テイルズ オブ フェータリアン ー希望を紡ぎ出すRPGー   作:逢月

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Tune.13 白き疫病神の涙 ー前編ー

 

「はあ……」

 

 ごろり、と自室のベッドで横になり、エリックは天井を仰いだ。

 

(……疲れた)

 

 城の前まで行くと、やつれ切った使用人達が出迎えてくれた。怒涛の事情聴取をされながらエリック達が王の間へ行くと、そこにいたゼノビア女王――エリックの母は、あろうことか使用人達やマルーシャ達の前で泣きじゃくってしまったのである。

 それだけ、突然失踪した息子が心配だったのだろうが、あそこまで泣かれてしまうとエリックも気が気ではなかった。

 そのような状況と化していたこともあり、マルーシャは早々に隣のウィルナビス本家に戻っていったが、エリックはなかなか泣きじゃくる母から解放されなかった。

 

(まあ、いきなり息子が消えたら驚くよ、な……)

 

 遊びたい盛りな十八歳の少年とはいえ、エリックは王子である。エリックが失踪した際にゼノビアは、母として息子を心配するとともに、最悪のケースを想定してこの国の未来について考える必要もあったことだろう――エリックは、世間一般的な少年とは状況があまりにも違うのだ。

 

 エリック達の脱走に備え、警備はより厳しくなることは間違いない。今まで脱走ができていたのは使用人達の給料を引くと脅すほど脱走を良く思っていなかった大臣達に対し、心配性ではあるが理解力はあるゼノビアから実は見逃されていたということが大きかった。しかし、先程の母の様子を見る限り、これからはそうもいかなくなってくるだろう。

 少し憂鬱な気持ちになりながら、エリックは身体を起こす。彼は部屋の隅に置かれたグランドピアノの椅子に腰掛けると、譜面台に適当な楽譜を置き、鍵盤の上に指を置いた。

 

「……」

 

 奏でられるのは、落ち着いた雰囲気の中に静かな激しさを秘めた、独特の美しい旋律――ただ気分が落ち着かないから趣味のピアノに手を伸ばしただけであって、選曲に理由は無かった。しかしエリックは今の自分の心境を弾いているような気分になっていた。

 言い付けを守り、外の世界のことなどほとんど知らないまま王となり、国を導いていく……果たして、そんなことは本当に可能なのだろうか?

 

――自分はこのままで、それで、良いのだろうか?

 

 エリックの頭の中を、もやもやとした何とも言えない感情が埋め尽くしていく。そんな時、突然耳障りな不協和音が部屋の中に響いた。鍵盤を押し間違えたのだ。

 

「……ッ」

 

「うわっ、めずらしいね! エリックが間違えた!」

 

 全く関係ないことを考えながら弾いたりするからだ、とエリックは少々落ち込みつつ……今、この場で聴こえてはいけない“声”が聴こえたような気がしたためにゆっくりと窓へと視線を動かした。

 視線が合うと同時、声の主ことマルーシャは「来ちゃった?」と首をかしげて愛らしく笑った。そのまま、何の違和感も無さそうな様子で部屋の中に入ってくる。エリックは思わず、盛大に溜め息を吐いていた。

 

「君は何やってるんだ……」

 

「脱走?」

 

「おい……」

 

 近付いてきた彼女の頭をわしゃわしゃと撫で、エリックは再び溜め息を吐く。君はまだやるのかと。やるにしても早すぎるだろうと。使用人達は一体何をしているのかと。

 

 

「エリック」

 

「ん?」

 

「その、ね……何か、あっという間に物事進み過ぎて、不安なの」

 

 呆れ返っているエリックの心情を知ってなのかどうなのか、マルーシャはそう言って笑った。ひとりでは不安で不安で、仕方がなかったのだという。だからと言って逃げてくるなよと言いたくはなったが、その『不安』という点においてはエリックも全く同じ心境であった。

 

「……まあ、な」

 

 エリックはベッドに腰掛けつつ、マルーシャを手招きする。やって来た彼女は、何の躊躇いも無しにエリックの隣にちょこんと座った。

 

「正直、僕も思うよ。兄上の件、完全に納得されたわけだし……あんな話、普通信じるか?」

 

