か……)

 

 随分と懐かしい夢を見たな、とエリックは深く息を吐いた。ベッドの上に寝かされた身体を起こすと、そこは知らない宿屋の一室だった。

 誰かが着替えさせてくれたのか、エリックは真新しい寝巻きを身に着けていた。宿に付属しているものなのか別に用意された物なのかどうなのかは分からないが、黒く染められたそれは、上質な綿を使用した肌触りの良い素材で作られている。

 

(ここは、一体……)

 

 窓の外には、まだ見慣れぬ下位精霊と雪の飛び交う幻想的な風景が広がっている。

 整備された木材とレンガ造りの温かみのある街並みからしてスウェーラルではなさそうだが、スケルツォ大陸とは明らかに違う独特の環境からして、フェルリオ帝国内であることは間違いなさそうだ。

 

「……」

 

 覚醒しきっていない意識の中、ぼんやりと外を眺めているとベッドの横の扉がゆっくりと開かれた。

 

 

「! エリック君……! 目が、覚めたのね!?」

 

「……ポプリ?」

 

 入ってきたのは、タオルと氷水入りの洗面器を持ったポプリだった。そっと、彼女の手の平が額に伸ばされた。ひんやりとした感触に、何となく心が安らぐのを感じる。

 

「そうね……まだ、微熱はあるかしら。エリック君、元々身体弱いのに無理させちゃったから……ここに来て、一気に症状が出ちゃったのね。大丈夫?」

 

「あ、あぁ……なあ、ポプリ。ここは……? それから……」

 

「落ち着いて。ちゃんと、一から全部、話すから」

 

 ポプリはベッド傍のチェストに洗面器を置き、作り笑いを浮かべてみせる。あまり、良い話題ではないのだろう。それも、無理はなかった。

 

(……そうだ。あの後、僕らは……)

 

 あれから、どれほど時間が経ったのだろうか――そんなことを考え、エリックは思い出したようにポプリを見た。

 

「み、皆は……!? アルは……ッ」

 

「落ち着いて、皆、大丈夫よ……ノアも、一命は取り留めたから」

 

「そ、そうか……」

 

 話を聞いて、エリックは安堵のため息を吐いた。状況が状況だっただけに、一番心配だったのはやはりアルディスのことだった。

 

「……。怖かった、わよね。海の中で、ノアをずっと抱えてくれてたの、エリック君だったもの……」

 

 まさに、その通りだった。的を射過ぎた言葉を掛けられ、何とも言えない心境になったエリックは思わず、ポプリの姿を映していた赤い瞳を伏せてしまった。

 

「情けないが、そういうことだ……少しずつ体温が下がっていくのも、どんどん心臓の鼓動が弱まっていくのを……感じ取ってた。まあ、それだけじゃ、無いけどな……」

 

 右手に残る、思い出したくもない感触に身体が震える。

 あの時は仕方がなかったのだと言い訳を重ねたが、無理だった。親友の身体を斬り付けた。その生々しい感触が手から消えてくれないのだ。そんなエリックの様子を、ポプリは琥珀色の目を細めて、悲しげに見つめていた。

 

「ここは、帝都スウェーラルから一番近い街。ディミヌエンドっていうらしいの。魔術や精霊の研究をしている都市だそうよ。事実上フェルリオでは一番の発展都市……になるらしいわ」

 

「え……誰が、ここまで……?」

 

「チャッピーよ。彼が何往復もして、あたし達をこの街に運んでくれたって。この宿の従業員さんが教えてくれたの。凄い話よね……」

 

 話題を変えようと、ポプリが語りだしたのは衝撃的な話。その話を聞いて、エリックは一瞬呼吸が止まったかのような錯覚に陥った。

 本当に、あの鳥は賢過ぎる。帝都からこの街への距離がどれ程のものかはまだ分からないが、一羽で六人を運びきったというチャッピーの行動は賞賛に値するだろう。

 驚くエリックに対し、あくまでも冷静さを保ったポプリは「落ち着い聞いてね」と前置きをした上で、再び話し出した。

 

「……それで、ね。ディアナ君とあたしは、結構早く目が覚めたの。それでも、二日経ってたらしいけどね? それから少し後に先生とチャッピーが意識を取り戻して……マルーシャちゃんが目を覚ましたのは三日前の話」

 

「……」

 

「結局、君が目覚めたのは……今日は、あれから一週間後。本当に、心配したんだから……」

 

 一週間。それ程の時間、自分は意識を失っていたというのか。

 ポプリの話によると、怪我による出血と精神疲労のせいか、エリックの身体は酷い衰弱状態に陥っていたのだという。

 ポプリとディアナ、ジャンクが目覚めた頃は高熱といつもの発作に苦しんでいたという話だったが、全くもって記憶にない。

 

「……悪かった」

 

 それだけに何だか申し訳なくなり、エリックはすぐに軽く頭を下げていた。

 

「ううん、仕方ないわよ。あたし達ですら、すぐに意識回復には繋がらなかったのよ? シルフの話だと、魔力を抜かれるっていうのは結構肉体的に反動がくるらしいから、当然の結果らしいんだけど……」

 

 マルーシャが精霊シルフと契約し、上級治癒術レイズデッドを発動させた。

 エリックは既に意識が朦朧としていた為に話をよく理解していなかったのだが、実はその際にシルフの力でマルーシャとアルディスを除く全員が魔力を抜かれ、マルーシャの術発動を手助けしていたのだという。その結果が、最短でも二日の昏睡状態だ。

 

「ディアナ君は完全に塞ぎ込んじゃってるし、先生は医者のプライドだのなんだの言って動き回ってるけどまだフラフラだし、マルーシャちゃんはろくにベッドから起き上がれない状態だし……正直ね、あたしもちょっと動転してる。君が起きてくれて、本当に良かったわ……」

 

 無理に笑顔を作るポプリは、今にも泣き出してしまいそうで。ここまで一切情報のないアルディスのことが気にはなったが、エリックは言い出せずにいた。

 だが、そんなことはポプリも分かっていたのだろう。ひと呼吸おいてから、彼女は氷水に浸したタオルを絞りながら口を開いた。

 

「あと、ノアのことなんだけど……先生の話だと、命に別状はないらしいの。実際、かなり不安定な状態ではあるけれど、顔色も随分良くなったし、呼吸も正常になったわ。ただ……」

 

「まだ……一度も目を覚まして、ないんだな」

 

