比企谷くんと一緒に向かい合ってカンパンを頬張りながら、漸く落ち着いた思考で物思いに耽る。まさか、バリケードが壊されていたぐらいで狼狽するなんて思ってもいなかった。もしかしたら階段を上がってきたゾンビが美紀に気づいて襲いかかったんじゃないか、って根拠のないことを咄嗟に考えついしまったからだろう。それにしても、危うく腰が抜けかけるだなんて下手したら死んでいたかもしれない恐怖に今更になって背筋に怖気が走る思いだった。それこそ、部屋がもぬけの殻と知ると軽くショック状態に陥って本当に腰が抜けてしまったのだが。
問題はその後だ。ほんの少しだけ眠っていた私が目を覚ますと、洗面台に行っていた比企谷くんとおもむろに目があった。それから《美紀を追いかける旨》を伝えたところまではいい――が、感情が高ぶっていたのか私は彼の両手を取って自分の両手でぎゅっと包み込んでしまった。それも長いこと。気づいたときには比企谷くんが小町ちゃんにからかわれているところだった。思い出すだけで顔が熱くなってくるし、比企谷くんと面と向かって話せなくなる。現に、今だって二人揃って視線を泳がせまくっている始末。人と接することに慣れていない比企谷くんは仕方ないかもしれないが、私もこれほどまでに彼のことを強く意識してしまうとはまったく考えが及ばなかった。むしろ意識してしまうほどに思考が比企谷くん一色に染まってしまいロクに考え事が進まない。――ああもう、どうしちゃったんだろ私……。
「――とりあえず、さ」
「ひゃい!?」
彼は素っ頓狂な声を上げた私に驚いた。私は彼のことを考えていたら不意を突かれて驚いた。
お互い瞠目したまま僅かばかりに時が流れる。最近彼からのアプローチが増えたのをすっかり失念していた。微妙な空気が充満している中、飲料水の入ったペットボトルを持ったまま固まっていた比企谷くんが一度咳払いをする。それに合わせて私は慌てて言葉を紡ぐ。
「え、ええと何かな?」
「いや、今日中には車に戻っておくか~的な事を言おうとだな……それにこのご時世だ。他の生存者が食料積んだ車に集ってきてもおかしくはない。あと、あの羽つきリュックサックも一応回収しておきたいしな。何かわかるかもしれねぇし食料が入ってる可能性もあるだろ?」
「そうだね。じゃあ休憩終わったらここを出ないとだね」
「ついでに水と食料も持てるだけ持っていくか」
彼はそういってカンパンを一つ頬張った。何も考えてなさそうに見えて、彼なりに色々と考えていることはわかっている。色々な分野において博識――理数系は除くけど――だし、大抵のことは難なくこなせるだけのスペックも兼ね備えている。精神面では確かに不安が残るけど、今は小町ちゃんも着いてるから心配ないだろう。私は精神学者じゃないから彼の精神に何が起きているのか具体的なことはわからない。でも“現状を維持するべき”だと私は思う。彼にとって小町ちゃんは心の寄る辺といってもいい。この凄惨な現実から逃避する手段だ。けれど比企谷くんにはきちんとゾンビの姿が見えているから、《比企谷小町の死》よりも精神に与えられたダメージは少ないはずだ。ゾンビに対する対処もしっかりとしている。もし、彼が小町ちゃんの死を、認識できず発狂し比企谷八幡で無くなってしまうのなら――現状維持、それが無難な選択。実際、彼が比企谷小町を認識することによって引き起こされているデメリットはほぼ皆無と言っていい。
数少ない例を挙げるとすれば、彼が比企谷小町に渡した物体は彼らが受け渡しに成功したように見えても実際には床に落ちている……だとか、時折彼が悪夢にうなされているとかそういったものしかない。物の受け渡しは彼が想像でカバーしているらしくすぐさま回収しても気づくことはない。悪夢に関しては記憶に障害が起きているのか目覚めた時にはどんな夢だったかも覚えていないらしい。