 エリックが言いたいのは、『兄に追われ、逃げざるを得なかった』というこうなった経緯の話である。いくらなんでも信じてはもらえないだろうと、二人は最後まで理由を話すことを拒んだ。適当にはぐらかしておこう、と決めておいたのだ。

 しかし、詳細を話すことを拒み続けているとまたしても女王が泣いたので、エリックが折れて話してしまったのだ。エリックは母の涙に弱いのだ。

 

「どちらにしたって、何か兄上信頼されてないみたいでさ。ちょっと、複雑だった」

 

 信じてはもらえないだろうと、嘘を言うなと泣かれる可能性もあるだろうなと、エリックは諦め半分で事情を話した。だが、待っていたのは予想外の事態だった。

 ゼノビア女王を始め、大半の使用人や大臣も、彼の話をあっさり信じたのである。要するに、ゾディートへの信頼はそれだけ無いということをエリックは感じてしまったのだ。

 

「違うよ。エリックが信頼されてるってことだよ、きっと」

 

「そうなら、良いけどな……」

 

「エリックはお兄様大好きだもんね」

 

 そう言って、どこか悲しげにマルーシャは笑う。それに対し、エリックは心底複雑そうな表情で「大好き、か」と呟き、自嘲的な笑みを浮かべてみせた。

 

「好きかどうかと問われればよく分からないが……まあ、尊敬はしてる。今回の件で嫌われてるんだっていうのは、痛いほど分かったけど……それに僕は、“あの事件”の犯人が兄上だとは、今でも信じてない」

 

「……」

 

「あ、ああ、気にするな。分かってたよ、あれだけ避けられれば、そりゃ……」

 

 物心付いた頃から、エリックはゾディートから避けられていたように感じていた。

 何故かは分からないが、城の中ですれ違っても、同室でしばらく過ごしていたとしても、声を掛けてもらえることはほとんど無かった。微笑み掛けてくれたことすらない。

 エリックが知る限り兄は、決して笑わない人間ではないというのに――とはいえ、“あの事件”以降、兄は本当に笑わなくなってしまったのだが――。

 

 どちらにせよ、ゾディートがエリックに対して厳しい態度を取っているのは疑いようのない事実である。

 挙げ句の果てには殺されかけたのだ。前々からエリックは『自分は兄に嫌われているんだろう』と感じていたが、実際にこのような目に合えば、分かっていようが分かっていまいが少なからず傷付くものだ。

 それが、表情に出ていたのだろう。マルーシャが「ごめんなさい」と微かに声を震わせて謝ってきた

 

 

「まあ、アルの時みたいにさ、ちょっと違う意味合いの避け方であって欲しいなと思いはしたかな。でも、僕が兄上に嫌われる理由はたくさんあるんだ。仕方ないんだよ」

 

「アルディスは……ね。確かに、アルディスの避け方はちょっと、普通じゃなかった。良い意味で、違ってたよね……お兄様も、似たような理由なら、良いのにな」

 

 ゾディートがエリックを“嫌う”理由が、アルディスと同じようなものならば良いのに――アルディスと出会い、過ごした日々を思いながら、エリックは天井を見上げる。

 

「……。あの時、他に掛けてやれる言葉は無かったのかって、今でも思うんだ」

 

「エリック……?」

 

 アルディスは過去に酷く傷付き、心を閉ざした少年だった。そんな彼と仲良くはなれたが、根本的な部分は何も改善されていないような気がしてならない。様子を見る限り、本来は人懐っこく、優しく穏やかな性格だっただろう彼は今でも、心を閉ざしたままだ。

 

「もっと、上手く言えてたら、良い言葉を選べていたならば、もうちょっと良くなってたんじゃないかって思うんだよ……」

 

 そう言って、エリックはマルーシャに笑いかける。その表情は、どこか切なげだった。マルーシャはエリックの笑みを見て一瞬言葉を失う。それでも彼女は頭を振るい、エリックの赤い瞳を真っ直ぐに見据えて口を開いた。

 

「そんなこと、分かんないよ。エリックが言った言葉が一番良かったのかもしれないし、違ったのかもしれない。それは、アルディスにしか……ううん、きっとアルディスにも分からないことだと思う。でも、でもね、少なからずアルディスは救われたんだって、わたしは信じてるよ」