「……」

 

 想像はしていた。本当に、文字通り生死の境目を彷徨った彼がそう簡単に目覚めるとは思えなかった。むしろ、命に別状はないという事実を喜ぶべきだろう。

 

「で、でもね……君が目を覚ましたんだもの。きっと……きっと、大丈夫よ」

 

「……」

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

 それはまるで、ポプリ自身が自己暗示を掛けているかのようで。彼女に横になるように促され、素直にそれに従ったエリックの額に濡れタオルが置かれる。

 

「冷たい? 大丈夫?」

 

「ああ。というより……悪い」

 

「良いのよ。それと……まだ、早朝なの。もう一眠りした方が良いわ。動けそうなら、後で皆の部屋回れば良いから」

 

 ポプリによると、今回も二人部屋を三部屋借りているパターンらしい。

 比較的動ける者が、動けない者と同室になるようにと調整しているそうで、この部屋はエリックとポプリ、隣がマルーシャとディアナとチャッピー、さらにその隣が、アルディスとジャンクという組み合わせになっているそうだ。

 

「エリック君の服、破れたり切れたりしてたとこは縫っといたから。テーブルの上に置いてるから、外に出るときは着替えて、ね?」

 

「な、何から何まで申し訳ない……なぁ、ポプリ」

 

 テーブルの上に置かれた服の上には、アルディスに切られたチョーカーが乗っていた。今はレーツェルの付いたそれは、どこが切れたのか分からない程綺麗に繕われている。

 

「ん……?」

 

「その、聞かないのか……?」

 

 おもむろに、エリックは右手を自分の首へと伸ばす。何となく違和感は感じていたのだが、そこには包帯が巻かれていた。

 

「……首の、傷のこと?」

 

 躊躇しつつポプリが呟いた言葉に、エリックは微かに首を縦に振った。

 

「ノアが、目覚めた時で良いわ。いえ……なんなら、あたしには話さなくても良い。それでもあの子には……ノアには、話してあげて」

 

「……」

 

「エリック君も、気付いたでしょう? あの子、あんな場面でもその傷跡見て、驚いてたじゃない……」

 

 

『ッ、あなたに傷があるかどうかなど、私には関係のないことです!』

 

 

 額の濡れタオルを押さえつつ、エリックは再び身体を起こした。何となく、ポプリとちゃんと向き合って話したかったのだ。

 その意図を分かってくれたのか、ポプリはその場にしゃがみ込み、ベッドに座るエリックと顔の高さを合わせた。

 

 

「今になって冷静に考えてみれば、色々と、おかしかったんだよな……」

 

 手に乗せた濡れタオルへと視線を移し、エリックは軽く息を付いた――アルディスの行動は、明らかに異様だった。

 味方になってくれたであろうディアナとジャンクを真っ先に気絶させてしまったことも、何度も隙を見せた自分を、ことごとく見逃してきたことも。

 

 

『敵に……情けを、かけるな……! それは、自分の命を投げ出しているような行為にすぎない……!』

 

 

「アイツ、さ。戦闘中に助言までしてきたよな」

 

「……そうね」

 

「もしかすると、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の発作も意図的に起こしたんじゃないかって……今じゃ、そう思うんだ……」

 

 これに関しては、本人に聞かなければ分からないだろう。そう思っていた。

 だが、ポプリは事実を知っていたらしい。エリックの話を聞いた彼女は困ったように眉尻を下げ、明らかにエリックから目をそらしていた。

 

「ポプリ?」

 

「……」

 

 知っていることを話して良いものなのか、悩んでいる様子である。それでも、意を決した様子でポプリは軽く息を吐き、エリックの瞳を真っ直ぐに見据えてきた。

 

「先生が教えてくれたんだけど、呪いの発作が遅れて出たのは、ノアが左手に着けてたバングルが理由だそうよ。あれ、精霊の力が込められているそうね。つまり、すごい力を持っていた……そんなバングルの力を解放して、意図的に呪いの発作を遅らせていたらしいの」

 

「! だが、あのバングル……途中で……」

 

「壊れたわね。あれ以上は抑えられなかった、そういうことだったのよ。きっと……」

 

 バングルが壊れてしまったのは、魔術を使いすぎたのが原因かもしれない。

 しかしながら、アルディスはこれまで一切魔術を使用しなかったわけではない。その時に彼がバングルの力を解放することはなかった。発作が出ることを考えれば、その都度バングルの力を解放させた方が良いと考えるのが普通だろう。

 つまり今回は例外だったのだ。バングルが限界になる前にエリック達を殺せると思ったのかもしれないが――それはないだろうと、エリックは考える。

 

「バングル……意図的に、壊した可能性が高いよ、な」

 

「少なくとも……あたしは、そう考えてるわ……」

 

「……」

 

 エリックには、その可能性しか考えられなかった。ポプリも、同様の意見を持っていたようである。

 発作を起こしたアルディスの吐血量。それはそのまま死んでしまうのではないかと考えてしまう程に、酷い量だった。

 

 

『君は、馬鹿だ……ッ、どうして、そこまで、俺、を……ッ』

 

 

『愚かなのは、俺の方だ……! 帝国のことを考えるのならば、君を殺さなければならなかったのに……っ! 八年間も、ずっとずっと、先延ばしにすることしかできなかった……』

 

 

『無理だ……できる、わけが、ない……! それでも、フェルリオの民を思えば、やらなくちゃ、いけなかった……俺には、もうそれしかなかったのに……!』

 

 

『俺はただ、この国を、守りたかった……なのに、俺には何もできな、かった……ッ、俺は一体、何のために、生まれてきたんだろう、ね……?』

 

 

 崖先で泣きじゃくったアルディスの声が、耳の奥でこだまする。それは絶望と嘆きに満ちあふれた、悲痛な叫びだった。あれが演技であるなどとは、到底思えなかった。

 

 敵国の王子を、殺さなければならない。しかし、そんなことはしたくない――結局のところ、互いにあの場で考えたことは同じだったのだ。

 

(……まさか、アイツ)

 

 嫌な仮説が、脳裏を過ぎった。そんなことがあってたまるかと、エリックは首を横に振るう。

 しかし、ここまで来るとこの説が最も説得力のある説となってしまう。だが、それを信じたくなかった。それはあまりにも……悲しすぎた。

 

 

『やっぱり、俺は“いらなかった”……分かってた。だから、もっと早く……いや……』

 

『最初から、こうすべき……だった、んだ……』

 

『……。さよなら』

 

 

(くそ……っ)

 

 嫌だ。嫌だ。考えたくなどない。

 この説が本当であると思うくらいならば、多少無理にでもアルディスは本気で自分を殺しにかかってきたのだと、そう思った方がいくらかマシだ――!

