俺たちは仮想の世界で本物を見つける   作:暁英琉

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この人のそばにいたい

「ふぁ……」

 

 目覚ましアラームを聞いた意識が自然と眠りの底から浮上してくる。現実の自分のベッドよりもちょっと簡素で、けれど大きいベッドから上半身を起こすと、両手を天井に届かせようとするように大きく振り上げて、背筋を伸ばした。こういう行動は現実とあまり変わらない。無意識のうちに変えないようにしているだけかもしれないけれど。

 

「おう、おはよう」

 

「あ……お兄ちゃん。おはよー」

 

 先に起きていたらしいお兄ちゃんが眺めていたウインドウから顔を上げてくる。さらっと欠伸を見られてしまった。マチ的にポイント低い。

 現実では朝は弱い方のお兄ちゃんは、この世界に来てからいつもマチより早く起きる。単純に早い時間にアラームを設定しているだけなんだろうけど、おかげで毎朝覚醒前の寝惚け顔を見られてしまうんだけど、もう二週間近くも見られていればさすがに慣れちゃうんだよね。いや、乙女として慣れちゃいけない気がするけど、相手はお兄ちゃんだから、まあいいかな?

 

「そろそろイロハの朝食ができるだろうから、さっさと準備しろよ」

 

「分かってるよー」

 

 再びウインドウに視線を落としたお兄ちゃんにいつも通り軽く返事をしながらベッドから降りる。そのまま装備ウインドウを操作して下着と服を着替えようとして――ふと最近の疑問を投げかけてみた。

 

「そういえばさ」

 

「ん?」

 

「お兄ちゃん、こっちに来てからナチュラルにいろはさんのこと名前で呼んでるよね」

 

 マチの記憶が正しければ、お兄ちゃんが下の名前で呼ぶ女の子なんて小町と留美ちゃん、あと沙希さんの妹の京華ちゃん――正確にはけーちゃん呼びだけど――くらいだったと記憶している。やばい、改めて列挙してみると全員年下じゃん。大丈夫かな、うちのお兄ちゃん本当にロリコンだったりしないかな。

 まあ、お兄ちゃんの性癖は置いておいて。つまるところそんなお兄ちゃんがこの世界に来てからいろはさんのことを「一色」ではなく「いろは」って呼んでいるのは……ちょっと妹としては気になるわけですよ。アインクラッド中で理由を聞いて回りたいくらい。全然ちょっとじゃないですね。

 

「……はあ?」

 

 そんな妹の好奇心満々な質問に対して、お兄ちゃんはもう露骨なほど顔を歪めて、「アホか」とでも言いたげな声を出した。ゲームマスターである茅場さんがもう一つの現実と言っていたこのアインクラッド、というかSAOだけど、現実と明らかに違うのが感情表現だ。ちょっと怖くなっただけで顔は真っ青になるし、恥ずかしくなると逆に林檎よりも赤くなって、漫画のような顔になってしまう。

 まあ、そのおかげで現実ではずっと仮面のように表情を作っていたお兄ちゃんが少しは素を出してくれているんだけどね。いや、さっきの表情はポイント低いけど。

 

「別にあいつの本名を呼んでるわけじゃねえよ。アバターネームを呼んでるだけ」

 

「今マチしかいないのに?」

 

 この部屋にはお兄ちゃんとマチしかいないし、SAOの部屋は【聞き耳】スキルをかなり高いレベルにしないと室外から会話を聞くことはできない。わざわざこんなときまでアバターネームを使う必要はないはずだけど。

 

「いや、お前に関してもだけど、いちいち呼び方変えてたらうっかり人前で本名呼んじまいそうだからな」

 

「なるほど?」

 

 相変わらずこの人は、こういうところ無駄に律儀というか、真面目というか。

 

「つうか、着替えるなら早く着替えろよ。お兄ちゃん善意で視線を外してるんだけど?」

 

「別に全裸になるわけじゃないから、そんなことする必要ないでしょ。……それとも、お兄ちゃんは妹の下着姿に欲情しちゃうのかにゃ~?」

 

「うぜぇ……先行ってるぞ」

 