 

 少し、間を開ける。それから、マルーシャは話を続けた。

 

「それに……“こっち側”も救われたんだって、ね……」

 

「え?」

 

「ううん、何でもない。何でもないよ」

 

 えへへ、とマルーシャは笑いながら窓の傍に行き、空を見上げる。その姿を眺めながら、そういえばとエリックは思った。

 

(あの日も、こんなきれいな青空だったよな……)

 

 それはもう、八年も昔の出来事だというのに、あまりにも繊細な思い出として残っていた。今でも、細部まで思い出すことができる。あの日、あの時の出来事。風景、そして想い――エリックは無意識のうちに、それらを思い返していた。

 

 

―――――――――――

 

―――――――

 

―――

 

 

 それは八年前。エリックが十歳だった時の話である。

 

 エリックはいつものように、塔の最上階にある自室で過ごしていた。これは八年後も対して変わらないのだが、当時の彼はこの様な生活に今以上に嫌気が指してしまっていた。仕方がないのだと諦めることができていなかったのだ。

 窓の外を見れば、城下町で同い年くらいの子どもたちが走り回っている様子が見える。できることならば自分も外に出て、彼らのように走り回って遊びたい……。

 王子とはいえ、十歳の子どもに過ぎない彼ならば持っていても仕方のない感情だろう。

 どうしようもない感情を持て余し、エリックは溜め息を吐く。窓の外を見ながら、今日は良い天気だな、とのんびりと考えていた。

 

 

「エリック!」

 

「……?」

 

 よく見知った少女の声が聞こえたのは、そんな時であった。

 

「マルー、シャ……?」

 

 おもむろに、エリックは正面のドアへと視線を動かしたが、そこには少女――マルーシャどころか、誰の姿もない。人がいる気配もない。

 

「エリック~、ここだよぉ!」

 

 クスクス、という笑い声が聞こえた方をエリックは見た。そして、驚愕した。

 

「!? ま、ま、マルーシャ!?」

 

 エリックの目に映ったのは、ドレスの裾をなびかせ、窓枠に立ってクスクスと笑う金髪の美少女……こと、許嫁のマルーシャである。

 普通にドアから入ってきて、窓枠まで行ったわけではない。それに気付かないほど、エリックは鈍くない。どう考えても、城壁を登ってここまでやって来たのだ。

 淡い空色をしたドレスの、上品なレースのあしらわれた裾が風でひらひらと揺れている。

 下から中を覗いてみたいとは、断じて考えていない。

 

「ドアから入って来いよ……危ないじゃないか……」

 

「エリック、また身体おかしくしてるでしょ? 会っちゃ駄目だって言われたの。普通に会えないんだもん。“きょーこーとっぱ”ってやつだよ!」

 

 その言葉に、エリックは何も言えなくなってしまった。今日は本当に、いつも以上に体調が悪かったのだ。面会拒否までされていることは、知らなかったのだが……。

 

「いつもと変わらないさ……ただ、早朝に発作起こしただけで……」

 

「ほらー! また何か無茶したの!?」

 

「べ、別に……」

 

 どういう訳か、一つ歳下の彼女は、本当に自分の事を心配してくれている。許嫁だからなのかもしれないが、そうだとしても、それは素直に嬉しかった。

 

「ところで、身体は?」

 

「これくらい、大したことない。平気だよ。どうした?」

 

 見栄を張りはしたが、全部が全部嘘というわけではない。事実、エリックは悲しくも発作には慣れていた。加えて、彼の持病は数年前まではろくに外も出歩けないほどの重いものだったのだ。その頃を思えば、今の症状は軽いと言い切っても良いほどである。

 そんなエリックの言葉を聞いて、マルーシャはキラキラと目を輝かせた。

 

「じゃあ、お出かけしよ? ね?」

 

 どこからともなく、長いロープを取り出して彼女は笑う。そのロープの意味、そして、マルーシャの発言の意味は、すぐに分かった――これから一緒に脱走しよう、そう言っているのだ。

 

「えええええぇぇ!?」

 

「そんな驚かなくても良いでしょ!?」

 

 エリックは叫んだ。しかし、マルーシャは本気だった。

 

「い、いや……その……」

 