 

 

「ねえ……エリック君」

 

「――ッ!」

 

 今の自分は、本当に情けない顔をしているのだろう。ポプリの手が、エリックの頬へと伸ばされた。

 驚き、顔を上げたエリックの目の前で、ポプリは微かに瞳を潤ませていた。

 

「今は、本当に辛い時かもしれない。現実から目を背けたくなる時かもしれない」

 

「……」

 

 ポプリは懸命に、何かを伝えようと言葉を紡いでいる。自分を勇気付けようと、必死になってくれている。

 

「けどね、君は賢いもの……分かるでしょう? 厳しいことを言ってしまうけれど、今の状況は君が過去に選んで来た道の、延長線だってこと……」

 

 エリックとマルーシャがアルディスと出会ったのは、八年前のこと。つまり、あの時点で彼との交流を絶っていれば、間違いなく今の状況とは違った未来が待っていた。

 そうすれば敵国の、ラドクリフ王国内では最重要クラスの指名手配者となっていたアルディスとの歪な友情を築くことも――あんな悲しい戦いをすることも、無かったのに。

 

「なら、どうすれば、良かったんだろうか……僕は……」

 

 交流を絶てなかったのは、彼が心身共に酷く傷付いた少年であったことを、見抜いてしまったから。彼の姿を見て、実の父親に罵られ、生きることさえ諦めかけていた幼い頃の自分の姿を投影していたのかもしれない。

 だが、あんな状態のアルディスを、放っておくのが正解だったというのだろうか。あのまま死んでしまったかもしれない十歳の少年を、見捨てるべきだったというのだろうか。

 

「今更、何を言ったってどうにもならないわ。ただ、あたしは……君の選択を責める気は無い。そんな権利、あたしなんかには無いし、むしろ今まで、ずっとノアにとって絶対の味方でいてくれたことを感謝したいくらい……あたしにはそれが、できなかったから」

 

「ポプリ……」

 

「あたしがしたことが許されることだなんて思ってないけれど、それでも、ただただ悔やみ続けるだけっていうのは、嫌なの……だからあたしは、自分ができる最善の行動をしようって、そう思っているわ」

 

 ポプリの言葉を聞き、エリックは尚更思い悩み、再びうつむいてしまった。ポプリは、そんなエリックの右手を握り締める。

 落ち着いたトーンで名を呼ばれ、顔を上げたエリックの視界に映ったのは、悲しげで泣きそうな、それでいて強い意志が込められた橙色の瞳だった。

 

 

「選んだ道が正しいかどうか考えるんじゃなくって、どうすれば前に、ゴールに駒を進められるかを考えるべきよ」

 

 

――立ち止まっていては、何もできないから。

 

 

「だって……過去の選択は、変えられないもの」

 

 

――今見るべきなのは、変えられない過去ではなく、これから紡ぎ出す未来。

 

 それは、ごくごく普通の、当たり前のことでありながら、今現在エリックが見失いかけていたこと。ハッとして目を見開いたエリックに微笑みかけ、ポプリは「大丈夫」と囁き、さらに言葉を続けた。

 

「君は、取り返しの付かないことをしてしまったわけじゃないもの。まだ、間に合うわ。ノアは、ちゃんと生きているもの……」

 

 目の前で、ポプリは必死に涙をこらえていた。彼女も何か、思うところがあったのかもしれない。そんなポプリの姿を見ているうちに、エリックの中で「皆に会いたい」という思いが膨れ上がっていった。

 

「早朝って、言ったよな……? 皆、まだ寝てるか……?」

 

 寝ろとは言われたが、とてもそんな気にはなれなかった。床に両足を付け、ベッドから立ち上がってみる。ずっと寝ていたせいか、不思議な感覚だ。若干フラつく上に、左足は酷く痛むが、それでも何とか動けそうだ。

 

「さっき会ったから、先生とディアナ君は間違いなく起きてるわ。マルーシャちゃんはちょっと分からないけど、起きてるかもね。あの子もあまり、寝付けないみたいだから……」

 

「……そうか」

 

 こんな状況だ。悠長に寝ていられる精神状態ではなくなってしまっているのだろう。

 そして恐らく、一週間の昏睡状態から回復した自分も、その後を追う形になる。

 

「あたし、ディアナ君連れて買い出しに行ってくるわ。エリック君はシャワーでも浴びて、着替えて皆の部屋を回ったら良いと思う。そのままだと、寝汗で気持ち悪いでしょう?」

 

「そう、だな……ありがとう」

 

 ディアナからしてみれば、自分は主人を殺めかけた憎い存在だろう。ポプリの気遣いはありがたいものであったが、それと同時に悲しくなってしまった。

 

「じゃあ……また、後で」

 

「ええ……」

 

 タオルを手渡され、部屋に付いていた小さなシャワールームへと足を運ぶ。ポプリが部屋を出ていくのを感じながら、エリックは蛇口を捻った。

 

 

 

 

「……寝てる、か?」

 

 マルーシャの部屋の前まで来て、エリックは部屋の扉をノックするかどうかを悩み始めた。仮に寝ているとすれば、あまり物音を立てるべきではないだろう。

 先にジャンクの所へ顔を出すべきだろうかと悩んでいると、壁をすり抜ける形でまだ見慣れぬ半透明の青年が現れた。

 

『いや、マルーシャちゃんもう起きてるぜ?』

 

「!? 心臓に悪いだろ……!?」

 

『ん? こういうの苦手なタチか? へへっ、おもしれー』

 

 紺色の瞳を細め、青年――シルフは楽しげにケラケラと笑っている。それに若干腹を立てたエリックは、彼を完全に無視する形で部屋に入った。

 

 

「マルーシャ」

 

「え、エリック!」

 

 ベッドから上半身を起こした状態で、マルーシャが出迎えてくれた。結われていない金色の細い髪は、さらりとシーツの上に流れている。

 

「大丈夫か? その、あまり動けないって聞いたんだが……」

 

「えと……術の反動なのかな? 珍しく、体調崩しちゃった」

 