 ありゃ、出てっちゃった。ちょっと遊びすぎたかな。なんか今日のお兄ちゃんはいつもより元気そうだったから、ついマチもテンション上がっちゃったよ。最近ずっと険しい顔してたし、現実とは違うこの環境がお兄ちゃんに何かいい影響を与えたのかな? それがデスゲームっていうのはちょっと複雑だけど。

 

「よしっ、今日もがんばりますか!」

 

 装備画面で今日の服を選んで鏡を確認すると、マチも部屋を後にした。

 

 

     ***

 

 昨日の段階で村で受けることのできるクエストは全部こなしたということで、今日は次の拠点に移動しつつ、道中のフィールド確認。時間に余裕があれば一つくらいは新しい拠点でクエストを受ける予定になっている。

 アルゴさんの情報だと、早い人はそろそろボスのいる迷宮区がある街【トールバーナ】に到着しそうだということだ。マチたちは後一週間はかかるんじゃないかな。まあ、マチたちの場合速さよりも正確性が大事だから。なんか仕事の話してるみたい。実際情報屋って仕事っぽいけど。

 

「マチ、スイッチダ!」

 

「了解です!」

 

 アルゴさんがソードスキルでハウンドを弾き飛ばしたのを確認して、かなり多く振っている敏捷値の限り駆け出す。自分で言うのもなんだけど、マチのトップスピードはかなり速い。弾き飛ばされたハウンドが地面に身体を叩きつけられる頃には肉薄するくらい距離を詰めることができる。

 

「ハアッ!」

 

 この間習得した『クロス・エッジ』を叩き込む。短剣のソードスキルは攻撃力こそ低いけど、その分そのほとんどに追加効果が付与されている。『クロス・エッジ』の追加効果は敏捷値低下。

 ハウンドのアイコンに敏捷値低下のデバフアイコンが現れて、少しだけだけど動きが鈍くなった。

 まあ、その“少し”が命取りなんだけどね。

 

「よっト」

 

 アルゴさんの叩き込んだ『ラピッド・バイト』がハウンドをポリゴン片に変える。リザルト画面が表示されたのを見て、ふっと身体の力を抜いた。

 

「スイッチの回数は多くなるガ、マチと一緒に戦うのが一番楽しいナ」

 

「アルゴさんのスピードについていけるのは、今のところマチくらいですからねぇ」

 

 いかにレベルが一番高いと言っても、筋力重視のバランス型プレイヤーであるお兄ちゃんは敏捷極振りのアルゴさんよりも遅い。互いの速度が違うと遅い方に合わせなくちゃいけないのが兵法の基本――ってお兄ちゃんが言ってた――から、自然とアルゴさんとマチがペアになることが多くなっている。

 

「ただ、もうちょっと筋力に振ったほうがいいですかね……」

 

 さっきのソードスキルでのダメージを思い出してむむむ、と考え込む。短剣のソードスキルは後半になると敏捷値で補正がかかるものも増えてくるらしいけど、序盤のものは補正がかからない分ダメージもかなり低い。さっきのハウンドだって、ダメージによってはもう一回スイッチする必要があっただろう。

 

「まア、あれを見ると確かにナ」

 

「オラアッ!」

 

「しねえ!」

 

 アルゴさんの視線の先ではお兄ちゃんとイロハさんがそれぞれ一人でハウンドの相手をしている。ここの敵はお兄ちゃんが狩場にしていた『アーマーハウンド』より弱いから、そこそこ筋力に振っているイロハさんでもあっさり倒せるようだ。それにしてもイロハさん、「しねえ!」はさすがに……。

 自分で選んだプレイスタイルだけど、今のままだとなんか……うーん、なんか……。

 

「ほえ?」

 

 形容しがたい不満に頭を悩ませていると、ポスッと肩を叩かれた。

 

「まだゲームは始まったばかりダ。確かに今は実感できないだろうけド、マチの戦術は階層が進めば進むほどハチたちの役に立つはずだゾ」

 

「……そうですね。まだ第一階層ですからね」

 

 ケラケラと笑うアルゴさんを見ていると、どこか心が落ち着く。あれだ、なんだかんだ相談に乗ってくれるお兄ちゃんと似た雰囲気なんだ。年上特有の抱擁みたいな、そんな感じ。