 当時の彼は知らなかっただろうが、マルーシャはともかくエリックは城に使える者達の間で“模範生”等と揶揄される程に真面目な存在であった……というのも、次期国王としては絶望的なほどに不安の種である病弱体質なのはさておき、幼くして国を想い、何かを学ぼうとする彼の姿や、「使用人を使用しない」などと上手いことを言われるほど人を気遣うエリックには、とにかく期待と好感が積み重なっていた。

 前国王が暴君で有名だったラドクリフ王国にとって、その真逆を行く性格の持ち主であったエリック王子は『希望』だった。だからこそエリックは、それに答えようとしていたのだ。

 

「良いでしょ? ね?」

 

 そんな模範生が、脱走なんてすればどうなるやら……しかし、じっとこちらを見つめてくるマルーシャの期待のまなざしが、辛い。

 

「う……だ、だから……」

 

「だめ……?」

 

「……す、少しだけ、だからな……」

 

――それは、模範生エリック王子が敗北した瞬間であった。

 

 敗因は、外の世界への好奇心と……後は、言うまでもない。色んな罪悪感を抱きながら、エリックはマルーシャの持つ縄を手に取った。

 

 そしてその後、ラドクリフ城とウィルナビス家に使える者たちは『減給』という名の悲劇に抗うため、どういうわけか突然“グレた”模範生王子とどうしようもないお転婆嬢の両名を、血相を変えて追い回すこととなるのは言うまでもないだろう……。

 

 

 

 

「ちょっと! あの二人ってまさか……」

 

「ええ、あの男の子の右手。間違いないわよ、きっと……」

 

 初めての脱走から、数十分後。何も考えず、コソコソと街まで出てきたは良いのだが、エリックもマルーシャも人々の反応に驚かされることとなった。

 城や屋敷に居た時と同じ服装をした二人は、当然ながら街では浮いてしまう――加えて、エリックの右手の甲には次期国王の証である紋章が刻まれている。目立つどころの騒ぎではなかったのだ。

 

「うっかりしてた。これはちょっと良くないかな……マルーシャ、走れる?」

 

「う、うん……」

 

 人が少しずつ集まってくる中、マルーシャはこくりと頷いた。それを見て、エリックは彼女の手を強く掴み、走り出す。街を行き交う人々にぶつかってしまうことも多々あったが、気にしている余裕はない。

 

(この紋章……! 隠しとけば良かった……っ)

 

(スカート長すぎだよぅ……うう……っ)

 

 二人の正体に気付いている者、気付いていない者。様々なパターンがあったが、とりあえず、この場を離れるべきであろう。二人は自身の服装を本気で反省しながら、人気の無い場所へと走って行った。

 

 

「マルーシャ……大丈夫か……?」

 

「え、エリックこそ……! 身体悪いのに、ごめんなさいぃ……!」

 

 しばらく走り続け、二人は青々とした木々が茂る森へと訪れていた。迷い込んだわけではなく、森なら大丈夫だろうとこの地を目指したのである。

 日頃、高い塔の部屋から街やその周りの光景を見下ろしていただけに、ここに森があるということをエリックは知っていたのだ。

 “ヘリオスの森”と言うらしいここは、森と言う割には明るい。立ち並ぶ木々の間から、美しい木漏れ日が差し込んでいることが理由であろう。

 

「暖かいね~」

 

「うん……」

 

 何よりも、空気が物凄く綺麗で澄んでいる。生まれ持った持病のこともあり、エリックはそれを敏感に感じ取ることができた。冷たい空気と草木の良い香りが、疲れた身体を安らげてくれる。

 

 だが、それだけではなかった。清々しい風に乗って、微かに笛の音が聞こえてくるのだ。

 

「ねえ、笛かな……音がしない?」

 

 美しい高音が、狂いのないメロディラインを紡ぎ出す。エリックもマルーシャも立場上交響楽団が奏でる演奏を聴くことが多く、様々な楽器とその楽器が持つ音色を知っていた。しかしこの笛の音は、未だかつて聴いたことが無いものであった。

 

「何だろ、この笛」

 

「さあ……? ねえ、行ってみようよ!」

 

「そうだね」

 