 あはは、と笑うマルーシャの目の下にはくっきりと隈が浮かんでしまっている。体調が優れない上に、ろくに眠っていないのだろう。

 

 

「きゅぅ……」

 

「あ、チャッピー起きた? おはよ、チャッピー」

 

「あれ? ディアナと一緒に行ったんじゃなかったのか?」

 

 チェストの裏から、チャッピーがひょっこりと顔を出した。少し、鳴き声に元気がない。マルーシャとエリックをしばらく眺めた後、彼はカーペットの敷かれた床にぐったりと頭を寝かせた。

 

「聞いた? わたし達全員を、チャッピーが運んでくれたって話」

 

「あ、あぁ……そうか。それで疲れ切ってるのか」

 

「そうみたい。ここに来てから、ずっと元気がないみたいなの」

 

 ただでさえ、チャッピーにはヴィーデ港から帝都への移動の際、かなり無理をさせてしまったのだ。その時の疲れも加わって、身体が辛いのだろう。

 

「悪かったな……ありがとう、チャッピー」

 

 エリックはチャッピーの前に膝を付き、魔法石の埋め込まれた額を撫でてやった。しかし閉じられた青紫色の瞳は、一切開く気配がない。

 

「……」

 

 それどころか、完全に無視である。「ああそうですか」とエリックは苦笑し、再びマルーシャへと視線を移した。いつの間にか、彼女の隣でシルフが羽根を靡かせている。

 

 

『おいおい、オレのことは放置なの? ひっでーなぁ王子様』

 

「敬意その他を一切感じられないから王子って呼ぶな。そういえばシルフ……お前、マルーシャに召喚されてるのか?」

 

 半透明な状態とはいえ、シルフは平然と部屋の中を動き回っていた。何だか妙な光景である。そんなエリックの問いに、シルフは少し考えてから口を開いた。

 

『仮契約精霊の場合、バングル――契約の腕輪の持ち主の傍になら勝手に出て来れるんだ。ただまぁ、その時に使う魔力は完全にオレら側の負担だから辛いんだよ。しかも力は使えねーし? 大体、主人となら常に意思疎通出来るし、わざわざ出てくる必要はないってワケ』

 

 それでも彼が姿を現すのは、あまりにも体調の優れないマルーシャを思ってのことらしい。

 ふと、エリックの脳裏に、着流しを身に纏う白い男の姿が過ぎっていった。

 

「……それは、レムに関しても同様なのか?」

 

 主人であるマルーシャを心配してシルフが顔を出しているというのなら。アルディスと契約を結ぶレムが姿を見せないのは少々不自然な気がしたのだ。彼も、主人を思う気持ちならシルフに負けていないだろうに。

 エリックの問いが何を意味するものなのか理解できたのだろう。レムは「あー……」と気の抜けた声を出し、少し悩んだ末に問いに答えてくれた。

 

『レムとアルディス皇子間で交わされた契約は、もう無効だ。バングルが、壊れちまったからな……バングルって便利だけどよ、結構脆いんだぜ。アルディス皇子も無茶なことするぜ……』

 

「!」

 

 ショックを受けるエリックから目線をそらし、シルフは更に言葉を続けた。

 

『絶対、気にしてるとは思うけどな。話を聞く感じじゃ、どう考えたってアルディス皇子の独断暴走だったっぽいし? ……止めたかったろうな、レムは』

 

 アルディスとレムの関係性についてはよく分からない部分が多いものの、仲が悪かったということは間違いなくないだろう。彼らは恐らく、良好な関係を築いていたに違いない。

 特にレムはアルディスのことをとても大切に思っているらしいことが窺えた。バングルが壊れたことでレムが死ぬことは無いそうだが、仮にそうだとしても辛かっただろうなとエリックは考える。

 

『お前が悩んだって、仕方ねぇだろうよ……ウジウジすんな』

 

 考え込んでしまったエリックの顔を覗き込み、シルフは肩を竦めて部屋のドアを指差した。

 

『とりあえず、お前もう隣行けよ。何だかんだでアルディス王子のこと、気になるだろ?』

 

「え……」

 

『マルーシャちゃんはもう大丈夫だ。クリフもお前のこと、気にしてたし……顔、見せてやってくれよな』

 

 アルディスが気になるのは事実だが、マルーシャを放置して良いものかは少々考えものだった。困惑するエリックに、マルーシャがやんわりと笑いかける。

 

「行ってあげて? わたし、まだ動けないからアルディスの顔、見てないんだ。後で、様子教えてよ」

 

「……分かった」

 

 後でまた顔を出すと言い残し、エリックは部屋を後にする。

 部屋にはマルーシャとシルフ、そしてチャッピーが残された。

 エリックの前では元気そうに振舞っていたものの、やはり辛かったのだろう。マルーシャが軽く息を吐き、再び横になろうとする――そんな時、彼女の頭の中に声が響いた。

 

 

『一時はあれだけオロオロしてたくせに……君、冷静だったね。俺のこと、彼に言わなくて良かったのかい?』

 

 

 それは、一週間前も耳にした、穏やかな青年の声。彼はマルーシャの返事を待っているらしい。マルーシャはベッドに横になり、困ったような笑みを浮かべてみせた。

 

「うん。今のエリックに余計な心配、させたくなかったし……何より、エリックにはどうやったって聴こえないんでしょ?」

 

『ふふ、そうだね。君の頭がおかしくなったと思われかねないからね』

 

「ちょ、ちょっと!!」

 

 青年の声は、エリックには聴こえない――冗談を交え、クスクスと笑いながら話す青年の姿は、どこにも見えない。

 精霊であるためか、同じように声が聴こえているというシルフは何も言わなかったが、それはあまりにも不気味な状態であった。数日前までは、マルーシャもこの現象に怯えていたくらいだ。だが、青年も異常だということは分かっているらしく、突然彼は笑うのを止めてしまった。

 

 

『薄々、勘付いてるかもしれないけど……それでもいつか、ちゃんと話すから』

 

 その『いつか』がいつなのか。それは、今は聞かない方が良いだろう。

 

『今は、俺の一方的な話に付き合ってくれ。クリフ以外に会話相手ができるなんて、思ってもみなかったから……すごく、嬉しいんだ』

 

 青年が紡ぐの言葉はどこか悲しげで、本当に切なくて。マルーシャは黄緑色の瞳を細めながら、無言でこくりと頷いてみせた。

 

 

 

