昼の十二時を三十分ほど過ぎた頃、迷宮区二十階層にある一際大きな扉の前に陣取っていた。第一層フロアボス。そいつが奥で陣取る扉だ。
どこか不気味さを感じる、人間を拒絶するような雰囲気に、我知らず息を飲む。感情エフェクトの過剰表現で、一滴の汗がつ、と頬を伝った。
迷宮区に入ったのが十一時頃。多少肝が冷える場面はあったが、初めてのレイド行軍を犠牲者なし、それもこのスピードでこなすことができたのは幸いだろう。ここで一人でも減るようなことがあれば、死ぬようなことがあれば、今回のボス攻略が成功する可能性は限りなくゼロに近づいたと思うから。戦力的な意味ではなく、精神的な意味で。
「それじゃあ、各班最終確認をしてくれ」
ディアベルの号令と共に各々、班ごとに分かれて小さな塊を作り始める。装備やアイテム、戦闘でのフォーメーションなどの最終確認というわけだ。アルゴの攻略本でβ時代のデータは手に入れているが、それでも油断はできない。慎重なプレイヤーの中には、フロアボス用に防具を着替える奴もいる。
「ま、こんなところか」
さっと装備の状態を確認して、ウィンドウを閉じる。顔を上げると同じ班のメンバーたちも準備を整え終わったようだ。
そもそも、あまりものである俺たちH班の仕事はキバオウ率いるE班のサポートをして、ボスの取り巻き、『ルインコボルト・センチネル』を倒すことである。センチネルの持つ斧槍が『ルインコボルト・トルーパー』の手斧よりも高威力後射程であることを考えても、ボス担当の班に比べれば、幾分か気が楽だ。武器を跳ね上げ、鎧で覆われていない喉元を中心にソードスキルを叩き込むだけ。
となると、他の班が準備を終えるまで手持無沙汰になるのである。扉に続く道は、今俺たちがいる見晴らしのいい一本だけなので、特別見張りの必要もない。
どうしようか、と思案して、ウィンドウを再び開く。オブジェクト化したのはアルゴ印の攻略本。
「センチネルの確認ですか? 戦闘AI自体は、トルーパーと変わらないって書いてあったはずですけど……ん?」
壁に背を預けて読書の態勢に入った俺に、イロハが近づいてきて――コテンと首を傾げた。
まあ、無理もないだろう。俺が読んでいたのはボス情報のページではなく、同封された武器系統のページだったのだから。
これは一種の現実逃避に近い。今フロアボスに関する情報を見たら、押し殺している震えが湧き出てきてしまうかもしれない。足に力が入らなくなって、立つことができなくなってしまうかもしれない。そんな恐怖が、件のページを開かせなかったのだ。
まあ、現実ならページが手垢で汚れてしまうほど読み込んだのも事実なのだが。
「それにしても、この武器ページよくできてるよな。数値データ細かすぎるぞ」
同じように攻略本を開いたらしいキリトが苦笑する。実際に期間限定の浮遊城、その最前線を戦い抜いたであろう剣士すら驚くほどの出来というわけだ。いやほんと、一体頭のどこにこれだけの情報を記憶していたのやら。
当然ながらボス攻略に娯楽品なんて持ち込んではいない。俺やキリト以外の三人も自然と攻略本をオブジェクト化し始めて、H班は途端に静かになる。たまにイロハとマチが話す声が聞こえてくる程度だ。
「おい」
そんな空間を邪魔するものが現れたのは、もうだいたいの班が最終確認を終えた頃だったか。刺々しい声に顔をあげると、特徴的な茶色いもやっとボールが目に入る。
この世界においてまず人違いを受けることはないであろう片手用直剣使い、キバオウは、とても友好的とは言えない剣呑な目つきで、座り込んでいるキリトを睨みつけていた。
そんなキバオウに気づいたキリトは、信じられないものを目にしたように双眸を見開く。
それもそうだろう。キリトからすれば、今この組み合わせが発生すること自体があり得ないことだろうから。
ボス攻略戦の日程が決まった会議の後、アルゴを通してこいつはとある情報を買っている。端的に言えば、自分のアニールブレードをトレードしようとしているプレイヤーの正体だ。そしてそのことはキバオウも知っている。どんなに神経が図太い人間でも、トレード相手に隠していた正体がバレたとなれば話かけづらいもの……なはずだ。
「ええか、今日はずっと後ろに引っ込んどれよ。H班はワイのパーティのサポ役なんやからな」
少なくとも、こんな堂々と喧嘩を売るような態度は取れないはず。マチやイロハは眉をひそめ、事情を全く知らないアスナに至っては不愉快そうに睨みつけていた。
「大人しく、ワイらが狩り漏らした雑魚コボルトの相手だけしときや」