 はしゃぐマルーシャの頭を軽く撫で、エリックはもう一度耳をすませた。大体の方向は、分かった。その方向は間違っていないらしく、歩けば歩くほど、音は鮮明になっていく。それに導かれるようにしばらく歩き続け、少し開けた広場のような場所を木々の隙間から確認することが出来た。どうやら、笛の音の主はここに居るらしい。

 

「わぁ……綺麗な場所だね……!」

 

 小さなその空間だけは、他の場所よりも若干明るいような気がする。それでも、日差しは決して強すぎることなく、そこに降り注いでいる。

 

「あ、マルーシャ。ほら……」

 

 エリックがある一点を指差した。その時、再び穏やかな風が吹く――彼らの目の前で、幼い子供が纏っていたローブが静かに揺れた。

 

「……」

 

 身長はエリックと変わらないくらいか、少し高いくらいだろう。金の刺繍が入った純白のローブに身を包む子どもの左横顔が見える。中性的な外見だが、身長から判断するに恐らくは少年だ。

 

「何か、きれいな人だね……」

 

「歳は同じくらい、かな。あの楽器、なんだろう……それに、あの子の容姿自体も……」

 

 “彼”は幻想的な、雰囲気を漂わせていた。少年は少し苔の生えた木に寄り掛かり、繊細な装飾が施された黒塗りの横笛を吹いている。横笛はピッコロとフルートの中間くらいの大きさをしていたが、そのどちらでもない独特の音色が特徴的であった。

 そして楽器よりも特徴的だったのは、その演奏者である少年の容姿であった。深く被ったフードの間から覗く髪の色は、雪を思わせる白銀色。このような人間が存在するのかと問いたくなるような、不思議な髪色だった。

 

「……」

 

 繊細な音色に釣られたのか、小鳥達が彼の傍にやってきた。それに気付き、うっすらと開かれた瞳は翡翠のように深い緑色をしている。これはこれで、またしても見慣れない色である。彼が幻想的な雰囲気を纏っているのはその希少な容姿故かもしれない。

 鳥と戯れつつ、少年はエリックたちが隠れている方向へと視線を向けた。その手には、いつの間にか取り出したらしい拳銃が握られている。

 

「誰? さっさと居なくならないと……撃つよ?」

 

「!?」

 

 気付かれてしまった。しかも、少年からはただならぬ殺気を感じられる上、顔の右半分を覆い隠す大きな眼帯が何とも言えない存在感を発しており、幼い少年少女には恐怖しか与えなかった。怯え、「どうしよう」とマルーシャはエリックへと視線を移した……だが。

 

「ッ! ごほ……っ」

 

「エリック!」

 

 今、声を出せば完全に気付かれてしまう。しかしながら、そんなことを考えていられる状況ではない。

 

「ゴホ……ッ、ゲホゲホッ、――ッ!」

 

 タイミング悪く、発作が起きてしまったらしい。エリックは口元を押さえながら、反対の手でマルーシャの頭を撫でる。大丈夫だと言いたいのだろうが、彼の顔は酷く青ざめていた。頭を撫でてくれる手も、ガタガタと震えていた。

 

(ど、どうしよう……! わたし、わたしが連れだしたからだ……!!)

 

 面会を断られるほどに、エリックの体調が優れないということは知っていたのに。どうして良いか分からず、マルーシャは半泣きで天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)を発動させた。

 

「……」

 

「! あ……っ、う……っ」

 

 そんな時、仮面を貼り付けたかのように無表情な銀髪の少年が二人の前に現れた。恐怖のあまり、マルーシャはビクリと肩を大きく震わせる。

 

「!? 何かの発作!? 大丈夫!?」

 

 しかし、少年が二人に見せた反応は予想外のものであった。

 

「とにかく、ちゃんと呼吸するように意識して。痰詰まってるなら出して」

 

 真っ白なローブが汚れるのも気にせず、少年はその場に座り込んでエリックの肩を叩く。少なくとも、彼は本心からエリックを心配しているということが分かる。その様子を見て、マルーシャはついにボロボロと涙を溢し始めた。

 

「……ッ、エリックは身体が弱いの! なのに、わたしが連れだしちゃったからぁ……ッ!」

 

 泣きじゃくるマルーシャをまじまじと見つめ、少年は無表情のまま口を開いた。

 

「それ、体力持つならそのまま続けて」

 

「え……?」

 

天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)は普通の魔術と違う。だから、そんなに力まないの。ほら、力抜いて。上手くできないなら深呼吸して」

 

「う、うん……!」

 

 少年の細かい指示を聞きながらマルーシャは力を加減していく。このような体質だ。エリックは今までにも、彼女の能力にお世話になっていた。だが、今回はこれまでに受けたものよりも効果が遥かに高いことが分かる。

 

(何で、こんな詳しいんだろ……外の人間はそういうもの、なのか?)