 

「ジャン……入るぞ」

 

 部屋の扉をノックし、中に入る。驚いた様子のジャンクと、ベッドに横たわったアルディス、部屋の中を飛び交う下位精霊達の姿が、視界に入った。

 

「エリック! お前……」

 

「心配かけたな。僕は、もう大丈夫そうだ」

 

 やけに顔色の悪いジャンクの左手には注射器が握られており、右手でアルディスの左腕を掴んでいた。栄養剤か何かを打つのだろう。

 

「見ての、通りだが……目覚める気配が無いんだ」

 

「……」

 

 アルディスの左手の甲には、やはりフェルリオ帝国の紋章が刻まれていた。それは、月と十字架をモチーフにしたシンプルな紋章。エリックは、微かに顔を引きつらせる。

 

「アルが意識を取り戻さないのは、虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の影響だ。一気に魔力が抜けた上に、酷い発作が出てしまったせいで、意識障害を始めとした悪影響が出ているようです」

 

「そう、なのか……」

 

「そもそも、とんでもない出血量でしたからね。普通の人間に比べ、ヴァイスハイトは頑丈なのが幸いしたな……だが、流石にあれは、本当に危なかった。生きているのが奇跡と言っても良いくらいです」

 

 アルディスの周りには、光の下位精霊が力を分け与えるべく集まっている。それでなくとも多くの下位精霊がこの部屋に集結している状況だ。

 そして、その原因がジャンクであることに気付くのは、精霊に関する知識の疎いエリックでも簡単なことである。

 

 だが、それ以上にエリックには気になることがあった。「嫌な気持ちにさせたら悪い」と前置きした上で、エリックはジャンクに問いかけた。

 

 

「本名は……クリフォード=ジェラルディーンって言ってたな。偽名、使ってたのは没落貴族出身だから……なのか?」

 

「ッ!」

 

「一応知識だけは持っていたから……気になったんだ。ジェラルディーンは、ラドクリフ王家と近い血縁関係にあったから」

 

「ぼ、僕、は……ッ」

 

 海で溺れていたエリックにも、精霊を召喚するジャンクの声は届いていた。それゆえに、彼の本当の名がクリフォード=ジェラルディーンだということを知ってしまったのだ。

 確認してみたのだが、顔を強ばらせ、声を震わせるジャンクの反応を見る限り、間違いは無さそうである。しかし、あまり良い表情をしていない。これ以上探りをいれるのは良くないだろうとエリックは判断した。

 

「……。悪い、あまり聞かれたくない話だったろうし、ラドクリフ王家の人間からこの話振られるのは嫌だったろ……ただ、ジャンの本名を知ったとき、お前が今まで僕に何も言わなかったのに驚いたから、確認したかっただけなんだ……本当に悪かった」

 

 ジェラルディーン家は、エリックの祖父に当たる王の弟と、混血の女性との間に生まれた当主による、ほんの僅かな間だけ上流階級に存在していた一家である。

 当主――ディヴィッド=ジェラルディーンは混血であったことからラドクリフ王家との血縁関係は公にはされていなかったものの、それでも当主の国への貢献や騎士としての強さが賞賛され、『侯爵』の爵位を与えられていた。

 しかし、当主ディヴィッドがある時を境に酒に溺れるようになってしまい、結果としてジェラルディーン家の爵位は剥奪されることとなってしまった。もう、二十年近く前の話だ。

 一体、何がきっかけでそうなってしまったのかは分からないが、立場上エリックはジャンクに恨まれてしまっても仕方がないと思っていたのだ。

 

「……」

 

 エリックの気持ちを理解してくれたのか、ジャンクは静かに首を横に振るう。まだ少しだけ表情はこわばっていたものの、安心はしてくれたらしい。

 

「大丈夫、ですよ。僕には、お前にどうこうしようという意思はありません」

 

「そうか……ありがとう。他にも気になることはあるが……こんな状況だ。今は、何も聞かないよ。それより僕とアルを助けてくれたこと、感謝してる」

 

「え……?」

 

 気が抜けたような声を出したジャンクに、エリックは自分の姿は彼に見えていないと知っていながら笑いかけた。

 

「僕が得た情報が、お前にとっては知られたくなかった秘密だったってことくらい、分かってるさ。お前がウンディーネとシルフを呼ばなければ、こうはならなかったろ? もしかしたら、華奢なアルだけならウンディーネ抜きで助けられた可能性があったかもしれないのに……だ」

 

「……」

 

「それでも、僕ら両方を救う道を選んでくれたのはお前自身だ。だから、感謝してるんだ。本当にありがとう」

 

 体力が尽き、海に沈み始めた段階でエリックは死を覚悟していた。普通に考えれば、自分を引き上げる手段が無い以上、仕方のないことだと思っていた――それだけに、今こうしてジャンクと話していること自体、奇跡に等しいのだ。

 

 

「……僕は今、自分の選択が過ちでなかった事を実感しましたよ」

 

 エリックの言葉を聞き、ジャンクは嬉しそうではあったが、それでもどこか悲しげに笑ってみせた。彼は少しだけ悩んだ後、自分の周りに集まる下位精霊と戯れながら語り始めた。

 

「十五歳になったばかり……くらいでしたね。僕は神格精霊のマクスウェル様に多くの力を与えられた上で、マクスウェル様の目であり、意思そのものとして世界を巡るようになりました。それが、精霊の使徒(エレミヤ)としての、僕の役目だった」

 

「……!」

 

 語られたのは、とてもではないが信じがたい事実。鵜呑みにしてしまって良いのかどうかと悩む程の、そんな突拍子も無い話だった。

 しかしながら決して嘘など吐いていなさそうなジャンクの様子や、彼が持っていた不思議な力を目の当たりにしているからこそ、彼の言葉は信憑性を持ってエリックに届いた。

 

「それが、精霊の使徒(エレミヤ)……ウンディーネやシルフの召喚も、その力があったからこそ、だったのか」

 

「はい。ですが、今となっては過去形です。今の僕は、ただの人間に過ぎないよ。アルに、魔力を分け与えてやれずにいるのは、そのせいです」

 

「え……?」

 

 言われてみれば、とエリックは思う。特定の属性の魔力を第三者に分け与えるという特殊な術の使い手であるジャンクが、その力を必要としているであろうアルディスを前に術を使わずにいるのだ。一体どういうことかとエリックが問うよりも先に、ジャンクは相変わらず下位精霊と戯れながら口を開いた。

