その昔。
リットリオは鎮守府に着任した直後、真夜中の調理場で比叡を見かけた事があった。
いつになく真剣な表情だったので、思わず声をかけた。
「こんばんは、比叡さん。何をしてらっしゃるんですか?」
顔を上げた比叡はてれてれと頬を染めた。
「あ・・リットリオさん。実は苦手なカレーをですね、ちょっとでも上手くなろうと思って」
「カレー・・?」
リットリオは首を傾げた。
本国イタリアではそれほどカレーはありふれた料理ではない。
インド料理店に入れば食べられるが、自宅では作らないからだ。
比叡はリットリオに尋ねた。
「リットリオさんはカレー作るの上手いですか?」
「いいえ。全く作った事がありません。作れないと問題がありますか?」
「んー・・」
比叡は少し腕組みをして考えた後、肩をすくめた。
「鎮守府では金曜日のお昼は毎回カレーライスなんだけど」
「そうなんですか。まだ金曜日のランチを頂いた事がなくて」
「出撃とかで鎮守府を離れた場合、自分達で食事を用意するんですけど」
「はい。ただ、士気高揚の為に旗艦が用意する事もあると伺いました・・・あ」
「そう、その時くらいかなあ。といっても必ず金曜日の昼にカレー作らなきゃいけないってこともないよ」
「比叡さんはカレーが苦手なのですか?」
「食べるのは大好き。でも作ると・・その、食べ物のエリアをはみ出たものが出来上がるんだよね・・」
「エリアをはみ出る?」
リットリオは今、調理台の上に置かれてるものを見た。
ジャガイモ、たまねぎ、にんじん、スイカ、肉、バター、黒蜜、小麦粉、カレー粉。
スイカと黒蜜はデザート用の材料だろうと思いつつ、リットリオは続けた。
「別におかしな物はなさそうですけど・・これがそうなってしまうのですか?」
「そうなの」
「では、先程のような場合はどうされたのですか?」
「私が旗艦って事があまりないんだけど、ある場合はこれを使ってるよ?」
そう言って比叡が取り出したのはレトルトカレーだった。
「なるほど。それなら失敗しませんね」
「私が作りましたっていうより皆もホッとした表情になるしね」
「そんなに凄いんですか?」
「食べてみますか?」
「うーん・・私はカレーの味を知りませんから、味見役には適さないかと思います」
「そっかぁ。まぁ、練習は自分の為にするものだしね!」
「上手く作れるようになったら教えてくださいね」
「もっちろん!じゃあ調理に入るね」
「はい。比叡さん、おやすみなさい」
「おやすみー」
その翌朝、演習相手になる筈だった比叡と金剛がドック入りしたと聞いた。
演習中、僚艦だった雪風に昨夜の事を話すと、
「リットリオさんは信じられないほどの剛運ですね!雪風、あやかりたいです!」
そういって拝まれたのである。
リットリオが回想から意識を戻すと、香取と風雲が真剣に話し合っていた。
「では、磯風さんは食事当番の一切を免除しましょう」
「それだけですと怪しまれます。調理係と片付け係を分けては如何でしょうか」
「良いアイデアですね。調理係は私達で行い、磯風さんは当たっても片付け係ですね?」
「ええ、次に比叡さんが来ない限り押し通せるかと」
「では、当番編成は私が決めているという事にいたしましょう」
「その方が良いですね。抽選とかは嫌です」
「命懸けの抽選なんてしてはなりません」
ふと、風雲が顔をひょこっと上げた。
「あれ?そういえば朝潮さんと鹿島さんはどちらに?」
香取がぎくりとした顔で答えた。
「あ、ええと、二人はちょっと用事があって出かけてます」
「ふーん・・じゃあこの話、香取さんからお二人に伝えて頂けますか?」
「もちろんです。リットリオさんも口裏を合わせてくださいね?」
リットリオは肩をすくめた。
「構いませんけど・・」
それで良いのかなと思った時、事務所の電話が鳴ったのである。
その日の夕方。
「昼からの注文にしては多かったですねー」
「そうだねー」
普段は一人で対応するが、量の多い依頼だったので二人で行く事になったのである。
風雲はハンドルを操りながら言った。
「リットリオさんが帰る前に、もう一回ご一緒出来て嬉しいです!」
「そう?」
「そりゃそうですよ!最近は一人対応でお話しする人も居ませんでしたし、それに・・」
「それに?」
「私が着任した早々から、数え切れないくらい助けてもらったじゃないですか」
「・・んー」
「初日には噂を否定してもらったうえに、香取さん達へのお詫びの仕方も教えて頂いて」
「・・」
「銃が合わなくて、それを言えなくて困ってた時も凄く自然にきっかけをくださいましたよね」
「あれは何と言うか、たまたま上手く言った部分が大きいですけどね・・」
赤信号を見つめながら、風雲は微笑んだ。
「でも、リットリオさんが助けてくれなかったら、きっと私は今ここに居ないです」
「・・」
「途中で帰ったら、私は夕雲姉さん達に合わす顔が無かったし、自信をなくしたと思います」
「・・」
「実は私、この町に来る途中の景色、ほとんど覚えてないんです」
「えっ」
「地獄のようなガラの悪い所で、1つもミスが許されなくて、途中で帰れば恥晒し」
「・・」
「心細くて、泣きたくて、でもどこから誰が見てるか解らないから表に出せなくて」
「・・」
「だから、私にとって唯一の希望が同じ立場のリットリオさんだったんです」
「立場?」
風雲は青信号を見て、車を進めながら言った。
「香取さん達は教官ですから、どうしても上下の関係です」
「ええ」
「でも、リットリオさんは先輩ですけど、同じ研修生でもあります」
「ええ」
「仔細は違うかもしれませんけど研修を受けるという意味では同じですから」
「ええ」
「私が怖いとか困ったなとか、出来て良かったとか思う事を共有出来る人ですから」
リットリオはふと、風雲が着任した日、朝潮が言ったことを思い出した。
「私も、香取さんも、鹿島さんも出来ない事があります」
なるほど。
そう言う事だったんですね・・