 

 呼吸が楽になるのを感じながら、エリックはその様子を不思議そうに眺めていた。

 マルーシャは七歳で覚醒したのはいいが、彼女と同じ能力の使い手は全く見つからなかった上に、貴族である彼女の場合はどうしても能力を使う機会も限られてくる。それゆえマルーシャは天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)の能力を全くと言って良いほどに使いこなせずにいた。

 それにも関わらず、自分達と大して変わらないような歳の少年が希少な能力である天恵治癒(エルフリーデ・イヴ)について詳しく知っていたのだ。エリックが不思議に思うのも無理はない。

 

「……あ、ありがとう、もう大丈夫……」

 

「うん、もう大丈夫そうだね……じゃ?」

 

 エリックの様子を見て少年はため息混じりに立ち上がり、踵を返す。そのまま立ち去ろうとする彼のローブの裾を、マルーシャが咄嗟に掴んだ。

 

「ま、待って! あの、本当にありがとう! ねえ、名前……名前、何ていうの?」

 

 お友達になってよ、と笑うマルーシャを見下ろす少年の瞳は、酷く冷たかった。

 

「俺の名前なんて……聞いたって、どうせ必要ないでしょ。少なくとも、君達には」

 

 そんな彼の瞳は、エリックの右手に刻まれた紋章へと向けられていた。要は、エリックが王子で、マルーシャはその関係者だと分かっていながらの対応である。王家に喧嘩を売っているとしか思えない行為だ。

 

「あ! いや……えっと……」

 

「アベル王子と、多分、君はその許嫁のイリスお嬢様でしょ? 日が落ちる前に、帰りなよ」

 

 別にエリックもマルーシャもそれを咎めるつもりはなかったが、彼の態度は明らかに平民から貴族へ向けられたものではなかった。独特の容姿からして、彼は間違っても龍王族(ヴィーゲニア)ではない。それが関係しているのだろうかとは思ったが、素直に帰る気は無かった。そんなエリックとマルーシャの態度に、少年は溜め息を吐いた。

 

「言っとくけど、ここ、魔物出るから。それも、結構素早い狼型の」

 

「ま、魔物……っ!?」

 

「だから、早く帰れ。そんな護身用の短剣じゃ、色々無理がある」

 

 二人が持っていたのは、簡易な装飾の施された短剣のみ。これだけで戦えと言うのは少し無理があるし、そもそも魔物など見た事がない。おろおろと動揺する二人を見て、アルディスは再び溜め息を吐き、エリック達から目を逸らして腰を低く落とした。

 

「! ほーら、騒いでるからだ。言わんこっちゃない……」

 

「え……?」

 

 少年の手には、いつの間にか薙刀が握られている。茂みが揺れ、立ち上がれば自分達よりも大きいであろう狼型の魔物が一体姿を現した。

 

「分かったらさっさと帰れ」

 

「で、でも……」

 

「良いから!」

 

 少年がくるりと一回転させた薙刀の切っ先は電流で微かに光っていた。飛び掛ってくる魔物に物怖じすることなく、彼は地を蹴って軽やかに飛び上がった。

 

雷神槍(らいじんそう)! ……幻影刃(げんえいじん)ッ!」

 

 切っ先から落ちた雷が魔物の身体を貫き、その隙に少年自身は目にも止まらぬ速さで魔物の横を駆け抜け、すれ違いざまに斬り付けていた。魔物は空気中に分散する――後々エリックは知ることになるのだが、魔物というのは死亡とともに魔力の粒子として空気中に分散するものなのだ。当時の彼は、そんなことを知るはずも無く、技の効果だろうとしか思っていなかったのだが。

 

「わ、すごい!」

 