 

精霊の使徒(エレミヤ)が、精霊契約者を除く一般人の前で力を解放するのは御法度だ。しかも、僕の場合は同時に、勝手に精霊契約の媒介人となるという最大の禁忌まで侵したからな。案の定……僕が目覚めた時には既に、精霊の使徒(エレミヤ)としての力を失っていました」

 

「!? だが、それは僕とアルを助けるためであって……!」

 

「それでも、契約違反は契約違反です。いちいち例外を認めていたんじゃ、元々弱い立場にある精霊達の立場が危うくなってしまう……そもそも、こうして一般人に精霊の使徒の立場を話すのも十分違反行為だからな」

 

 もう今更何をしたって一緒だ、とジャンクは笑ってみせる。それを見て、エリックは胸を締め付けられたような気分になった。

 マルーシャが精霊と契約する際にシルフが渋った理由が、今なら分かる。自分達を助けるためにジャンクが差し出した代償の大きさ。それがどれ程のものかは分からないが、彼にとって大切なものであったことは間違いないだろうから。

 

 

「僕のことは良い。それより、お前は自分の気持ちの整理でもしておきなさい」

 

 話を変えたかったのか、ジャンクは不意にそんな話題を振ってきた。だが、エリックからしてみればもう少し彼の話を聞いていたいという思いがあって。

 そんな中途半端な心境でいると、ジャンクは下位精霊と戯れるのをやめてエリックに向き直った。

 

「アルが目を覚ました時、また戦いにでもなったらどうするんだ。今度は、僕もどこまで助けに入れるか分かりませんよ?」

 

「――ッ!?」

 

「あの時は、互いに気が立っていたんだろう……せめて、お前だけでも平常心を保っていなければ、再戦もありえない話ではないと思いますがね」

 

 ジャンクの指摘は、ごもっともだった。そういう意味では、アルディスより先に目を覚ましたのは幸いだったと考えるべきなのだろう。

 

「……」

 

 目を泳がせたエリックの視界に再び入ったのは、アルディスの左手だった。純血鳳凰(クラル・キルヒェニア)特有の白い肌に、紋章の墨は良く映えて見える。エリックが何も言えずにいると、ジャンクは軽くため息を吐き、おもむろに頭を横に振った。

 

「……。流石に、視えなくともこれは分かりますね。まだ、認めたくないんだろ? アルディスと、ノア皇子が同一人物だってことを」

 

「なっ!?」

 

「ラドクリフ王子としての立場もありますし、当たり前だとは思います。これまでお前が、どれだけノア皇子の存在に精神を苦しめられてきたか……それは付き合いの短い僕ですら、何となくとはいえ分かったことだからな」

 

 だから仕方のないことだと思いますよ、とジャンクは軽く首を傾げてみせた。責められると思っていたエリックからしてみれば、拍子抜けしてしまうような反応だった。

 指摘されてみると、改めて分かる。「事実を認めたくない」と自分自身の中で延々と繰り広げられている、強い葛藤の存在に。

 

「親友のアルディスは、ノア皇子と同一人物であること……きっと、心のどこかでは気付いていたと思います。ですが、お前は無意識のうちに、それを考えないようにしていたのでしょう。真実を知ることで自分が傷付くのを恐れ、このような発想自体、できなくなっていたのでしょうね」

 

「……」

 

「八年も一緒にいて、一度も怪しいと思わなかったとは言わせません。恐らく、それはマルーシャに関しても当てはまる話。アルディスを、敵だと認識したくないという一心で、お前達は真実から目を背けたんだ」

 

 本当に、自分の姿や心が視えていないのかと聞きたくなる程に、ジャンクの話はエリックの核心に触れたものだった。エリックは上着の裾を掴み、アルディスからも、ジャンクからも目を背けた。

 

「さっさと気持ちを整理しろ、と第三者の僕が言うのも理不尽な話ではあるよな。僕は、お前達とアルが過ごしてきた日々を知らないから、こんなことを言えるんだ」

 

「ジャン……」

 

「そう簡単に、決着の付けられる話じゃないことは分かっています……それも、恐らくは一番、ノア皇子の存在に苦しめられてきたエリック、お前にそれを強いているんだからな」

 

 ジャンクの話を聞きながら、エリックは思わず、チョーカーで隠された首筋の傷に触れていた。布の上からでも分かる、歪な皮膚の感触に指先が震える。

 

「それを理不尽な話だということを分かっていながら、僕はあえて、お前にこう言います」

 

 震えるエリックの指先に、そっとジャンクの手が添えられた。それに驚き、顔を上げたエリックの目の前でジャンクは穏やかな笑みを浮かべてみせる。

 

「理不尽だと、叫ぶことは簡単だ。だが、叫ぶだけで全てが変わるとは、僕には思えませんね……行動に移さぬ者に、不満を言う資格は無い……そうは思いませんか?」

 

 ゆっくりと、それでいて諭すような調子でジャンクは言葉を紡いでみせた。この状況下でも自分を一切責めない、そんな彼の態度には本当に救われた。

 

「行動に移す。それが、最も難しいことなのは理解しています。それでも僕は、お前がこんな所で挫けてしまう人間だとは思っていない。嫌だ嫌だと、叫び続けるような弱者ではないと、信じています」

 

「……」

 

「特殊能力で視えないからこそ、僕はお前の色んな面を見てきました。だからこそ、自信を持って言える。お前ならきっと、本当の意味でアルと親友になれるさ」

 

 自分は今まで、彼に試されていたのかもしれない。今のジャンクの表情は本当に柔らかで。最初の頃に感じられた距離感はほとんど、無くなっているかのように思えた。

 

「ありがとう……その期待に、応えたいとは思う」

 

 そう返すと、ジャンクは左手を口元に当て、しばらく考え込んでしまった。何かを言いたいようだが、言って良いのか悩んでいる、もしくは言葉を選んでいるのだろう。

 

 エリックが静かにその様子を眺めていると、ジャンクは重い口をゆっくりと開いた。

 

「……。エリック、僕と部屋を変わってみませんか? 何だかんだで、アルと同室でまともに過ごしたこと、なかったろ?」

 

 彼曰く、エリックとアルディス、双方の容態がある程度安定したため、部屋を移動しても大丈夫だろうという判断の上らしい。

 

「そういえば……」

 