 

「まったク、お前たちは全員焦りすぎてて目が離せないヨ」

 

「そうですか?」

 

「そうダ」

 

 首を傾げると大げさなため息を返された。解せぬぅ……。

 

「マチちゃーん、アルゴさーん! 次行きましょー!」

 

「ほラ、急がないと置いて行かれそうダ」

 

「えっ、ちょ……ちょっと待ってくださいよぉ!」

 

 焦っているのはあの二人の方なんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、集まっているところに駆け出した。

 

 

 あぜ道のような最低限舗装された道沿いにしばらく歩いていると、道が二手に分かれていた。最前線のプレイヤーの情報で作られた地図によると、右が次の村へと続く道。

 そして左の方は――

 

「正式版で追加された新しいダンジョン、か」

 

 お兄ちゃんの表情はさっきよりも心なしか固い。

 βテストでは未実装だったダンジョン。つまり“もう一つの現実”のために追加された可能性のあるダンジョンだ。マチもイロハさんもどうしても緊張してしまう。

 

「『トールバーナ』へのルートからは少し外れるかラ、前線組もまだ本格的に探索をした奴はいないみたいダ。クエスト発生ポイントでもないようだしナ」

 

 アルゴさんが見せてきたスクリーンショットには森に囲まれた石造りの寺院が映っている。所々苔が生えたりひび割れていたりする外観は、木々の陰になっているせいもあってやけにおどろおどろしかった。

 

「……とりあえず行くしかねえだろ。レアアイテムが残ってるかもしれないし、高効率の狩場なら後続の役に立つ」

 

「そうですね、頑張らないと!」

 

 明らかに面倒くさそうに顔を歪めてぼやくお兄ちゃんにイロハさんは拳を握ってフンスと気合を入れる。なんだろ、マチは高校入ってからしかイロハさんを知らないけど、生徒会長をやってたせいかやけに社畜度が高い気がする。将来お母さんたちみたいにならないか心配です。

 

「まア、宝箱全部荒らされた辺境のダンジョンなんテ、そうとう効率よくなくちゃ行かないけどナ」

 

 SAOのダンジョン宝箱は、イベントアイテムが保管されているもの以外中身が補充されることはない。実際に、今までマチたちが情報収集のために確認したダンジョンは前線組によって全ての宝箱が空になっていた。

 宝箱の中に関する情報収集は、特にしていない。もう他の人が手に取ることのない中身の情報なんて無価値だからだ。

 ただ、開けっ広げられた宝箱を見るたびに……またβテスターと新人さんの溝が深くなりそうだなと思っちゃう。

 

「しょうがねえだろ。前線組だって大半が自分のことに必死なんだし、強いやつがより強くなるのがMMORPGってやつなんだから」

 

「それは……分かってる」

 

 βテスターは全体の一割以下。その人数で新人さんを手助けしようとすれば、単純に一人当たり九人を守る必要がある。あまりにも非現実的だし、逆に危険は増すだろう。そんなことをするくらいなら、今のβテスター中心での少数攻略はきっと正しい。

 けれど……。

 

「往々にして正しいことをしても、世界は優しくなくて正しくないからな。正しい奴はどうしても生きづらい」

 

「……それ、誰の言葉?」

 

「平塚先生」

 

 渋い顔をしたお兄ちゃんの答えに、妙に納得してしまう。確かにあの人そんなこと言いそう。足組んでタバコを吸いながら言ってるところを想像したら……すごい様になるね。かっこいいんだけどなぁ。なんで結婚できないんだろ。むしろかっこよすぎるのが原因?

 

「あ、見えてきましたよ!」

 

 イロハさんの声に視線を向けると、道の行きつく先に森が見えてきた。よくよく注視してみると、ぼんやりとだけど石造りの建物も見える。

 その建物の前には……人?