「! マルーシャ!!」

 

「え!?」

 

 最初に出てきたのが一体だけだったために、油断してしまった。マルーシャの背後から魔物が顔を覗かせている。一番弱そうな彼女に狙いを定めたらしい。

 

「くそ……っ!」

 

 エリックは咄嗟に短剣を抜いたが、魔物の牙を見て微かに肩を震わせた。魔物は地を蹴り、勢いをつけて茂みから飛び出す。顕になった全貌は、先ほどの魔物よりも大きかった。

 

「――ッ!」

 

 思わず、怯んでしまった。それ幸いと魔物は大きく口を開け、飛び掛ってくる。どうしようも無いと目を固く閉ざした瞬間、エリックは少年に突き飛ばされていた。

 

「うあぁッ!!」

 

「!?」

 

 少年の悲鳴が上がる。見れば、彼の右足に魔物が噛み付いていた――庇われたのだ。それをエリックが理解するのは、決して難しいことではない。

 

「ッ!」

 

 ギリギリと歯を食いしばり、少年は右足に固定されたホルダーに手を伸ばし、先ほど手にしていた拳銃を掴んだ。彼はその拳銃で魔物の頭をガツンと殴り、魔物が口を離すのを見計らって引き金を引いた。

 

「ギャインッ!!」

 

 致命傷にはならなかったようだが、前足を打ち抜かれた魔物は悲鳴を上げ、一目散に茂みの中に逃げていった。その様子を見届けた後、少年は小さな呻き声を上げてその場に崩れ落ちてしまった。

 

「大丈夫か!? おい!!」

 

 エリックとマルーシャは倒れた少年の足を見て、思わず身体を震わせた。彼の足には、赤黒い血に塗れ、折れた魔物の牙だけが残されていた。それは、少年が履いていた革製のブーツさえも軽々と貫いている。

 

「……ッ」

 

 少年は手身近にあった植物の蔦を足に巻き付け、一息に牙を抜いた。蔦を巻いて出血を抑えようとしたのだろうが、それはあまりにも無意味だった。

 

「俺も、馬鹿だな。本当に……ッ」

 

 薙刀を杖代わりに、少年はゆっくりと立ち上がった。傷口から、赤い血が流れ落ちる。辺りには、あっという間に血の臭いが広がっていった。

 

「そ、それ、すぐに……治すから……!」

 

 涙目で駆け寄ってきたマルーシャの頭に手を乗せ、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「やめなよ。未熟な君が、むやみに能力を使わない方が良い。良いから、さっさと帰れ……ッ!」

 

 少年の額から、冷や汗が玉となって流れる。唇は、微かに震えていた。ただでさえ白い肌は、どんどん真っ青になっていく。ガクン、と少年の膝が砕けた。

 

「! おい!」

 

 茂みに埋もれかけていた彼を支える様に、エリックは手を伸ばした。腕力には自信がなかったのだが、少年は片手だけで支えられるほどに軽い。ローブに覆われていたせいでよく分からなかっただけらしい。彼は酷く、華奢な体格だった。

 

「っ、痛……」

 

 生理的な涙が浮かんだ、少年の左目は固く閉ざされている。本当に辛いのだろう。その身体は、微かに震えていた。

 

「大人しくしてろ! このまま僕が家まで、連れて行く!」

 

「! だ、大丈夫だ……下ろせ、病弱野郎……!」

 

 やはり、いざ抱え上げてみると少年は随分と軽かった。体重だけならマルーシャと殆ど変わらないかもしれない。

 

「わたし、これ持ってくね!」

 

 後ろでマルーシャが彼の薙刀や拳銃を回収しながら叫ぶ。それを横目で確認し、エリックはそのまま森の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 抵抗しつつも聞けば律儀に道を答えてくれるという、見事に言動が一致しない少年を何とか彼の家らしき古びたログハウスまで運び終え、エリックは彼をベッドの上に下ろした。少し待っていたが、誰かが出てくる気配は無かった。

 

「一人暮らしなのか? えっと……」

 

 少年が名乗ってくれないために、何と呼べば良いのかが全く分からない。そんなエリックを見て、少年は諦めたように口を開いた。

 

「アルディ……じゃなくて、アル。俺はアルだよ……これで良い……?」

 