 言われてみれば、とエリックは思う。そもそも旅に出てから日が浅いこともあって、確かにエリックはアルディスと同室で過ごすという経験が無かった。

 野営時のテントは例外として、城以外の場所で寝泊りするのはアドュシールが初めての経験だった。しかし、あの時はアルディスが虚無の呪縛(ヴォイドスペル)の発作で酷く苦しんでいたことを理由に、必然的に応急処置のできるジャンクが彼と同じ部屋に泊まったのだ。

 当初の予定通りなら、船室でアルディスと同室になる予定だった。だが、あの一件で部屋割りが変わり、結果的にあの日以降はマルーシャと同室で過ごしていた。アルディスとは、あれ以来疎遠になっていた。何となく、彼に距離を置かれるようになっていた。

 

「あ……」

 

 

――そしてエリックは、ここに来て漸く、自らの失態に気が付いた。

 

 

『だから正直……“死んでいれば良いのに”って、そう願わずにはいられないよ……』

 

 

 そうだ。あの時、ディアナが自分に手を上げたのは、ポプリとジャンクが明らかに顔色を変えたのは……アルディスが涙を流した理由は。

 

 

「そ、そうだな。ちょっと、荷物持ってくる……」

 

「……分かりました。じゃあ僕は、マルーシャの様子を見に行ってから、そのまま今お前がポプリと泊まっている部屋に移ります」

 

 ジャンクは恐らく、自分が何を思い出したのか気付いたのだろう。否、彼はエリックがあのことを思い出すように、あえてこのような思考回路に至るように促したに違いない。彼がたったこれだけのことをすぐに発せずに悩んでいたのは、きっとそのためだ。

 

 荷物をまとめ始めたジャンクに背を向け、慌てて自室に戻る。ポプリが帰宅した気配はまだ無かった。それを幸いに思いつつ、エリックは後ろ手に部屋の鍵を閉め、その場に崩れ落ちた。

 

 

「……ッ」

 

 身体が、震える。

 

 事実を知らなかったにしろ、とんでもないことを言ってしまった。

 あれは、あの時の自分の言葉は。「知らなかった」で済まされる発言ではない――!

 

「僕は最低だ……、どうして……どうして、あの時、僕は……」

 

 荷物をまとめることも忘れ、エリックはしばらく、そのまま床に座り込んでいた。

 

 

 

 

「アル……」

 

 エリックがアルディスと同室になってから、既に六晩が経過していた。辺りは闇に包まれ、部屋の中には月明かりが差し込んできていた――今日で、七日目の夜となる。

 

 二週間もの間、一度も目を覚まさなかったアルディスの周りには相変わらず下位精霊達が飛び交っていた。

 

「……」

 

 決して良いとは言えない顔色をしたアルディスが眠るベッドの傍に椅子を移動させ、エリックは目の前のシーツを強く掴んだ。

 

「ごめん……」

 

 このまま一生、アルディスは目を覚まさないのではないか、と嫌な予感が脳裏を過ぎる。その予感を半ば強引にもみ消し、エリックは親友の顔へと手を伸ばした。

 

「ごめんな……」

 

 

――確かにあの時、自分はノア皇子の死を強く望んでしまった。それは、事実だ。

 

 

 だが、それはこういう意味ではなかった……結局はそれも言い訳なのだ。アルディスと、ノア皇子が同一人物だった以上、自分は親友に向かって直接「死ね」と言ってしまったも同然なのだから。それも、明らかな恨みの感情を込めて。

 

「ごめん……ごめん、アル……ッ」

 

 せめて、ちゃんと謝りたかった。それなのに、アルディスの閉ざされた左目は一向に開く気配を見せない。

 少しずつ温もりを取り戻しつつある肌に触れた指が、微かに震える。エリックは赤い瞳を細め、伸ばした手を引っ込めた。

 

 

「なあ、アル……お前、多分……死のうと、したんだよな……?」

 

 情けない程に、声が震える。違っていて欲しいと願った仮定は、もはやエリックの中では否定の出来ない事実へと変わりつつあった。

 

「それも……わざわざ、僕にとどめを刺させようと……そういう、目的で……あんな行動、起こしたんだよな……?」

 

 ただ、命を投げ出すだけならば。あんな面倒なことをせずとも手段はいくらでもあった筈だ。それなのに、アルディスはあえて戦うことを選んだ。

 わざとエリックを怒らせ、マルーシャとポプリを傷付け、自分自身が本気を出すことでエリック達にも本気を出させ……その上で、絶対に自分が負けるように立ち回った。エリックに、とどめをささせるために。

 

 

――きっと、これが答えだ。

 

 

「……」

 

 結局の所、真意は分からぬままだった。だが、最後の最後に彼が見せた涙は『本物』だったと信じたかった。

 しかし、もしあの涙が、彼が最後に叫んだ言葉が本物だったのだとすれば、あの選択は悲痛な思いを押さえ込んだ上でなされた物だったに違いない。

 

(互いの立場を、思えば……か)

 

 ラドクリフ王国を背負う立場に生まれたエリックと、それに対してフェルリオ帝国を背負う立場に生まれたアルディス。

 相反する立場に置かれた自分達は本来、共に在ることさえ許されない存在だった――否、本当にそうだっただろうか?

 

(あ……)

 

 ふと、エリックは大切なことを思い出した。そもそも、自分とマルーシャは何故、この国に送り込まれたのかと。

 

 それは、兄率いる黒衣の龍のスウェーラル襲撃を止めることであったか?

 

 それは、襲撃からスウェーラルの住民を守ることであったか?

 

(違う……)

 

 これらの事柄も、きっと完全には間違っていないのだろう。だが、肝心な部分はそこではない!