 

「誰かいるナ」

 

 遠目からはよく見えないけど、ここにいるということは前線攻略中のプレイヤーなのだろう。情報取引のためにか、まだ誰も漁っていないであろう宝箱を独占するためか、はたまたその両方か。一人は右手に武器、左手に暗闇での視界強化バフのつく松明を持ち、もう一人も得物である槍を携えて寺院に足を踏み込もうとしているところだった。

 

「あちゃー、先越されちゃいましたね」

 

「ま、俺らにとって宝箱アイテムは二の次だ。探索の手間が省けるんだし、協力仰ごうぜ」

 

 興味なさそうに“協力”という単語を使ったお兄ちゃんにちょっとだけ心がきゅっとなるけど、それに気づかなかったふりをして「そうだね」と頷いた。

 プロぼっちで大抵のことは一人でやってしまおうとするお兄ちゃんの口から“協力”という単語を聞くことは今までほとんどなかった。使うことがあったとしても、それは悩んで悩んで悩み抜いた結果出てくるもので……それがこんなにもあっさり出てくることは傍から見ればいいことのように見えるかもしれないけれど……。

 思考の海にズブズブと身体を沈めている時だった。

 

「うわああああああああ!?」

 

「な、なんだこれっ! た、助け――ッ!!」

 

「「「「っ!?」」」」

 

 つんざくような二つの悲鳴。本来ならSAOのシステムに処理されてマチたちの耳には届かないのではないかと思われるその声は――それゆえに危機的状況であることを否が応でも教えてくれた。

 反射的に、腰に収めていた短剣を引き抜いて飛び出す。それを見たお兄ちゃんも走り出したのが一瞬見えたけど、マチとお兄ちゃんでは敏捷値の振り方が違う。どんどん距離が開いていって、マチが独走する形になった。

 

「どいて!」

 

 道端にポップしたアクティブモンスターをトップスピードでかわし、スピードを緩めることなく寺院にたどり着くと、飛び込むように入口から中に入った。

 何も考えずに飛び込んだけど、屋内はかなり暗い。入り口近くとかそういうことは関係なしに視界へのデバフが発動するらしく、まっすぐと通路が続いていることがなんとか確認できるだけだ。

 どうしよう。ダンジョン内が迷路だったら下手に動くとマチが出られなくなる。お兄ちゃんが着くのを待つ? でも、今何もしなかったら……。

 

「たす……けて……」

 

「っ!」

 

 かすかに聞こえてきた声にどうすればいいか、なんて考えは消し飛んでいた。声のした方向に走り出す。

 しばらくするとT字路が見えてきた。右と左、どっちに曲がるか決めるよりも先に、左の通路がぼんやりと明るくなり、同時に少しだけ視界がよくなる。

 たぶん、あれはさっきの人たちが持っていた松明の明かりだ。効果範囲内にマチが入ったことで、視界強化バフが付与されたのだろう。持っていた松明は一つ。こんな暗いダンジョンで、別々に探索はしないはずだ。

 T字路を左に曲がってすぐのところに、件の松明が転がっていた。そしてその少し先の床はなくて、ぽっかりと穴が開いているのが見える。

 正方形の穴の縁を必死に掴む手が見えて、マチは慌てて駆け寄り、腕を掴んだ。

 

「大丈夫ですか!」

 

「ぁ……ひ、人……助けてくれ……」

 

 掴んだ腕の持ち主は恐怖に固まった表情で苦しそうに助けを求めている。見たところダメージを受けていなかったけれど、片腕と足にはロープが巻き付いていて、自力で動かせそうにない。

 それに穴のそこで鈍く光っているのは、無数の大きくて鋭い棘。穴の縁から目視しただけでも、マチの身長の二倍はある。

 

「これ、トラップ――!」

 

 マチだってRPGはたまにやる。宝箱に敵が潜んでいたり、落とし穴みたいなトラップがあるのも知っている。

 けれど、目の前にあるその穴の恐怖は――知らない。暗い暗い穴の前にいるとクラクラしてくるし、底に並んだ棘との距離もだんだん分からなくなってくる。

 

「助けて……仲間も、死んで……。このままだと、落ちる……」

 

「死ん――――」

 

 いや、落ち着け比企谷小町。ここでパニックになったらどうしようもない。“あの頃のお兄ちゃん”だって、きっとこういう時は落ち着こうとしたはずだ。

 

「今引き上げますから、頑張ってください!」

 

 一度大きく深呼吸して荒くなりそうな心を落ち着かせ、男の人の腕を掴み直す。両足で石造りの地面を踏みしめて、思いっきり引き上げた。

 