だのに、当の本人は俺たちH班の困惑など気にした様子もなく、言葉を吐き捨てる。仮想の唾を地面に吐き捨てるおまけつきだ。
そんな彼にキリトが一度も言葉を発することができなかったのは、致し方ないことだろう。
あれが所謂ネット弁慶という奴か? と一瞬思ったが、どうも納得できない。そもそもなぜキリトなのか。鼠を挟んだトレード以外で二人がコミュニケーションを取っていた様子はないし、トレードを断られた程度で剣呑になるのもおかしな話だ。
と、そこまで考えて、それ以上推測することをやめた。思考の放棄ではない。必要性を感じないからストップをかけたのだ。
トゲトゲ頭の性格だとか、少年剣士との関係なんてどうでもいい。それが分かろうが分からなかろうが、俺たちの仕事は変わらないからだ。
まあ、その仕事相手と険悪な関係なのは問題かもしれない、とパーティメンバーのところに戻るキバオウに目をやって――
「…………?」
口は開かずに眉をひそめた。
鼠を挟んだキリトとキバオウのトレードは不成立で終わった。段々と引き上げられていった『アニールブレード+6』の希望取引価格は、最終的に三九八〇〇コルにまでなる。
現状三五〇〇〇コルあればほぼ安全に+6にできる剣にその値段、というだけでも訳が分からない――実際アルゴはしきりにぼやいていた――のだが、まあそこは別にどうでもいい。
問題なのは、その提案をしていたキバオウの今の装備だ。
背中に携えた片手用直剣も、その身を守る防具も、最初の攻略会議で見たときと同じもの。そう、彼の装備はその一切が更新されていなかったのだ。
さっきも言ったように、取引に使おうとした金を使えばお目当ての『アニールブレード+6』を作ることができる。あれほど何度も取引を持ち掛けるほど欲しかったのなら、昨日のうちに作っていそうなものだが……。
まるで意味が分からない。意図が見えてこない。
「皆、準備はできたか? それじゃあ……勝とうぜ!」
ディアベルの掛け声とそれに続く怒号のような鯨波を耳に、俺は言い知れぬ気持ち悪さを感じていた。
「グルルラアァァァァァッ!!」
横幅二十メートル、奥行百メートルのボス部屋の奥にある巨大な玉座に鎮座していた影は、なだれ込んできた四十七人が近づくと猛然と飛び上がった。二メートルは余裕で超える体躯を空中で一回転させると、地響きを起こしながら着地する。二つの眼光が陣形の最前列で構えたA班、B班、C班――ちなみにB班にエギル、C班にディアベルがいる――を捉えると、肉食獣を思わせる巨大なアギトを限界まで開き、咆哮した。仮想の空気が恐怖に震え、最後尾にいる俺の頬をチリチリとひりつかせる。
バックラーと骨斧を筋肉が浮き出る両腕に携えたコボルトの王『インファルグ・ザ・コボルトロード』は、青灰色の毛皮を羽織り、腰の後ろには一メートル半はあろうかという巨大な湾刀、タルワールを装備している。四本あるHPゲージが最後の一本になると、骨斧と盾を捨てて湾刀を抜くらしい。
「さて、俺たちは俺たちの仕事をしようか」
凶悪さをもって振り下ろされた骨斧とA班の盾がぶつかり合う甲高い音を合図に、部屋の側面に空いた穴から複数の影が飛び出してくる。鈍い光を反射する鎧をまとった重武装の兵士、『ルインコボルト・センチネル』だ。
取り巻き担当であるE班、G班が取り巻きのタゲ取りを始めたのを確認して、俺たちも一番近いセンチネルに突撃した。
敏捷値の関係上、距離を詰めるのがわずかに早かったのがマチとアスナだ。いきなり本格的な戦闘に入らず、通常攻撃で敵を翻弄している。攻略メンバーの中でもトップクラスの敏捷値を誇るであろう二人にかく乱されれば、単純なAIはすぐに混乱してしまう。
「防御します! 下がって!」
ようやく目標を定めて長柄斧、ポールアックスを振り上げた頃には時すでに遅く、到着したイロハがその盾で二人を守る。パーティメンバーが出揃い、いよいよ本格的な戦闘が始まった。
「それじゃあ……行くぞ!」
仕切り直しとばかりに半歩下がったセンチネルに、キリトが飛び込む。モンスターの顔に表情が浮かぶことはないが、歯がきしみそうなほど顎を食い締めたコボルトは、得物を振りかざして迎撃の構えを取った。
まあ、それを狙って飛び込んだわけだが。
「アスナ、スイッチ!」
金属同士がぶつかり合う無機質な音が爆ぜ、長柄斧を跳ね上げたセンチネルが紅い体毛に覆われた身体をのけぞらせる。キリトがソードスキルで振り下ろされる長柄斧を狙い撃ちしたのだ。
「はア――ッ」