だから私は現状を維持することに決めた。下手に行動を起こせば彼は壊れてしまうから。今まで通り、比企谷八幡が視る比企谷小町の存在を認め続ける。その光景を他人がどう思うのかは知らない。でも、《共依存》だとか《異常者》だなんて謗られようとも何も知らない部外者には理解して欲しくないしされたくもない。彼らの関係はガラス細工のようにとても繊細で、ほんの少し衝撃を加えるだけで簡単に砕けてしまう。だから、私は彼らの関係の緩衝材としてせめてもの努力を――恩返しをする。
ふと、比企谷くんの隣でカンパンを一緒に頬張る少女の姿が見えた。彼に似た青みがかった黒髪に揺れ動く癖っ毛が特徴的だった。あれはそう、きっと――。
「パサパサしてるカンパン食ってると頭ん中までパサつきそうだわ」
「お兄ちゃんの頭は元からパッサパサでしょ何言ってんの」
「はい傷ついたーお兄ちゃんのガラス製のハートにヒビが入りましたー修正不可能なくらいボロボロですぅー」
「大丈夫だよ。割れてもお兄ちゃんのガラスハートはしっかりと小町が炉に戻してもっかい作り直すから」
「あ、今の八幡的にポイント高い」
無性に嬉しさがこみ上げてくる。在るべきはずの変わらない日常を映した光景が垣間見えた。それがなんだか嬉しくて、私はふっと頬を緩ませた。
◆
食料を詰め終えた私達は部屋を出て周囲を警戒しながら一階へ向かっていく。かつて過ごしていたその部屋を名残惜しく感じて後ろ髪を引かれる思いだったけれど、それでも私は前へ進んだ。先頭を進む比企谷くんの背中が普段よりも大きくて逞しく見えた。彼のお荷物にならないように今度は私も時折ペンライトを投げて奴らを誘導して道を確保する。カラカラと音を立てて投擲したペンライトが発光しながら床を滑っていく。奴らは私たちから興味を逸らして鈍い動きでそれを追った。
「……サンキュ」
「……ううん。私だって頑張らなくちゃだからね」
小さくぼそっとした声で彼はお礼を言ってくれた。そのまま恥ずかしがって先に歩を進めてしまったけど、私は自分の気持ちを確認するように呟いて彼の背中を追う。通路を複数のゾンビが塞いでいるときはペンライトで誘導してから比企谷くんが一体ずつ倒していく。以前、数が一体しか居ないときはそのまま横を素通りするかルートを変えるかしていたが、私は意を決して彼から渡された槍をゾンビの脛辺りを狙って足払いの要領で転ばせる。槍自体にリーチがあるから大して接近せず、労力も消費せずに道を開けられた。私だってこれくらいは出来る。それを比企谷くんは理解してくれていたようで、彼は私を咎めることはしなかった。認められた、私はそれが嬉しくて舞い上がりそうになったけどしっかりと気を引き締めて油断せずに足を進める。決して無茶はしない。
順調に一階ホールが見渡せる二階エスカレーター付近にたどり着くと、周囲にゾンビの姿は無く私と比企谷くんは上からホールを蠢くゾンビの大まかな数と位置を確認する。それから回収を提案されていた《羽つきリュックサック》を自慢の目を凝らして探す。ピンク色をしていて防犯ブザーが付けられていたそれは、確か入口の辺りに落ちていたはずだが――
「……見つけたよ。あれ、入口が近いけどどうやって回収しよう?」
件のリュックサックを見つけると、比企谷くんに相談を煽る。こう言った作戦とかは私よりも彼の方が向いているのは周知の事実だった。顎に手を当ててほんの僅かに彼は思考すると、おもむろにズボンのポケットをまさぐりあるものを取り出した。私の眼前でふりふりと振られたそれは――雑貨店に陳列されていた防犯ブザーの一つだった。