「く――――っ!」

 

 筋力値にほとんどステータスを振っていないマチでは持ち上げることが精一杯だ。逆に一瞬でも気を抜けばマチの方が引きずり込まれてしまいそう。

 大丈夫。今すぐ引き上げられなくても、マチがこうして時間を稼いでいる間にお兄ちゃんたちが来てくれる。四人で力を合わせればこの人を拘束しているロープも引きちぎれるはずだ。さっきまで落ちないようにぶら下がることに使っていた筋力値をマチが肩代わりしていれば、この人自身でロープを壊せる可能性だってある。

 汗なんて感情エフェクトとしてしかかかないはずなのに、じっとりと背中が嫌な濡れ方をしているような感触。いや、これは錯覚だ。マチ自身の焦りが余計なことを考えてしまっているだけ。落ち着いて……落ち着いて――!

 余計なことを考えないように心の中で叫んでいるマチの耳に、ブチッという音が聞こえてきた。見るとさっきまで垂れ下がっていた腕がポリゴン片をまとわりつかせていて、引きちぎられたロープが消滅したことをマチに教えてくれる。

 ほら、マチの想定通り。さすがお兄ちゃんの妹なだけある。あ、今のマチ的にポイント高い!

 相手の顔にも安堵が見えてきた。まだ足のロープがあるけど、両手が自由になった分余裕がある。胸くらいまで引き上げることができれば、皆が来るまで二人とも休めるだろう。

 男の人もそう思ったのか自由になった手で穴の縁を掴んで――

 ――ガコンッ。

 

「「え……?」」

 

 二人の声が重なった。男の人の掴んだ縁のブロックが一段階沈んでいるのが見える。

 それを認識した瞬間、マチの目の前に何かが落ちてきた。

 

「…………え」

 

 気が付くと、目の前に穴はなくて――いや、落とし穴の開いていたところには大きな岩が収まっていた。

 岩の隙間からはまるでなにかが呻くようにポリゴンの光が漏れ出していて、それを見た瞬間、心の奥で何かが軋む音が聞こえた気がした。

 

「…………」

 

 キラキラと淡く漏れ出す光に、視線をもう少し下に落とす。さっきまで掴んでいた男の人の腕はなくて――それ以前にマチの両腕は肘から先がなくなっていて、マチの意識を引き付けた光は傷口から血のようにあふれ出すポリゴンの光だった。

 

「…………ぁ」

 

 視界の左上に表示されているマチのHPバーはジリジリと削られている。部位欠損によるスリップダメージ。SAOの世界に痛覚は存在しないけれど、痛みはなくともHPバーはどんどん減っていく。

 マチの命がなくなっていく。マチの、比企谷小町の命が、どんどん……どんどん……。

 

「ぁぁ……ぁあ…………」

 

 嫌だ死にたくない。死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない怖い怖い怖いやだやだやだやだやだやだやだやだ――ッ!

 

「あああああああああああああああッ!!」

 

「小町!!」

 

 ――助けて、お兄、ちゃん……。

 視界デバフを受けたように真っ暗になる視界の中最後に見えたのは、転がっていた松明を掴んでマチに駆け寄ってくるお兄ちゃんの姿だった。

 

 

     ***

 

 

 目が覚めてみると、知らない天井だった。

 

「あ、目が覚めた?」

 

「イロハ……さん、ここは……?」

 

 隣のベッドに腰かけていたイロハさんはマチのベッド脇に近づいてくると、「次の村だよ」って教えてくれた。欠損のスリップダメージをポーションで相殺しながら運んでくれたらしい。

 自分の両腕に視線を落とすと、欠損効果が切れて元通り爪先まで生えていた。いや、ゲームだからあれだけど、腕が生えるって字面がすごい。

 

「お兄ちゃんは……?」

 

「ハッチは今村の探索をしてもらってル。……気分転換させないト、やばそうだったからナ」

 