「アル! アルっていうんだ!!」

 

 マルーシャは嬉しそうに笑みを浮かべるが、エリックは聞き逃さなかった。少年が“アル”と名乗る前に、何かを言いかけていたことを。

 

「おい、偽名だろそれ。というより……愛称?」

 

「!?」

 

「そういえば“アルディ”って途中まで言ってたね……あ!」

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 ひょい、とマルーシャはベッド脇のチェストの上にあった赤いハードカバーの本を手に取った。どうやら、日記帳らしい。

 

「あー、うん。名前の刺繍入ってる。プレゼントなの? えっと、“アルディス”」

 

「~~ッ!」

 

 マルーシャの言葉に少年――アルディスは盛大に目を泳がせる。それを見て、エリックはクスクスと笑った。

 

「名前隠す方が悪いんだろ? 中身、読んでも良いか?」

 

「駄目!」

 

「じゃあ、フルネームで名乗ってもらおうかな。僕らだけ名前知られてるのも嫌じゃないか」

 

「そっちは有名人じゃないか! ああもう、分かったよ……っ! 俺は……アルディス。アルディス=クロードだ!」

 

 アルディスが漸くまともに名乗ったのを満足しつつ、エリックは彼に日記帳を返した。盛大に舌打ちされたが、この際もう気にしないことにする。

 

「……もう、良いだろ。帰れ」

 

「えー」

 

 日記帳を毛布の中に隠し、アルディスはぷいと目線をそらして吐き捨てるように言った。拗ねるマルーシャの頭を軽く撫で、エリックはベッドに座ったアルディスと視線を合わせた。

 

「分かった、帰るよ。その代わり、明日も来て良いか?」

 

「えっ!?」

 

 エリックの言葉に、アルディスは明らかに動揺する。

 

「え、エリック……」

 

「駄目、か?」

 

 動揺しているのは、実のところマルーシャも同じだった。エリックの身体のことや、アルディスの冷たすぎる対応を気にしているのかもしれない。それでも、エリックは意思を変えることなくアルディスの顔色を窺い続けた。

 

「な……何で……」

 

「お前に興味があるから。これじゃ、駄目か?」

 

「……ッ」

 

 何故かは分からないが、アルディスの翡翠の瞳が酷く不安気に揺らぐ。その変化を、エリックもマルーシャも決して見逃さなかった。幼いながら社交の場に出ることもある二人は、人の顔色の変化には敏感なのである。

 

「……」

 

 アルディスはしばらく黙っていたが、やがて、決まりが悪そうに毛布に潜りこんでしまった。

 

「ちょっ!」

 

「勝手に、すれば?」

 

 それは、まともに聞き取ることすら苦労するほどの小さな声。アルディスが被った毛布をはぎ取ろうとしたエリックの手が止まる。

 

「分かった。じゃあ、また明日も来るな?」

 

「……」

 

「えへへ、ありがと。またね!」

 

 アルディスから返事が返ってくることも、毛布から顔を出して見送ってくれることも無かったが、それでも良かった。

 彼の家を出て、しばらく進んでから不意に振り返る。微かにカーテンを開け、家の住人がこちらを見ていることにエリックは気が付いた。

 

 

「……。なあ、マルーシャ」

 

「ん? 何?」

 

 何故かは分からない。ただ、アルディスを見て何かを感じた。そうマルーシャに言えば、彼女は一瞬だけ目を丸くし、やんわりと笑う。

 

「わたしも、そう思ったよ」

 

「やっぱり?」

 

「うん。とりあえず、絶対に明日も、ここに来ようね?」

 

 何とか抜け出せれば良いなとエリックは苦笑する。正直、騒ぎを起こしただけにかなり難易度が跳ね上がっていそうだ。とりあえず、最低でもこの服装で抜け出すのは論外だということは分かる。

 

「まあ、まずは無事に城に帰らなきゃならない訳で」

 

「ろ、路地裏でも通ったら良いのかなぁ」

 

 

 そして帰り道。結局二人は壮絶な勢いで騒ぎを起こした。

 

 

 

―――― To be continued.

 




 
いきなり泣きじゃくったゼノビア陛下(エリック母)

【挿絵表示】

(絵:長次郎様)

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