そしてそこに飛び込む閃光。『リニアー』の光が数少ない鎧に覆われていない部分、喉元に突き刺さり、HPバーがガクッと削れた。
AIというのは、所詮システム通りに動くことしかできない存在だ。跳ね上げられた武器を胸前で構えなおしたセンチネルは、大ダメージを受けたことで再びバックステップで距離を取り、一番近くにいるキリトに斬りかかる。
悲しいほどにさっきと同じ動き。
「ハチ、スイッチだ!」
そんな攻撃が熟練の少年剣士にそうそう通るはずもなく――再び粗削りなポールアックスが腕ごと跳ね上がった。連撃ソードスキルで迎撃したため、追加攻撃のおまけつきだ。
打ち合わせ通りの順番が回ってきたため、キリトの掛け声とほぼ同時に荒い石造りの地を蹴る。筋力優先なステータスのためアスナほどの速度は出ないが、それでも瞬きするうちに硬直した番兵と肉薄した。『アッパー・スウィング』の二撃目が、獣らしく突き出た顎にめり込み、俺たちに無防備なおとがいを晒す。
「スタンだ! ラッキーだね!」
敵のHPバーの上にスタンの表示が表示された途端、視界に二つの影が入ってきた。一人は迎撃に備えていたキリト、もう一人は次のスイッチ担当だったマチだ。
これも想定通りの動き。放心したようにフロアの天井を見上げているコボルトを左右から挟み込むと、片手剣ソードスキル『スラント』と短剣ソードスキル『クロス・エッジ』のライトエフェクトが交錯する。
リーチの長い片手用直剣がマチのアバターを掠めるが、HPバーは一ドットも削れることはない。これは乱戦時、フレンドリーファイアを防ぐための仕様だ。二つ分のソードスキルを受け、センチネルのHPバーは一気に黄色、半分以下にまで落ち込んだ。
「あっ! それっ」
二人の攻撃が終わるのと、スタンの表示が消失するのはほぼ同時だった。スキル使用後の硬直で動けない左右のプレイヤー。その片方、キリトに狙いを定めたポールアックスは……すんでのところでカバーに入ったイロハの盾に防がれた。マチのフォローに入っていた俺が通常攻撃でタゲを分散し、その間に全員一度距離を取る。
「……スタン後はバックステップモーションがカットされる感じか。深追いは厳禁だな」
キリトがひとりごちるように漏らした声に、全員小さく頷く。今のは“事前に警戒していなければ”危なかっただろう。さすがにこのメンバーの装備で即体力全損、とはならないだろうが、それでもプレイヤーのHPがごっそり削れる光景は、自分も周りも心臓に悪い……はずだ。
このタイミングの警戒を提案したのは他ならないキリトだった。詳細に情報が記載されたアルゴの攻略本だが、どうやらβテスト時は今同様メイス人口が少なく――実際、今回のメンバーでも棍使いは俺だけだ――、スタンによるAI行動の変化については記載されていなかったからだ。
まあ、そんな初見殺しも一度分かってしまえばどうということはないのだが。
決して油断しているつもりはない。それでもどこか、メンバー全員に余裕のようなものが生まれていた。
「さって、ボス組も好調みたいだし、さっさとこいつを倒しますか!」
釣られて横目で一際存在感を放つコボルトロードのHPを見ると、既に一本目のバーが黄色ゲージに達していた。取り巻きであるセンチネルはバーが減るごとに追加ポップするので、こちらも早く潰しておくべきだろう。
視線でキリトに合図を送ると、敏捷値全開の動きでセンチネルに向かって疾走する。
攻略は至極順調。視界に小さく表示されているレイドメンバーのHPも安定している。
なのになぜだろうか。頭の片隅に靄のように留まっている違和感が消えないのは。
なんか長くなったので分割しました(天丼)
戦闘シーンとか楽しくて色々つけ足しちゃうんですよねぇ。うまく伝わっているか不安で仕方ないんですけどね!
そういえば、最近Amazonプライムに入会して見ていなかったアニメとか、久々に見返したくなったアニメとかちょこちょこ見ています。個人的にロクでなし魔術講師と禁忌教典がお気に入り。特に二話は毎日見返してます。
で、一緒に久しぶりにSAOの今書いてるところを見てみたら、プログレッシブとは結構展開違うなぁと。キバオウが普通にコボルトロードと戦ってましたわ。
【お知らせ】
夏コミでまた俺ガイルの小説本を出します。スペースは落選しましたが、委託させてもらえることになりました。
私は自シリーズ「一色いろはは比企谷八幡を虜にしたい」の番外編で、八幡と一色が海水浴に行くお話を書きました。
詳しい話は活動報告でしようと思います。
それでは今日はこの辺で。
ではでは。