 やばそう。それがどういう意味なのか。それを考える余裕が、今は――ない。

 あの時、あのままだとマチは死んでいた。気絶したのは自己防御のようなものだったのだろう。お兄ちゃんたちが間に合ってなかったら……そう思うとゾッとする。

 デスゲームだって理解しているつもりだった。ゲームで死んだら現実でも死ぬ、もう一つの現実だって。

 けれど、本当はなにも分かっていなかった。どこか他人事だって、自分には関係ないことだって考えて目を背けていたんだ。

 

「っ…………!」

 

 フラッシュバックのように、明滅するようにあの光景を思い出す。大穴を埋めるように落ちてきた大岩。その隙間から漏れ出すポリゴンの輝き。この世界に来るまでは見てもなんとも思わなかったであろうその光は、確かに“命の潰える光”で……。

 左上に機械的に表示されているHPバーがすべて削り切られればゲームオーバー。ゲームから、現実からのログアウト。あの人の言葉が本当か嘘かなんて、もはや考えるまでもなかった。

 死ぬのだ。この世界で死んだら、マチも、イロハさんも、アルゴさんも。

 そして――お兄ちゃんも。

 

「マチちゃん!」

 

 ふわりと、疑似的な温かさと柔らかさに包まれる。イロハさんに抱きしめられたのだと気づいたのは、自分よりも一つだけ年上の先輩が黒の短髪を梳くように撫でてきた頃だった。

 

「大丈夫、マチちゃんは死なない。せんぱいも死なない。二人とも、わたしが、守るからっ」

 

 システムに処理された温かさが触れ合った部分から流れ込んでくる。きっと“ぬくもり”と呼ばれるそれは、キャリブレーションによって形成されたマチの中に染み込んで広がって――

 

「……なんで」

 

 けれど、唇から溢れだしたのは乾いた声だった。

 なんでマチに優しくするんだろう。マチがお兄ちゃんに求めることは、イロハさんとは違う。あの時、一色いろはが比企谷小町を利用しようと取り引きしてきたように、比企谷小町も一色いろはを利用しようとした。

 それなのに、味方にも敵にもなれはしない相手なのに、どうしてマチを守るなんて言うのだろうか。

 ポタリ、ポタリの水の粒が頬に落ちてきて、伝い落ちる前に消えてなくなる。SAOの感情表現システムはシンプルで過敏だ。現実じゃ泣かないような時でも、システムによって涙が流れてしまう。

 なんでマチよりも先にこの人が泣いてるのだろうか。なんでそんなに感情を揺さぶらせているのだろうか。

 

「知ってるやつが死んだら悲しイ。だから守るシ、助けル。それじゃあ不服カ?」

 

 そう言ってアルゴさんがマチの背中に手を添えてきた。システムによって一律同じ温度のはずの二人のぬくもりは互いとも、お兄ちゃんとも違っているように感じて、ちょっとだけ身体の力が抜ける。

 

「マチちゃん、マチちゃんはどうしたいの?」

 

 どうしたい。マチはいったいどうしたいんだろうか。マチのアバターにはお兄ちゃんのような高い筋力値は存在しない。イロハさんのような耐久値も、お兄ちゃんを守る盾もない。アルゴさんのようなアインクラッドの知識も存在しない。

 マチには、何もない。これじゃあ足手まといだ。このままじゃ、マチのせいでお兄ちゃんたちが危なくなっちゃう。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。

 そんなことになるくらいなら……。

 

「はア、だからお前たちは焦りすぎダって言ったんだヨ」

 

 アルゴさんの声に、あと一歩踏み込みそうになった思考が止まる。顔を上げると、心配そうにマチたちを見比べるイロハさんと、しょうがないものを見るように苦笑するアルゴさんが目に入った。

 

「確かに楽観するのはダメダ。けド、ゲームはまだ始まったばかリ。今はマチの“最終目標”じゃなくテ、もっと身近な“どうしたい”を言ってみろヨ」

 

 もっと身近な、今マチが“どうしたい”か……。

 比企谷小町の最終目標。それはお兄ちゃんに前みたいなお兄ちゃんに戻ってもらうことだ。前みたいなちょっと捻くれててシスコンなお兄ちゃんに少し呆れながら、楽しく過ごしたい。

 SAOでの最終目標。もちろんゲームクリアだ。お兄ちゃんをサポートして、マチもイロハさんもお兄ちゃんも、アルゴさんだって皆揃って元の世界に帰りたい。

 じゃあ、今のマチのやりたいことは……? まだサポートもままならない。今回みたいに足を引っ張るマチはどうしたい?