 

「く……ッ、くそ……っ!」

 

 やっと、思い出した。

 自分が何故、フェルリオ帝国にやってきたのか。本来成すべき目的は、何であったのかを。

 

 慌てて立ち上がったために椅子が床に転がり、エリック自身も盛大に転倒しかけることとなった。だが、そんなことは今のエリックにとってはどうでも良いことであった。

 

 旅立つ際に持たされた鞄を探り、中身が乱れるのも気にせずに頭に浮かんだものを引っ張り出す。

 それは上質な紙で作られた、旅に出てから一度も鞄から顔を出さなかった、真っ白な封筒だった。

 

 

『ラドクリフ、フェルリオ間での和平交渉について、その旨が書かれている親書です。ノア皇子に、あなたの手からこれを渡してきて欲しいのです』

 

 

――母はただ、これだけのことしか言っていなかった。それなのに。

 

 

「は……はは……、ははははは……」

 

 乾いた笑い声が、静かな部屋の中でこだまする。

 封筒を持ったまま、エリックは再びアルディスの傍へと移動した。

 

「最初に、アルの家で、これを出していれば……違った結末に、なっていただろうに……」

 

 エリックはやっと、これまで誰も気付くことの無かった最大の過ちに気が付いた。

 母であるゼノビアが、本当は何を望み、自分をフェルリオへ送ったのかを漸く、思い出したのだ。

 

 母はノア皇子が帝都スウェーラルでエリック達と顔を合わすことを見越した上で、エリック達に対しフェルリオ行きを命じたのだろう。

 エリック達が出向くことで、和平条約をの話し合いをあえてフェルリオ帝国で行うようにという考えがあったのかもしれない。出会えなかった時のことを話さなかった辺り、彼女は二人が出会うことを確信していたのだろう。

 その根拠は一体、どこにあるのか。それは分からない。ただ、一つだけ明らかなことがある。

 

「ノア皇子を……お前を、憎むあまりに……最初の目的さえ、僕は見失っていた……ッ! 託された物の存在さえ、忘れて……母上の願いを、歪曲した形で捉えてしまっていたんだ……ッ!!」

 

 少なくとも、彼女は次期後継者達の戦いを望んでなどいなかった。これだけは、疑いようのない事実だ。

 間違っても、フェルリオ皇子アルディスを、瀕死に追い込むような事態を望んだ訳では無かった――のに。

 

「ッ、本当に、僕は……っ! 僕は……ッ」

 

 目頭が、熱くなるのを感じる。大切な親書は、エリック自身の手で握り潰されてしまっていた。ぽたり、ぽたりと紙に涙が染み込んでいく。

 

 

「――最低の、馬鹿野郎だ……ッ!!」

 

 

 シーツを掴み、肩を震わせるエリックの脳裏を駆け抜けるのは、もしかしたら防げたかもしれない悲劇の光景。

 多くの死者を出した、黒衣の龍の帝都襲撃。結果として生み出された、数多の粗末な墓。そして――。

 

 

『結局俺には、存在意義なんて無いんだよ……ッ!!』

 

 

 己の存在意義さえ見失ったアルディスは、自ら命を絶とうとした。

 

 耐え難い絶望に、彼は折れてしまったのだろう。

 全てを投げ出してしまおう。そう考えてしまったのだろうーーその結果、彼は二週間も眠り続けているのだ。

 

「ッ、く……っ、……ぅ……っ!」

 

 視界が、霞んでいく。泣いたのは、何年振りだろうか。

 こらえきれない嗚咽を漏らしながら、エリックはシーツと親書を握り締めたまま肩を震わせる。今、許されるのならば、この場で泣き叫んでしまいたかった。

 

 

「エ、リック……?」

 

 

 涙に濡れたエリックの頬に何かが触れたのは。

 今、一番聴きたかった声が、耳に届いたのは、そんな時だった。

 

「ッ、アル……!?」

 

 伸ばされたのは、アルディスの左手。驚き、顔を上げてみると、うっすらと翡翠の瞳を開き、こちらを見ている少年の姿があった。

 

「……。夢、じゃない……?」

 

 しかし、この状況でアルディスの表情はどんどん、泣き出す寸前のそれへと変わっていった。

 

「アル……?」

 

「全部、終わったと……そう、思ったのに……これで、終わりだって……ッ」

 

 アルディスの弱々しい声が、酷く震えた声が、部屋の中に響く。

 涙に濡れたエリックの瞳が捉えたのは、同じように涙に濡れた親友の、悲しみに満ちた瞳だった。

 

 

「どうして……俺はまだ、生きてるの……?」

 

「――ッ!?」

 

 翡翠の瞳から、涙が伝い落ちる。先程とは違う意味で、エリックは肩を震わせた。

 

(……とにかくジャンを呼ぼう。目覚めたって、ちゃんと、伝えないと……)

 

 乱暴に自分の顔に残った涙を拭い、エリックは部屋を飛び出した。今は、余計なことを考えている場合ではない。アルディスの容態が急変する可能性だってあるのだ。

 

 

「ジャン、ポプリ! 起きてるか!?」

 

 時間帯は既に深夜だったが、それに構っていられるだけの余裕は無かった。ジャンクとポプリが泊まっている部屋の扉を叩き、エリックは中に居るであろう人物達の名を呼んだ。

 

「どうしたエリック!?」

 

 案の定、といった所だろうか。すぐに飛び出してきたジャンクとポプリを前に、エリックは簡単に要件を告げた。

 

「アルが、意識を取り戻したんだ……!」

 

 だから早く様子を見てやって欲しい、などという言葉は必要なかった。騒ぎに気付いたのか、隣の部屋から出てきたマルーシャとディアナと共に、エリック達は部屋へと戻る――だが。

 

「え……?」

 

 その部屋は既に、無人となっていて。大きく開かれた窓から入ってくる風が、白いレースのカーテンを靡かせていた。

 

「あ、あいつは馬鹿ですか……!? さてはここから飛び降りたな……!?」

 

 ここは三階だ。隻翼とはいえ翼を持つアルディスが落ちて死ぬことはないだろうが、それなりの高さがあるというのに。

 窓から身体を乗り出すようにしてジャンクは地面を見つめている。薄暗いためによく見えなかったが、恐らく彼の推測が正解だろう。

 

「どちらにせよ、今のアルがそう遠くまで行けるとは思えません。急いで、彼を探しましょう……皆、直ちに着替えて来てください」

 

「き、着替えてどうするの!? その間に、アルディス遠くまで行っちゃうかも……」

 

「寝巻き姿で外をうろつけば確実に目立ってしまいます! それで隠れられたんじゃ意味がない! だから、全員急いで着替えるんだ!!」

 

 早く見つけ出さないと、大変な事になるかもしれない。だが、急ぎすぎるのも良くないとジャンクは部屋を飛び出した。とにかく、外に逃げたアルディスを追わなければ。

 

(あんな悲劇、繰り返させてたまるかよ……!)

 

 即座に着替えを済ませたエリック達はアルディスを探すべく、深夜のディミヌエンドの街へと駆け出していった。

 

 

 

―――― To be continued.

 


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