 そんなことは決まっている。

 

「お兄ちゃんの、お兄ちゃんのそばにいたい!」

 

 十五年、マチの誕生日が来れば十六年一緒に生活してきたお兄ちゃん。捻くれ者で、妹大好きすぎて、ものぐさで、ちょっとオタクっぽくて……けれど誰よりも優しくて、大好きなお兄ちゃんのそばを離れたくない。

 死ぬかもしれない。それは怖くて仕方がない。けれど、マチが安全な部屋の隅で膝を抱えて震えている間にもしもお兄ちゃんに何かあったら。そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。

 だって――

 

「だって、兄妹だから。家族だから」

 

 論理的な理由なんていらない。そもそもマチはお兄ちゃんみたいに理詰めでなんて考えられない。

 “家族”。そのシンプルで本来戸籍上だけの言葉は、けれどマチにとっては十分な理由だった。

 そうカ、と小さく呟いたアルゴさんは入口の方に視線を向ける。

 

「こ……マチ……」

 

 ベッドと降りて扉を開けると、廊下の壁に寄りかかるようにしてお兄ちゃんが立っていた。マチの顔を、そして両腕を見たお兄ちゃんは、一瞬だけ安心したように息をついたけど、すぐに表情を険しくする。それだけでお兄ちゃんが言おうとしている言葉はすぐに分かった。だって、マチは妹だから。

 

「俺は……――ッ!?」

 

 けど、その言葉は言わせない。我儘だって分かっていても、絶対に、絶対に。

 思いっきり抱き着いたマチには今のお兄ちゃんがどんな顔をしているかなんて分からない。驚いているのか、それとも困っているのか、抱き着いた身体はちょっと固い。

 

「大丈夫だよ、お兄ちゃん」

 

「マチ……」

 

 声をかけながら顔を上げると、お兄ちゃんは怒ってるような、関心のないような、それでいて泣きそうな表情をしていた。表情表現はシンプルなはずのSAOでそんな顔ができるんだなとどこか他人事のように思いながら、笑顔を作る。

 いつもお兄ちゃんがなんだかんだ力になってくれる。妹のマチだけが使える魔法の笑顔。

 

「マチは、絶対にお兄ちゃんのそばにいるから」

 

「……そうか」

 

「絶対だからね」

 

「…………あぁ、分かったよ」

 

 諦めたような表情を“作った”お兄ちゃんは、けれど少しだけ笑ったような気がした。

 まるでこの世界がお兄ちゃんの本当の感情を教えてくれたみたいに。




 お久しぶりです!(全力の土下座

 後で後でと先延ばしにしていたらなんか8ヶ月ほど経ってました。
 まあ、その間暗殺教室クロスを書いていたり、短編(中編?)SSを書いていたりしていました。
 それで思ったんですが、同じクロスオーバーなのにSAOと暗殺教室で書きやすさがまるで違う! いや、SAOはゲームシステムとかの情報も多いから、そこの整合性を確認しているせいで筆が遅いとか色々と言い分(言い訳)もあるわけですが、衝動に駆られて書き始めた暗殺教室が一気に(第一部)完結まで持って行けたことに驚いています。劣等生とかワートリのクロスはもっとやばそう。絶対書かない。

 まあ、これからはちょこちょこ更新していく予定なのですが、さっきも言い訳したように更新ペースはそこまで早くないと思います。他にも色々書きたい話もありますし、冬コミの書き下ろしを書く時間も欲しいので。
 というわけで、非常に遅い作品になると思いますが(すでになってる)、生温かい目で見てもらえると幸いです。

 そうそう、別のシリーズのあとがきで言っていた夏コミの俺ガイルSS合同誌なのですが、現在とらのあな様の方で委託の予約を受け付けています。確かURL載せたりするのは規約的にアウトだったはずなので、私のTwitterの方から飛んでもらうと大丈夫かと。

TwitterID:elu_akatsuki

 マイページの固定ツイートに設定しているので、すぐに見つかると思います。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。

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